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終章  作者: 野原いっぱい
光あるところに陰もあり
8/16

東海岸(三)


挿絵(By みてみん)


*****

【三十台のニューヨーク市長誕生】


【弁護士出身の新人が現職を破る】


【将来の大統領候補ダニエル・ポーター勝利】


ダニエル・ポーターは届けられた新聞各紙の見出しを指さし会心笑みを浮かべている。

周囲に彼の妻、両親、子供たちが取り囲み喜び合っている。

前日は選挙本部に終日待機し開票状況を見守ったが、当確の報が入るや詰めかけた選挙スタッフや支持者と一緒に歓喜に沸いた。

もちろん報道陣の取材攻勢も盛んで、マイクを向けられるたびに現在の心境や今後の抱負についての発言を繰り返した。

選挙に臨んで自らの公約を既に明らかにしているが、全力で取り組む決意をあらためて強調したのである。


そして、お祭り騒ぎの投票日から一夜明け、最寄りのホテルの一室に家族が集まり久しぶりの団欒の機会を持った。


「見てダニエル。この新聞の何面かは全てあなたに関する記事よ。写真も大きく載せているわ」


母親が言うと、父親も口を挟んだ。


「それは当然だろう。ニューヨーク市長と言えばアメリカでは大統領に次ぐタフな職務だと言われているからな。それだけにメディアから脚光も浴びるし人々から注目を集めることになるよ。これからが大変だぞ」


「パパの言う通りだよ。僕も覚悟は出来ているさ。今日から新たに気を引き締めていくつもりなので皆の協力お願いするよ」


ダニエルが応えると妻もうなずいた。


「もちろん私たちもそのつもりよ。私もあなたの妻として恥じないよう心掛けて協力していくわ」


傍らで新聞に目を通している中学生の息子が言った。


「こんな記事が出てるよ。『ダニエル・ポーターの当選はニューヨークにとって新たな時代の幕開けとなった。史上最も若い市長の誕生であると同時に、弁護士時代から定評のある行動的な気質は、斬新な変化を求める人々の待望でもあった。一方でバランス感覚にも優れており、彼には偉大な政治家を輩出したアイルランド移民の血と人権尊重に力を注いだ黒人の血が流れている』」


小学生の娘も笑顔を振り向ける。


「じゃあパパが当選したのもおじいちゃんやおばあちゃんのおかげかもしれないね」


父親が笑いながら首を横に振る。


「そんなことないよ。やはりダニエルの才能と努力があってこその勝利さ」


その時、ダニエルの携帯が鳴った。特定の人間しか知らない番号である。


「姉さんからだよ」


ダニエルには大学講師で歴史学者でもある姉がいた。彼女の夫は実業家で今回の選挙資金の拠出元でもあった。


「やあ、姉さん。やっと終わったよ。昨日は義兄さんにも会って礼を言っておいたよ」


「ハーイ、ダニエル、おめでとう。昨日は大勢の人との応対で大変だと思ったから遠慮したのよ。うちの家族も皆喜んでいるわ」


「ありがとう。また近いうちに会いたいな。今もパパやママ、家族と話していたんだよ。これからが正念場で皆の力を借りなくちゃならないこともあるだろうって。姉さんにもバックアップを頼むかもしれないよ」


「ええ、いいわよ。なんでも言って。出来ることはなんでもOKよ。ところでダニエル。例の件本腰を入れて調べてみようと思うのよ。覚えてる?」


「ああ、我が家のルーツについてかい」


「選挙期間中は何が飛び出してくるかわからないから止めておくようにってパパから釘を刺されたけど、新聞の血筋云々の記事を見て改めて思ったの。私たちの祖先の真実の姿を知りたいって。私も一応歴史学者の看板を背負っているわけだから、一番身近な過去を調べることが必要だと思ったわけよ。だから選挙も終わったことだし、一応あなたに断って取り掛かろうと思うの。もちろんこのことは他の誰にも話していないわ」


「僕は構わないよ。でも何か分かったことがあれば知りたいな」


「もちろん、あなたに真っ先に知らせるわ」


「でもどこから手をつけるんだい。あまり昔のことになるとパパやママも知らないだろうし、資料も残っていないんじゃないかな」


「とりあえずパパの方の係累からよ。遠い親戚に手紙が残っているのよ。これから行ってみるわ。今から百五十年前のことよ」


******


アメリカは多人種国家である。

十七世紀以降イギリス人のバージニア入植に始まり、西欧、北欧系の人々が新天地に渡来して定着していく彼らは多くはプロテスタント系で十九世紀に入ると西漸運動を展開し西海岸にも進出する。

更にアイルランドでジャガイモ飢饉が起こると祖国の貧困から逃れるため年間百万単位の人々が移住するようになる。

また、アヘン戦争で敗れた中国からも労働力確保のために連れて来られるようになる。

アフリカから奴隷として連行された黒人、本来の住人であったインディアンも含め、自由の国アメリ

カは『人種のるつぼ』と言われるようになる。


チコは今日も街中を目ぼしい獲物を捜して歩き回っていた。

なんでもいいから、とりあえず収穫しないと、手ぶらでは家に帰れないのだ。

家といっても掘っ立て小屋で誰も住んでいないからねぐらにしただけのものであるが、一応そこに爺さんが待っている。

爺さんは戦利品がないとさぼっていたと言ってガミガミ怒るのだ。

時にはひっぱ叩かれることもある。

そのような時はしょげてしまうが、逆に思いもよらない高価な物を持ち帰ると大層褒めてくれる。

チコはそれが嬉しいのだ。


チコが建物の柱の陰から、人通りの多い道を隔てた反対側の店先に長椅子があり、老女が荷物を抱えて座っているのをじっと見ていた。

彼にとってはうってつけのカモであった。

そのままチャンスを窺っていると、前方の空き地で大道芸人が楽器を鳴らしながら人集めを始めた。

これはチコもおり込み済みで、老女は荷物から手を放し、腰を浮かして眺め出した。

と同時にチコも前方を眺めるふりをしながら、何食わぬ顔で老女に近づく。

そして人々の目が芸人に注がれている隙に荷物に手を掛け、周りに用心しながら持ち上げ、ゆっくりと後方に移動していく。

そして横道に入ると一気に駆け出し、あらかじめ決めてある安全な場所に辿り着く。

そこで荷物の中身を検め、必要なものだけを抜き取るのだ。


「今日はこれくらいでいいかな」


どうやら満足したようで、爺さんの顔を思い浮かべながら帰路を急いだ。

途中、大通りの方で騒いでいる声が耳に入ったがほとんど関心を引かなかった。


チコには肉親は爺さんしかいなかったし、幼い頃から二人だけで暮らしている。

はるか昔に女の人に抱かれた記憶がわずかにあるものの、顔は全く思い出せなかった。

物心ついてから両親のことを尋ねるとどちらも死んでしまったという。

ただ、死んだ理由は曖昧で爺さんも触れたくないようだった。

チコにとって爺さんは育ての親であると同時に、生きていく術を学ぶ師匠でもあった。

爺さんはチコ以外の誰にも言えない特技を持っていた。

即ち、すり、万引き、置き引き、空き巣、詐欺等々の犯罪行為。

いわゆる人の持ち物を察知されずに盗む技である。

比較的楽な正業に就くこともあるが、生活の支えはこの副業にあった。

チコが幼少の折りは、単独の行動であったが、大きくなるに従って二人の共同の作業となった。

もちろん初めの頃、主は爺さんが金や品物を盗み取るのだが、チコはお手伝いや囮の役目をするようになった。

むしろ子供づれで相手の用心が甘くなり、仕事がし易くなることもあった。

ところが、チコも手口を教えられて技を身につけるようになると、爺さんの肩代わりをするようになる。


ただ、この稼業では長期間同じ場所に住み着くことは難しい。

気を付けてはいても、次第に周りから怪しげな目で見られるようになる。

従って二人は各地を転々と渡り暮らすようになる。

移動の手段は船が一番手っ取り早かった。

貨物船や比較的大きな連絡船に紛れ込めば次の港町まで足を使わずに連れて行ってくれるのである。

たいがい港の近くに、ある程度の規模の町があり、またしばらくの間住み着くこととなる。

初めての町でも爺さんは長年の経験で腰を落ち着ける場所を見つけるのに造作なかった。

倉庫であったり廃屋であったり寝られさえすれば頓着しなかった。

そして次の日からカモとなるターゲットを捜し回るのである。

チコにとってそれはあたりまえの生活であった。


ところが今の町に来てから、爺さんは病に侵されて寝付いてしまい、住み家から出られなくなってしまった。

もう相当な年で今までの無理がたたったようである。

おのずと稼業はチコ一人にゆだねられるようになる。

もはや経験も積んでおり単独行動にも慣れてなんら支障はなかった。

更に子供の有利さを大いに生かして盗みを繰り返した。

ある日、チコが住み家に戻って来て、爺さんに声を掛けて見ると、返事がなかった。

チコが爺さんの側に寄ると、全く動かず息もしていなかった。

さすがに死んでいることは理解できた。

チコは悲しみよりも頭の中がパニックに陥ってしまった。

そして懸命に自分が今なすべきことを考えた。

そして、しばらく頭を巡らし出た結論は、少しでも早くこの地を去ることであった。

そう思うと居てもたっても居られなくなった。

チコは自分を育ててくれた爺さんを弔う方法を知らなかった。

ただ部屋の中を見渡し、食料や必要なものをかき集め、荷袋に詰めて戸を開け表に出た。

そして一度振り返ったが、あとは一目散に港を目指した。


息を切らして桟橋に辿り着くと人だかりがあり、その前に大型船が接舷していた。

丁度船に乗り組む人と見送る人々が集まっていたのだ。

これはチコにとっては幸運であった。

船がどこに向かうのかは重要ではなかった。

今までもそうだったが、行先を告げられても知りもしなかったのだから。

とりあえず乗船すればよかったし、事実、人込みにまぎれて乗り込むことは簡単に出来た。

そして、あとは今までと同様に船内の目立たない場所で、目的地に着くまで息を凝らして座っていればいいのだ。

そして船は出発の汽笛が鳴った。

ところが、長時間過ぎても、一向に到着する気配がなかった。

船底客室の板間の隅で大人しくしているチコも何度も用足しに行く必要があった。

持ってきた食べ物も底を尽いてしまった。

もちろん乗車券がないため、食料の配給はなかった。

まさか狭い船内で盗みを働くわけにはいかない。

ただ、乗り合わせた親切な家族が食べ物を分けてくれて、なんとかひもじい思いから逃れることが出来た。幸い船旅は経験豊富だったため、多くの人々が船酔いに苦しんでいるのに対して、全くその心配はなかった。

ただ、乗客の会話は半分くらいしか理解できなかった。

チコ自身、生まれた国も言語も、もちろん文字も知らなかった。

ただ、爺さんが喋った言葉が判断の基準で、あとは今まで行った町で自然に耳に入った単語を覚えているにすぎなかった。

客同士の話の内容から、「アメリカ」とか「ニューヨーク」と言っているのがよく耳に入ってきた。

そして、かなりの日数を経てようやく目的地に到着した。

接岸の少し前から、乗客のほっとした様子がチコにも伝わり、胸を撫で下ろした。

あとは、いつものように客が船から降りるのに紛れて付いて行き、速やかに新しい町に入り込むだけである。

そしてついにその時がやってきた。

錨が下ろされた後、ハッチが開かれ乗客が降り始める。

ところがいつもと明らかに雰囲気が違っていた。

桟橋に下り始めた乗客に笑顔が溢れ歓声が上がり始めた。

いずれも「自由!自由!」と叫んでいるのである。

外気も温かく、目に飛び込んできた町の風景も新鮮に思われた。

チコは嬉しくなってしまった。

皆が待ち望んでやって来たことが胸に伝わってくる。

そして、チコも新天地に足を一歩踏み出した。


アメリカ合衆国の製造業の発展に伴って、地域社会に市場経済が浸透し、従来の家族経営体から資本主義企業へと移り変わっていった。

それに伴って社会階級も変化し経営者即ち資本家に対して、労働者階級が形成されるようになる。

又、個人の生活レベルを意識して中産階級文化も出現するようになる。

一方で労働者としての権利確保、労働条件の改善を図るため、職種を超えて組織化されていく。

そして世界史上初の労働者政党が生まれるが、各都市の個別業種の組合でストをはじめ労働運動が活発になっていく。

最も大きなものとして「大動乱」と呼ばれる大鉄道ストライキが勃発し、労働者と州兵・連邦軍の争いに発展。

多くの死傷者が出るに至った。


チコがニューヨークにやって来てからかなりの日数が経つ。

その間にねぐらも確保し、街の中心部を歩き回りひと通り道路や建造物等の詳細を頭に叩き込んだ。

死んだ爺さんから、稼業を成功させるには町の地理を正確に覚えることが重要だと聞いていた。

そのため、今回初めて一人で見て回ったのだが、それにしても大きな街だとつくづく思った。

ただ、食べ物はさしあたり入要であるため、露店での万引きは早々に行っていた。

金銭や金額の張る品物を盗むにはもう少し慎重に立ち回る必要があったが、今までの経験をもとに少しづつ手掛けていった。

チコが注意深く観察すると、この界隈で何人か同業者がいるようだった。

もちろんいずれも目上の人間であったが、決して係わらないように心掛けた。

予想もしないことから足が付く恐れがあり、単独での行動に徹した。

そして順調にこの地の生活に溶け込んでいくはずであったが、やはりいつまでも犯罪を隠し通せるほど甘くなかったのである。


夕刻、あたりが暗くなった時間帯である。

街の中心部にある目抜き通りには街灯が点灯しはじめたが、人通りも多かった。

帰路を急ぐ者、誘い合って飲食や娯楽に繰り出す者等、様々であった。

一人の勤め人と思われる年配の男性がバッグを抱え千鳥足で歩いている。

かなりアルコールが入っているようで足元がおぼつかないようだ。

そして、一軒の店先に置いてあるベンチの前で止まり、座り込んでしまった。

目をつむり頭が前後に揺れている。

睡魔に襲われている様子でバックから手が離れてしまった。

そこに何食わぬ顔で少年が近づく。

チコである。

チコは周りを警戒しながらベンチの横に立った。

そしてバックに手を伸ばし引き寄せ、すぐにその場を離れるつもりだった。

ところが、背後から伸びて来た手に、首の襟を捉えられてしまった。


「待つんだ、このヤロー。罠に嵌りやがったな」


眠っていたはずの男性が起き上りチコを強引に手繰り寄せた。


「捕まえたぞ小僧。お前だなここで何度も盗みを働いてたのは」


チコはバックを放り出し逃れようと暴れた。

今までは爺さんが割って入ってくれたが、もう自分で何とかする以外なかった。

けれども男性の力が強く逃れることは不可能だった。

チコは振り向き咄嗟に男性の手首に噛みついた。


「痛てえ!」


男性の手が離れ、チコは必死で走り出す。


「おい、そっちへ行ったぞ!」


チコの前に別の男性が現れ、チコは引き倒されてしまった。

その際、地面に顔を思い切りぶつけてしまった。更に先ほど噛みついた男性も近づき足で蹴飛ばされる。


「小僧のくせにふざけたヤローだ許さんぞ」


無理矢理起こされて顔を何度も殴られる。

大人二人に捕らわれて、もはやチコは抗うことも叶わなかった。通行人もこの騒ぎに気がつき遠目に見ている。


「こいつは常習者だ。二度と出来ないようにしてやる」


そう言いながら男性はチコの右手を地面に押さえつけ、持っていた金具で叩きつけた。


「ギャー!」


強烈な痛みに耐えかねチコは悲鳴を上げる。

二人がかりで暴れるチコを押さえ一人が再び金具を振り上げた。

その時一人の女性が声を張り上げながら走り寄ってきた。


「待って!止めて!」


男性はその女性に気づき腕を上げた状態のまま言った。


「こいつは盗人だ。何人もの人間が被害に遭ってるんだ」


女性が言い返す。


「だからといって乱暴することはないわ。まだ子供よ」


男性は何か言おうとして相手を睨んだが、女性の顔を見た瞬間、目が瞬く。

再び女性が言う方が早かった。


「まあ、顔が腫れているし血も出ているわ。小さい子にやりすぎよ」


「だけどお嬢さん。このガキは放っておくとまた盗みを繰り返しますよ」


男性は言ったが、明らかに口調が丁寧になっている。

女性は少し間を置き答えた。


「だったらその子私に預けてもらえないかしら。もう二度とさせないようにするから」


更に付け加えて言った。


「私の名はナミ・ジョンストンよ。二丁目のバードハウスに住んでいるから」


「ジョンストンってもしや?」


「母の名はエイミーよ。一緒に住んでいるわ。父はフランクだけどもう亡くなったわ」


男性は驚き、腕を下ろして幾分困惑気味に言った。


「ああ、そういうことなら任さざるを得ないな。ただ俺たち有志は何も好んでやっているんじゃないんだ。最近移民をはじめ多数の人間がこのニューヨークに流入してきて治安が悪くなる一方なんで、俺たちもパトロールして少しでも市民の役に立とうと思ってるのさ。そこのところをわかってほしいんだ」


「ええ、良くわかっているつもりよ。もし私たちに出来ることがあれば言ってほしいの。協力するわ。でも行き過ぎた暴力はだめよ」


「ああ、少しやりすぎたようだな。噛みつかれて頭に血が上ってしまったんだ。今後気を付けるよ。じゃあ任せたよ」


と男たちはチコを放してその場を離れて行く。

代わりにナミが心配そうに近づく。


「ジョンストンって誰なんだ?」


「ああ、昔俺が学校で教えてもらった担任の先生さ」


と男たちが言っている声を耳にしながら、倒れているチコにナミが覗き込む。


「どう?大丈夫?」


チコは顔といい体中痛みが走り呻き声を上げるのが精いっぱいであった。


「まあ、酷いわ。このままじゃあいけないわ。とりあえず私の家で手当しましょう」


もちろんチコには拒む理由はなかったし何と答えていいのかもわからなかった。

ただ、このような目に遭ったのも生まれて初めてだったし、親切に声を掛けてもらうのも初めてであった。何よりも自分一人では立てそうもなく、手を貸してもらってついていく以外選択肢はなかった。

途中激痛で泣きそうになり、何度か屈み込んだが、ナミは辛抱強く抱え励ましてくれた。

そして長時間掛けて辿り着いた先は、4階建ての集団住宅であった。

どうやらナミの住いは最上階にあるようだ。

ゆっくり階段を上がっていくと途中の部屋から顔を出した住人から声が掛かる。


『ナミ、お帰り。今度は男の子を連れて来たのかい』


『やあナミ、一人では大変だろ。わしがその子をおぶってやるよ』


『まあ、その子酷い傷だね。2階にいる藪医者に声を掛けてきてあげるよ』


ナミは顔見知りが多く、皆好意的であった。

そして、部屋に入ると年配の女性が出てきて驚きの声を上げた。


「まあまあ大変、傷だらけじゃないの。こちらのベッドに寝かせなさい。とりあえず消毒しなくちゃあいけないわ」


と怪我の理由も聞かずチコをベッドに横たえた。

そしてテキパキと布や水を用意しチコの破れた服を脱がせた。


「下のお医者さんにも声を掛けてもらったの。すぐ来てもらえるはずよ」


「そう、それは助かるわね。痛いでしょうね。でももう少しの辛抱よ」


確かにチコの痛みは相当なものだったが、不思議と心は満たされていた。

今までこれだけ多くの人に気遣ってもらうのは初めてであった。

しかも耳に届く声の全てに温かさを感じる。

そのチコの腫れぼったい目に光が飛び込んできた。再びナミが近づき顔を寄せて来る。

そしてやさしい声を再び耳にした。


「もう大丈夫。私もいるし、エイミーもいるから」


今まで暗くてよく見えなかった輪郭がチコの瞳に映っている。

なんという美しい女性だろう。

これほど整った顔の女性を見るのはチコにとっては生まれて初めてであった。

まさに女神に出会った気分であった。



アメリカはキリスト教国家であり、初期の入植者の信教がプロテスタントであったのに伴い主流となっていくが、その後の非移民先の宗派によって教義や教会運営が異なり多様化していく。最も人口の多い宗派はメソジストや福音派のパブティストであるが、アメリカ流に変質したカトリックや新たに出現した異端の宗派もあり、それぞれ特徴のある宗教観で維持構成されていく。


「あなたの名前はなんと言うの?」


ひと通りの手当を終えてベッドに横になったチコに、エイミーという年配の女性が尋ねた。

彼女はナミの母親のようである。

チコは過去の記憶を頼りに、彼女の言葉を何とか理解することが出来た。

そして、少し考えてから小さな声で答えた。


「ア、アルバート」


チコにとっては今までの呼ばれ方がまるでペットのようで好きではなかった。

一番気に入っていた名前が口をついて出ていた。


「アルバートね。じゃあミドルネームは?」


これは難問であった。

ミドルネームの意味さえ知らなかった。

とりあえず過去に住んでいた場所を連想し港町という言葉を発していた。


「ポ、ポートタウン」


「ポーターなの?」


少し違っていたがかまわないと思い、うなずいた。


「そう、アルバート・ポーターね。いい名前だわ」


それから家族や出身地、今住んでいる場所を聞かれ、チコは多少ごまかして答えた。

物心ついてからは、祖父と二人暮らしで各地を転々とし、両親についても、出身地も知らないこと。

最近船でこの街にやって来た途端に祖父が病気で亡くなり、今は空き家で一人暮らしをしていると伝えた。ただ、祖父の職業は手品等の見世物を職業とし、盗み稼業についてはもちろん触れなかった。

また、今回盗みをしたことについては、一人になって生活の手段が全くわからなくなり、出来心でしたことだと答えた。

チコはまだ小さかったこともあって大いに同情され、傷の養生もあってしばらくこの部屋で面倒を見てもらうことになった。

そしてチコはこの日からアルと呼ばれるようになる。


アルにとってはエイミーやナミとの同居は十分すぎるほど満たされたものであった。

今までベッドで寝ることも稀であったし、食事もその日暮らしで満足に摂れない時もあった。

ここでの生活は質素なものではあったが気分は晴れやかだった。

また、同じ集合住宅に住む人々も皆親切でアルが打ち解けるのにも時間はかからなかった。

聞いた話によると、二人の親娘も数年前に引っ越ししてきたそうである。

もともとここはエイミーが生まれ育った場所でほとんどが昔馴染みであった。

ナミは養女で、幼い頃に過酷な境遇だったのを見かねて、エイミーと亡くなった夫君が滞在先で引き取ったそうである。

ナミはそのころの自分を思い出し、小さな子供が困窮している姿を見ると、放っておけず連れ帰ってくるのだが、エイミーも昔小学年の教師をしたことがあり、二人で面倒を見ているそうだ。

また、ナミも教師を目指しており、日中は養成所に研修に通っているとのこと。


アルはここに来てすぐに二人を気に入ってしまった。

特にナミは大変美しい女性であったことでもあり、幸せな気分であった。

また、ナミもアルを弟のように親しく接してくれた。

そして、数日を経て顔や手の傷も回復し、元通り元気に歩けるようになった。

ある日、ナミが街中に買い物と散歩に誘ってくれた。

もちろんアルは喜んで付いて行った。

今まで一人で歩き回っていた時と比べると、街の景色が全く違ったものに思えた。

それ以上にナミと一緒に商店街を歩くと、目に入るもの全てが新鮮で心が弾んでいる自分を感じた。

一軒一軒立ち止まり見物しながら、ナミの話に耳を傾けたが、ある店のウィンドウ越しに陳列されている品物が気に入ったようである。

ナミは溜息を吐きながらとても手が届かない値だと、笑顔を見せながら言った。

リボン飾りをあしらった薄茶色の帽子であった。

アルはとてもナミに似合うし、なんとか手に入れたいと思った。

ところが、これがその後のアルの人生を左右する事件を引き起こすことになるのである。


ある日のこと、部屋の机の上に帽子が置かれ、アルはエイミーから問い質されていた。


「アル、これはあなたの持ち物なの?それとも誰かにもらったものなの?」


この日、アルは一人で街に出て、例の店で帽子を盗み取るのは造作なかった。

ただ、ナミを喜ばすことだけしか念頭になく部屋に戻ったのだが、すぐにエイミーに見つかってしまった。アルは項垂れたままで答えることが出来なかった。

嘘をついても見破られるに違いないと思ったからである。

その内、外出先からナミが戻ってきた。

エイミーが帽子の件を伝えたが、一目見て何が起こったのか理解したようだ。

アルは何か言わなければいけないと思ったが、その前にナミの目から涙がこぼれ始めた。


「私のためにしたことなのね。私のためなのね」


ナミは優しく諭すように言った。


「だけど、これは悪いことなの」


その間も涙が頬を伝っている。


「だから返しにいかないと。私も一緒にいくわ」


アルは焦ってしまった。

決して悲しませるつもりはなかった。

まさか泣かれるは思ってもみなかった。

とっさに帽子を手に取った。

そして表に駆け出しながら言った。


「僕一人で返してくるから」


脇目も振らず全速力で店に向かった。

とにかく返すこと以外頭になかった。

幸い店では帽子が無くなっていることを知らなかった。

アルは目立たないように店内にもぐりこみ、陳列してあった場所に返すことが出来た。

けれどもまたしても盗みを働いたという罪悪感が心に残った。

もうあの部屋には招き入れてくれないだろうとアルは思った。

その後、後悔しながら街の中を歩き回った。

そして、結局以前一人で住んでいた空き家に辿り着いた。

いったいこれからどうすればいいのだろう。

あれこれ考えてみたものの、答えは出ずすっかり意気消沈してしまった。

その内あたりが暗くなり気疲れもあってウトウトし始めた。

ところがしばらく経って、表から自分を呼ぶ声を耳にした。


「アル、アル、ここにいるの。居たら返事して?」

アルはびっくりしてしまった。目を開けるとすぐに駆け出し表に飛び出していた。ナミであった。


「やっぱりここに居たのね。探したのよ」


以前に住んでいた場所を話してあったが、覚えていたようだ。


「店にも寄ってきたわ。帽子が置いてあった。返してきたのね。でもここはあなたのいる場所じゃあないわ。さあ帰りましょう」


そう言ってナミが誘うと、今度はアルの目から涙が溢れだした。

それを見たナミは、


「わかっているわ。わかっているから」


とアルの肩に手を回し慰めた。そしてアルは再び二人のもとに帰ることになった。

ナミが寄り添うようにしてバードハウスに戻ると、エイミーが扉の外で待っていた。

そして二人を目にすると、


「二人ともお腹が空いたでしょう。用意してあるわ。さあ入って頂きましょう」


と笑顔で中に招じ入れた。

アルにとって、二人はもはや家族同様の間柄であった。

隠し事は良くないことだと心底感じた。


食事の後、二人に自分の過去をありのままに話した。

彼はチコと呼ばれ、生まれた土地も両親も知らないが、育ててくれた爺さんは盗みの常連で、幼い頃から手ほどきを受けたこと。

更に、爺さんと常に行動を共にしたが、盗みを積み重ね主に港町を転々としてきたこと。

そしてある日、一人で盗みを働きねぐらに戻ってみると、爺さんが亡くなっており、怖くなって取る物も取りあえず港に走り出港しようとしている船に飛び乗ったこと等をぽつりぽつり話した。

エイミーとナミにとってその告白はある程度予想していたこととはいえ衝撃であった。

ただ、アルが善悪の区別もつかないままに育てられ利用されたと感じた。

二人はもう一度アルに一市民としてのモラル教育が必要だと思った。そして、アルも自分が無学であることを自覚し、次の日からエイミーに基礎的な知識を教わることになった。

ただ、アルは幼い頃から市井の人々と接してきたこともあり、子供としては呑みこみも速かった。

特に日常の生活に係わる事柄については、大人顔負けの知識があったが、偏った面があることは否めなかった。

市民生活に必要な互譲や友愛の精神は今まで意識したことは一度もなかったのだ。

ところが、そういった新たな教養を得るに従って、アルは憂鬱になっていった。

今まで自分のしてきたことは何だったのか。

人の物を盗んだり欺いたりして罪を積み重ねてきたのである。

今となっては謝ることも金銭や品物を返すことも不可能であった。

エイミーやナミは、そのように誘導した大人に責任があるという。

けれども罪悪感は一生つきまとい消えないのである。

深刻な気持ちを口にすると、エイミーが、相談に乗ってくれる人がいると言う。

二人が通っている教会の牧師でエイミーの古くからの知り合いだそうである。

大変立派な人物で多くの人々から信頼され、個人の悩み事を他言することは絶対ないという。

教会と聞いて今まで足を踏み入れたことのないアルは尻込みしたが、ナミも一緒に行くことで承知した。


数日後、アルとナミの姿は商店街の横道の奥まった場所に位置する教会にあった。

建物は大きくはなかったが、正面に十字架が飾ってあり物静かで神聖な雰囲気がする。

この日は礼拝に来る人も少なく、牧師との対話に都合がいいらしい。

アルは気後れしたがナミが館内に足を一歩踏み入れると、中から親しみのこもった声が聞こえてきた。


「やあナミ、よく来たね。待っていたよ。さあ入って入って」


「牧師様、ごきげんよう。今日は二人で参りました。こちらがアルバート・ポーター。私たちはアルと呼んでいます」


アルは牧師を見て死んだ爺さんを思い出した。

年恰好は同じくらいであったが、表情は柔和で親近感があった。


「よく来たね、アルバート。私もアルと呼んでいいかい。丁度よかった。今お茶を入れたところなんだ。二人も一緒にどうだい」


と言いながら牧師は正面ホールから横の廊下を通り、自分の居室に二人を招いた。

普段のんびりくつろぐ為の部屋だそうで、テーブルと椅子、ありきたりの家具が置いてあるだけであった。前もってナミが内容を説明していることもあって、打ち解けて話をしようとする心配りが感じられる。

二人は牧師が入れた紅茶と熱心な信者からもらったというクッキーを御馳走になった。

その間、牧師は過去に訪れた各地の飲み物や食べ物の話を二人に聞かせた。

一息つきアルの緊張もほぐれた頃、牧師が切り出した。


「ところでアル。ナミから聞いたんだが一人で海を渡ってこのニューヨークまで来たそうじゃないか。たいしたもんだね。かなり日数が掛かったと思うんだが酔わなかったかね?」


「僕は小さい頃から船には乗り慣れているんで平気でした。周りの人は大変だったようですが」


「ナミもそうだったな。エイミーもびっくりしたそうじゃないか」


「私は生まれつき海を見るのが好きだったんです。一日中、眺めていても退屈しなかったわ。だから初めて船に乗せてもらった時はすっかり興奮して、船酔いも感じなかったの」


「驚いたな二人とも。私の場合は全くだめで、船に乗るたびに地獄の苦しみを味わっているよ。おっと、私の職業柄、その言葉は禁句だったな。ハハハ」


それに釣られて二人も笑った。


「さて、アル。ナミからあらまし聞いているんだが、もう一度君の口から今悩んでいることを聞きたいんだ。言えるかい?」


アルは横のナミが頷くのを見て、あらかじめ頭にまとめていた通り話はじめた。

以前の土地で爺さんと過ごした体験の数々からニューヨークに至るまで、割合にすんなりとしゃべることが出来た。

その間牧師は一心に耳を傾けていたが、アルの話が終わると口を開いた。


「なるほど、様々な経験をしてきたのだね。君の年齢で全く驚くばかりだよ。話を聞いた限りでは、お爺さんに強制されたとはいえ、過ちを繰り返したこと。そして亡くなったお爺さんのその後を見届けもせずに船に乗ってしまったことが悩みのもとかな」


アルは首を縦に振った。


「私はこう思うよ。アルが過去にしてきた過ちを過ちとして認め、これからの人生に活かしていくことこそが大事だと。だから悩んでいることはそれだけで大いに意味があることなんだ。アルがこれから大人になって同じ過ちを繰り返さないようにすることで、良い人柄が備わっていくんだよ」


「悪いことをした相手に謝らなくていいの?」


「そう、それが出来ればそれにこしたことはないんだが、いくら謝っても、品物や金銭を返しても、同じことを繰り返してしまっては意味のないことなんだ。実は私も昔、人を傷つけてしまったことがあってな。後になって大いに後悔したもんだよ」


「牧師様はその時謝ったんですか?」


アルが興味深げに尋ねると、牧師は一瞬眉を曇らせ答えた。


「いいや、それは無理だったんだ。その相手が亡くなってしまってな」


牧師はアルに言い聞かせるように続けた。


「だからその後心に誓ったんだ。同じ過ちは決してしないこと。これからは人を幸せにするために努力すること。それが相手に対するせめてもの誠意であると。そして今の道を選んだのだよ。もちろんアルにも、抱いている償いの気持ちを忘れず、アルに出来る方法で人を幸せにしてほしいと願うんだが、けれども何か特別なことをする必要はないさ。今の想いをこれからも決して忘れないこと。それが私からのアドバイスだよ」


その後も牧師からの話は続いた。

自身の今までの経験を織り交ぜての易しい言葉を使った説明に、アルも少しづつ心がやすまっていくのを感じた。

ナミと一緒に教会を辞去する頃には、後悔とは異なり別の感情が芽生えていた。


それからもエイミーやナミの元で一般市民としての基礎的な教養を学びながらも、日に日に牧師の言葉に感化されている自分に気づいていた。

そして、ある決心を抱くに至った。

今まで敬遠していた教会にも足が向くようになり、牧師にも一人で相談に乗ってもらうことが出来た。

ただ、エイミーやナミと充分に話し合うようにとの返答であったが。

そして、ある日二人に言った。『どのような仕事でもいいから働きたい』と。

当初、二人はアルがまだ子供で学ぶことも多くあるとの理由で反対したが、決意が固いことを知り渋々ではあったが容認した。

アルは子供とはいっても世間の荒波にもまれていたし、子供の就労も珍しいものではなかったからである。そうと決まればエイミーが顔の広さを利用し、アルの就業先を探した。

彼女はかつての教え子や亡夫フランクの知り合いも近辺に多くいたからである。

その結果、鉄道会社で整備要員として勤めている人物にアルを引き受けてもらうことになった。

この時期、鉄道網はアメリカ全土に敷かれて、従業員が多数必要であった。

エイミーが保証人となりしばらくは見習いということで、アルは働くことになった。

まだ子供であったし仕事は引受人のお手伝いで雑用係であったが、給金もわずかではあったが支給されることになった。

ただ、以前に爺さんの小間使いを経験してきており、言われたことはひと通りこなせたし、もともと器用であったため、慣れるまでに時間は掛からなかった。

更に引受人とはウマが合い親密な関係になったが、数か月後、別の州への配置転換があり、アルも付いて行くことになった。

アルにとってはエイミーやナミとの別れは辛かったが、新たな希望を胸に抱きニューヨークを後にすることになった。

アルには思い秘めたプランがあった。

二人に見送られながら旅立つ日に、必ず実行しようと心に誓った。


***


《 アル。とても元気そうで安心したわ。少し心配だったけど仕事が楽しそうでなによりね。お手紙を何度も読んだわ。そちらに行って勉強したのね。すごく上達したことがわかる。

それに一番嬉しかったのは送ってもらった薄茶の帽子。なんて素敵なんでしょう。お給金を貯めて買ったそうね。いつまでも大切にするわ。

エイミーのもとても似合うって喜んでいるわ。お礼を伝えてって言われたの。ありがとうアル。

これからもお仕事大変だと思うけど頑張ってね。だけど、あまり無理しちゃだめよ。くれぐれも体に気をつけて。

最近、鉄道会社の騒動を耳にするけどそちらはどうかしら。周りから誘われても決して無茶なことはしないように。もし嫌な事や辛い目に遭ったら、私やエイミーのことを思い出してね。いつまでもアルの味方だから。

生まれたところはわからないけれど、アルが帰る場所はここ、バードハウスよ。私もエイミーも皆がアルの帰りを待っているから。また会えるのを楽しみにしているわ。

                          全ての愛を込めて、ナミ  》





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