閑話 私の王子様
「嫌だ! 絶対に嫌だからね!」
「ちょっ、待て! 待つんだセドナ!」
四十歳のおじさんと婚約なんてありえない!
お母さんの制止を振り切り、私はお城を飛び出した。
海の中を泳ぎ、泳ぎ、泳いでいく。
「お母さんのバカっ!」
お母さんが言っていた縁談相手の人魚は忘れもしない。
パリノ公爵の結婚パーティーに行った時、会場で私を舐めますようにして見ていたおじさんだ。
思い出すだけでも背筋が凍りそうになる。
「なんであんなのと……」
お母さんだって、あのおじさんが私にいやらしい視線を送ってきてたのを知ってるはずなのに……。
なんでッ……。
「あんな……あんなおじさんと結婚しなきゃいけないのかな……」
私は、ある絵本が好きだった。
いつでも、どこでも、どんな時も、お姫様を守ってくれる王子様の話。
特にお気に入りの部分は、お姫様に向かって飛んでくる矢を王子様が防ぎ、颯爽と敵を倒す場面。
王子様のセリフ――
―――俺から離れるなよ。
――この言葉が似合う人魚じゃないと、私は絶対に婚約しない。
そう、心に決めているんだ。
それなのに……。
「―――ッ!」
突如現れた、巨大な山のようなもの。
だけどその山からは八本の触手が生えている。
その生物の名は――
「クラーケン……」
――大昔から海で恐れられている、海の怪物。
クラーケンは、あらゆるものを吞み込んでしまう。
あらゆるもの……そう、人魚も……。
クラーケンに出会ったら、すぐに逃げろ。
お母さんが、昔よく言っていた。
「に、逃げなきゃ……」
幸いにも、私は小さいからまだクラーケンに気づかれていないみたいだ。
私は身体強化を使って、全力でその場から離れた。
ゆっくりと目を開ける。
私は今、砂浜にいるみたいだ。
辺りは真っ暗で、もう夜みたい。
……どうしてこんなところにいるんだっけ?
「……」
……そうだ、思い出した。
クラーケンから逃げてたら、いつの間にか陸地にたどり着いたんだ。
でも、魔力が切れちゃって……。
……帰らなきゃ。
「んーーっ」
ぐーっと伸びをする。
そして、周りを見渡し――
「『ウォーターランス』!!」
私は、近くにいた人間に水魔法のウォーターランスを放つ。
だけど、人間はあっさりと私の魔法を防いでしまった。
「ふざけんなッ! 殺す気か!」
目の前の人間が、人魚族の言葉で叫ぶ。
「な、なんで人族が人魚族の言葉で話せるの!?」
「……何言ってんだお前? 俺はお前がそこで倒れてたから来てやっただけなんだけどな……」
人族が人魚族の言葉を話してる……。
……そんなことよりも、私が倒れてたからここに来た。
確か、そう言ったわよね……。
「さっきはごめんなさい。人族って私達人魚を捕まえて奴隷にしようとするやつらばかりなの」
お母さんが言っていた。
人族は危ないから近づくなって。
「俺はお前を見つけるまで人魚が存在していたことすら知らなかったぞ」
「この近辺の人間なら知ってるはずだけど……」
「俺は王都から来たんだ。この辺りのことは全く知らない」
人魚を知らない?
どこの海にもいるはずなんだけど……。
「どうしてお前はずっとこんなところで寝ていたんだ?」
人間に聞かれ、私は言葉が詰まった。
「えっと……」
縁談が嫌で家出したって言ったらなんて言われるかわかんないし……。
「家出してきちゃったの。でも帰り道がわからなくて……」
結局、縁談のことは伏せて、家出の部分だけを伝えることにした。
このことを話すと、人間は少し驚いた表情になった。
「家出して適当に泳いでたら帰り道がわからなくなったってところか?」
「そう……」
適当に話を合わせていると、人間は腕を組んで悩み始めた。
少しして、人間は何かを決めたようで、「よしっ」と呟く。
「これから少し集中する。周囲の警戒を頼んでもいいか?」
「えっ? 何するの?」
質問すると、人間は「見てればわかる」と言って、私に背を向けて海の方を向き目を瞑った。
「クソッ!」
突然、人間がこっちを振り向きながら叫ぶ。
―――カンカンカンッ!
直後、私の背後から甲高い音がする。
後ろを見てみると、私のすぐ近くに矢が落ちていた。
「えっ?」
驚いた私は、突然の出来事に尻餅をつく。
「…………」
人間が私の前に出て、注意深く近くの森の中を観察する。
しばらくすると、四体の醜い生き物が現れた。
絵本で見たことがある。
あれはゴブリンという魔物だ。
ゴブリン達が、ニタニタといやらしい笑みを浮かべながら近づいてくる。
……まるで、私に縁談を持ち掛けてきたおじさんみたいに。
人間がちらりと私の顔を見る。
私達人魚は、周りが暗くても意識すればしっかりと周りが見える。
この時、私は初めて人間の顔をちゃんと見た。
「……っ」
その人間の顔は、絵本に出てくる王子様の顔と瓜二つだった。
腰まで伸ばした銀髪と蒼色の瞳に、透き通るような白い肌。
息を呑むほど整った容姿。
どこからどう見ても、絵本に出てくる王子様、その人だった。
「俺から離れるなよ」
そう言いながら、人間が私から視線を逸らす。
「うん……」
私がそう返すと、突如、人間の目の前に巨大な刃が現れた。
その刃は、瞬く間にゴブリン達の体を上下に切り離す。
でも、一体仕留めそこなったみたいだ。
生き残ったゴブリンが、人間に向かって突進してくる。
「おい、目を瞑っていろ」
人間の指示に従って、私はギュッと目を瞑る。
少しして、ベキベキ、ブチブチと何かが潰れる音がし始めた。
その音が気になって、私は少し目を開ける。
視界に入ってきたのは、透明な壁に押し潰されていくゴブリンの姿だった。
―――目を瞑っていろ。
さっき、彼が言った言葉。
多分、彼はこの残酷な光景を私に見せたくなかったんだろう。
ゴブリンが彼の手と同じくらいの大きさになったところで、ようやく透明な壁はゴブリンを押し潰すのをやめた。
「終わった……ぞ?」
彼がこちらを振り返る。
―――トクン。
心臓が大きく跳ね上がる。
振り返った彼は、まさに私の理想の王子様だった。
その瞬間、私は確信した。
間違いない。
彼が私の運命の人―――私の王子様なんだ。




