いのちの温度の噐
下校のチャイムが響く。
今日はエデンが休みだから、放課後に喋る相手はない。なのにスクールバスの発車まで、あと二十五分も時間があるな。図書室に寄るにも中途半端だ。
どうしようかな。
中庭カフェでデバイスでも見てようかな。
「パピアくん!」
いきなり名前を呼ばれ、びくっとする。
後ろにいたのは、クラスメイトの女子、ケルシーだ。
幼稚園からの幼馴染で、たまにお喋りしているし、ホームパーティーに呼ぶ面子のひとりだ。
彼女は満面の笑みだった。
「ホントは喜んじゃいけないけど、すごく嬉しいの! パピアくんには言うわね」
なんだろう。喜んじゃいけないけど、嬉しいことって。
想像つかないな。
「グランマに臓器が提供されたの」
「……ああ。それは、嬉しいね」
ケルシーのグランマは、祖母型アンドロイドだ。
毎日おやつを作り、料理やフランス語を教え、具合が悪ければ看病し、相談に乗って、ずっとずっと見守っていた存在。
でもアンドロイドパーツが高騰したり、生産終了したり、ボティの存続が危ぶまれていた。
だけど臓器提供してもらえたんだ。
グランマが大好きなケルシー自身は嬉しい。
でも臓器提供することになってしまった側のアンドロイドや、その家族たちを想うと、手放しで喜ぶのって無神経だ。彼女はそれを分かっているから、幼馴染のぼくにだけ伝えたんだ。こっそりと。
ぼくになら喜びも、喜べないことも、分かってもらえると思ったんだな。
「良かったね、ケルシー」
「ええ、サイコーよ!」
とびきりの笑顔だ。
ぼくらは並んで歩き、スクールバス停留所へ向かった。
スクールバスで帰宅すれば、家には暖かな空気が膨らんでいた。
甘くて素敵なものが焼ける匂いだ。果実の甘酸っぱさと、小麦の香ばしさ。
オーブンの手前に、父さんが立っていた。洗いざらしたシャツに、デニムのエプロンとスボン。いつもの父さんだ。
「おかえり、パヒア。残っていたバケットだが、洋梨のクランブルにリメイクした」
「今日って父さんの病院の日だよね」
普段は母さんが父さんのボディを整備している。冷媒液を充填したり、稼働部のオイル交換していた。でも精密機械だから、半年に一度くらい、アメリカン・ロボット・シンクタンクの専門の技師に診てもらう。
整備の日は、帰りにケーキを買ってくるのが定番。
なんでキッチンでおやつを作っているんだ?
「行かなかったの?」
「その予定だったが、整備技師が骨折したらしい。ボディスキャンだけ済ませてきた」
「別の病院じゃダメなの?」
州には、いくつもアンドロイド整備所はあるのに。
「俺はフルオーダーメイドで、他の整備技師には難しいんだ。飛び入りで整備はできない」
「そっか」
フルオーダー。
次世代のアンドロイドとして生まれた最先端技術の結晶。
あらゆる面で取り換えの利かない。
……取り換えが。
できない。
臓器移植、できない?
体温が無くなって、背筋の冷や汗になっていく。
身体が泣いているみたいだ。
父さんは今のところ健康で、不具合なんてひとつもない。だけどいつか何かあった時、臓器はすぐ枯渇する。以前、発熱した時も、互換性のあるラジエーターを手に入れるのに苦労した。
もっと数の少ない臓器だったら?
あるいは、世界のたったひとつの臓器だったら………
「パヒア? 具合が悪いのか?」
青い瞳がぼくを見つめていた。
優しい眼差しから、視線を逸らす。
「ちょっと疲れただけ。手を、洗ってくる」
いつも通りに手洗いうがいをして、父さんの作ってくれたおやつを食べる。
だけど沸き起こった怖さは、クランブルの甘さでも消えなかった。
シロナガスクジラを抱き締めながら、寝床で丸く丸く縮こまる。
宿題も手に付かない。
何か誰かに、この怖さを訴えたい。
デバイスを手に取り、母さんへの連絡先を浮かび上がらせる。母さんはまだ研究中だろうか。
ぼくが緊急連絡したら絶対に取ってくれる。でもこんなふわふわした不安を訴えたって、やるべき時に手を尽くすしかないみたいな発言をくれるだけだ。
まったくの正論。
ぼくの怖さを、くみ取ってくれない。
撫でてくれない。
「………もしかして、ぼく、今、赤ちゃんみたい?」
怖いのを撫でてほしいだけ?
親にメンタルをケアしてほしいだけだった?
己の怒りは己をコントロールして、己の恐れは己でケアする。それが赤ちゃんから人間になる一歩。
どうすればこの恐怖を癒せるだろうか。
ぼくは寝床から立ち上がり、父さんのところへ赴く。
父さんはキッチンで夕食の支度にとりかかっていた。
青い瞳が向けられる。
「パピア。今日は鱈と豆のポテトサラダとトマトスープだ。こばらが空いたならハムを切ろうか?」
「こばらじゃなくて……メンテだけど」
「ああ。来週、別の担当が診てくれる。都合をつけてくれた。Dr.エイヴァリー、母さんの友人で、俺のボディ製作者のひとりだ」
ざわざわした気持ちが少し和らぐ。
それでもやっぱり、胸にざわざわが残っている。
「ぼくが父さんのメンテ、できるようしたいなって思ったんだ。いっつも母さんがやってるけど、ぼくも出来るようになったらいいなって」
専門性の高い整備は無理でも、ごく一般的な日常整備くらい出来るようになりたい。
父さんは三秒くらい黙り込んだ。
「冷媒交換の資格か。あれは工学部くらいの知識量が必要だな。ロボット工学を勉強するなら、きちんと基礎を固めるといい」
「つまり宿題を頑張れって結論?」
「そうかもな。でもお前が俺を心配してくれて、嬉しいよ」
父さんは優しく微笑んで、ハグしてくれた。
アンドロイドの胸に鼓動はないけど、しっかりとしたぬくもりが伝わってくる。
ぼくの不安を溶かしてくれる優しい温度だった。