マイカ・ミュートロギア・マティーニ
或る初夏の昼下がり。私は寂れた煙草屋の軒下で往来の人々を眺めながら、なんとなく、本当にただ、なんとなく煙草をのんでいました。たくさんの人々が行き交っているのを眺めているうちに、私はふと、とても嫌な心持ちになってしまいました。行き交う人々の数だけ存在する思考、価値、人生、希望、才能、幸福、苦痛、嘆息……。途方もなく膨大で、その存在すら疑わしく思われていた様々の影がこの瞬間私の眼前に実像を結んだように思われたのです。群衆。私はすっかりそれに圧倒されて、もはや何の気力も無くなってしまいました。
私が一体何になろう? 私の声が、文章が、物語が、果ては私の存在が一体何になろう。群衆が認めれば芸術。さもなくば灰よりも軽く、はかない塵。なんだ、結局のところ、群衆に翻弄されるだけの下らぬ玩具ではありませんか。嗚呼、本当にクダラナイ。
そんなことを考えながら、煙草の火を揉み消して、アルミ製の携帯灰皿に収めた途端、私はそこに私自身を見た気がしました。社会は、いや、群衆は地球の自転や万有引力の法則と同じように、絶対的な事実として動いていました。それが解ると、心のうろが音も無く肥大してゆきました。
私が一体何になろう?
二本目の煙草に火を点じながら自問してみるも、解答は相も変わらず、何にもならぬ、の一言であっけなく片付けられてしまうのでした。吐いた煙が青空へ拡散されてゆく様は私に火葬場を想起させました。
もうどうでもよい。生きるも死ぬも違わない。
私には、ただ、自分自身がそこに存在しているということ自体がなんだかとてつもない苦労のように思われてきました。ついに私は、半分以上も残っていた煙草を、煤けてヤニにまみれたアルミの底へ力いっぱい押し付け、揉み消してしまいました。
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昨今はマイノリティに優越的人権が与えられるものである、というフザケタ勘違いが蔓延しているようである。LGBTQや発達障害といった言葉は特にこの勘違いを生み出しやすい畑であり、これらに留まらず、あらゆる肉眼では観測不可能な精神的マイノリティが誤ったかたちで注目されているようである。
私は別に本来あるべき姿の平等化運動を糾弾しようというのではない。真の当事者たちが「優越的」な人権を求めていようはずがないことは充分に承知しているつもりである。私が忌々しく思っているのは
「そういえば我もマイノリティだ」
「我も」
「我もだ。我々はこれまで弾圧されていた! 今こそ平等を!」
という具合の自己暗示だか被害妄想だか、もはや訳のわからない手段で己を悲劇の救世主に仕立て上げて、ひたすら優越的人権を得ようとする馬鹿どもである。
有りもしなかった苦痛を無理やりに思い起こしてメディアの前でワザトラシク涙の一つも拭ってみる。そうすると、自我の無い群衆が勝手に憤慨する。自作自演も十分過ぎるほど馬鹿馬鹿しいが、そんなものにあっけなく騙される方もどうかしている。ここまでくると、真のマイノリティこそ被害者と断言できる。彼らがこれまでに経てきた「勇気と苦悩の葛藤」は容易くコピーアンドペーストで「カミングアウトの苦しみ」といった安っぽい言葉に塗りつぶされてしまう。
よくもまあ、こんなみっともない自己顕示欲の凝り固まりみたいな妄言を恥ずかしげもなく、大衆の前にひけらかせるものだと感心する。真の弱さ、苦悩を知らずしてマイノリティをかたる大衆、群衆。何がマイノリティだ! それこそが醜悪なマジョリティであることに一体いつになったら気が付くのだ! 本寸法の馬鹿者である。恐ろしいことに、彼らが欲するのは優越的人権に留まらない。マイノリティという免罪符の下にある暴言の自由と偽物の正義である。
本物の葛藤を知らずして何が「勇気をだしてカミングアウト」だ。白々しい。本物のマイノリティにはマイノリティたる確かな所以があるのだ! 知るまい、お前なぞは! それが自由のための革命のつもりか? お前はただ、名札の表に一寸、注釈を書き加えただけではないか。
敢えて私が宣言してやろう。
マイノリティは免罪符にはなり得ない。
これは真のマイノリティにも汚らわしくもマイノリティを自称するマジョリティたる群衆にも言えることだ。マイノリティ、あるいは己自身を曝け出すには相応の並外れた覚悟を要するのだ。良く覚えておけ。
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一面の澄み渡った景色であった。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
「今度は少し長かったね」
「そういえばそうだ。確か七十年くらいだったか」
「疲れたろう」
「まあね。でも、これも慣れたものだよ」
「随分ながく廻っているものね。君も私も」
「そうだ。もうどれくらいになるかな」
「さあ。忘れてしまったよ」
「私も」
二人の目の前にさほど大きくない一輪の蓮が咲いた。純白の花弁に所々、薄墨で刷いたように幽かな帯が見てとれた。蕊からは淡く弱々しい香りが確かに漏れ出し、二人の鼻腔に触れた。
「良いじゃないか」
「だろう? 自信作だからね」
「これだけの花だ。今回も苦労したとみえるね」
「いや、それほどのことじゃないよ。ただ、ひとりでにこんな風に咲いたんだ」
「そうかい? いや、それにしても立派だよ」
「ありがとう」
音の無い、雲のような時間がながれていた。
「少し休んだら、また行ってくるよ」
「少ししか休まないの? 君も、もの好きだね」
「そうかな」
「そうとも」
「次の鉢に目星はついてるの?」
「まあ、ね」
「やっぱり良い造形のだろう? 近頃じゃ綺麗なものがいくつもあるからね。君は凝り性だから。
そうだろう?」
「いや、形はどんなのでも構わないさ」
「じゃあ、一体どんな鉢にするの?」
「実は今、持ってるんだ」
「なんだ。そんなら、ひとつ見せてくれよ」
「うん。これなんだけどね……」
「ん? それかい?」
「そう」
「なんだか、ありきたりな鉢じゃないかい?」
「ありきたりじゃ、いけないかい?」
「いけなかないけどさ、君ならもっと良いのを選べるだろうに、本当にそれにするのかい?」
「そうさ。もう決めたんだ」
「君が良いなら別に構わないけども、なんだかもったいない気もしないでもないな」
「本当のところ、私はそれほど鉢には興味がないんだよ。そこにどんな花が咲くのか、それがどんな形なのか、どんな香りなのか。それに興味があるんだよ。
とは言ってみたもののね。実は私はどこかこの鉢を気に入っているんだ」
「どこかって、どんなところが?」
「いや、それはやっぱり言葉にはならないけれどもね……」
「さっきも言ったけれど、他に良い鉢ならいくらでもあるし、肥料だって……」
「いや。いいんだ。誰がなんと言ったって私はこれが好きなんだから」
「きっと苦労するよ? それでもいいのかい」
「うん。私はこれが好きなんだ。別に優れていなくたって、不自由だろうとも、なんだか私はこれが気に入ったんだから。もしかしたら、誰にも解ってもらえないかもしれないけれど。いいんだ。私だけが知っていれば」
「……やっぱり、君は少し変わってるよ」
「そうかな」
「そうとも。でも、私だって君のことは言えないかもしれないけど。
私もね、そんな君のことがどういうわけか好きでたまらないんだから」
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人には各々、天上から与えられた「大いなる作業」を完遂する運命があるように思われる。パラケルスス氏にとってそれは錬金術であり、ポール・ゴーギャン氏には絵画の作成であり、アイザック・ニュートン氏には科学の探求、レオナルド・ダ・ヴィンチ氏には万能人への旅といった具合であろうか。しかし、これらはなにも後の世に名声を遺した大人物だけに与えられたものではないと私は確信している。他者には見向きもされないような愚者の汚名を着せられた者にも、小市民にも、キミにも、私にも。いや、人だけではない。「大いなる作業」とはあらゆる動植物や、鉱石、火、風、水、土。森羅万象に等しく与えられているのであろう。それを成すためだけに万物は存在するように定められており、これは私がようやく認めることのできたひとつの真理として己が内に宿っている。
そして、私に与えられた「大いなる作業」は創作であった。そのためだけに私は、生きている。それを成さずして死ぬのは不幸には違いないがより正確には不都合なのである。
最近、私の胸に根差していた筈の、この創作に対する熱情が著しく低減したように感ぜられ、私は死を前にするよりも、もっと恐ろしい、存在の消失とでもいうべき事態に直面した。
私に与えられたアルス=マグナは創作ではなかったのか。
私は独り、気も狂わんばかりの闇へと落ちた。しかし、幸いにもこれが私の存在を否定するものでないということは、次第に知れた。私が感じた創作熱量の消失は私のアルス=マグナがやはり創作に違いなかったということを示す逆説的な証左であった。
即ち、これは黒化であったのだ。全てが黒へと還り、やがて再生へと転じる過渡期の混乱であったのだ。この工程を経たということは間もなく白化を経て、いよいよ赤化を達成することになろう。私は創作の過程において、この一連の現象を幾度となく局所的に経験してきた。今回はそれが私の人生において大局的に発現したのであった。万象には意味があり、それは必然として歩むべき道となる。たとえ我々がどんなに「大いなる作業」から逃れようとしたところで大いなる意思は決して我々を逃さない。無限遠点からエウクレイドスの距離を超えて我々の心へとその声は至る。
間もなく、私に白化が発現することであろう。そしてこの度の黒化は私が赤化へと至る運命にあることをあまりにも如実に物語っているのである。
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私は今日も真夜中と明け方の狭間に目を覚ましてしまった。時計を見ると三時間と眠っていなかった。しかし、もはやこれにもすっかり慣れてしまっていた私は布団の中で二時間ほど安眠への無駄な抵抗をしてみせ、ルーティーンのように外套をひっかけるとコンビニへ向かった。道中、空き缶を山程に積んだ自転車とすれ違った。
自活。やってできぬことはないが……いや、きっとできぬだろう。
私は飢えていた。ただ、名誉に。私が求めるのはささやかな日々を送る以上の金ではない。承認、肯定、歓声。それらにこそ、飢えていた。口では「誰に認められることも求めない」などと大層な言葉を強がって吐いているものの、やはり、足りない。そんな生を幾十年も続けたくはない、というのが私の本心であった。群衆になどもてはやされたくないと虚勢をはりながら、私はやはりそれをこそ、渇望しているのであった。なんと惨めなことか。
コンビニでただ安いだけの悪い酒と煙草を買うと、再び私は薄明るい、凍るような師走の街を歩き始めた。贅沢をする金など要らぬ。名誉が欲しい。ただ、名誉が。それが得られるならば、私の寿命五十年と取り換えたって安い。しかし、同時に私には解っていた。私の創作の刀は錆び過ぎている。昨今のディジタル、ヴァーチュアルな世間にそんな古びた刀で立ち向かうなぞ、まるで不可能である、と。認めたくはなかったが、私はそれをこの四、五年のうちにすっかり認めさせられてしまったのであった。皮肉にも私が黙殺したつもりでいた群衆に。全く、笑い話にもならない。
私は人間の本来の弱さ、愚かさを群衆よりもはるかに解っているつもりである。そして、その美しさも。しかし、私がそれを表現するための手立てはただ、万年筆だけである。錆びきったこの刀で一体、何ができようか。才能、とは私が最も軽蔑している言葉の一つでありながら、私はそれを持っていると信じて疑わない。無様にも。本来ならば馬鹿な群衆こそ、私の才能を認めるべきなのだ。嗚呼、奢りが過ぎたか? いや、そんなことはあるまい。
何かの間違いで私が群衆にもてはやされる日が来るならば、その時、私はきっぱりとこう言ってやる。
私は努力なぞしていない。成すべきことを成したまでだ。
この言葉こそ、私が魂を削って表現するべきことなのだ。即ち、苦悩礼賛の否定。
窓の外では日がすっかり昇りきったようで、明るい。鳥もさえずり始めた。酔いもわずか、まわってきたが、とうとう今夜も眠れなかった。
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