イワシはソイソースとブラックペッパーの海で泳いでる
8歳になったら、宿題が難しくなってきた。
今日は授業でやった算数の問題を、いっぱい解かなくちゃいけない。やだな。
ぼくはダイニングテーブルに座って、宿題をがんばる。
父さんは料理をがんばっていた。
練習問題を繰り返すうちに、温度が馨しくなってくる。
湯煎ポットじゃなくて、包丁や鍋で作った料理って好き。時間をかけて切ったり煮たりすると、香りが体温を持ってキッチンを優しくしてくれる。
今日の夕食は、魚の匂いに、黒胡椒、ちょっと不思議な香りも混ざってる。
何となく外国料理っぽい気配がした。
宿題を終わらせて片付ける。
「父さん。ばんごはん、何?」
「イワシのアボド風煮込みだよ。イワシの味付けはソイソースと黒コショウ」
真っ白いお皿に、黒っぽく煮られた青魚。水にさらした玉ねぎがたっぷり。
ひとくち食べる。
うん。嫌いじゃないけど、ランクは高くないな。毎日は嫌。
「父さんの料理は大好き。これは一年に一度か二度なら、美味しいと思う」
「そうか。じゃあまた来年あたり作ろう」
ぼくは頷いて、イワシを食べる
これも美味しいといえば美味しい範囲だけど、イワシはガーリックフライがいちばんだな。
「変わった料理だけど、外国のレシピサイト?」
「Mx.デラクルスに教わった」
「へー」
近所でよくバーベキューしているおうちだ。
時間が許せば毎日。
そして日曜日のバーベキューを、礼拝だと思っている勢いだった。日曜日にあの家でバーベキューしてなかったら、たぶん危篤か喪中。そのレベル。
「Mx.デラクルスは俺にバーベキューを教えようとしてな」
「近所のひと、みんな父さんにバーベキューを教えたがるね」
バーベキューか。
好きな人間からすれば、バーベキューは料理の域を超えている。肉の選び方から焼き加減、ソースのレシピ、添えにする副菜までも論じられる。誰もが己のレシピを至高にして最強だと疑わない。
バーベキュー派閥争いなんて、うちのクラスでも勃発するし、大人はもっと深刻だろう。
「みんな、俺を自分の陣地に引き入れようと必死なんだ……」
父さんは先祖を持たない。アンドロイドだから。
近所のバーベキュー好きからすれば、父さんはまっさらな白紙なんだ。書き込み可能なキャンバス。そこに己が最高だと信じるレシピとノウハウを書きたがっている。
壮絶だな。
「俺はどこにも肩入れしたくない。近所付き合いに障りが出たら困る。のらりくらりとバーベキュー話題を逸らしているうちに、Mx.デラクルスの祖母の得意料理の話題になってな。それが、これだ」
「これなんだ」
ソイソースとブラックペッパーで泳ぐイワシ。
つまりこれは父さんが、近所付き合いで均衡を取るため頑張った証だ。
そう思うと、途端に味わい深くなってくる。
ぼくはイワシを丁寧に食べた。
わたくしにワガママを言う趣味はないのだけど、たまには少女らしい言動のひとつもしてみないと、情緒的発育を疑われるでしょう。
だから11歳の女の子らしく、おじいさまに海洋科学館オートマタ・オーシャンへ行きたいとおねだりをしてみたわ。
パートリッジ総帥として多忙なおじいさまを困らせる発言ね。
そのうちと先延ばしされて誤魔化されるかと思っていたけど、嘘ではなくほんとうにスケジュール調整して、家族旅行を計画してくれた。
全館貸し切りのナイトツアー。
海洋科学館にいるのは、わたくしとおじいさま。
そしてわたくしの盲導犬であり身辺護衛のR.レイノルドと盲導鳥のR.パラスケバス。
自由に館内を歩いていく。
網膜に形を映さないわたくしにとって、茫洋の蒼が支配して領域は途方もなく神秘的だったわ。
貸し切りだったから、他のお客の感嘆や感想を聞けなかったのは残念だけど、代わりにアンドロイド・ホエールの息吹きに耳を傾けられる。
分厚い硝子越しでも、その質量が伝わってくる。
「すばらしい存在感ね。さすがアルゴ重工のアンドロイド……」
総合重機械企業アルゴ重工。
主力は船舶・潜水艦・エンジン、軍艦も受ける防衛産業。
そしてフジツボが張り付かない新素材アクアクロムを開発した。波力発電の建設に利用すれば、保守コストが下がると言われている。
アンドロイド部門では、アンドロイド・ホエールやアンドロイド・ドルフィンを開発製造している。海洋開発系アンドロイドの最大手ね。
「ピチュッ! おっきくて頑丈ならアルゴ重工だけど、ボクみたいな超高性能小型アンドロイドはやっぱりパートリッジだネ!」
おしゃべりなR.パラスケバスが、おどけた調子で語る。
間違ってはいないわね。アルゴ重工が巨大で強靭なら、パートリッジ・エレクロトリックは軽量と汎用。
おじいさまも上機嫌だった。
「そうだな、我が社は超高性能小型アンドロイドが誇り。まさにお前はその象徴だよ、R.パラスケバス」
「ピチュン」
誇らしげに鳴く。
わたくしは極度の弱視。
物心つく前の誘拐未遂で、わたくしは眼球に深く傷を負い、弱視になった。
わたくしは気にしてないのだけど、それをいたく不憫と悲しまれたおじいさまは、わたくしに最高の護衛と、最良の友人を贈ってくれた。
盲導犬であり身辺護衛のR.レイノルドと、盲導鳥のR.パラスケバス。
特にR.パラスケバスはわたくしのためのフルオーダーで、パートリッジ社の技術の結晶。
おじいさまが象徴と謳うのも当然だわ。
「エレノア。正式発表は未定だが、アルゴ重工と技術協定を結ぶことになる。いや、家族旅行で話す話題でもないか」
「いえ、興味深いですわ」
「すまんな。パートリッジの小型化技術で、現状のアンドロイドを小型化してさらなる海洋資源開発に乗り出したいと。海底にはまだまだ未知の資源や新種生物が眠っているからな」
「そういう方針なら、パートリッジのシェアと競合はしませんわね」
パートリッジ社はスマートシティ化の一端を担い、生活に溶け込んでいく方針。
人類の住まう地にアンドロイドを侵透させていくパートリッジと、人類の住まえぬ地にアンドロイドを実装させていくアルゴ重工。
「シェアの競合。それも重要な観点だ。ただわしは市場競争で勝ち抜く現状よりさらに先、社会技術的レジリエンスの構築を願っている。未来の社会において生き残るのは、強者ではなく適者。己の弱さを他者の強さで埋め、己の強さで他者の弱さを補える。そんな存在だよ、エレノア」
「個人ではなく補完し合える関係性こそ、未来に進めると?」
「そうだよ。強く優れた企業ではなく、国家的にそして国際的に補完し合える企業。それこそわしが望む未来だ」
だからアリゴ重工と手を取り合おうとしているのね。
「ただ協議が難航している」
難航しない合従連衡なんて存在しないもの。
こっちの特許やノウハウを提供するなら、技術をどこまで公表するかの情報管理から利益調整まで、話し合うことは多岐にわたる。
「重役の誰もが己の言い分を、パートリッジ社にとって最適だと思って発言する。だがある部門の最適解が、他部門の利益に直結するとは限らない。どこかにしわ寄せがくる。どこに肩入れするのも難しいが、最終的にわしが決断を下さねばな」
力強く言い切る。
おじいさまはコングロマリットの総帥だもの。
最後の決定と責任は、おじいさまが下さなくてはならないのよ。
独りで立つ姿に、わたくしはそっと寄り添った。




