幻覚
公園を離れた俺達は、用水路に沿った真っ直ぐな道を手を繋いで歩いた。
「ユウヤ君、私のこと『迷子』って言ったでしょぉ?」
しばらくすると凛さんが口を開いた。
「たしかに私、迷子かも」
足を止め振り仰いだ俺を見て、彼女は小さく「えへへ」と笑う。
「私ねぇ……もっと遠くの出身なの。親のお陰で地元じゃ有名な学校卒業してぇ、優良企業って言われる会社就職してぇ……でも結局辞めて。地元離れたんだ」
「何で?」
何でそんな思い出話を俺にするの、という意味の質問だった。でも言葉が足りなさ過ぎたのだろう。
「ここにいたらダメだと思った」
遠くへ視線を投げた凛さんからは、ズレた答えが返ってきた。
「やりたいことがあったの。だから注意深く選んだつもりだった。『挑戦と成長』、『夢中になれる仕事』、『変化の先に未来がある』……あんなキャッチコピー信じてたわけじゃないんだけどね。それにしてもびっくりしちゃった」
昔の凛さんは、どこかで働いていたのだろう。話す表情は少し硬くなっていた。
「無理な納期とシステムの不備を、人間が血と肉をすり減らしながら埋める作業が『仕事』だって。私が出したプランもアイディアも、新しく見つけた仕事や成果も、横取りされるし。親の病気やお葬式より、仕事を優先しないのは迷惑で、不誠実な証拠なんだって。でもどれだけ頑張っても、本社が利益のために改革や再編を決めたらまとめて売り払われちゃった。私は在庫のセール品と同じだったの」
田園風景の中、無防備な小学生が聞くには厳しい話だ。
俺には家と塾と学校の外のことなんて想像もつかなかったから。
「誰も助けてくれなかったの?」
「『助けてあげる』って人もいたよ。知り合いに紹介された、起業家って人でね。私だけのマンション買ってくれるって。カフェでもアトリエでも、好きなことしていいよって。だけど私、断っちゃった。友達にバカじゃんて言われた。でも気持ち悪すぎて」
凛さんは笑いながら言う。
俺は起業家って人の見た目が気持ち悪かったのかなとしか考えられず、「うげえ」と顔を顰めていた。
「ごめんねぇ、やなこと言って。私は少女マンガのヒロインみたいにはなれないんだぁ」
「少女マンガ?」
首を傾げた俺へ、凛さんは用水路の柵に凭れてまた微笑んだ。
「まぁ、なれなくて良いんだけどね。小さい頃から苦手だったんだ。少女マンガ的な世界観ていうの? 感情的で非合理的で。めっちゃ頭悪くて好き勝手しても、都合の良いことが起こってハッピーになるの。私の周りの子たちは、そこが好きなんだって言ってた」
凛さんは懐かしそうに言った。
「でも私はそれより『現実』が知りたかったの。まずはそれを教えてよって、ずっと思ってた。だけど子供の私の上には、夢とか愛とかそんなのばっかり降ってくる。変だな? 何でだろう? って思いながら、大人になれば理由がわかると信じてた。そうして大人になってみたら、あの有り様」
子供の頃の凛さんは、何かが非公開にされていることに勘付いていたのだろう。しかし周囲の大人と同じく、それ以上を疑わなかった。その罪により、在庫セール品として売り飛ばされた。
仕事を辞めて、故郷を離れた。
「ようやくわかったんだ。ルールも何もかも固まりきってるんだよ。変わる気も、分け合う気もない。そんな世の中を変えるなんて途方もないこと、私には一生かけたって無理! というわけで、現実はキープしておいて。今あるルールを守って、安い勝者になるか。少女マンガみたいな都合の良い非現実に希望の幻覚を見て、自分を慰め続けるか。どっちかしかないの」
彼女の話しを、俺は黙って聞いていた。どういう反応をすれば良いのかわからなかった。
それでも彼女は構わなかったのだろう。
「だからね、一度しかない人生を棒に振ることにしたんだ。そしたら案の定、成功なんかしないし。順調に落ちこぼれて、人生詰んでる。でも良いんだ」
細い両腕を伸ばした凛さんは、空を見上げあっけらかんと笑う。
「もう人間が人間に見えなくなっちゃった私は、あの世界には戻れない。戻りたくもない」
青い靴の爪先で、地面をなぞり呟いた。
「あーあ。『出会い』なんて信じるほど、バカじゃなかったはずなんだけど……やらかしたよねぇ」
そのうち溜息を吐き、俺を見下ろした凛さんは微苦笑を滲ませた。
「さっきの女の人……何か可哀相だったよね。お姉さん、結婚してる人と付き合ってたの?」
公園でダンゴ虫になっていたガンギマリさんを思い出して尋ねると、凛さんはこくんと頷く。
「うん、そう」
「ダメじゃん。どうしてそんなことしたの?」
「優しかったから。デートに誘われたら嬉しくなっちゃった」
繋いだ手の先で、凛さんは無邪気に言ってのける。『そいつ』は優しかったのだろうが、俺は面白くなかった。
「ふぅん。じゃあ……今度は俺がデートに誘うよ。だからもうやっちゃダメだよ」
ふてくされ気味に言った。途端に、凛さんが大きな目を瞠る。
「きゃあ~!? ユウヤ君カッコイイ!」
「……嘘だと思ってるでしょ?」
「違うよぉ。嬉しいこと言ってくれるなぁって思っただけ!」
茶化されているのは、わかっていた。
でも瞳に星をきらきらさせて、頬を薔薇色に染める彼女は可愛かったのだ。ゆえに気にしないことにした俺は彼女の手を離すと走り出し、真っすぐな道の途中まで行って振り返った。彼女はまだ同じ場所に立っていた。
「嘘じゃないからな! 本当に誘うからな!」
腹の底から怒鳴った。耳まで赤いのは自覚していた。
「あ……はい。ヨロシクオネガイシマス」
目をぱちくりさせ、凛さんが頷く。俺の人生初デート申し込みは、オッケーだった。
「じゃ……じゃあ、またね!」
遅れてきた恥ずかしさに、胸も頭もパンクしそうになりながら手を振る。ぎくしゃくと一歩二歩進んだ俺の後ろで、「ユウヤ君」と呼ぶ声がして振り向いた。
「君が、何も心配しないで私と手を繋いでくれたの、嬉しかったよ。ありがとう!」
笑顔でそう言うと凛さんは全身を使って大きく手を振り、俺が学校の門をくぐるまで見送ってくれた。
それが最後だった。
それきり、凛さんはどこかへ行ってしまった。
すぐにマンションから引っ越したのだ。
ばあちゃん情報でも、彼女の行方はわからなかった。置いていかれたのは修羅場体験と、凛さんの薄暗い思い出話と、すっぽかされたデートの約束。
当時の俺は、凛さんが悪い奴に捕まったんじゃないかと本気で心配した。
俺が助けてあげなきゃと、ばあちゃんを困らせたりもした。
情けないが、デートをすっぽかされたと理解するまで数年かかったのだ。
自分がふられたという惨めな現実を飲み込んだ時は、ガッカリなんてもんじゃなかった。
悔しさが、無いわけじゃない。
それでも、すっぽかされた幼いデートの約束は、俺の記憶の彼方で今もくすむことなく光っているのだ。
ご都合主義的に、再会しない。
そんな巡り合わせこそ、彼女らしい気がする。
そして、もしもこの先。
青い靴を履いた、まるで少女マンガのヒロインみたいな別の女の子に出会ったら。
今度こそ、その子が影だけを残して光の中へ消えてしまわないように。
手を離さないでいたいと思っている。