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新幹線でB席に座る男

作者: 菱屋千里

 新幹線の待合室で乗客たちの足音が響いている。反響する靴音の中、これから出張先へ向かう同僚4人が偶然一緒になった。出発時刻を示す表示版の前で、どの座席が好きかについて話が弾んだ。東海道新幹線の普通席は、3人がけのA席、B席、C席と、2人がけのD席、E席で構成されている。そして、窓側がA席とE席、通路側がC席とD席である。


 赤池は窓の外を見つめつつ、「私はA席が好みかな」と言った。「出張は大抵一人だし、窓側のA席は隣に人が来ることが少ないから好きなんだ。今日みたいな暑い日に、体格のいい男性が汗だくで隣に座るなんて困るからね」


 千葉が同意するようにうなずいた。「そうだよね。肘掛けが隣と共用なのは不便だね。特にB席は両側の肘掛けを取られると最悪だよな。B席を避ける人が多いから、結果的に隣が空席になることが多いA席とC席がいいよ」


 赤池は驚いた顔を見せて、「えー、千葉くんはC席も候補に入れるの?」と尋ねた。


 千葉は穏やかに答えた。「うん、赤池さんはA席推しだけど、僕はC席が好きなんだ。通路側だと、乗り降りやトイレに行くとき、寝てる乗客を起こさなくて済むからさ」


 そこで遠藤は自分の意見を主張した。「でも、逆に考えると窓側なら気兼ねなく寝られる。長距離なら窓側がいいじゃないか。それに景色も楽しめるし」


 A席派の赤池が同調し、「うん、そうよね」と返した。


 とはいえ、遠藤はE席派だった。「でもA席よりE席がいいんだ。トイレに行くとき、A席だとB席C席の二人に立ってもらうことになるけど、E席ならD席の一人だけで済む。それに、E席からは富士山が見えるんだ」


 赤池は反論した。「でも、B席に人が来る可能性はD席より低いでしょ? A席からは海が見えるし」


 C席派の千葉はあまりこだわらず、「でも、天気が悪かったり夜だったりすると、景色はあんまり関係なくなるよね」と軽く言った。


 そのとき、沈黙を守っていた坂東が口を開いた。


「僕はB席が好きだな」


 彼の声が周囲の雰囲気を一変させた。


「B席が好きって、どういうこと?」と千葉が苦笑いしながら問い掛けた。


 坂東は深くうなずき、「B席には専用の肘掛けがないけど、そんな弱い立場のB席だからこそ、恵まれた立場のA席やC席の肘掛けを勝ち取れると、嬉しいんだ」と、意外な理由を挙げた。


 坂東の話に対して遠藤は少し考えてから、「A席やC席は、別の肘掛けが反対側に確保できてるから、B席は自分の縄張りを主張して良いってことかな」とフォローした。


 坂東はそれには答えず、さらに独特な考えを述べた。「B席は、A席やC席よりも少しだけ座席の幅が広いんだ。リスクはあるけど、両側の肘掛けを確保できれば一番良い席になる。チャレンジする価値があるだろ?」と。彼は出発時刻を示す液晶モニターに目を向けてはいるが、もっと遠くの何かを見据えているようだった。


 赤池は坂東の主張に対して、少し笑いながら「それって男性にありがちな征服欲なのかな。まあ、そういう動機ならB席からA席やC席の肘掛けを奪うのが良いのかもね。共感はできないけど」と応じた。


 議論は尽きず、結局誰も自分の意見を変えることはなかった。ただ、千葉だけは「もし坂東みたいな奴が隣に来たら嫌だな。次からはD席にしよう」と、C席派からD席派へと鞍替えした。


 そして、それぞれが自分の選んだ座席に向かった。いつものように坂東はB席に座った。



***


 そんなことを同僚たちが話したのは10年も前のことだ。


 坂東は同期の中でも出世が早かった。彼が乗るようになったグリーン車には、隣席との共用ではない独立した肘掛けが各座席に設けられていた。初めて社費でグリーン車に乗ったとき、彼は微笑みながら自分だけの肘掛けを愛おしそうに撫でた。そして、普通車にはないフットレストに足を投げ出し、満足そうに目を閉じた。それは彼の人生の一つの節目であり、努力が報われた瞬間だった。


 しかし、坂東はその達成感に囚われてしまい、別の"肘掛け"を獲得するために努力を始めた。競合他社との間にも、自社の他部門との間にも、"肘掛け"は存在した。多くの"肘掛け"を手に入れた彼は若くして役員にまで昇進したが、働きすぎて体を壊してしまった。闘病生活の間、坂東は自分が選んだ道が正しかったのか自問自答した。


 ある日、遠藤が見舞いに来た。E席派だった彼は、今は社内で堅実に役割を果たしている。


「大変だったな。でも、回復して元気な顔が見れてよかった。赤池は子育てとの両立のために仕事を控えめにしているし、千葉はフリーランスで楽しくやっているよ。坂東も、これからは健康を第一に考えて、もう少し自分を大切にしてもいいんじゃないか?」


「責任ある立場にいる以上、頑張らざるを得なかった。自分を信じてついてきてくれる部下もいるんだ。成果を他に譲るなんて、考えられないよ」


 彼は自分の"肘掛け"を手放そうとはしなかった。あのB席での挑戦が彼の原点だからだ。


 だが、退院した坂東は、もう激務である元の職場には復帰できなかった。そして、彼は昼間から公園のベンチを一人で独占するようになった。そこで本を読んだり、鳥を観察したり、時にはただ座って時間を過ごしたりと、彼はそこを自分の新たな"肘掛け"と捉え、その広さと静けさを満喫していた。


 しかし、その公園のベンチは他の人々にも愛され、利用されていた。老人や子供たち、カップルや家族もそのベンチを使いたがったため、坂東の静かな時間は次第に狭まっていった。そんな中、坂東はある少年と出会った。


 坂東がベンチで本を読んでいると、目の前で松葉杖の少年が転んだ。怪我はなさそうだったが、坂東は少年にベンチに座るよう促し、自ら自分の"肘掛け"を譲った。


 その日から、坂東は少年とベンチを共有するようになった。彼は少年に自分の過去を語り、少年は坂東の話に耳を傾け、そして自分の将来を坂東に語るようになった。二人は日が暮れるまで話し続け、"肘掛け"を分け合った。


 ある日、坂東は少年に「新幹線に乗ったことがあるか?」と尋ねた。少年は驚いた顔をし、そして少し悲しそうに「乗ったことない」と答えた。でも、いつか自分の足が治って、自由に歩けるようになったら、新幹線に乗って色々なところへ行きたいと言った。


 それ以降、坂東は出張続きだった日々を少年に話すようになった。出張先の各地の食べ物や観光名所、台風や大雪によるアクシデント、そして自分があえて"B席チャレンジ"をしていたエピソードも笑いながら語った。少年は毎日のように松葉杖で公園を歩いてリハビリに努めるようになり、坂東は少年がいつか自力で新幹線に乗る日を待ち望んだ。


 数年後、少年は自力で自由に歩くことができる若者になっていた。初めて新幹線に乗るという報告を受けた坂東は大いに喜んだ。そして、彼に「席はどこにするんだ?」と尋ねた。若者は軽く笑いながら「B席にします」と答えた。それを聞いた坂東は思わず声を上げて笑った。そして、幾年月の時を越えてきたその旅路のすべてが、不意に涙となってこぼれ落ちた。

「窓側が上座」で「通路側が下座」なので、窓側の席に肘掛けの優先権があるというルールやマナーがあるというネット記事が話題になっているようです。JR東海やJR西日本は、そのようなルールはなく、ゆずりあって使って欲しいとコメントしているそうですが。2024年3月追記。

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― 新着の感想 ―
「くだらない」話から、人間の本質を捉えた面白いストーリー。 「肘掛け」を奪い征服することに執着した男はしかし、自ら「それ」を他人に譲ることができた。 その些細な行動が、彼の人生に幸福な「意味」を与え…
[良い点] 高リスク・高リターンと低リスク・低リターンの話をこんな形に持ってくるなんて。ついでに「寝るのが好き」という選択もあって。 人間の志向というのは子供の頃からかわらないですよね。早い成果を求め…
[一言] 些細なことにここまで話し合えるのは凄い思いれがあるんだなと感じました!
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