オブシディアン・ラズベリー・ネグローニ
別段、何を伝えたいということもありません。ただ、私の思うところを書き残しておこうと思っただけなのです。とりとめのない話にお付き合いいただけますか。
私はいつの頃からか、つまらない慣性の法則に従って生きて来たように思います。時折断続的な外力が加わるものの、けだるい慣性で生きているのです。しかし、外力もばかになりません。これはつまり誰かが言った「傑作の幻想」とかいう代物に他なりません。私は一生をかけてでも世界を創りたいのです。巷にあふれている、革新的と言われるメッキだらけの既製品でない本物の芸術品を創りたいのです。いや、違う。本当はそんなくだらない既製品が羨ましくてならないのです。
UNDO
何故! 私で無くあんな奴らが!
これに尽きる。醜い感情だ。一体芸術とは何であろうか。一寸考えてみることにしよう。芸術とは、芸術とは……。やはり創造物に違いない。本物の芸術とは例外なく創造物である。教訓、論理、効率、嗚呼そんな俗物の介在しない宝石だ! それなのに、それなのに何故世間とやらは偽物ばかりをちやほやするのだろうか。彼らは冒涜している。かつての偉人たちの魂をすり減らした、大いなる作業の果てに発見されたひとかけらの真理を。あたかも自分でそれを創造したかのように要らぬ装飾で埋め尽くして、したり顔で大衆に供給する。これを大罪と言わずになんとする。
もちろんそんなアーチストも罪人に違いないが、しかし! それにも増して! 礼賛者のあのみっともない姿は何だと言うのだ。幻想でしかない世間に現実に自らを最適化し意思も感性も手放してキャー、キャーと言っているあの連中は何だと言うのだ。くだらない、くだらない。
もし君がそんな連中とは違うというのならば断罪せよ! 称賛せよ! 何物をも感じるままに。私のこの言葉でさえ、断罪か、称賛か。二つに一つだ。
私のこんなつまらない演説もとうとうこんなに熱を帯びてきてしまった。この辺で少し頭を冷やすことにしよう。
UNDO
世俗の評価を得たいのだ。私は。その一心で阿呆な世間を生きて来たのだ。しかし、それを得るためには何が必要なのか。知っている。運だ。イヤイヤ、そう目くじらをたてるな。これはきっと本当なんだ。大体君たちは努力だとか成長だとか、苦心談が大好きだね。では尋ねるが君たちの言う努力と苦痛はどう違うんだ。成長と変化とはどう違うんだ。自傷を美化するな。目的のない苦痛を手放しに称賛するな。目的の消失した忍耐をなぜそんなに尊ぶのだ? これを聞いてもなお、定義をそのままに「成長のために努力を」などと宣う輩がいるのならば、君は私とは全く別の生き物だということだ。たまたま生物学上の分類として同じ「ホモ・サピエンス」であるというだけだ。互いにそれを恥じて生きて行こうではないか。そうだ、ついでに言っておくが君たちは道化師が好きだね。しかし君たちは本当の道化師を知っているのか? 君たちが祭り上げている道化師を無作為に千人抽出したってその中に本当の道化師なんて決して存在しない! 私はそう断言できる。君たちが道化師だと思っているそれはもれなくチンドン屋なんだよ。本当の道化師とはね、君たちが無意識に踏み潰した路傍の蝉だよ。もしも読者の中にこの蝉がいるのならば、私は心から同情申し上げる。無条件に拍手を送る。
UNDO
アンドロギュヌス。これこそまさに崇拝すべき対象である。いや、順を追って話さなければなるまい。世俗の言葉で表すならば「中性的な人類は尊い」と言うことである。ここにおいて、中性的とは外見上の性質であり、内面について、今は言及しないことにする。さて、性別直線というものを想定してみよう。通常の数直線でよい。ただし原点に対して右側が男性、左側が女性を表し、原点からの距離によって外見的な特徴が決まるものとする。定義にもよるが、例えば+100は極めて男性的な外見を表し-100は極めて女性的な外見を表していると定めることができよう(もちろんこれらの符号はただ、数値的な観点のみによって与えられている)。この性別直線について一点だけ注釈を与えておくと、直線は原点以外の至る所で連続的であり、原点においては不連続である。以降では原点をA(Androgynous)とおく。原点は両性具有を意味するため、特別な場合を除いて人間界ではほぼ観測することができない、存在しない極限値であると言える。
さて、この原点近傍を考える。議論を滞りなく進めるうえで中性近傍を定める。kを中性定数とし、ある人間が有する外見的な性別を実数xで表す。つまりx<|k|となるような任意の値xは中性的な外見を表していると定義する。本来であれば性別を表す実数xはあらゆる外見的な条件を考慮する必要がある。すなわち、n変数函数fによって決定される値がxとして抽出されるべきであるが、ここでは簡単のためにただxという値を考慮することにする。もちろんxが正であるとき対象とする人物の生物学上の性別は男性であり、xが負の時は生物学上の性別は女性である(重ねてであるがこれらの符号はただ、数値的な観点のみによって与えられている)。理論上はもちろん、中性近傍は稠密であるが、現実に外見上の数値がこの近傍に含まれているということは極めてまれである。
さて、堅苦しい話はこの辺りで一度切り上げて、具体的な話に移ることにしよう。このように定義された中性的な人物に対して私は五体投地したいのである。特にAの右側近傍に属する中性的な男性に踏まれたい。特に、美少年。これは素晴らしい。ひとたびその御姿を拝すれば私のような人間は蠱惑的な、妖艶な魅力の虜となってしまうのだ。神が創り給うた陰と陽のはざまに、極めて微小な聖域を垣間見る。低俗な私めには崇めることすらおこがましい。しかし! その神聖に僅かでもあやかることができたなら! 触れるなどとんでもないことだ。穢してはならぬ。とすれば、足蹴にされたい。その圧倒的な神聖に跪いて私の存在がいかに矮小であるか、刻み込んでいただかなくてはならない。むしろそうでなくてはならないのだ。世の美少年よ。どうか、どうか私をそのなめらかな艶のあるおみあしで私の胸を踏み躙ってくださいまし。その痛みを生の悦びとして魂に刻み付けてくださいまし。どうか、もっと冷酷な目で!
追記せねばなるまい。もし、私よりも先にこの幸せに恵まれるような者がいるのならば(いや、そんなことはあってはならないのであるが)、私はその魂を引き裂き、地獄の炭団と一緒にしてチューブの着火剤を山ほど使って燃やし尽くしてくれる。
ふへへ。美少年、ふへへへ。
UNDO
死を思うことが最良の生きる糧となる、と、先人が言っていたように思う。なるほどその通りであろう。今日までの私がまさにそうである。私をこの下らぬ俗世につないでいるのは自死の先にある裁きの暗がりと愛しい家族のことである。もはや自身の行く末には何ら希望を見出せそうにない。よし、何かしらの光明があったとて、そこに至るまでの道程を思えば足は動かぬ。いわんや、這ってまでそこにたどり着こうなどとは露ほども思わぬ。
それにしてもどうやって死のうか。首をくくるのはいけない。家主に大変な迷惑をかけることになるし第一、私の部屋には手ごろな梁も何もないのだから。最有力候補はゾルピデムとエチゾラム、フルニトラゼパムに依って忘我のうちに海へ入ることではなかろうか。先日でき上がった私の作品の青年のようにして死ねたなら幸いである。しかし、この方法の唯一の欠点は醜い死骸が誰かに発見されはしないかということである。いっそ死んでしまうのだから、どうでもいいようなものの、私はどこまでもお体裁を取り繕ってしまう性質であるようだ。
私は決して金が無いから死ぬのでもないし、名声が得られぬから死ぬのでもない。ただ、定数函数のような社会構造に殺されてゆくのだ。いや、名声云々については少し当たっている。死にたいわけでもない。ただただ、生きていたくないのである。冗長な駄文を続けるよりは適切な短文で切り上げる方が賢明であるような気がする。生きてゆく望みというものがたったひとつ、あるとすれば、それは私が死の淵に見たこの濃霧を誰かに認識されることである。あわよくば! 僅かな憐れみをいただければ、それ以上に望むことなどあろうはずもない。
私がこの先、生きるにしろ、死ぬにしろ、それは私にとっての必然であり、一切のノイズは存在していない。そういう人生を歩んできたという自負は確かに持っている。
眼前の濃霧の向こうに何があるのやら、私には何も見えはしない。
UNDO
まあ、気楽にやるのが一等じゃないか。
浮雲だよ、浮雲。風がないならのんびり揺蕩っているがいいじゃないか。君は呪われたアレを否定しようというのだろう。だったらゆったりしていなくちゃあ駄目じゃないか。未来のことを考えるのもいいが、考え過ぎてはいけないよ。ちゃんとここに未来の君がいるんだからさ。
それにね、存外上手くやれてるよ。今の君には想像もできないようなことが僕の身のまわりで起こっている。それを細かに話したところで君は信じまい。ただ、僕が言えることは浮雲である、ということに尽きる。君と僕との距離は少しずつではあるが確実に縮まりつつあるんだからね。心配いらないよ。なるようになった。だから君はゆっくりこっちに来たらいいんだ。
君と会えることを楽しみにしているよ。君はきっとびっくりするだろうね。
UNDO
やはり万年筆に限る。ボールペンも良いがこの方がよほど私は好きだ。仮にボールペンでものを書くとしてもあんまり細いのはいけない。
私が学生の時分は同級生の間でやけに細いペンが流行ったことがあった。私も使ってはみたものの、いやはや、あれはやっぱりいけない。私は一体にきれいな字を書くほうではないのであるが、細字のペンでは余計にそれが際立ってしまうように思われる。しかし近頃では信じ難いような極細のボールペンを見かけることがある。〇・三五だと? 何ということだ。太すぎるのも扱いづらいに違いないが何もそこまで細くなくたっていいじゃないか。
先日、私は商店街の文房具屋に手ごろな万年筆を探しに行ったのであるが、その店には(さすがは文房具店)〇・〇五などという超が付くほどの極細のボールペンが陳列されていた。そんな細いペンで何をかこうと言うのだ。まさか文字ではあるまい。絵であろうか。不可解である。
文房具といえばシャープペンシルもそうだ。あれに関しては太さ云々はさほど問題ではない。おおよそ〇・五であろう。私が問題にしているのは持ち手部分、グリップである。ラバーやゴムが取り付けられているのはあまり好まない。硬質のグリップを好む。そうだ。思い出したぞ。これも私が学生時分のことであったが、気持ちの悪いくらい柔らかいグリップのシャープペンシルが流行っていた。持つと、ぐにゃりと指先が沈み込むあの感覚! 全体あんなもので文字が書けるのかしらと心配になる程であった。
回想はこの辺りにしておいて話をもとへ戻す。ボールペンの話だ。私は万年筆を好むというのは先に述べた通りであるがボールペンにも少しこだわりがある(前置きしておくが、こだわり、という程のものではない)。
いわゆるノック式のボールペンは嫌だ。カチッとやるあの感覚が嫌いなのだ。キャップ式に限る。それでこそペンだと言えよう。文章をひと区切り書いてしまってからパチとキャップを閉める。これは動作的句点である。ノック式ではこうはいかない。あれは動作的読点でしかない。だから私はノック式のボールペンで書かれた文章は冗長になるものだと思っている。
ペンのことを書いたついでに紙のことも書いておこう。横書きは嫌だ! 数学や英語のノートをとる際はともかくとして、日本語を書くのならば、すべからく縦書きでなければならない。だから私は小説の原案を書く際には必ず書簡箋を使うことにしている。
諸君がどこかの町の喫茶店で煙草を吸い、珈琲を飲みながら書簡箋に何か書いている男を見かけたならばそれはかなりの高確率で私であろう。
UNDO
私が常用している煙草はLARKである。元々はバットを吸っていたのであるが、私が喫煙を始めて半年程して生産中止となってしまった。例の増税の影響である。おのれ。
それからというもの、私は色々な煙草を試してみたが銅色のLARKが一等良い。何がどう良いかなどということは尋ねないで欲しい。私は自身の感性を言語化しようとも、そこに理屈をつけようとも思わないし、そんなことはむしろ人生に悪影響を与えるとさえ考えている。
私の父親はもともと喫煙者であったが数年以前に止してしまった。父親の好んでいたのはショートホープであったから、私が生まれて初めて吸った煙草もそれであった。今でもホープのあの青い弓矢の柄を見る度に父親のことが思い出される。もしも私が世間の人々に知られることになったならば(そんなことはあるまいが)銅色のLARKの箱を見て私を想起してくれるだろうか。
UNDO
平生、私は何も考えないことにしている。私のことを少しご存知のかたは、私が考え過ぎる気苦労の多い人間だと錯覚するらしいが、そんなことはない。無論、私は気苦労を知らぬ人間ではないし、かの有名な作家先生が仰ったように「どうにもならないことをどうにかしよう」と頭を働かせたこともあった。しかし、いくら考えてみたところで、どうにもならないことはやはり、どうにもなりはしない。それどころか、世間の事象は私の思索を嘲笑うかのように展開される。世の中というあまりにも大きな存在に対して、私のような一個人の思考が何になろう。裏の裏の裏の裏を考えてみたところで、世間は平気な顔で表でも裏でもない事象を突き付ける。それを前にして思考回路をどれだけ働かせたとて、何にもなりはしない。結局、表か裏しか出力できないのだから。それならもう、そんな徒労回路を凍結してしまって論理も理屈も無い受動的感性に依って生きてゆく他、無いではないか。思考回路の凍結とはつまり、回路の摩耗によって得られたひとつの思考体系の終着地点と言えよう。
論理、真実、道徳、人道、正義。こんなもの、何にもなりはしない。事象と感性とがあるだけだ。
苦心して人々と交流を持ったとして疲弊するだけだよ、君。考えないほうが良いのだから。賢人たるには感性の反射で生きるしかないのだからね。
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私は美しいものが好きである。殊に美しい物語や絵画、音楽を愛している。しかし、私はそれらを純粋に享受することができない。それどころか、自らそれを遠ざけ、見まいとする。これは全て嫉妬のためである。劣等感と言いかえてもいい。美しい芸術を目の当たりにすると、必ず嘆息を漏らすことになる。感動する。憧れる。自身もそんな立派なものを創作したいと思う。しかし、私にはそれだけの能力は無い。
この一連の脊髄反射のような思考が私の感動を台無しにしてしまう。嗚呼、この悔しさといったら!
だから私はできるだけ綺麗なものには近寄らない。本心では触れたくて堪らないのに遠ざけねば私は心に住み着いた大蛇に絞め殺されなければならないのだ。
こうなってしまっては私に残されているのは二つの道だ。生活から一切の芸術を切り離して逃れるか、小説というナイフで大蛇を刺し殺してしまうか、どちらかだ。前者は精神的な死の道に他ならない。後者ならばそれは紛れもなく栄光の生である。しかし、私のナイフはこんなにも錆びついてしまっている。果たしてどうなることやら。
UNDO
私がチョコミントのアイスクリームを口にしたのは高校生の頃だったと記憶している。ショッピングモールのゲームセンターで友人たちと賭けをしたのだ。負けた者が自動販売機でチョコミントのアイスクリームを買うというものだ。思い返してみればなんと不敬な賭けであったことか! 無論、私が負けて青緑色の甘味に挑んだのである。そしてそれを食べ終える頃にはお察しの通り、私はいわゆるチョコミン党員となったのである。今となってはあの神秘的な青緑色のスイーツとハミガキ粉の区別がつかない憐れな人民をいかにしてひっぱたいてやろうかと思案している。私にとってはもはやチョコミント以外のアイスクリームはアイスクリームですらないと思われて仕方ない。
全てのチョコミン党員よ! かつての不敬な賭けを許してくれ! 私はあの時、賭けに負けたのではなかった。厳粛なる青緑の洗礼を受けたのである。この恵みに感謝いたします。
UNDO