Prologue 蒼海の瞳に見守られ
幼稚園から迎えてくれるのも、スイミングスクールに送り迎えしてくれるのも父さん。
ばんごはんを作ってくれるのも、父さんだ。
レトルトを湯煎ポットに入れて、加熱。ぼくが火傷しない温度まで下げ、皿に盛ってくれる。トーストされたパンと、季節の野菜が添えられた。それがいつもの食事。
夕食が終われば、一緒にチャンネル視聴したり、ゲームをしてくれた。
ぼくは父さんが大好きだった。
母さんの記憶は、いつもぼんやりしている。
お勤め先は、ロボット研究機関。
量子AIとかヒューマン・インターフェイスの研究しているらしい。すごいことらしいけど、ぼくはあんまり興味が無かった。
そもそも研究が忙し過ぎて、家に帰ってこないし、ほとんどディスプレイ越しの会話ばかりだった。
でも父さんがいるから十分だ。
幼稚園のスクールバスが家の前につけば、いつも父さんが出迎えてくれる。
「ただいま!」
「お帰り、パピア」
彫刻みたいな顔が微笑む。
ぼくが知ってる誰より背が高くて、ほっそりしていた。だけどぼくを軽々と抱き上げてくれる。ぎゅっとハグされれば、バイタルチェック完了だ。
父さんの海色の瞳に、ぼくが映る。
「あのね、今日ね、むかしのやり方でお絵描きしたんだ。クレヨン、タブレットだけじゃなくて指にも色がつくんだよ! 知ってた?」
「それは魔法使いの杖みたいだな」
父さんは相槌を打ちながら、保育士さんのタブレットにクイックタッチをする。これでぼくが幼稚園から自宅に帰ったって証明だ。
抱きかかえられたまま家に入った。
背中のハーネスを外してもらって、幼稚園かばんを玄関横にかける。
「うちでもクレヨンしたい」
「タブレットみたいに片付けは簡単じゃない。でもパピアが自分で片付けられるなら、クレヨンを買おうか」
「片付ける! 父さんの顔にも描いてあげるね」
「顔に?」
「うん。母さんみたいに」
「母さんのはクレヨンじゃなくて、お化粧だよ。父さんに描いてもらってもいいけど、それじゃお前の絵が見られないだろ。残しておきたいから紙に書いてくれ」
父さんの顔に描くと、父さんが見れない。
「鏡あるでしょ?」
「反対に映るだろう」
「そっか……だめか。父さんあたまいいね」
「ありがとう。母さんには負けるけどね」
キッチンからいい香りがしている。果物の匂い!
覗き込めば、オーブンの横にキッチンミトンが置かれていた。
「おやつなに?」
「フルーツグラタンだよ」
「マシュマロ入れた?」
「もちろん入れたよ。お前の好物は全部入っている。さ、グラタンが焼けるまで、あと五分だ。お前の手洗いとどっちが早いかな」
「ぼく!」
洗面所へ行って踏み台に登り、泡を出す。オレンジ色の泡が水色になるまで手を洗わないと、バイキンが取れないんだ。
泡を水色にして、水で流す。続いて温風が飛沫を飛ばす。最後にバイキンバイバイライト。
「終わり!」
キッチンへ走る。父さんはオーブンの前で、キッチンミトンをつけていた。
棚の上にある湯煎ポットの持ち手が、緑に点滅している。調理完了のお知らせだ。
何が入っているんだろ?
早く見たい。
父さんはオーブンからフルーツグラタンを出しているし、ぼくが湯煎ポットを運んであげよう。
手が届かないところにあるけど、コンセントなら届く。
キッチンのものは全部、チャイルドロックでぼくが勝手に開けられない。
だから湯煎ポットも床に落としたって、大丈夫だ。
床まで落とせば持っていける。
ぼくは幼稚園かばんを踏み台にして、背伸びしてコンセントを握った。
「よいしょ」
思いっきり引っ張る。
湯煎ポットが近づいてくる。
傾いた途端、けたたましく鳴り響く甲高い音。
警告音だ。
なんで?
ぼくへと落ちてくる湯煎ポットを眺めていると、父さんが駆けてきた。
落ちかけた湯煎ポットを、素手で受け止める。部品がひとつ外れてしまって、穴から一気に噴き出る熱い蒸気。
辺りが白くてあったかくなる。
キッチンは静かだけど、とんでもないことになってしまったような気がした。心臓がどきどき鳴って、足が動かない。
「……パピア」
父さんは優しく微笑んでいた。
「コンセントを引っ張ったら駄目だよ。強い衝撃が加わると安全弁が外れて、熱が噴き出してくる。お前が触ったら火傷してしまう」
湯煎ポットの蒸気口を押さえこんだまま、棚に戻す。
火傷。
「父さん、怪我したの?」
「心配しなくていい。父さんはアンドロイドだから平気だよ」
「うそ! キッチンミトン」
父さん愛用のキッチンミトン。
オーブンを使う時はいつも付けている。熱いの触らないようにするためのミトンなんだ。
「父さんは家庭用アンドロイドなんだ。熱源に触れる時は、人間の耐久性と同じ振る舞いをプログラミングされている。俺が平気だからって素手で触って、家族が真似したら危ないだろう」
白くて綺麗な手のひらを見せてくれた。
熱い蒸気に触れても、父さんは怪我ひとつしてない。
「でもお前は人間だから、熱いものを触ったら火傷をしてしまう。引っ張っても危ない。触らないと約束してくれ」
「うん」
研究職の母と、専業主夫の父。
ただ父はアンドロイドだった。