東海岸(二)
コロンブスが1492年に新大陸を発見した時、現在のアメリカ合衆国の部分には、二百万人以上のインディアンが部族単位で独自の宗教文化を持って暮らしていた。
その後、白人が多数移住してくると、彼らの自然と一体となった生活に終止符が打たれてしまう。
そして、白人はしだいに彼らの土地を奪い、生活様式も変えようとしていく。
更に、白人は領土の拡大と定住地の確保を国家的使命とし、インディアンの征服が急務となったが、力による抑圧が公然と行われ、ついに、1830年に強制移住法が制定されて、多数のインディアンがミシシッピ川以西に移住させられた。
その後、西部には狩猟生活をおくる部族がおり、さらなる領地の拡大を目指す白人との間で激しい戦いが繰り広げられるのである。
*
ニューハンプシャー州マンチェスターの公立高校に通うドロシーはここのところ不機嫌であった。
父親は従業員を多く抱える紡績工場を営んでおり、この地域の有力者で資産家でもある。
自宅は市の山の手にある大きなお屋敷で、家政に携わる者も多数雇っていて、ドロシーは幼い頃から何不自由なく育てられていた。
外出や登校の際には専用の馬車で送り迎えしてもらっているし、衣類や装飾品等、望む物はなんでも買ってもらっていた。学校でも特別待遇で教師も生徒たちもドロシーには気を遣っていて、時々お屋敷で催される誕生会等のパーティーに参加する者もあった。
また、生徒の中には、肉親がドロシーの父親の会社に勤めているものもかなりいて、嫌われぬよう努めている。
ところが、最近ボストンから女子生徒が転校してきた。
彼女の名はナミ・ジョンストン。
詳しいことは分からないが、両親の転居に合わせ一緒に移ってきたという。
ドロシーは同じクラスに彼女が初めて来た日のことを覚えている。
彼女が教室に入って来て、紹介されるために生徒たちの前に立ったとき、一瞬どよめきが起こった。
髪の毛はシルバーで瞳は青く整った白人顔であったが、肌がきめ細かくいわゆる美少女といってよかった。ドロシーは見た瞬間嫉妬を覚えた。
今まで女子の中では自分が一番綺麗で人目を惹くと自負していた。
ところが彼女は明るい性格で誰とも気さくに会話して、一躍人気の的になってしまった。
特に男子生徒からの評判は高かったが、負けず嫌いのドロシーは面白くなかった。学校生活の日常が自分中心に回っていないと気にいらなかったし、同じクラスの女子の中では一番でないと我慢ならなかった。
そこでドロシーは何とか彼女の評判を落とす方法がないか考えた。
色々と思案した末に、彼女が不良生徒であるとのレッテルを貼るのが一番効果的だと気づいた。
もし彼女の悪評が広がれば、普通の生徒は一歩引いて係わりを避けるだろう。そのためには、彼女の交際相手が問題児であるのが手っ取り早い。そう決め込むと、ドロシーは早速もっとも親しい女友達のヘレンと相談した。
そのヘレンも転校してきたナミ・ジョンストンが周りからちやほやされているのを、こころよく思っていなかったし、評判の悪い若者にも詳しかった。
そして二人は計画を実現させるべく策を練った。
「ハーイ、ドロシー。ハーイ、ヘレン」
「ハーイ、ナミ。待った?」
「ううん。私も今来たところよ」
ナミは数日前、同級生のドロシーとヘレンに休日を利用してピクニックに誘われた。
この地域で最も美しい景色の湖と、珍しい形をした岩場を見学がてら連れて行ってくれると言う。
ナミにとっては、願ってもないことで、クラスの女子リーダー格の二人とも親密になれるチャンスだし、何よりも今まで住んでいたボストンでは味わえなかった自然を満喫できる楽しみがあった。
道中はドロシーが普段使用している馬車で案内してくれるそうだ。
待ち合わせ場所で用意してきた食べ物と一緒に後部座席に乗り込みいざ出発。
馭者はサムという名の黒人で古くからドロシーの父親が雇っていて、忠実で信頼できる人のようだ。
ただ、耳は聞こえるがしゃべれないそうで、ナミが挨拶してもうなづくだけであった。
万が一のために、座席の側にライフルが置かれているが、腕は確かだとのこと。
ナミは進行する馬車に揺られ、景色を眺めながら自身のことをかいつまんで二人に話した。
生まれ育った日本でジョンストン夫妻と出会い養女にしてもらった経緯。
夫妻の仕事の都合でアメリカに来て数年間ボストンで過ごしたこと。
そして、教えていた大学を退官した養父の希望で風光明媚なこの地に引っ越ししたこと等。
ほとんどこの土地しか知らない二人にとっては、初耳で大変興味深い話のようで繰り返し質問攻めにあった。
ただ、ナミが混血であるのと、ボストン時代の親友が黒人であることについては、二人は顔を見合わせ訝しがった。
確かに今の高校は白人ばかりで、黒人はいなかった。
逆にナミは二人に学校のことや家族のことを尋ねた。
もともとこのニューハンプシャー州はイングランド人が入植した最初の地で、アメリカ独立戦争のときに、イギリスに反旗を翻した一三植民地の一つとなった。
裕福な商人も豪華な家を建て住んでいたが、多くの繊維工場が造られて工業化が進行し、移民も大挙流入していた。
ナミの入った高校は比較的所得の高い家庭の子供が多いようだ。
*
馬車が湖に沿って走る道に差しかかると、ナミは口をつむぎその風景の美しさに酔いしれた。
空の青や白、山麓の緑が映る湖面は水彩画のように艶やかで、ときおり揺らぐさざ波が瞼に眩しく映し出す。
また、水上にはばたく水鳥や、葦の間から顔を出す生き物からものどかな自然の様子が感じられた。
湖畔の空き地に馬車を止め、昼食をとることになった。三人はお互い用意してきた食べ物を交換し合った。馭者のサムは一人離れて干し肉をかじりながら、ポットの飲み物を口に含んでいた。
中味は豆乳だそうでそれで充分だと言う。ナミは二人にすっかり打ち解け和気藹々と過ごした。
友人として付き合っていけるとの確信を抱き、疑ってもみなかった。
食事が終わり、湖の横に樹林帯があり、その先珍しい形をした岩場があるので見に行こうと提案したのはヘレンであった。
ドロシーも賛成しもちろんナミも同意した。林の中には馬車は通れないので、徒歩で行くことになるが、ヘレンとドロシーは何度も来ているので大丈夫だと言う。
そして、サムを馬車に残して三人は林道に足を踏み入れた。
林の中は木の葉に日差しが遮られ薄暗くひんやりとした冷気が体を包んだ。
又、上り道は狭くて曲がりくねってはいるものの途切れることはなかった。
時折急斜面もあり、手で支えて登る必要があった。そして三十分ほど歩き突然前方が開けた。
そこには、大小さまざまな花崗岩の岩場が連なっていた。
更に上って行くとあちこちに変形の岩がそびえ立っている。おそらく風で浸食されて出来たものであろう。
「ねえ、見て見て、あの岩、鶏の頭に見えるじゃない」
「わあ、ほんとだ。その通りね」
「ほら、こっちの岩なんて人の顔そのものよ」
「まあ、何てこと。珍しいわ!」
更に下の部分がかなり削り取られ微妙なバランスで直立しているものもあった。
そして両側に配置している奇岩を見ながら坂を上りきると岩山の頂上に到着した。
そこからの眺めはまさに絶景であった。
大きな岩に腰を下ろし覗き見ると、眼下に湖が遠くまで延び、更にその先には一面緑の山々が見通せた。
その神秘的な光景はナミの心を魅了した。
「そうだドロシー、この前来た時の忘れ物捜しに行かない」
ヘレンが思い出したように問い掛けると、ドロシーがうなづく。
「そうねえ。久しぶりにここまで来たのだから」
そしてナミに向かって言った。
「ナミ、私とヘレンはこの前この近くで大切なものを失くしちゃったの。行って捜してくるからここで景色を眺めているといいわ。すぐに戻ってくるから」
「ああ、いいわよ。二人でゆっくり行ってらっしゃい。私はひとりで大丈夫だから」
ナミが笑顔で答えると、二人はお互い合図を交わして来た道を戻り始めた。
ナミは振り返り、再び視線を湖面に戻した。
小さい頃からそうであったが、ありのままの風景を見ているのが好きだった。
頭の中で自由に想像を巡らし心が晴れるのである。
目に映る自然の恩恵にあらためて感謝したい気分であった。
そして、いつまでもこのまま眺めていてもいいと思った。
*
そのころ、ドロシーとヘレンは大急ぎで岩山を駆け下りていた。
馴染みのコースでもあり坂道にも慣れていた。
樹林帯に入ってもペースを落とすことはなかった。忘れ物捜しは偽りで、一刻も早く馬車に戻りたかったのだ。
そして、到着するやいなやドロシーはサムに向かって街に帰るように命じた。
サムは二人が乗ったことを確認して馬車を走らせる。
サムにとってはナミが一緒でなくてもためらうことなく、ドロシーの言いつけに素直に従った。
ただ、彼が故意に飲み物が入ったポットを落としたことに、二人とも気が付かなかった。
「なんだか可哀そうな気がする。誘ったのを喜んでくれたし」
「だめよ今さら、もう後戻りできないわ」
ヘレンの言葉をドロシーが諌めた。
「それに置いてきぼりにする訳じゃないわ。迎えに行くのだから」
「それもそうね。ちょっぴり言ってみただけよ」
「それはそうと約束通り来ているでしょうねあの人たち」
「ええ、何度も確かめたわ。街はずれで落ち合うって」
そして急ぎで馬車を走らせ、街が見えて来たあたりに二人の若者が馬に乗り手を振っているのが見えた。
いずれもカーボーイハットをかぶり、外観もラフな格好をしている。
近くまで来ると一人が声を掛けた。
「やあ、ヘレン、本当に来るのかと思ったよ」
「間違いなかったでしょう。約束は守るわよ」
「で、俺たちが案内するのはそちらのお嬢さんかい?」
「違うわ。少しアクシデントがあって彼女はぐれちゃったの」
「なんだって、この街が初めてでいろんなところを見せてやってほしいって頼まれたんだぜ。その本人がいなけりゃしょうがないじゃないか」
「そうよ、その通りよ。だから、あなたたちに彼女を捜しに行ってもらいたいの」
そしてヘレンは二人の若者に、彼女がナミという名前で今まで行っていた場所と見失った経緯を説明した。ただ、彼女が珍しい景色に魅了されて一人で岩山付近を散策に行ってしまい、目を離したすきにはぐれてしまったことにしておいた。
また、二人をその気にさせるため、ナミが同級でも一番の可愛い少女であることを付け加えた。
「まあ、そういうことなら捜さなくちゃあな。幸い俺たちはあのあたりの地理には明るいんだ」
「お願いするわね。それともしナミに他にも見せたい場所があれば連れて行ってほしいの。喜ぶと思うわ。但し、変なことをしたら絶対ダメだからね」
「ああ、わかってるよ、俺たち紳士だからな。大切に扱うよ。よし、そうと決まれば早速行くとするか」
と二人の若者は馬を走らせて行く。ヘレンとドロシーは見送りながらお互い目くばせしていた。
実を言えば、二人はヘレンの兄の知り合いで、日頃の素行に問題があり、周囲から不良扱いされている若者たちであった。
もしナミがこの若者たちと同行している場面を目撃できれば、悪い噂を立てることができると考えた。
もちろん校内での評判は落ちるだろう。
後は彼らが戻って来るのを待つだけで、ヘレンとドロシーは街中にある馴染みの店舗を見て回ることにした。
*
ナミは二人が戻って来ないのを不審に思った。
探し物がまだ見つからないのか。それとも紛失場所が遠くで時間を要しているのか。
それにしても二人が去ってからかなり時間が経っている。
二人の身に何かトラブルでもあったのかもしれない。いつまでもこの岩場に座り、湖の景色を堪能していたいが、気になって仕方がなかった。
もしこの場所を離れ入れ違いになる恐れも頭を過ったが、サムのいる馬車まで戻れば、いずれ落ち合えるだろう。
そう思うと馬車のあるところまで戻る決心をした。そして、立ち上がり足場に気を付けて岩山を下り始めた。
岩間の道筋は一つで迷う心配はなかったし、下り坂が続き速足で進むことが出来た。
ひっそりと静まり返った樹林地帯もナミは少しも怖くなかった。
むしろ子供の頃、長崎の野山を一人で歩き回っていた記憶が懐かしく感じられた。
ところが、湖畔の空き地に到着したのだが、あるべきはずの馬車が見当たらなかった。
場所を勘違いしたのか。念のため地面を見ると車輪の跡が残っている。
更にここに間違いないと確信したのは、サムの愛用のポットが転がっていたからである。
どうやら馬車は移動してしまったようである。失くした物は別の場所だったのか。
それとも何らかの事情でここを離れざるを得なくなったのか。いくら考えてもナミに分かるはずはなかった。
これからどうすればいいのか。ここで待っていてもすぐに馬車が戻って来る保証はない。
街まで歩いて帰ることもできるが、かなり時間が掛かりそうである。
何かトラブルがあったとしても、親しくなったドロシーとヘレンのことだからいずれ捜しにくるだろう。
そう思うとナミはじたばたしても始まらないと考えた。
ナミは落ちているポットを手に取った。中味は入っているようだ。
興味深々で蓋を開け、飲料を少しだけ口に含んだ。
すると、あっという間に喉の奥まで甘さが広がり、体が満たされていくような気がした。
まだ十分量があり、この飲み物で長時間体力が保つように思えた。
このとき、子供の頃の自分を思い返していた。
お腹を空かして食べられる物ならなんでも口にして野山を一人で歩き回っていた自分を。
そしてナミはこの湖の周りを歩いてみたいという衝動にかられた。
まだ夕刻まで時間はあるし、初めての場所でも道を覚える自信はあった。頃合いを見計らってここに戻ってくればいいだろう。そう決心するとナミは湖に沿って歩きだした。
*
湖岸の地形は岩山の頂上から見た景色で大体のところ把握していた。
けれども実際に歩いてみると、進む方向に様々な障害物が現れて一筋縄ではいかなかった。
道はあることには違いないが、茂みや岩壁、或は渓流に遮られて迂回することもたびたびで、わずかな距離にもかなりの時間を費やした。
さらに途中で珍しい草花や生き物を目にするたびに立ち止まり、観察していくため一向に湖岸ハイクがはかどらなかったが、久しぶりの自然との触れ合いにナミは十分満足していた。
子供の頃にジョンストン夫妻に連れられて太平洋や北米大陸を横断してきて初めて見る景観に驚きの連続であったが、通ってきただけで身近に自然を親しむということはなかった。
また、最近まで暮らしていたボストンは街中で郊外に出ることはなかった。それだけに久しぶりに味わう清涼な体感であった。
しばらくして湖に流れ込む川を遡ることにした。
周囲には初めて見る草花が目を和ませてくれる。茂みや岩陰を駆け抜ける小動物も見え隠れしている。
斜面にはゴツゴツした岩が転がっており、前に進むのも並大抵のことではなかったが、すがすがしい気分に満たされていた。
途中から激しい水しぶきの音が聞こえてきた。
もちろんナミは好奇心に誘われて近づいていく。
そして、前を覆う樹木を掻き分け、岩棚を越えると音量の正体が明らかになった。
相当な高さを水が落下している滝であった。
ナミは耳に届く轟音と間近で見る迫力に圧倒されてしまった。
その光景に登行の疲れも吹っ飛び、しばし茫然と立ち尽くす。
その時、誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。
けれども耳に入ってくるのは、滝つぼに跳ね返る音源ばかりであった。
滝の横手に回り道のような樹木の開いた場所が見えた。
ここまで来るのにかなりの時間を費やしているが、滝の上がどのようになっているのか知りたい気がした。そう思うとためらうことなく、迂回路と思われる坂を上り始めた。
ただ、今までと違って急激な斜面で枝や地面につかまり四つ這いで進むしかなかった。
そして悪戦苦闘の末登りきると、見晴らしの良い開けた場所に出た。滝上部の流れのゆるやかな河の周囲は、季節植物の群生が広がっている平原であった。
丈の短い草花の色合いは、ナミの目にはまるで絨毯のように思えた。疲れを癒すためにその上で寝転がり、思い切り背筋を伸ばした。
しばらく仰向けに空を見ていると、ほんの近くでガサガサと茎や葉を掻き分ける音が耳に入った。
ナミは起き上って見ると、リスのような動物が戯れている。
じっと見てみると、尻尾も体も大きくリスではないようだ。
観察するために、静かに近づく。
その時、頭の上から野太い声が聞こえてきた。
「おい、そいつに、あまり近寄らんほうがいいぞ」
びっくりして見上げると、そこには馬に乗った妙な格好の男の人がいた。
*
「どうしてなの、なぜみつからなかったのよ」
「そうよ。ナミは間違いなくいたはずよ」
ドロシーとヘレンは口を揃えて二人の若者に詰め寄った。
ナミを迎えに行ったはずの若者たちは、その姿が見当たらなかったと言って、戻ってきたのであった。
「俺たちは湖のあたりを探し、岩山のてっぺんにまで登ったんだぜ。でもその女の子はどこにもいなかったんだ」
「そうさ、何度も大声で名前を呼んでみたんだが駄目だった」
「そんなはずないわ。あそこからどこにも行けるわけないわよ」
「もしかしたら、道に迷って崖から足を滑らしたのかもしれないぜ」
「それとあのあたりは熊やオオカミがたまに出るってよ。襲われたのかも」
それを聞いてドロシーとヘレンは顔を見合わせ青くなった。
「そうなると俺たちには手に負えないぜ。街の保安官に言って捜索してもらったほうがいいぜ」
「そのほうがいいな。でもそうなるとあまり係わりたくないな。俺は抜けるぜ」
「ああ、俺も厄介なことはごめんだ。俺たち行くよ」
そう言って二人の若者はその場から馬を走らせ去って行った。
「もう、なんて薄情な人たちなの」
「保安官なんかに言えっこないわよ。根掘り葉掘り聞かれちゃうし、きっとパパにも知れちゃうわ。そうなったら破滅よ」
ドロシーはべそをかきながら言った。そして側にいる馭者のサムに問い掛けた。
「サム、なんとかならない。誰か捜しに行ってくれる人はいない?」
もちろんサムは経緯を一部始終知っていた。
ただ、自分から意見は言わないが、指示されたことには忠実に応えた。
サムはうなずき二人に馬車に乗るように促した。
そして、街の中心部に向かった。目抜き通りの左右には銀行や郵便局、馴染みの店等が軒を並べていたが、しばらくして横道に入ると、飲食店が立ち並んでいる一角があった。
その奥まったところにドリンクバーがありその前で馬車は止まった。
そして、サムは二人に待っているように手振りで伝え、店の中に入っていった。
もちろんドロシーもヘレンもその界隈は初めてで少し不安であったが、待っている以外なかった。
しばらくして、表戸が開きサムと一緒に三人の年配の男たちが出て来た。
そして、一人の男がドロシーたちに向かって言った。
「いやあお嬢さん、サムから聞きやしたぜ。お友達が行方不明だそうで。大変ですな。まあ俺たちが捜してきましょう。任せてくださっていいですから」
恐らくサムが筆記か身ぶり手振りで頼んだのであろう。
「いいんですかお願いしても」
ドロシーが遠慮がちに尋ねると、別の男が口を挟む。
「まあ困った時はお互いさまでさあ。俺たちも普段はサムに奢ってもらうことがあるんでね。借りを返さないと。ハハハ、それは冗談にしても俺たちあのあたりの地理は詳しいんでね。見つけてきますよ」
と言って、三人の男たちは繋いである自分の馬のところまで駆け寄って行く。
ドロシーとヘレンにとってはわらおもすがる気持ちで、朗報が来ることを願った。
*
「そいつはスカンクといって、あまり近寄ると尻から強烈な臭いのガスを出すんだ。まともに浴びると失神してしまう」
その男は全身を大きめの皮革のようなものでまとい、鳥の羽根を付けたヘアバンドを身につけ、長い髪を左右に編んで垂らした明らかにインディアンの姿であった。
ただ異様なのは浅黒い顔の額と頬に深い切り傷があり見た者に威圧感を与えた。
ナミは立ち上がり真っ直ぐに見上げて言った。
「ありがとう。危ないところだったわ。お礼を言います」
男は周囲を見渡し、ほかに誰もいないのを確かめて再びナミに言った。
「どうやら一人のようだが、お前は私を見て怖くはないのか?」
ナミは笑みを浮かべて答えた。
「顔の傷のことを言っているのならノーよ。随分昔のことになるけど、私が産まれた日本の長崎の街で顔に刀傷のある人を見かけたわ。勇敢に戦った人の勲章だと言って周りから敬意をはらわれていたの。あなたもそうかしら。私はナミ・ジョンストン。ナミと呼んで」
男はいくぶん当惑気味に表情を崩した。
「ほう、面白い娘のようだな。私はブラック・ブルと呼ばれているがアナベキ族の占い師だった者だ。ところでナミはなぜこんなところにいる?」
ナミは困った顔をして答えた。
「それが、マンチェスターの街から、友達に案内してもらってこの先の湖に初めて来たんだけど、皆からはぐれてしまったの。でもあまりに素敵なところなのであちこち見物しているうちにここまで来てしまったのよ。皆捜していると思うわ」
「ほう、かなり遠くから来たのだな。ここが気に入ったか?」
「ええ、素晴らしいところだわ。湖も綺麗だけど、不思議な形をした岩があったり、森の奥に滝があったり、珍しい動物も住んでいるわ。何度でも来てみたいところね。ブラック・ブルさんもそう思わない?」
「ナミの言う通りだ。この地に自然の豊かで美しいところは星の数ほどあってな。私は長い間あちこち放浪の旅をしているが、この年になっても驚くべき風景を目にすることがあるよ」
「ええ!うらやましいな。ナミも行ってみたい」
「だがな。白人どもが増えるに従ってこの地も少しずつ変わってきてな。自然は壊されていき、元からいたバッファローやオオカミのような動物も姿を消してゆく。私の仲間も贅沢な暮らしが出来ると騙されて居留地に移って行った。私は反対したのだがな。彼らは今自由のない不便な生活を強いられ後悔しているようだ。だがそのことも私の占いには出ていたのだがな」
「そうなの。じゃあ遠くから来た私たちが、この国の人たちに迷惑を掛けているのかもしれないのね」
「ハハハ。何もナミのことを言っているのではない。ただ失ったものは帰ってこないことは肝に銘じておかないとな。どれ、私も占い師としては名が売れているようだ。ナミさえよければ占ってあげようか」
「うわあ、自分のことなんでちょっぴり心配。でも知りたいわ。お願いしようかしら」
「では私の手にナミの手のひらを重ねるといい。そうすれば未来が見えてこよう」
ブラック・ビルは馬に乗ったままで右腕を伸ばした。大きな手のひらであった。
ナミはゆっくり手を伸ばし重ねた。
触れた途端、自分の気が相手に流れ込んでいくように感じた。
ブラック・ブルはしばらく黙って目を閉じている。その間、徐々にナミの心が穏やかになっていく。
しばらくして、ブラック・ブルの口が開いた。
「ふむこれは驚きだな。まるで意に沿った筋立てのようだ。ナミは今までと同様にこれからも様々な体験をしていくであろう。喜びもあり悲しみもある。出会いもあるし別れもある。だがそれらは全てがつながっており、やがては実を結ぶであろう」
「ふーん。誰と会って何が起こるのかしら」
「あまり詳しく言うと、戸惑ってしまうからやめておくが、ただ私と出会ったのも定めのようだ。それとまだ先のことだが、ナミは生まれた国に帰ることになろう。親しい人間と一緒にな」
「うわあ、日本に戻れるの。楽しみね。でもまたダディーとマミー旅に出るのかしら。それとも別の誰かかな」
「だからといって特別なことは何も考えなくていい。全ては定められた運命が解決してくれる」
「じゃあ、さしあたりこれからどのようにすればいいと思う?」
ナミが当面の悩みを尋ねると、ブラック・ブルは破顔して言った。
「さあ後に乗るがいい。家まで送っていこう」
「まあ、送ってもらえるの。嬉しい。ありがとう」
「ああ、これも運命だと思っていいよ」
そしてナミはブラック・ブルの背に跨り馬に揺られることとなった。
ブラック・ブルの選んだ道は恐らく彼だけしか知らないルートであった。
ほとんど道筋らしきものはなかったが、方角と位置は正確に把握しているようだった。
もともとこの地域を生活の拠点にしており、進むにつれて目に入る魅力的な山並みや河川、森林、草原等に精通していた。
ナミが質問するとそれぞれの名称から特徴、言い伝えにいたるまで詳しく教えてくれた。
ブラック・ブルは知恵者でもあった。
更に特殊な能力の持ち主だと分かったのは、ナミが景色に堪能しブラック・ブルの背中に温もりを感じながら、かつて味わった光景を思い出したからであった。
そう長崎の農村から、学問を学びに来た一人の留学生がナミを背中におぶって助けだしてくれたことを。
あの時たどった山道の光景がいまだに目に焼き付いている。
大変懐かしくついこの前のことのように思える。
その時、不意にブラック・ブルの声が聞こえた。
「もう一つナミに教えてあげよう」
目の前に広がる景色の説明かと思ったが全く違った。
「ナミの恩人のその男とはまた再会することになろう。そして、それをきっかけに未来が広がっていくことになろう」
ナミはびっくりしてしまった。どうやらブラック・ブルは人の心も読めるようである。
*
捜索から帰った男たちからの報告は、ドロシーとヘレンにとってはショックであった。
湖の周辺や岩壁のあたりをくまなく調べたが、ナミの姿はどこにも見当たらず、転落等の事故の形跡もなかったとのこと。
考えられることは、森の奥に迷い込み動けなくなっている可能性があり、大がかりな捜索隊を出す必要があると奨められた。
とりあえず相談すると伝え、礼を言って彼らと別れた。
「いったい誰に言えばいいの?」
ドロシーが頼りなさそうに問う。
「うちの親に話してもやっぱり保安官だと言うに違いないわ」
「すると、はぐれた理由を聞かれることになるわ」
「でもこのまま放っておくわけにいかないわ」
二人は意気消沈してしまったが、ドロシーが思い出した様子で言った。
「その前にナミのご両親に伝えておくべきね」
「私もそう思う。でもびっくりするでしょうね」
「仕方ないわ。場所は知ってる?」
「ええ、確か街はずれの空き家に引っ越してきたというから、多分あそこよ」
「案内してくれる。早めに知らせておいたほうがいから」
そして、サムに言って二人は馬車でナミの家に向かった。
ナミの話によれば、養父母はボストンで教育関連の仕事に携わっていたが、引退を機にこの地の緑豊かな自然と、落ち着いたたたずまいが気に入り、周辺の山並みを見渡せる一軒家に引っ越ししてきたとのこと。
そこで、知人や関係機関から依頼されて著述作業をしたり、趣味の園芸をして暮らしているそうである。
中心部から真っ直ぐの一本道を辿り、少し離れた場所にナミの家があった。
馬車から降りたドロシーとヘレンは正面に立って覗き見た。家屋の周りは木の柵で囲ってあり、庭には様々な花が咲いている。
「さあ、行くわよ」
二人はお互いを見合わせ深呼吸しながら、玄関に通じる開き戸から内側に入った。
そして、玄関扉の前で立ち止まり、固唾を呑んだ後でドロシーが声を掛けた。
「ご免ください」
すぐに中から女性の声で返事があった。
物音がして奥から歩いてくる気配がする。
二人は一瞬身を竦めてしまった。
扉が開き年配の女性が顔を出した。
「どなたかしら?」
見た目に落ち着いた雰囲気が備わっていた。
「わ、私、ドロシーと言います。こ、こちら友達のヘレン」
「まあ、お二人のことはナミから聞いていますよ。今日はピクニックに誘って頂いたそうで。私からもお礼を言いますわ」
笑顔を見せた丁寧な物言いにすっかり上がってしまった。
「え、ええ、実はそのことで」
「そういえば、ナミは一緒じゃあなかったのかしら?」
「あ、いえ、行ったことは間違いないんですが・・」
その時、その男を最初に目にしたのは外で待っていた馭者のサムであった。
馬に跨り近づいて来た男は、額にヘアバンドで数本の鳥の羽根を付け、身に着けているものも明らかにインディアンと思われる装いであった。
男は背中を振り返り、うなづきながら少し離れた場所で止まってしまった。
サムはその姿に目を丸くしたが、さらに背後からナミが降りたのを見てたまげてしまった。
ナミの顔は笑顔で、礼を言うとその男は踵を返し元来た道を去り始める。
ナミはその男に手を振っている。
そして今度は外を見ていたナミの養母の目にも留まった。
「あら、ナミも帰ってきたようだわ」
その声にドロシーとヘレンは仰天してしまった。
慌てて振り返ると、去って行く人馬を見ながらナミが手を振り終わって頭を下げているところだった。
そしてナミが振り向き、サムの馬車に気が付いた。
更に家の玄関を見て、ドロシーとヘレンの姿も目に入ったようだ。
ナミはサムに向かって声を掛けながら慌てて玄関に向かって駆けてきた。
「ドロシーにヘレン、二人とも家に寄ってくれたの?」
「ナミ、良かったわ。心配して捜していたのよ」
「ごめんなさい。あまりに素敵なところだったものだから一人で湖の周りを歩き回ったの。森の奥に草原があって、そこでブラック・ブルと出会って・・」
養母のエイミーが口を挟んだ。
「まあ、なんてことでしょう。駄目じゃないナミ。勝手なことをしちゃあ。お友達も困ってしまったのじゃあなくって?」
「そ、そうなんですけど。サムのお知り合いの人にも捜しに行ってもらったんですけど。みつからなくって・・」
もちろんナミを置いてけぼりにしたことも、二人の不良少年のことは口にしなかった。
ナミは何度も謝り、景色に魅了され歩いた経路、ブラック・ブルとの出会い、更に家まで送ってもらったことを話した。
「ほんとに困った子ねえ。せっかく誘ってもらいながらこんなことになって。まだここに来て間もないことだから気のゆるみがあったのだわ。許してやってくれる」
「いえ、もういいんです。無事だったことがわかってほっとしました」
「ごめんなさい、本当に」
ナミは神妙に謝る。
「そうだナミ、お二人に家に入ってもらって少し休んでいってもらったら」
エイミーはドロシーとヘレンを誘った。ナミも二人に勧める。
「い、いえ、もうこんな時間だし、あまり遅いと家のものが心配するので」
エイミーもあえて引き止めず、またの機会に寄ってほしいと伝えた。
そしてお互い再会を約束し合いながら馬車に向かった。
「これに懲りずまた誘ってね。今日はとても楽しかったわ」
「もちろんよ。これからも仲良くしましょう」
ドロシーが答えると、ヘレンも頷く。
そして二人が馬車に乗り走り出そうとしたとき、ナミが思い出した。
「待って!」
ポケットからポットを取り出しサムの方に駆け寄る。
「これ、湖の側に落ちていたの。少し頂いちゃった。美味しかったわ」
サムは受け取り、普段めったに笑わない顔を崩した。
馬車が走り出しお互いが声を掛けながら、手を振り合う。
ナミはもちろんエイミーもしばらく見送った。
玄関から離れた場所に来て、馬車に揺られながらドロシーが言った。
「なんだかほっとしたわ。あのことは内緒ね」
二人が目論んだことだと察し、ヘレンはすぐに肯いた。
「もちろんよ。誰にも言わないわ。でもドロシー、ブラック・ブルって知ってる?」
「ええ、聞いたことあるわ。確か行方が分からなくなったインディアンだったわね」
「そう、すごい人だって聞いたことがあるわ」
そして帰路二人はその話題に集中する。
*
だが、二人が口伝えに話した内容は瞬く間に広がり、街中に大きな反響を及ぼすこととなる。
なにしろブラック・ブルは指名手配にはなっていなかったものの、当局から見かけたら拘束してほしい重要人物だったのである。
昔、この地方に住んでいたインディアンのアナベキ族が白人によって強制移住させられた時に、ただ一人従わず姿を消したのがブラック・ブルであった。
ただ、彼の名が有名な理由は、占い師で相手が誰であっても未来を正確に予知できることにあった。
彼と接した誰もがその能力に驚嘆したという。
従って彼が姿を消した時、白人たちはその力を惜しみ、探し出そうと必死に行方を追った。
結局見つからず、その後何十年もの月日が流れ、もはや亡くなっているものとみなしていた。
そして、今回の降ってわいたようなブラック・ブルの出現は、人々の間に波紋を呼んだ。
ナミは多くの人々から話しかけられ、ブラック・ブルとの出会いについて質問された。
その都度、ナミは正直に話した。
ブラック・ブルの風貌、会話した内容、ナミの将来についての予言、そして心を読まれたこと等。
人々は一様に驚きブラック・ブルと接したナミの幸運を羨ましがった。
そして、保安官からも問い掛けられた。
初めは真実かどうか疑わしいと思っていた保安官も、ナミの具体的な話の内容に信用せざるを得なくなってしまった。
なによりもナミはこの土地に来るまで、ブラック・ブルの名前も知らなかったし、彼から教えられた昔から伝わる名称や逸話等も年長者でない限り知るはずがなかったからである。
さらに、この地域の有力者であるドロシーの父親の耳にも入ったが、彼はナミの養父母の経歴に関心を抱いた。
フランクとエイミーのジョンストン夫妻が教育者として世界各国を回り、それぞれの国の社会に詳しいことから、実業家として夫妻から幅広い情報を得たいと思った。
そして、ナミと夫妻を屋敷の食事会に招待したのである。
その結果、お互い話が弾み親密となって、その後もジョンストン一家が訪問を繰り返すこととなる。
もちろん、それぞれの娘であるナミとドロシーの仲も深まった。
さらにナミは同級生からも一目置かれ、友人も増えて高校生活は楽しいものとなった。
ところが、ナミにとって良好なこの地での生活は長くは続かなかった。
それから2年も経ずして養父のフランクが急死した。散歩中に心臓発作で倒れてあっけなく息を引き取ったのだ。
知人や教育関係者はその死を惜しみ、ナミや周りの親しい人々も悲しんだが、一番ショックを受けたのは長年連れ添ってきた妻のエイミーであった。
彼女は夫を失ったこの地での暮らしに張り合いを失くし、寂しがった。
そして、ナミの高校卒業を待ってエイミーの知り合いの多い生まれ故郷に引っ越しすることになった。
出発の日は親しくなった人々が見送りに駆け付け、涙の別れとなった。
このときナミの脳裏にブラック・ブルの言葉が過った。
『喜びもあるし悲しみもある。出会いもあるし別れもある』
その通りだと思った。
けれども楽しみにしていた三人での海外の旅は叶わないものとなった。
その後、ブラック・ブルの消息はなく名前も聞かれなくなっていく。