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フローライト・サマー・ジンライム

 シャッターの下りた古書店の軒下に雨止みを待つ二つの人影があった。

「とうとう降ってきたね」

「うん。はずれたね、予報」

「だね。折り畳み傘、持ってきてる?」

「持ってる。けど、もう少し、止むまで待つ」

「そっか」

小雨が風に流されながら音も無く降り、二人の前をいくつもの人影が行き交っていた。鞄を抱えて早足に歩く者、自転車、通便配達のバイク、自動車、ビニール傘を片手に歩く者、自転車、軽トラック、自転車。

「そういえば、向かいのタバコ屋さん、ずっと閉まってるよね」

「ああ、本当だね。確か、おばあさんが一人でやってたっけ」

「そうそう。先月まで開いてたけど」

「今の時代だとやっぱりタバコ屋さんって無くなってっちゃうのかな」

「そうかもね。タバコって、コンビニとかでも売ってるし、わざわざタバコ屋さんまで買いに行く人は少なそうだね」

「じゃあ、私たちで売り上げに貢献しようか」

「女子高生が二人してタバコ買いに行くの?」

「そう」

「売ってくれるかな」

「くれないだろうね」

「ダメじゃん」

「そっか」

蝙蝠傘、自動車、原付バイク。軽自動車、自転車、自動車。

「あ、猫」

「……行っちゃった」

「野良猫とかってさ、雨の日とかどうしてるのかな」

「どっかで雨宿りしてるんじゃない?」

「でも、結構な数だよ、この町の猫って」

「それもそうか。じゃあ、どうしてるんだろうね」

「どこかに猫の集会所でもあるのかな」

「見てみたいなあ」

「そうだね」

 雨は相変わらず強くも弱くもならないまま降り続けていた。

 ビニール傘、駆け足、自転車。

「持ってるんだったよね、折り畳み傘」

「うん」

「止まないね。雨」

「止まないね」

「私も持ってるんだ。傘」

「そっか」

「どうする?」

 バス、ビニール傘、自動車、自動車。

「……帰ろっか」

「うん」

「差すの? 傘」

「うーん。差すほど降ってないよね」

「うん。小雨……。あれ?」

「どうしたの?」

「……止んでる。雨」

「そっか」

「帰ろっか」

「うん」


UNDO


 T先生、いつもお世話になっております。今日はいくつかお話ししたいことがございます。ぜひとも聴いていただきたいのです。

 私は今月から、あるカフェで働くことになりました。もしかすると以前にお話しをしたことがあったかもしれませんが、そのカフェは私のよく訪れるカフェでした。そこで珈琲を飲みながら物語を書くことが私の数少ない楽しみのうちでも一等上質な楽しみだったのです。物語を考えている間、万年筆を走らせている間、私はほとんど自身に宿る重苦しい呪いから逃れられるのです。先生にこんなことを申し上げては失礼やもしれませんが、セルトラリンよりもこちらの方が私には、よほど効き目があるかと思われるくらいなのです。私の書く物語が私自身をこの世に留めてくれる、たったひとつの蜘蛛の糸のようにも思われます。

 ともかく、私はそのカフェで働くことになったのです。初めてそこで働いたのは今月のはじめだったと思います。そこの店主は穏やかなかたで、決してかの大学教授のように私を怒鳴りつけることはありません。ただひとつ、気にかかったのは店主の言った何気ないひと言でした。

「これまでのバイトは皆、優秀だった」

 私はぞっといたしました。不憫にもその店主は私の履歴書にあった修士号の文字を見て、私を優秀だと勘違いをしたらしいのです。

 とんでもない! 私は優秀とは対極にある人間です。出来損ない、と言ってもいいくらいです。無言の期待。これほど恐ろしいものがあるでしょうか。しかも、それに決して応えられないことは私自身が一番よく解っているのです。

 先日、こんなことを言われました。

「君は不思議な子だ。何を考えているのか分からない。まあ、何も考えていないのだろうけれど」

 期待に応えられず幾度か同じような失敗をしたときに言われた言葉です。ごもっとも。私はそのカフェで働いている間、何も考えられないでいるのです。期待に応えねば。同じ失敗を繰り返してはいけない。このグラスは何処に置くのだったか。そんなことを充分に考えられないでいるうちに我知らず、手元では何らかの失敗をしているのです。働いている間、私は常に静かな混乱にあります。周囲の情報をとり込み、必死で思考を試みるものの、実際に思考しているのか、していないのか、私自身にも解らないのです。この頃ではもう、なにもわからなくなりました。誰かの期待も、それに応える術も、適切な立ち振る舞いの方法も。そして何より私自身のことが。昨日のことと、今朝のことと、一昨日のことが私の記憶の内では曖昧になってきました。ただ、何か自身が苦しんでいることとは思うものの、何もわからなくなりました。ひとつ、確かなことは私が立派な社会不適合者だということです。


UNDO


 ヒュプノスが私を訪ねてくるまで思いつくままに物語を綴ってゆこうと思う。

 誰だ?

 午前四時。私の枕元に黒い影があった。彼? は何も言葉を発することなく黙って私を見つめていたように思う。思う、と言うのは少しおかしいようにも感じるが、もともと視力の良くない私、ましてや夜分。人の形をした影がのっと私の顔を覗いていた他は何もわからなかった。不思議なことに私は恐怖を感じなかった。それどころか、どこかその影に親しみに近い感覚さえあった。

「さあ、行こう」

彼がそう言ったように思った。私は布団から起き上がると寝間着のままで雪駄をつっかけると自室を後にした。

 外に出て、彼の後についてゆくうちに私は違和感に包まれた。まだ空は暗く、物音ひとつ聞こえない。ただ、私の足音だけが周囲に染み込んでいった。

 見知った通りを二つ三つ曲がった途端、私の視界は完全な闇に覆われた。恐れとも戸惑いともつかない心持ちではあったが、意識ははっきりしていたのが妙に思えた。前も後ろも右も左もわからない暗闇の中、私はまたもや影の声を聞いた。

「さあ、行こう」

その声と同時に私に巣食っていた負の感性の全てが霧散し、私は一歩、闇へと踏み出した。一歩、また一歩と足を進めるにつれて、少しずつ周囲に薄明かりの粒が現れた。それは次第に数を増し、とうとうどこに目を向けても様々な色をした光の粒を目にすることができるようになった。

「そら、好きなのを選んでくれ」

「なあんだ。君だったのか。待ちくたびれたよ」

「すまなかったね」

「早く兄貴にも来てくれるよう頼んでおいてくれよ」

「まあ、そう言うなよ。順番さ」

「それもそうか」


UNDO


 Wheel of Fortune は一度回り出すと止まらない。好転? 悪転? どちらでも。ところがこれがなかなか動き出さない。忍耐強く待つのだ。成すべきことなら君が誰よりも良く知っている筈だ。それを否定せず、見失わず。唯々、耐えよ。機が熟すまで待て。今の君に足りないのは運だ。才能? 馬鹿な! そんなものは第三者がでたらめに作り出した悪魔の言葉だ。君はもう充分持っている。何もかも。惑わされるな。群衆はいろんなことを言うだろう。陰ノイズはもちろんのこと、陽ノイズも。

 運だよ。運。群衆なんてのはどこまでもいいかげんなものだ。意思など持っていない。増長、増長。感性がないままに何だかんだと偉そうに評価する。全くくだらない。だから君、惑わされるな。君の歩く道を外れるな。陽ノイズキャンセラーは持っているか?

 君は誰にも引けをとりはしない。津島さんにも、強次さんにも、ミケランジェロにも、ダ・ヴィンチにさえ。だから君。絶望するな。機の熟すまで耐えてくれ。君にしかできないことを偶々群衆が評価するか否かの違い。それだけが君とダ・ヴィンチとの違いだ。忘れてくれるな。

 嗚呼、それにしても忌々しい。君ほどの芸術家を何故、人は認めないのだ。糞ったれ! 君の持っている素敵な宝石を粗削りなどという馬鹿共。皆、横っ面をひっぱたいてやれ。君の世界を認めぬ馬鹿共など、こっちから否定してしまえ。いらない。君を、そして僕を認めようとしない世界なんて砕いてしまえ。所詮評価の全ては群衆の戯言。創り出すことの尊さを忘れた抜け殻の屁に過ぎぬ。何が天才だ! 感性が無いからこそ、そんなくだらん評価の言葉しか出てこないのだ。嗚呼! 考えれば考えるほどくだらん。何が才能だ。もう一度言ってやる。糞ったれ!

 君と僕に幸あれ! いや、運あれ! 馬鹿な群衆が創り出した言葉で最後を飾ろう。

 我々の才能に乾杯。


UNDO


 ひと筋の飛行機雲が強烈に刻印されてゆく青空の下、校庭のグラウンドは真夏の熱気を受けて燦々と輝いていた。野球部のエースが打った白球が見事な放物線を描きながら入道雲に吸い込まれてゆきそうな、そんな夏の放課後であった。打球音、ブラスバンドの楽器の音色、やかましい蝉の合唱。青春を謳歌するためのあらゆるバックグラウンドミュージックが揃っていた。

 修治さんの真似をして、僕はここで顔を出すことにする。この物語には主人公は存在しない。ただ、夏の青春の理想を投影するだけである。教訓なんぞ、あるわけがない。絵画のように、いや、それ以上に、克明に。

 とうに授業を終えた教室には、一人の生徒もおらず、そこに似つかわしい不思議な違和感が漂い、窓辺の机は直射日光のためにすっかり熱せられていた。通りかかった教員がつけっぱなしになっていたエアコンのスイッチを切った。かすかな送風音が立ち消えになると教員の足音が次第に遠のき、やがて教室には、なんの物音もしなくなった。しばしの間をおいて、二つ三つ離れた教室から姦しい笑い声がどっと沸き起こった。

 やがて、その声の主たちが帰ってしまうと、どの教室も一様に押し黙ってしまった。

 校庭の隅のコンクリートに、二人の陸上部員が玉の汗を流しながら座りこんでいた。

「あちぃなあ」

「夏だもん」

「そうは言ってもなあ。お前、なんとかしてくれよ」

「よせやい」

「おっ! あれ見てみろよ」

「ん? あれって?」

「庭球部の葛西さん。スタイルいいよなあ。眼福、眼福」

「お前、葛西さんには随分入れ込んでるもんな」

「そりゃあそうさ。あれだけの美人でスタイルが良くって、何よりお胸が……」

「よせやい」

「あー、にしても暑いなあ。なんとかしてくれよ、お前。」

「無理言うなよ」

 再び僕は顔を出す。どうだろうか。真夏の青春をこの名も無い二人の男子生徒に託してみた。上手くいっていれば良いのだが。これまでの静止した情景描写を初めてこの二人が活動写真のごとく動かしてくれている! というのが僕の狙いなのだけれども。果たしてそんなに上手くいっているかしら。

 先に進もう。

 だんだんと日は落ち、辺りに薄茜の気配が漂い始めた。いよいよブラスバンドの音色や球児の打球音や生徒たちの笑い声がそれぞれの青春をより一層加速させていった。相変わらず蝉の大合唱は続き、少年少女たちの澄みわたるような人生の一場面を後押ししていた。誰もが心の奥底でこの素敵な時間が永遠であると無理やりに錯覚せずにはいられなかった。

 橙の空はやがて桃色に変わり、そしてとうとう群青色に世界が包まれた。

「じゃあ、また明日」

「バイバイ」

「お疲れ」

 銘々に別れを告げた彼らはこれから家路につく。偽りの永遠の表層がまた一枚剥がれ落ちた音に気付かないふりをして、彼らは明日も同じように平凡で素敵な一日をおくることだろう。


UNDO


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