クジラは何も語らない
母さんが死んだ。
水の中は涙をぬぐわなくていい。
ぼくはプランクトンみたいに水に身を委ねる。
ぷかぷか、ぷかぷかと。
通っているスイミングスクールには、タイムを縮めるスポーツクラスと、水遊びを楽しむレクリエーショナルクラスがある。
ぼくはスポーツクラスだったけど、母さんが死んでからクラスを替えてもらった。
レクリエーショナルなら防水ぬいぐるみと一緒に泳げる。
ぼくは大切なシロナガスクジラを抱え、レクリエーショナルのプールでゆらゆら揺れる。レクリエーションというか、リフレッシュだ。円やかな浮力に包まれて、くじらになった空想に耽る。
プールサイドを巡回しているライフセイバーは、アシカ型のR.ショーンだ。
なんとなくR.ショーンを目で追う。
入口付近で、誰かがR.ショーンに挨拶していた。
あのちょっとぽっちゃりした体つきは、友人のリアムだ。
もう小学校が終わる時間なんだ。ぼくはホームスクーリングに切り替えたから、時間感覚が鈍っていた。
リアムはぼくを見つけると、丸っこい顔に、愛嬌のいい笑顔を浮かべた。
「パピアくん、ひさしぶり」
「ひさしぶりー」
「………」
「………」
リアムはぼくを目の前にして、どう喋ろうか間合いを図っているみたいだった。
母さんを亡くしたぼくに掛ける言葉。慰めがいいのか、それとも日常の方がいいのか、考えあぐねている。
「パピアくん。あのね、パパにはね、気の利いた一言を掛けたいって思考は自己愛だから、とにかくパピアくんの話を聞くのが最重要って言われてね。なんか難しくて、うまく喋れない。ごめん」
「………ありがと」
リアムはぐるぐる考えていたけど、隣で寄り添ってくれるだけで、なんとなく救われる。
シロナガスクジラのような優しい寡黙だ。
ぼくたちはあんまり喋らず、プール底の模様を踏んだり、R.ショーンの真似をしたりして過ごした。
良い感じの疲れが、四肢を解していた。しばらく家でリモート授業だったから、身体の疲れは久しぶりかな。
リアムが帰る時間だから、ぼくも更衣ロッカーに行く。
「パピアくん帰りは?」
「父さんに連絡して、迎えにきてもらうよ」
ロッカールームは混雑していた。
バスの時間には早いのに。おかしいな。
わらわらしている空間で、背の高いやつがぼくを見下ろした。
……コールドウェルだ。
クラスメイトだけど友達じゃない。
背が高くなっているから、一瞬、分からなかった。こいつ、背が伸びた。
「よお」
「コールドウェル、スイミングスクール入ったの?」
嫌な気分を出さないように、気持ちを落ち着けて淡々と問う。
「いや。おれのスポーツクラブ、毎週、違うスポーツをエンジョイするんだよ。今週はスイミング。先週はバスケだったし、来週はサッカー」
「へー」
「お前はスイミング続けてんだ」
「好きだし」
「良かったな。学校以外のスクール続けられて。サマースクールとか行きたいのに行けないなんて、悲惨だもんな」
コールドウェルは自分とこのクラブに戻っていた。
サマースクールか。
三ヶ月の夏休み。誰でもサマースクールに通う。
ぼくは毎年、カナダで国際交流キャンプを一か月と、スイミングスクール主催のレイクキャンプ。あとは母さんのバケーションに合わせて、水族館や科学館巡りかな。日帰りじゃ行けない観光地を巡るんだ。
幼馴染のケルシーや、友達のエデンも、ぼくと同じ国際交流キャンプだ。
「リアムはサマースクール、どこ行くの?」
「スイミングスクールのレイクキャンプだけだよ。あとはもう図書館の無償サマー教室に通ってる。パパの休みの日には釣りにつれていってもらえるけどね」
「えっ?」
驚きの声を上げてしまった。
リアムは気まずそうに、ちょっと視線を伏せた。
「………うちそこまでお金持ちじゃないから、パピアくんの学校の子みたいに一か月単位のキャンプとか、ヨーロッパ遊学とか無理なんだ。ボクんちは釣りとか行けるけどね、三ヶ月ずっと図書館の無償教室と、家で教育チャンネルだけってクラスメイトもいるし」
「虐待……?」
途端、リアムの眉間に皺が寄る。
「あのね………パピアくんとそのクラスメイトは、お金持ち、だよ」
この上なく真剣な口調で、ぼくは否定できなかった。
ロビーでミネラルウォーターを飲んでいると、父さんが迎えに来てくれた。プール職員が生徒の引き渡しサインをして、ぼくは自動車に乗り込む。シロナガスクジラといっしょだから後部座席だ。
ベルトをすると自動車が出発した。
「………父さん。うち貧乏になった?」
「いいや。その発言に至った経緯を頼む」
「うちで働いているの、母さんだけだったから。もうお金少ない? ぼく、サマースクールは行ける?」
「パピア。弁護士に遺産相続のサインをしただろう。家に帰ったら、書類で詳しく説明しよう。母さんはお前が成人するまで、十分な生活が出来る財産を残してくれた。父さんの計算では、毎年サマースクールに行けるし、大学の進学も国内ならいい」
「無理しなくていいよ」
「無理はしていない。ただ旅行であれ進学であれ、海外は難しい」
「ほんと? ほんとにそのくらい?」
「そうだな。そのくらいだ」
………そっか。そのくらいなんだ。
ほっとする。
別に海外旅行したいわけじゃないし、進学は国内で探そう。
「父さん。サマースクールに行けない子がいるけど、虐待じゃないんだって。知らなかったな」
クラスメイトはみんなサマースクールに行く。
夏休みが終わったら、どんなサマースクールだったか話し合うのか普通だ。
だいたい長期キャンプだ。
そういえばコールドウェルはおじいちゃんが日本人らしい。だから日本の国際学校に、一か月半の短期留学をしているって話していた。残りの一か月半で日本や台湾を旅行している。
海外に短期留学もよくあるパターンだ。
頭のいい上級生だったら、名門大学の特殊教育プログラムに参加していたりする。名門大学の寮に泊まり、アカデミックな世界を感じる。
それが普通だ。
だからサマースクールに行けない子は異常だと思っていたけど、異常だって思われない世界もあるんだ。
「世の中いろんなひとがいるね」
アンドロイド嫌いな大人もいるし、サマースクールに行けない子供もいる。世の中には、想像のつかない人間もいるんだろう。良い意味でも、悪い意味でも。
流れていく風景を眺める。
無知なぼくに、シロナガスクジラは何も言わずに寄り添ってくれていた。




