横恋慕
翌日も、朝の公園を覗くとあの人がいた。
「おはよぉ、ユウヤ君」
昨日の女の人。板垣凛さんがブランコで手を振っていた。
「おはよ」
仏頂面の挨拶をして、俺もブランコに腰かける。
今日も会えるかな、という淡い期待が叶って一人で緊張していた。彼女の服装が昨日と全く違っていたせいもある。白いロングスカートにフリルの付いたグレーのTシャツ。露わになった細い肩の艶っぽさに、何となく見て良いのか迷った。
「今日も遅刻ぅ?」
かけられた声に右隣を見ると、鮮やかな青い靴の先で地面をつついた凛さんが微笑んでいる。無性に恥ずかしくなって俺は下を向いた。
「そうだよ」
答える間も、世界中の音が遠くなった気がした。
「あはは、何か堂々としてるー」
俺の反応を面白がって、凛さんはまた空き缶みたいな声で笑っていた。
「もう遅刻確定だから良いんだよ。それより、いいことがあったよ」
「なになに? 知りたぁい!」
大きな目をパッと開いて、凛さんが身を乗り出す。
この時点で俺はかなり浮かれていたと思う。だって可愛いかったから。
「昨日、また友達とパラモンの話しになってさ。そしたら植田が『やっぱり、ルビーロードタイガーが一番カッコいいと思う』って言ってた。前シリーズだから選んじゃいけないと思ってたんだって。それと俺が磯村に『エメロードサーペント』のカードあげたら、めっちゃ喜んでたんだよ」
俺はそこまで一気に喋った。しかも凛さんが上手に「そっかぁ」と頷いてくれるので、ますます調子に乗った。
「それから、体育の授業で今までとび箱四段出来なかったんだけど、昨日は一回出来た」
「お~、やったじゃん!」
「あ、でも……」
「ん?」
言い淀んだ俺に、凛さんは目を瞬いている。勢い余って余計なことを言った俺は、突っ切ることにした。
「うちのクラスは、縄跳びとか逆上がりとか、目標達成したらみんなで『おめでとう』の拍手するんだよ。でも俺のとび箱は先生に『やらなくていい』って言われた」
「え……なんで?」
凛さんがここだけ本当に驚いた表情になった。
「保育園の頃から出来る子もいるからだって。でも植田と磯村が、先生に『江藤君がんばってたよ、やろうよ』って言ってくれたんだ。結局クラス全体ではしなかったけど、何人かは『おめでとう』の拍手してくれたよ」
俺は前を向き過ぎて、凛さんの方を見ていなかった。でも
「お友達、優しいねぇ」
聞こえた声に振り向くと、とても優しくて、ふんわりとした彼女の笑顔がそこにあった。
「それで何か疲れてさ。今日はまだあんまり学校行きたくないから、遅刻した」
「ユウヤ君、『あんまり行きたくない』けど『絶対行きたくない』じゃないんだねぇ。強いなぁ」
凛さんはにこにこして言った。
「お姉さんは強くないの?」
俺が何気なく尋ねると、ピンク色の唇がニマッと笑う。
「お姉さんのこと気になっちゃう?」
「そ、そういうわけじゃないよ! 嫌なら言わなくてもいいし……」
俺は大急ぎで言い訳をした。
「私も昔は強かったよぉ。負ける気がしなかったっていうか。悪いことは悪いって言えたし。自分でもそこが良い所だと思ってたんだけどぉ……どこに行っちゃったのかなぁ、あの頃の私は」
ぐん、と勢いをつけて彼女がブランコを漕いだ。言葉の意味など俺には見当もつかない。凛さんの長い髪がブランコの軌道をなぞるのを、隣で眺めていた。要するに、見惚れていたんだろう。
「それって……今は強くなくて、嘘ばっかり言ってるってこと?」
「そうだねぇ。本当はルビーロードタイガーが好きなのに、アルカイスドラゴンが一番カッコイイよなぁ、って言ってるみたいな?」
「そんなのやめたらいいじゃん」
「お? 先輩はそう思われますか?」
青い靴で地面を擦り、ブレーキをかけた凛さんの大きな瞳が俺を映した。俺の顔は真っ赤になっていたと思う。
「が、ガキ扱いすんなよ! でも自分が本当のことを伝えれば、相手も伝えてくれるようになるよ。いきなり全部は無理でも、ちょっとずつ続ければ変わっていって強くなれるんじゃない?」
口走ったのは、俺なりのアドバイスだった。あの時の俺は、お互いが対等だと疑っていなかったのだ。
「いいねぇ……そういうの」
微かに笑った凛さんが、目を伏せた時だった。
「見つけた……板垣凛」
声がして前を向くと、公園の入り口に知らない女の人が立っている。
速足で近付いてきた人は、ベージュ色のショートパンツに猫の絵がプリントされた黒いパーカー。ぱつんとした前髪の赤い髪で、全体的に年齢不詳。つり目のアイドルっぽい顔は蒼白だった。
「誰、この子?」
女の人は俺を見下ろして尋ねる。ブランコの俺は少し首を竦めた。女の人は、目がガン決まりというか。何か尋常じゃない雰囲気を漂わせていたのだ。
「近所に住んでる子だよぉ。変なことしないでねぇ?」
知り合いなのだろう。答える凛さんの声から感情が消えた。
「するわけないでしょ。あんたじゃあるまいし」
「それじゃ何しに来たのぉ?」
「クソみたいなソープ嬢がそろそろ自殺してないかと確認に来ただけ」
「ええ~? もしかしてSNSで実名晒されたり誹謗中傷されてた、ソープ嬢の『リンリン』のことぉ? ちなみにあの『リンリン』は私じゃないからねぇ? 別の子だよぉ?」
何食わぬ顔で凛さんが言うと、ガンギマリさんが「え」と息をのんだ。
「あの子困ってたしぃ。やめてあげてねぇ?」
「わ、私がやってるって言いたいわけ? 証拠はないじゃない!」
「いやいや、ソープ界隈の炎上なんて普通の人は知らないでしょお?」
凛さんはケラケラ笑っていた。
ソープ、の意味は俺には『石鹸』しか思い浮かばない。でも『あんまり良くなさそう』な印象だけは受け取った。そんな俺を置き去りに
「何笑ってんの!? こうやって逃げてるってことは、後ろめたいんでしょ!?」
喚いたガンギマリさんが、パステルピンクのショルダーバッグを地面に叩きつけた。
「やだぁ、私は散歩に来ただけですぅ。夜な夜な知らない女が家に押しかけてきてぇ、騒音がすごかったりぃ、玄関先に生ゴミ捨てたりするからぁ」
「私はやってない」
「あ、そういえば彼と仲直りしたんだってねぇ? ヨリが戻って良かったじゃぁん」
「人の家庭めちゃくちゃにしておいて何言ってんの!? この不倫女ッ!!」
上目遣いの凛さんに、顔を真っ青にして叫ぶガンギマリさんは、人妻だった。
人妻と。不倫相手。完全に修羅場だ。
しかし俺は理解が追い付かず、ぽかんとしていた。
「先にうちのお店に来たのは向こうだしぃ。結婚してるのも後で聞かされたしぃ。私は三番目の彼女でぇ。何だかんだで別れたんだから、もういいじゃん?」
凛さんは、のらりくらりと答えている。するとガンギマリさんが更に二度、三度とショルダーバッグを地面に叩きつけた。
「ふざけんなッ! こっちはメンタルおかしくなって苦しんでるの! 毎日毎日涙が止まらないのに! あんたのせいで裏切られて全部壊れちゃったんだよ! 返してよ! 普通の平穏な日常に戻してよ!!」
絶叫するガンギマリさんは、ブランコの前に境界線代わりの鎖が一本無かったら掴みかかってきそうだった。
それにしても、小学生の前で話す内容じゃない。
が、修羅場とはそういうもんなのだろう。
「知らなぁい。裏切ったのはアナタの夫だよねぇ? そっちで解決してよぉ」
頬に手を当てた凛さんが、冷たく言った。一瞬で静まり返った公園を、小鳥の鳴き声と学校のチャイムの音が埋めていく。氷が軋むような静寂を破ったのは
「ちょっと、朝っぱらから何やってるのあんた達?」
「ばあちゃん!」
ほうきとちりとりを持った、うちのばあちゃんだった。ばあちゃんは公園の入り口から俺達を眺め、眉をひそめている。俺がばあちゃんに気を取られ、立ち上がりかけた瞬間。
「死ねええーーーーッ!! しねしねしねしね!!!!」
ガンギマリさんが物凄い形相で突進してきた。でもブランコの前の鎖を乗り越えられなくてもたついていた、その隙に
「ヤベ、逃げよう!」
「え、ユウヤ君?」
俺は凛さんの手を引っ張り逃げ出した。捕まえようとこっちへ手を伸ばしたガンギマリさんは、バランスを崩して地面で転がる。
「ブス! ビッチ! 不倫女! 犯罪者! 底辺のクソ女は地獄に落ちろ! 不幸にしてやる! こっちには警察官とかすごい弁護士の友達とかいるんだからね! 逃げられると思ってんじゃねーぞッ!!!!」
唖然としているばあちゃんの横を駆け抜けた俺たちに、罵詈雑言が投げつけられた。
そしてそのまま必死で公園から走り出たのだが、俺の手を凛さんが引っ張り返す。彼女の目が後ろを気にしていて、俺もやっと気が付いた。
ばあちゃんが攻撃されるかもしれない。
大慌てて引き返すと、ばあちゃんはブランコの傍にいた。
ガンギマリさんは地面で丸まっていて。
「はいはい、落ち着きなさい。やめなさいよ、不幸にしてやるなんて言うの」
「うるさいうるさい! 放っておいてよ!」
ばあちゃんが宥めても、ガンギマリさんは罪の無いショルダーバッグを殴っていた。
「通りかからなかったら私だって放っておいたわよ、バカバカしい……。夫の不倫相手なんか追いかけまわしてないで、家に帰りなさい。他にやることあるでしょ」
ばあちゃんは呆れた口調で言いつつも、地面でうずくまっているダンゴ虫そっくりな黒パーカーの背中を撫でてやっている。
「あんな男こっちから捨ててやる! でもクソビッチは制裁受けて破滅しろ! 何で普通に生きてんだよ?! 私は泣き寝入りしたりしないんだ!!」
ガンギマリさんは金切声で叫びながら、泣きじゃくっている。公園を囲む藪に隠れていても、俺は怖くてビビッていた。
「あらまぁ……復讐でもするつもり? あなた何時代の人間なのよ。若いんじゃなかったの?」
「うるさいってば! 説教すんなクソババア!!」
苦笑いするばあちゃんに、尚もガンギマリさんは怒鳴り散らしている。凛さんはそれを無表情で見ていた。
「どうしようと勝手だけどね。まだ騒ぐなら、それこそ近所迷惑で警察を呼ぶわよ」
やがてぴしゃりと告げて、ばあちゃんは立ち上がる。それから更にこう言った。
「あなたは夫と出会うのが少し早かったから、横恋慕せずにすんだのよ。恋なんてそんなものでしょ。運が良かっただけじゃないの。いばり散らすのはやめなさい」
そして膝をさすり、ほうきとちりとりを取り上げる。
公園の入り口にいる俺たちを見つけると、ばあちゃんは片目を瞑った。
これ以上、ここにいてはいけない。
俺は小声で「行こう」と促し、凛さんと駆けだした。