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パンドラ

 不快な目覚めだった。元来、私にとって朝などという時間帯は不愉快に決まっているのだが、この日の朝は殊に不快だった。脳が覚醒していないのはもちろんのこと、寝足りないような、それでいて、二度寝もできそうにない朝。網戸越しの風もなんだか生温い。初夏とは言い難い初夏の朝。

 結局、私は十時を過ぎた頃にアパートを出た。少し足を延ばして駅前の珈琲屋で原稿を書こうと思ったのであった。近頃では喫煙不可能な飲食店が増えてきたためにこうしてわざわざ運動を余儀なくされるのだ。

 途中、コンビニに立ち寄って煙草を補給し、再び歩きだした私の目に留まった、ある喫茶店の看板。

 この町に越してきて以来この店の前を通ることはあったものの、いつでもシャッターが下りていたため、そこに入ったことはなかったが、それとなく気になっていた店であった。私は得意の気まぐれ気質で店内へと足を踏み入れた。無論、喫煙可能のステッカーを確認してからであった。

「いらっしゃいませ」

 まさに準喫茶、という内装。良い。サイフォンが六つほど並んだカウンターに立っているのは赤い前掛けのおばちゃん。おばちゃんの目の前の席では鉢巻きをしたおっちゃんが新聞を読んでいた。他にも幾人かの客らしい人達が珈琲を飲んでいたが、果たしてどれが従業員なのか分からなかった。これまた、良い。

 私は図々しくも、おばちゃんに促されるままに四人掛けの前掛けのテーブルにつき、おばちゃんにアイス珈琲を注文すると原稿用紙を広げ、万年筆を手にした。煙草に火を点けようとすると、おや? 灰皿が見当たらない。隣の席にはあったものの、それを黙って使うのも気が引けた私はきょろきょろと店内を見渡した。

「お手洗いはね、あっちやで」

声をかけてくれたのは鉢巻きのおっちゃん。

「いえ、その、灰皿を……」

「ああ。灰皿はそこの棚にあるわ」

「どうもありがとうございます」

「ごめんなあ、気ぃつかんで」

 これまた、良い。

 無事に煙草を一本吸い終えると私は万年筆を走らせ始めた。途端、背後の席に座っていたおっちゃんが会計を済ませて出て行ったかと思うと程なくして戻ってきた。しきりに椅子の下を覗き込み、何かを探している様子であった。

「何かお探しですか」

そう私が尋ねるとおっちゃんは

「ちょっと鍵がな……」

 それを聞くなり店内の人々がそろって辺りを見まわし始めた。しかし、いくら探してもおっちゃんの鍵は出てこなかった。困り果てているおっちゃんをはじめとした我々一同。

 ふと前掛けのおばちゃんが

「ポケットに入ってたりせんかぁ」

「いやいや、さっきも探してみたんやけど……」

ポケットを探るおっちゃん。

「……あったわ」

どっと沸く店内。嗚呼、平和。

 さて、鍵の一件はこれにて解決。めでたしめでたし、と私は改めてアイス珈琲を飲みながら改めて原稿用紙に向かった。

 やがて気が付くと、店内には前掛けのおばちゃんともう一人のおばちゃん、それから私の三人になっていた。私は一息つき、二本目の煙草に火を点けた。何気なく壁に目を向けると……。

「しばらくの間、午前中のみの営業となります」

あわてて時計を見ると!

 十二時三十五分。

 私は急いで煙草を揉み消し、残っていた珈琲を飲み干した。

「どうもすみません。午前中だけの営業だったとは、気が付きませんで」

「いえいえ、兄ちゃんオトコマエやからええかなと思うてな」

恐れ入ります。

 急ぎ足で帳場に向かい、財布を取り出そうとした私の手を前掛けのおばちゃんが止めた。

「今日はオツナギということで」

「いえ、そんな……」

「ええのええの」

「それでは……。どうもありがとうございます」

「いえいえ、また来てや」

 もうしばらく、生きていようと思った。

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