4.素晴らしい判断だと思います
惚けるのは一瞬。
喜んでいいのか難しいタイミングの接触イベントを噛みしめる暇なく、ひかりは胡桃の親切な申し出にすぐさまに頷いた。
「じ、じゃあ、あそこの日陰に……」
「うん。……あ、でも俺がさっさと運んだほうが負担かけずに運べるかな」
そう言うと胡桃は蘭咲の首の後ろと膝下に手を差し込んで、軽々と抱き上げた。所謂お姫様抱っこだ。
蘭咲の長い手足がだらんとはみ出ている様は、まるで死体のようだ。胡桃が抱き上げた時に傍観者たちから上がった声は、好意的な歓声と恐怖の悲鳴だった。
「……蘭咲くん、もう指離していいよ?」
蘭咲の長い手の一つは、何故か未だにひかりの右手と繋がっている。ついさっき意識の有無のため、確認した際に握った指がそのままだった。
動きにくいだろうと指摘してやるが、ぜいぜいと苦しそうな呼吸を繰り返す蘭咲は応答しない。
「はは、弱ってるしそのままでもいいんじゃないか? 心細いのかも」
「はあ……」
笑う胡桃につられて、歪な笑みを作りひかりは頷いた。今はそんな事よりも蘭咲の体調が大事だ、と先へ先へと進む胡桃に、ひかりは早足で付いていった。
グラウンドと体育館を繋ぐ入口をくぐり、まだひやりとした体育館の床に蘭咲を寝かせる。
まだ部活動も始まっていない体育館は静かで、休むには最適な場所だった。
まず上まで律儀に閉めたカッターシャツのボタンを開けてやる。ひかりは医者ではないが、蘭咲の様子から熱中症ではないかと疑っていた。彼は飲み物一つ持たず、外へ出ていた。
まだ指を握る蘭咲のせいで、片手では上手く制服を緩める事が出来ず、胡桃が察して代わりにベルトなども緩めてくれた。
「熱中症かな、五月でもこれだけ暑かったらしんどいよな」
「そうですよね……あの、使いパシリみたいで申し訳ないんですけど、タオル良ければ水で濡らしてきてくれませんか。行きたくても、行けなくて」
ひかりが繋がれた指を見せると、胡桃は二つ返事で応じてひかりのタオルを受け取ってくれた。外の手洗い場は体育館からさほど距離もなく、すぐに絞られたタオルが胡桃からひかりの手に渡った。
ひんやりとしたタオルが蘭咲の首元に置かれる。これだけでも少しは違うはずだが、本当は水分とかもっと冷えたものが……等とひかりが難しい顔で考えていると、ようやっと救世主は現れた。
「担架、担架持ってきたわ! 蘭咲くん大丈夫!?」
佐原先生と他の美化委員の先生が、慌ててこちらに駆け寄ってくる姿に一気に脱力感が襲ってくる。
いくつになっても、ピンチに駆けつけた大人の姿は安心するものだった。
ひかりが脱力するのと同時に蘭咲の指の力も抜ける。そのまま蘭咲は、先生たちと共に担架で慌ただしく運ばれていった。
「大丈夫?」
ひかりの顔を胡桃が覗き込んで様子を伺ってくる。
そういえば普通に会話していたが、この人がいたんだった。ひかりは驚きのまま、猫のようにぴゃっと距離を取る。
「だ、大丈夫です! 本当ありがとうございました……」
「いや、お礼なんて言う必要ないよ。あの場で冷静に動けた相良さんはすごかった」
ふんわりと微笑む胡桃に胸の奥が温かくなる。取り繕うとか表面上のような雰囲気を一切感じさせない言葉が嬉しくて、ひかりは俯いてしまう。
いや、でも待て。今相良さんって?
「え、え! 名前、なんで、」
「美化委員会で自己紹介したよな?」
「しましたけど、全員名前覚えてるんですか?」
「うーん、まあ覚えてるかも。あ、俺の名前はちなみに」
「知ってます知ってます! 胡桃宝、せんぱい!」
ひかりが食い気味に答えるとその必死さがおかしかったのか、吹き出す胡桃。「宝でいいよ」と告げる声はとても優しかった。
――ああ、この人が良い。
蘭咲には大変申し訳ないが、彼には今、大丈夫? より、ありがとうを贈りたい。ひかりの乙女ゲームはようやく始まったのだ。