目覚めの時
勇輝はアリスに手を引かれるままに走り続ける。
怪物は来ない。しかし依然正体不明の何かが二人の過ぎ去った後を押しつぶしながら追尾し続けていて危機は今だ去ってはいない。けれど勇輝は背後に迫る脅威に震えあがりながらも、頭の片隅でその何かを観察していた。
これは一体何だ? あの怪物が何かしているのか? それとも外側に何かいて自分達を押しつぶそうとしているのか? と。だが直観的に何か違うと彼は感じていた。
背後に迫り来るそれは二人の後を追うように追尾してくるものの付かず離れずの距離を保っていて襲いかかろうという意思は見えない。もし自分達を殺すつもりならとっくに距離を縮めて潰していてもおかしくはない。少なくともそう思わせるだけの膂力を隠しているように彼には思えた。しかしそれをしないのは、もしかしたらこれは自分達の敵ではないのではないのかと彼は考える。
ならこれはこの施設に備え付けられた一種の防衛機能のようなものではないか? 機密を外に漏らさない為の最終手段として誰かがその防衛システムを作動させ通路が潰れていっているのではないか?
そんな無理のある希望的観測が脳裏に浮かぶ。当たっている気はまったくしない。しかしそこまで遠くはないのではないかと彼は思っていた。
何故なら先の十字路で怪物に襲われた時、完全に逃げ遅れた勇輝をまるで助けるかの如くあの現象は怪物を襲った。ということは少なくともこの現象とあの怪物は敵対関係にあるということであり今も背後を付きまとうこの現象は“何か別の原因で起きているもの”だという根拠にもなるのではないかと。ならばこれは味方として見るべきなのか、と、
(・・・・・・っ!)
しかし勇輝には背後のそれを味方と呼ぶことは躊躇われた。
それもそうだろう、今も後ろをひしゃげ、潰しながら追尾する現象をどうして安全だなどと思えるのだろうか。こうして追跡されている以上、足を止めて潰されない根拠がどこにある? 否、そんなものは存在しない。なら存在しない以上は蛮勇を発揮して危ない賭けに出るなんて行為は避けるべきだ。少なくとも自分達が逃げ延びて真相が分かるまでは気を許しては駄目だ。そう勇輝は自身の甘い考えを断ち切った。
「――――! あそこに・・・・・・!」
先を走るアリスの目線の先、一本道の最奥、行き止まりにも見える通路の壁に白い扉があった。どうやらあそこに逃げ込むということらしい。
息も切れ切れになりながら残った力を振り絞るように走り抜け、自動的に開いた扉の中へと勇輝は飛び込むように逃げ込んだ。そして部屋の中へ入るとすかさず扉付近の壁に設置されたパネルを操作してアリスが扉を閉めロックをかけた。
荒く呼吸を整えながら勇輝は考える。
扉自体はさほど分厚くはない。あれでは怪物の力ならば簡単にこじ開けることが出来てしまうだろうと。しかし少女はそんな彼の考えを読み取ったかのように大丈夫と、
「ここの扉は隠し扉になっていて一度中から閉じてしまえば収納された隔壁が扉を隠し通路側の左右の隔壁が上がるから外からはただのT字路にしか見えなくなるんだよ。だからこの部屋を知ってる人以外はここには入ってこれない。少なくとも見つかるまでは安全だね」
「でもさっきまで追いかけてきてたやつは?」
「あれは問題ないよ。それより――――」
言葉を切って歩き出したアリスに、つられるように彼は部屋の中を見回す。そして初めて、自分がいる場所の異質さを自覚した。
薬品臭で満たされた清潔感のある白一色の室内。大型船が丸々十隻は入ってもおかしくないほどの広大さ。だがそれすらもすぐに脳裏から失念するほどの違和感を放っていたのは、地面、両壁共に隙間なく規則的に配置された大きな繭状のもの。それは――――、
「これって・・・・・・大型VRDカプセル・・・・・・!?」
コンピューター内の仮想現実に潜り込む為のフルダイブ式大型VRD装置、通称コクーンだった。
しかし装置自体がここにあることはそこまで不思議ではない。何せここは研究施設、コクーンに関する研究をしていても何もおかしくはない。しかし問題なのはコクーン自体があることではなくその“数”が問題なのだ。
規則正しく設置されたコクーンはざっと見まわしただけでもざっと万はいくんじゃないかと彼は思った。それだけでも十分異質ではある。だがそれはどこか清潔感とは真逆のものを孕んでいるような気がしてならなかった。まるでそれは数多の亡骸を保管する霊安室のようで・・・・・・。
「ごめん、規則で部外者には口外しちゃいけないことになってるから詳しくは説明できないんだけど、ここはコクーンに関する大規模な研究をしていた場所でね、この奥に緊急時に“外”へ脱出する為の出口があるの」
「出口・・・・・・」
下へ下へと逃げていたのは脱出手段があるここにむかっていたからなのかと、彼女の後を追いながら彼は納得した。しかし、
「脱出するのは分かったけど、皆は・・・・・・? ここに避難してる人達もいるんだよね?」
「他の人達は大丈夫だよ。避難してる人の中にはここの職員の人もいるだろうし、騒ぎに気づけば緊急時の対応マニュアルに従って別ルートから逃げるはず。だから目下重要なのは怪物に目を付けられてる私達が逃げ延びることだよ。ここから出て安全な場所まで避難すれば研究所内に残ってる人達にリスクを避けて今起こってることを伝えられる。ここの職員だけが知ってる緊急時用の秘匿ダイヤルがあるからそれを使ってね」
こっちと彼女が手招きをする。コクーンが埋め尽くす広大で異質な空間を速足で歩いていくと突き当たったところにまた扉があった。壁にあるコントロールパネルでアリスがロックを解除し、先に彼女が中へと入っていき勇輝もそれに続く形で足を踏み入れる。
室内は先ほどまでの広大さとは打って変わって学校の教室程度の広さしかなく、薄暗い部屋の奥に巨大なモニターと多種多様かつ複雑なスイッチなどがびっしりと付いた大き目の長机ほどあるコントロールパネルがあった。そしてその左側、壁際に隠れるように一台電源が入っていないコクーンが置かれていた。
「ここは?」
「管理室。ここでさっきの場所の監視や機器類の制御を一手にやってたみたい」
旧式だけどねとアリスが肩を竦め苦笑う。
「どうするの?」
「アレを使って脱出するんだよ」
そう言って彼女が視線をむけたのは部屋の隅にある使えるかどうかも怪しいコクーンだった。
「これで・・・・・・?」
「そう、この一台は特別製でね。イディースが開発されるきっかけにもなったものなんだよ。簡単に言ってしまえばこれと同じ機体がある場所に瞬間的に転移できるの。一人ずつしか使えないイディースと思ってもらえればいいかな」
説明しながら一学生には手に余りそうな複雑怪奇なボタンを操作してコントロールパネルの電源を入れる。
メインシステムが立ち上がり部屋のあちこちから駆動音が漏れ聞こえてくる。そして慣れた手付きで素早くパネルに何かを入力すると側の使えるかどうかも怪しいコクーンの電源が点く。
「今から“外”に送るから、まずは君からね」
「それならアリスが先に・・・・・・」
「外は噴火が起こってるんだよ? いくら災害の中心から離れるといってもどれくらい広範囲に被害が出てるか分からないし、それに、先に女の子を行かせて安全を確かめさせるの?」
からかうような少女の言葉にようやくそこであっと気づき勇輝は慌てた。そんな意味で言ったんじゃなかったと。
「ち、違うよっ! そんなつもりは・・・・・・!」
「冗談だよ。私が残らないと誰も操作出来ないでしょ?」
言われてみればその通りだと彼は思った。
彼女が先に行けば確かに自分はここから逃げる手段を失ってしまう訳で、過熱した思考を冷まされる。最悪彼女だけでも逃げられればそれでいいとそう彼は思っていた。がしかしだからと言って自分の命を捨てたい訳じゃない。二人でここから逃げられるのならそれが一番であることに変わりはないのだ。
そうこうしている間にアリスがシステムの初期設定を終え、コクーンの搭乗口が口を開けるように上る。
「さぁ、乗って」
促されてコクーンの内部へと勇輝が乗り込む。コックピット部分はクッション性に優れた素材で出来ていてそこに身を預ける形となっている。座るというより仰向けに寝転がるに近い。
彼が乗り込んだことを確認し、アリスが再びコントロールパネルに入力するとコクーンの搭乗口が閉まる。外界からの干渉を絶たれ身を任せることしかやることがなくなった勇輝は少々緊張していた。
コクーン自体は知識として知ってはいたが個人が手を出すにはまだまだ値段が張る為実際に使うのはこれが初めてだった。それに加え彼が最初に使う機体は一般的に出回っているものとは全くの別物である特別製。経験どころか予備知識すらないものに身を委ねるというのだから程度の差はあれ誰だって緊張はするだろう。
彼の肩に妙に力が入っている間にもボタンを操作しながら同時進行でプログラムを手動で打ち込むアリス。
細かな調整は終えた。後はシステムに命令を入力し実行するだけ――――と、不意に彼女の視界の端に何かが映った。
監視カメラの映像。そこに映し出されているのは先ほどまで自分達がいた無数のコクーンが乱立する実験棟をいくつものカメラが見下ろす俯瞰した映像群。その左端、誰も入れないはずの実験棟内部の入り口で――――立ち止まり、監視カメラを見上げる侵入者の姿を――――、
「――――!!」
怪物は迷うことなくまっすぐに二人のいる管理室へとむかってくる。まるで二人の居場所など分かっているとでも言いたげに。
まずい、予想より早い――――アリスは打ち込む速度を上げる。
まだ実行する為のコードを入力し終えてない。遠隔で管理室のロックをかける。急ごしらえではあるがここの扉は他の部屋より頑丈に出来ている。あの怪物でもこじ開けるのには多少の時間を有するはずと。
打ち込みながらも少女は思考する。その時間とは一体どれほどかと。
10分? 1分? いや、きっと30秒とかかるまい。あの怪物の膂力の前では人間が作ったどんな耐久性のある扉だって意味をなさない。それでもないよりはマシだと彼女は思う。例え30秒に満たない時間だとしてもその数秒が救いになるケースも数多くあると。
祈りにもにた思考を、だが少女は否定する。
祈る時間などありはしない。出来ることはあの怪物があの扉を破る前にコードを完成させプログラムを実行することただ一つだけだ。彼女の指先に力が籠る。
そして彼女の異変に感づいた勇輝もその元凶を目に捉える、大型モニターの映像群に映し出された怪物の姿を。
少年は戦慄した、もう見つかったのかと。しかし真に戦慄したのは見つかったことに対する驚愕ではない。
実験棟を映すモニターの映像群の中、一歩一歩踏み締めるようにゆっくりとした足取りで歩く怪物の姿は、だがしかしまるで監視カメラの映像の中を移動しているかの如く映像から映像へと移っていく。それも歩調の速さと映像へと移り変わるスピードがどう考えても不釣り合いな速度でだ。
「――――アリスっ!!」
「分かってる――――!!」
高速でコードを打ち込みながら叫ぶアリス。その顔には焦りの色がはっきりと見て取れた。
一切の間違いなく入力する彼女の指裁きはすでに常人に真似出来る速さではない。しかしそれでもなお足りないとでも言うかのように、モニター内の怪物はゆっくりと、しかし尋常じゃない速度で映像群の中を次々に移動し、とうとう二人のいる管理室の前へと辿り着く。
コードを打ち込むアリスの背に衝撃音が響いた。どうやら扉をこじ開けようとしているらしい。鉄の塊が鈍く呻き、徐々に歪んでいく。生物がぶつかっているとは思えない音が室内に反響し精神を焦燥で塗りつぶしていく。
勇輝は少女を見つめる。間にあうのか? いつ扉が破壊されて怪物が入ってきてもおかしくはない状況だった。
このままだと二人共殺される――――ならせめて、
「逃げてアリス!! 君だけでも!!」
「大丈夫!! 後少しだから!!」
そんなことは出来ないと彼の言葉を聞き流しながらコードを打ち続ける。だがその間にも刻一刻とタイムリミットは迫り来る。
「ダメだ、間にあわない!!」
「間に合わせる!! 後ちょっとで・・・・・・!!」
響く衝撃音。扉が更に歪む。
歪む、歪む、歪む。
「アリスッ!!」
「・・・・・・・・・・・・っ!」
もう限界だ――――誰が見てもそう思えるほど歪み切った扉。勇輝は最悪の結末を覚悟した。
「――――出来たっ!! プログラム実行――――10秒ッ!!」
Enterキーを打ちプログラムを奔らせる。
《――――管理者権限で緊急措置プログラムを実行します。復元処理後バックドア起動プロセスに移行します――――》
抑揚のない機会染みた音声が室内に響き彼女の書いたコードが正常に作動したことを知らせる。
これで彼を逃がせる。そう胸を撫で下ろしたアリスは――――気付く。
音がしない。先ほどまで響いていた強烈な衝撃音が止んでいた。
まさか――――最悪の予想にアリスは振り返った。既に扉は破られてしまったのかと。
しかし彼女の予想とは裏腹に扉は紙一重のところで留まり破られてはいなかった。けれど彼女が気にしたのはそこではない。
(いない・・・・・・?)
先ほどまで扉の前にいたはずの怪物の姿が綺麗さっぱり消えていた。
一体何故・・・・・・? 疑問に思い確認する為に扉へ近づこうとした。その時だった。
「――――アリス危ないッ!!」
勇輝が叫ぶ。直後、頭上から鉄の塊が落ちて来た。
咄嗟にアリスは飛び退く。次の瞬間には彼女のいた場所に深々とそれは突き刺さっていた。
それは剣だった。西洋作りの分厚い直剣。そしてそれを振りかざし降って来たのは鉄の塊などではなく、先ほどまで扉を力づくでこじ開けようとしていた怪物の姿だった。
どうやって? その疑問はすぐに分かった。
さっきまで少女がいた場所の真上、そこには強引に破られた痕跡のある換気用の通気口があった。
(まさか、あそこから入って来たっていうの・・・・・・!?)
怪物の膂力は把握しているつもりだったアリスだが、しかしその予測を遥かに上回る出鱈目っぷりに驚きを隠せなかった。
それも当然だろう。換気用に設置された通気口は小さなネズミぐらいが何とか入れるほどの大きさしかなく、当然人間が入れるようなスペースは存在しない。だがにも関わらずこの怪物はその通気口を通って侵入してきたのだ。それも“自身の身体を軟化させて”。
その出鱈目な能力を以て侵入を果たした怪物を前に、尻餅をついたままアリスは引きずるように後ずさりコントロールパネルにぶつかった。これ以上は下がれない。退路はとうに塞がれた。逃げ道はない。怪物が口元を歪ませながらゆっくりと近づいていく。まるでメインディッシュを味わうかのように。
「どこ見てるッ!! お前の狙いは俺だろうッ!! 俺はここにいるぞッ!!」
コクーンの中から扉を叩いて勇輝が叫ぶ。
この怪物は元々自分を狙っていたはずだ。だからこっちの存在に気づけば彼女より身動きの取れない自分の方に優先的に来るはずだ、と。しかし、
(何で・・・・・・!?)
怪物は彼に一瞥をくれるとにやりと嗤いアリスへとむかって行く。
何故? どうして? 怪物の予想に反した行動に混乱する彼は、そこでようやく気付く。
(もしかして、見てろってことなのか・・・・・・!? 彼女が無残に殺されるところを、ここで・・・・・・!?)
そう、怪物は最初から彼の存在に気づいていた。
気づいた上で最も自分が“愉快”だと思う方法を選んだのだ。つまりは“親しい人間が殺される様を無力感に苛まれながら見守らせる”という方法を。
「くそッ!! 開けッ!! アリスッ!!」
搭乗口の扉を何とかこじ開けようと身体をぶつける。しかし非力な彼の力ではびくともしない。
《復元処理完了。バックドア起動まで10秒――――》
緊急脱出の準備が整ったことをアナウンスが知らせる。
しかし一人だけ逃げてどうする? 彼女を見殺しにするなんて絶対に駄目だ!! 勇輝は痛む身体を無視して体当たりし続ける。けれどやはり開かない。その間にも少女と怪物の距離は縮まり、彼女の目の前まで迫っていた。
臆することなく睨む少女にむけて、ゆっくりと、怪物が剣を振り上げる。
それはさながら断頭台にかけられる罪人に罪を省みさせる為のほんの僅かな執行猶予のようで、
システムのカウントダウンが響く中、勇輝は――――――――叫んだ。
「止めろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
《一、零――――バックドア、起動》
「――――ログアウト――――!!」
瞬間、勇輝の身体を衝撃が襲った。突然何か巨大なものに衝突されたような衝撃が。
痛みはない。しかしそれは抗いようのない強烈な衝撃で、少年の身体が後ろへと倒れていく。
その刹那の中、まるで自分が何人にも分裂したかのような乖離感を味わいながら、薄れゆく意識で彼が最後に見たのは――――――――何かを叫んだ少女の姿と――――――――獰悪に嗤う怪物が、凶器を振り下ろす狂態だった。