栞
バス停の小さな待合室で小説を読んでいると、雨が降ってきた。
トタンで出来た簡単な作りの屋根を、トトトと無数の雨粒が小気味よく叩く。
「ひゃー、急に降ってきちゃった」
そう言いながら扁平な鞄を笠に、高校生が待合室に駆け込んできた。
「あ、姉ちゃん」
息を整えているその人は、3つ年上の姉だった。
「あれ、航!今帰り?」
「うん」
僕は読みかけの小説に栞を挟み、何気なく本を閉じる。
けれど姉ちゃんは栞を見て、すっと目を細めた。
「その栞、まだ持ってたんだ」
見咎められたような気持ちになるが、堂々と言う。
「そりゃね。捨てられないよ」
「ふーん、そっか」
その表情から姉の気持ちを読み取ることはできなかった。
青い小さな花びらを押し花にしてつくった栞は、生前母が僕にくれたものだった。
母は読書が好きな人だった。そんな母の影響から、僕も小さな頃から本を読むのが好きだった。
「澪はあんなに走るのが好きなのに。航はきっと私に似たのね」
母は姉と僕を見比べて、時々そんなことを言った。母は僕たち姉弟を平等に愛してくれたが、家族の中でも僕だけが母さんに似ているらしいことを、僕は誇りに思っていた。
「母さん、もういないんだよ」
降り頻る雨の合間に、ポツリと姉が零した。
「知ってるよ、そんなこと」
言葉の通り僕は知っていた。母がもういないことも、中学に上がってからというもの友達も作らず本ばかり読んでいる僕を、姉がひどく心配してくれているということも、苦しいほどわかっていた。
「その栞もさ、使ってて辛くないの?」
本から飛び出た赤いリボンを一瞥しながら、姉が言った。
思わず本を握る手に力が入る。
数年前、母さんは死んだ。癌だった。
「そんなに気に入ってくれると思わなかったわ」
僕は母が病室で作ったという青い栞を少しでも眺めていたくて、わざわざ本を持ってきて出したり挟んだりしていた。そんな僕の様子に母さんは笑っていた。今思えば、母の最後の笑顔だった。
その晩に、母の容態は急変し、そのままこの世を去った。
結局、僕だけが母さんが癌であるという事実を知らされてなかった。
僕だけが母さんの苦しみを、恐怖を理解しようとする時間すらも与えられないまま、別れを告げなければならなかった。
以来、僕の時計は止まってしまった。母と過ごした日々を、同じページを繰り返し読むように何度も何度も反芻した。
僕の記憶の栞は、同じページに挟まったまま前に進むことはなかった。
雨は降り止まない。バスもしばらく来なそうだ。時折、横ぎる車が時雨の静寂を切り裂いていく。
僕は本を開き、手に触れず栞を眺めた。美しい青。雨の日に一層映える色。
姉が横目で栞を見ている。彼女の目にはどのように写っているのだろうか。
ふいに、残酷な風が吹いた。雨脚が一気に強まる。
「あ」「あ!」
僕たちは同時に叫んだ。栞が風に飛ばされる。
咄嗟に手を伸ばすが、すんでのところで空を切った。
勢いに任せ、僕の体は雨に泥濘む道路に飛び出していた。
「航!危ない!」
姉が叫ぶ。栞に手を伸ばした僕を、バイクの眩い程強いライトが照らし出す。
栞がスローモーションで飛んでいる。世界から余計な音が消える。
目前にまで迫ったバイクと恐ろしい程大きな警笛に打たれ、僕の身体は硬直してしまっていた。
遠くで母さんの声が聞こえた気がした次の瞬間には、右手を物凄い力で強く引かれ、僕は待合室の地面に突っ伏した。
過ぎ去ったバイクに煽られながら、青い栞はひらひらと力無く飛び、雨で流れに勢いがついた側溝に落ちるとそのまま濁流に呑まれてしまった。同時に世界に再び雨や水の音が戻ってくる。
「あんた何やってんの!」
姉の怒声が頭に響く。
「お願いだから危ない真似しないで、自分を大切にして。あんたまでいなくなったら、私どうすればいいの……」
膝から崩れ落ちた姉は、泣いていた。
「でも、母さんの栞が……」
なくなってしまった。母さんとの大事な思い出が。僕と母さんを繋ぐ唯一の物が水に流されてしまった。
「……何言ってんの。あんたの命に比べれば、栞だって、」
呆れたように言う姉ちゃんの言葉を途中で遮った。
「でも忘れちゃうよ!栞が無いと、僕はきっと忘れちゃう。母さんの声も、姿も、どんな事を話したのかも、僕が大人になる頃にはきっとあやふやになって、はっきりと思い出せなくなるよ!僕は忘れたくないんだよ……忘れてしまうのが怖い」
不意に恐ろしく悲しくなって僕は目を伏せ、俯いた。我慢しても涙が零れた。
しばらく黙った後、姉ちゃんは噛んで含めるようにゆっくりと話した。
「忘れたってね、いいんだよ。航は前に進まなきゃいけないの。母さんだってそんなこと望んでなんかいない。母さんは航に幸せになってほしいっていつも言ってた。だから、栞はもういいんだよ」
「でも」
僕はこれからどうすればいいの。思わず、僕はそう呟いていた。
制服の泥を落としながら立ち上がった姉は、
「明日を大事にすればいいんだよ」と言った。
それから「簡単でしょ?」と僕を見下ろして笑った。
ようやく、のろのろとバスがやって来た。ガシャンと停車し、自動ドアが勢いよく開かれる。
「さあ、帰ろう?」
姉ちゃんはステップに足をかけてまま振り返ると、僕に右手を差し出した。
「……うん」
僕も右手を伸ばす。雨に濡れて冷えた僕の体とは反対に、姉の手はとても温かった。