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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

生足魅惑の

作者: 雪無

 アブラゼミが潮騒の飛沫をあげていた日。僕のクラスに、転校生がやってきた。


 大きな金魚鉢の車椅子、薄いシーグラスを敷き詰めたような鱗、深雪の美貌──君は、人魚だった。


「見てわかるように、彼は人魚の────で、夏休みまでの一ヶ月間だけだが────」


 先生の茹だる声、緩急差のある女子と男子の声。そのどれもが、窓の外側に押しやられていくようだった。

 きぃ、きぃ、と、教室の木板が軋む。金魚鉢の水面がいじらしく揺れて、君の眩しさが少しずつ僕の目を痛めていく。そういえば、僕の隣の席が空いていた。昨日のHRまではなかったはずの、隣の席が。


「よろしく」


 差し伸べられた瑞々しい掌は、あまりにきれいで、僕が触れてしまったらとたんに汚れてしまうような気がした。

 手汗がひどいから、と言うと彼は澄んだ笑みを浮かべて


「俺も、手、濡れてるよ」


 そうやって、僕の手を掬った。


◻︎


 一番後ろの、窓際の席──僕の隣──不自然に空いていた空間に、君がいる。

 窓から溢れる熱風が、粉雪のような白髪を撫ぜる。こんなに暑いのに、君だけ冬に守られているみたいだ。


「おはよう」


 木漏れ日の声が、僕の体に侵食してくる。おはよう、と返すのに百四十字分の余白が必要だった。

 極彩色の鱗で埋め尽くされた金魚鉢の車椅子はどこか窮屈そうで、君が体勢を変えるたびに、尾は水槽の中で惑星のように蠢く。白いワイシャツも、すっかり濡れ浸しになっていて気持ち悪そうだ。──気持ち悪くないの?


「気持ち悪くはないけど、服って、あんまり慣れないな……」


 僕は、そっか、と呟いて席に着く。

 人魚が国内に認められてから、十年は経つ。和平条約を結んでからは八年だ。彼らは、陸上留学と称して、こちらの学校に転入してくることがある。僕らの学校も留学対象校であったが、今まで人魚が転入してきたことはなかった。誰もがどことない期待をして朝のHRを待ち侘びるけど、三年目となれば、もはや期待も淡い泡沫となっていた。……昨日までは。


「あ、でも、君とおそろいだ」


 教科書がばさばさと床に散乱した。喫驚して横を見ると、肌に張り付いた襟を広げて笑いかける、君と目が合った。しなやかな首筋の輪郭を、水滴が気持ちよさそうに滑る。それが海水なのか、汗なのか、わからない。ただ、僕の頬を伝う雫は、やましい汗だった。


『段落五〜八までの部分から、筆者の思考が最も強く表現されている一文を探し、書き抜いて答えなさい』


 床に落ちて、口を開いた国語の見開きが天井を見据えている。──僕の思考も、君にわかってしまうのだろうか。怖くなって、僕は、慌てて散らばった教科書を拾い集めた。

 君と二人だけの教室なら、どんなにかよかったろう。


◻︎


「次、移動教室だけど、車椅子引いてやろうか?」


 緩慢なチャイムの音が校内に響いていた。君の前に座っていた矢崎が振り向いて声をかける。僕は、ただ、じッと自分の心臓が喘ぐのを感じていた。萌芽した憎しみを外から傍観しているかのような心地だった。『車椅子を引こうか?』喉元で用意されていた言葉だ。その言葉は、僕が──僕のためにある──言う言葉だったのに。

 僕は馬鹿みたいに遅い動きで教科書を出しながら、耳だけを君に傾けていた。君が、嬉しそうにしてしまったら、どうしよう。うん、と言ってしまったら────


「え? ほんとう?」


 教科書と筆箱を重ねる。あとは席を立つだけなのに、僕の腰は絶望のように上がらなかった。まだ教室にはたくさんのクラスメイトがいる。流れる喧騒の中で、僕だけがみじめに取り残されたみたいだった。君の声色は明るい。きっと、そのまま「お願いしてもいい?」と言うに違いなかった。


「ありがとう……でも、ごめん。今日は違う人に頼んでいるんだ」

「ああ、なんだ、そっか。それならよかった」


 矢崎の軽い声に、僕の一段暗くなった心情が被さる。予想は、最悪の形で裏切られたことになった。──君には、もう、他の誰かがいたんだ。

 矢崎が席を立つ。僕も続いて立ち上がろうと腰を浮かした。このまま矢崎と一緒に移動した方が、まだ、いくらか救われるだろうと思ったのだ。それならよかった、なんて、僕じゃ言えなかったろうから、今ではいっそ矢崎に感謝すら覚えていた。僕より先に声をかけてくれて、ありがとう……。


 ぽちゃん、と、水面が波立つ。

 とたんに、誰かが僕のシャツを掴んだ。


 引き戻される引力に逆らえず、立ち上がることもできぬまま僕は席に戻される。掴まれたシャツに海水が染みていく。バクバク逸る心臓を抑えながら振り返ると、微笑む君が、僕を見ていた。


「……お願いしてもいい?」


◻︎


 ────からから。からから。

 車輪の音が、長い廊下に木霊する。理科の教科書二冊とノート一冊を小脇に挟んで、僕は金魚鉢の車椅子を押す。廊下のどこにもさんざめく喧騒はない。移動教室は、大半の者が終えていた。そう、このままでは授業に遅れてしまうかもしれなかった。

 ────僕のせいである。

 少しでも速度を上げると海水が溢れそうになるものだから、慎重にならざるを得なくなっていたのだ。教室まであと半分以上はある。たぶん、ウミガメの方がよほど速い。


「早くしなくていいよ」


 霧雨の沈黙を守っていた君が、口を開く。僕は勇みかけた足を解いて、思わず知らず歩を止めた。


 ──遅刻しちゃう。先生に怒られるよ。

「大丈夫。車椅子を押してくれている人を怒る先生なんていないよ。それに、君、ノート忘れたろ」


 何も言えなかった。そのとおりだったからだ。いや……でも……と情けなく口ごもる声に、君は薄く笑って、僕を見上げた。


「一緒に写させてもらおう。だから、うんと遅く行こうね」


 意味のない逡巡をした後、やがて、僕は車椅子を押し始める。


 から……から……。


 間欠的に溢れる日差しが君の白髪の上を滑って、硝子のように光る。金魚鉢から落ちる影は、透明だった。上履きの先に、時折、虹が出る。僕らの間に、再び静穏が息づく。

 隣の教室では、出席確認の声が響いていた。今頃、僕と君の名前も呼ばれているだろう。音楽室のピアノの音がかすかに聞こえる。それに合わせて鼻歌をくゆらせる君の声が、僕の全てだった。

 から……から……。

 教室に着いたのは、授業の半分が終わった頃だった。僕も君も、結局怒られてしまった。


「帰りも遅く行こうよ。三日も続ければ、先生だって怒る気力をなくすだろうしさ」


 あどけない君が、隣で囁くように笑う。

 三日間も僕でいいの? とは、聞けなかった。このままいけば、もしかしたら、金魚鉢の主導権は僕に渡るかもしれないのだ。


 君に、僕以外の選択肢を与えたくない。けっして。


◻︎


 ────すごい。ちゃんと海水だ。

「君の部屋より、きっと広いだろ」


 放課後、僕らはいつ壊れてもおかしくない、古い簡易エレベーターを使って寮の屋上まで上がってきた。先日までは使用禁止になっていたはずのエレベーター。おそらく、君のために先生たちが修復したのだろう。それは、屋上にある旧プール場に繋がっている。

 青い苔と、ヤゴで満たされていたはずのプールは、すっかり真新しい青になっていて、風が頬を撫ぜると仄かに潮の匂いがした。

 ここが、君の部屋、らしかった。

 水面を覗き込むと、歪に揺れる僕が映る。白い白線が下に透けていて、少し遠くを見ると、夕焼けが夏の涙みたいにてらてらと光っていた。

 担任の山本が首や腕に湿布を貼っていたのは、プール掃除のためだったのかもしれない。


「俺、入るね」


 揺蕩う水面から意識を引き上げると、君が、僕の隣に座る────否。それは一瞬の残像だったろう。次の瞬間には、ざぶんと巨大な水飛沫が目の前で噴き上がった。

 目に飛び散った海水が沁みる。強く目を瞑ると、ますます痛くなった。痛みに慣れてしまった方が早いだろうと思って、僕は何度か目を擦った。痛みが少しばかり神経をつんざいた。


「あ、ごめん、目痛い? そんなに擦ったら赤くなっちゃうよ」


 君のひんやりと濡れた指先が、ふと、僕の腕を掴む。赤いノイズが瞼の裏でざわつく。ゆっくり、ゆっくり瞼を押し上げていくと、目睫の間で、僕を見上げる君と視線が重なった。

 嫋やかな睫毛にぷっくらと実る水滴、その奥には冬を閉じ込めた瞳がある。君の肌は、濡れているはずなのに、月の砂でもまぶしたかのようにどこまでも美しいままだった。


「──少し赤くなってる。なんだか、びい玉みたいできれいだなあ」

 ────……ビー玉、知ってるの。

「俺の姉さんが、前に留学した時にね、土産で持ってきてくれたんだ。俺の宝物にしてる」

 ────お姉さんのこと、好きなんだね。

「え? ああ、いや、姉さんのことは嫌いじゃないけど……そうじゃなくて、びい玉があんまりにきれいだったから、宝物にしてるんだ」


 浅く笑った君は、僕の腕を離して後ろの方へと泳いでいった。長い極彩色の尾鰭が揺れて、それは、まるで僕を手招いているかのようでもあった。

 けれど、僕は、海水が苦手だった。しょっぱくて、なんだか、体に悪い毒の味がする。鼻に入ると痛くて、咽せると窒息するような感覚を覚える。

 溺れた僕を、君が殺してくれるなら、考えてもいいけれど。そんなこと、君はしてくれないだろう。


「なあ、花火ってどんなの?」君が唐突に口を開く。僕は膝を抱えて座り直した。

 ────火花がたくさん出て、泡みたいに弾けて消えるんだよ。見たことない?

「ない。いいなあ、見てみたい」


 掴まれていた腕から水滴が落ちる。蒸すような気温が、じん、じん、と濡れた腕を熱くさせる。僕の隣には、脱ぎ捨てられたシャツと、口を開けたままの金魚鉢の車椅子が抜け殻みたいに置いてあった。

 うん、と言った気がする。うん、と言った、たったの二つ返事に、僕の醜さが凝縮されている。君の願いを叶えてあげられるのは、僕しかいないんだ。そのはずだ。

 点呼の声が聞こえる。寮の顧問が見回る時間だった。


 空を飛ぶように尾鰭が伸びる。君が気持ちよさそうに泳ぐ。水槽の小魚を永遠に見つめるように、僕は、その光景を遠く眺め続けた。


◻︎


「ほら、頼まれてたもん、持ってきてやったぜ」


 帰り支度でガヤガヤと騒がしい教室前。ありがとう、と言って僕は金髪頭の黒川から差し出されたものを受け取った。


 全寮制の学校で自由に買い物をするには、外出許可を申請しなければならない。その申請の面倒くさいこと、夏休みの補習を上回るほどであるのだ。そんな僕らの頼みの綱は、この黒川という不良だった。彼は、つまり、運び屋だとか仕入れ屋みたいな存在で、目つきも口も成績も悪いが、カリスマ性のある男として親しまれていた。事実、彼に頼めば、手に入らないものはなかったのだ。

 隣のクラスだから、そんなに話したこともなかったけれど、事情を話したら僕の頼みも気さくに聞いてくれた。安心と信頼の黒川である。


「それにしても、あの魚人のためにか。いくら隠しやすいからって、本当にそれだけでいいのかよ」

 ────人魚だよ。……これでいいんだ。バレたら彼にも迷惑をかけてしまうし。

「健気なことだな。周りじゃあ、もう、すっかりお前があいつの世話係だって認識だぜ。オレなら、そんな面倒くさいことまっぴらごめんだけどな」

 ────そっか。


 そうなのか。そうだったら、そのまま面倒くさいままでいてほしい。君が来てから、二週間は経つ。誰にも、君に興味を持ってほしくない。

 僕は鞄から、次の期末の範囲をまとめたノートを出して、黒川に差し出した。彼との取引は、大抵、物々交換で成立する。真面目に勉強してきてよかったと、初めて思った。

 それじゃあ。そう言おうとして──ふと、自分の教室が騒がしいことに気づく。


「そこ段差があるってば! 危ないよ」


 女子の甲高い声が聞こえて、僕は咄嗟に走り出していた。たかが数メートルの距離だ。なのに、僕は、終末が近づいてきたみたいに慌てて足をもつれさせる。君が、何にもできないって知ってる。僕がいなければ、君は地上では生きられないんだと、思っていたかった。

 教室に入ろうとすると、君が丁度そこにいて、驚いた目と目が交わる。


 ────あ。危ないだろ……一人で出ていこうとしたら。

「……君が、遅いから、何かあったんじゃないかと思ったんだ」


 それが嘘だということぐらいわかる。君、平然と嘘をつけるんだな。僕は、しかし、息を呑んで何も言えなくなった。クラスの子達は、僕が来たことに安堵して、それぞれ喧騒に溶け込んでいく。

 気まずい沈黙を編むように、君の瞳が左右に揺らめいた。悪びれているのか、次の言葉を探しているのか──……


「今まで、誰と話してた」

 後者だった。

 ────誰って、黒川って奴だよ……隣のクラスの。

「どうして」

 ────いや……えっと……夜になればわかるよ。

「ふうん」


 傲慢な物言いも、君が言えば可愛く聞こえるのだから、怖い。美しいってだけで、全ての免罪符が手に入るんだ。

 でも、それは花火と同じなようにも思えた。たとえば、打ち上がった花火が飛んでいた鳥を焼き殺したって、僕らは、ひどいと思わないまま綺麗な火花を見続けるのだろうし。

 僕は、多分、君が僕の両親を殺したって許せてしまうよ。そうならないかと、どこかで願ってもいる。


◻︎


 君の車椅子を押して、僕らはいつもどおり、旧プール場へと上がった。そのまま、日が暮れるのを待ち惚ける。水面の揺らぐ音、君の尾鰭が波立たせる音、点呼の始まる声。僕らの間に会話はない。僕がいないことは、同室のルームメイトが上手く誤魔化してくれているから、心配はなかった。

 やがて、夕焼けの橙が瞼を下ろして、火事の残骸のような色が空を覆っていった。──そろそろ頃合いだろう。

 僕はポケットから、線香花火を取り出した。君を呼ぶ。尾鰭を揺らす君のために、波紋が広がっていく。


「それ、何?」

 ────見てて。


 理科室から拝借したマッチを取り出して、線香花火に優しく火をつけた。じわ、と先が焦げて、しゃわしゃわと鳴る悲鳴に小さな火花が散り始める。君の白紙の瞳に、強烈な火の欠片が爆ぜていった。


「!、これ、“花火”?」


 僕は声を出さず、微かな呼吸だけで頷いた。線香花火の寿命を落とさないように、全神経を集中させていたのだ。ススキ花火でもよかったけど、極力目立たず、処理が簡単なもののほうがバレずに済むんじゃないかと思った。

 僕が何よりも危惧するのは、問題がバレて、先生に君のお世話係の任を解かれることだった。


「すごいなあ、すごいなあ。こんなに綺麗なんだ。持って帰ってもいい?」

 ────持って……帰れない……かな。

「どうして」

 ────ほら、消えてくるからさ。


 小さい火の雫がふるふると小刻みに震えて、松の葉のように飛び散る火花が眠たく萎んでくる。最後まで落とさずにいられたことを、僕は胸中で喜んでいたが、不意に君が火の雫に顔を近づけたので僕の手元は怯えるように揺らいでしまった。


 「あっ」という間もなく、光の水滴が落ちる。まだ残喘を保つ燃え滓に、君が触れようと、白い指先を近づけた。僕は慌てて君の指先を右手で掬う。新鮮なんだろう、見たこともない美しいものに触れたくなるのは、生き物のサガだ。害があるのか、ないのか、疑心暗鬼を確かめようとして、大抵は、痛い目を見る。


 僕みたいに。


「……君は、消えないでいてくれる」


 僕を覗き込む君の瞳に、炯々と、火花の残響が口惜しそうに輝いていた。

 消えないよ、そう言うと君の湿った指先が僕の指先を握りしめる。「熱いね」熱いだろうか。僕は、僕の体温を知れずにいる。

 落ちた火花は、生き絶えていた。

 血液のように歪んで揺蕩う尾鰭を見る。その鱗の温度を知りたくなった。触れたら────君は、痛がるのだろうか。


◻︎


「蝉の羽化が見てみたい」


 僕は、君のためなら、なんだってしてあげられた。


 終業式終わりに金魚鉢の車椅子を押して、学校を出る。僕らは、少し離れたところにある山道へと向かった。

 七月二十三日。君といられる最後の日だった。もう、陸には来ない? 夏休みも一緒にはいられない? どの言葉も、君と離れる現実ばかりを浮き彫りにする。何も言えないまま、僕と君の会話は、少なかった。

 公園に行こうか? と何度聞いても、君は「できるだけ遠いところでみたいから」と言う。

 勾配した林道が見えてくる。金魚鉢の車椅子では、果たして登れるか、わからない。やはり、近場の公園の方がよかったろう────しかし、


「あ。俺、降りるから。引きずっていってくれない?」


 君はそう言うや否や、おもむろに金魚鉢から身を引き上げた。

 ベシャッ! と海水が飛び散る。

 僕はあんまりに驚いて駆け寄ったけれど、君は「大丈夫」とだけ言って僕を止めた。撃たれた鳥みたいに這いずる君の尾鰭は、まさか、みるみるうちに人間の生足へと変化していった。


「足。いいでしょ。でも、歩けないんだ」


 どこまでも白い、海月のような足に、枯れ葉や土がまとわりついている。


 その土にはカナブンの千切れた四肢や花弁の残骸があるかもしれなくて、でも、それらは全て、君のための栄養になるのかもしれなかった。

 伸ばされた腕を掴むと、君は僕にしっかりとしがみつく。こうやって、人間を海に引き摺り込むのかな。

 抱き上げたかったけれど、非力な僕では土台無理な話だった。


 ずる……ずる……と、無垢な脚から轍が引かれていく。君の太ももや脹脛や、踵が、枯れ葉まみれの土を抉っていく。止めようのない僕の呼吸が、羽虫を誘う。

 今、彼の手を引き剥がしてしまったら、どうなるんだろう。それはきっと、線香花火みたいに一瞬だ。

 必死に縋り付いてくる腕、手。視界が上がって、後戻りが難しくなっていくような軌跡を眺めている夏の視線。

 君の命綱は僕だけになる。


 ────……痛くない?

「痛くないよ。この脚は、感覚がないんだ」

 ────そっか。誰かいなくちゃ大変だ。

「うん。だから、今、君に手を振り解かれたら、俺は七日で死ぬかもしれない」

 ────……そんなことしないよ。するもんか。

「そう? 俺は、蝉の羽化なんて、ほんとうのところどうでもよかったけど」


 蝉や蛙や、鈴虫の絶叫、涙のように蠢く陽炎──無数の揺らぎが、僕らを長い、長い熱帯夜に結びつける。

 掴んだ腕から汗が滴って、どちらの命が流れているのかわからなくなる。


 僕の腕を掴む手が、強くなる。


「俺を、好きにできるね、君は」


 君の吐息だけが僕に近づいた。体を支えていた腕の力が抜けて、君は僕に沈んでいく。明日は遠く、海の潮騒はここのどこにもない。

 草木の湿った匂いに、蝉の羽化が始まっていく。


 使えない君の脚は、胎内と同じ温度がした。

お読みいただきありがとうございました!


本作は、青様、及川様共催である「覆面BLSS企画」にて投稿いたしました「生足魅惑の」の追記作品となります。

素敵な企画にございました……。

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