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終章  作者: 野原いっぱい
光あるところに陰もあり
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東京(二)


挿絵(By みてみん)


理久と彦次の遺体はそれぞれの家に戻され、葬儀が行われた。

ただ二人の想いを考慮し、両家で相談の上、遺骨は同じ墓に入れることとなった。

この間小太郎の母美緒はほとんど薬嘉堂で過ごした。そして娘の死ですっかり気落ちした嘉右衛門を支えて、弔いの段取りを行い、動き回った。

遠州屋に納骨の相談に行ったのも美緒であった。

そして、ようやく薬嘉堂店内の片づけが一段落した日に、美緒は一室で息子の小太郎と語らった。

今後のことを話し合うためであった。もちろん周囲の者の耳に入らぬよう気を配った。


「母上、私は悔しくてなりません。理久さんが彦太郎と一緒に戻ってきた時、妙だなと思っただけで、なぜ引き返すのを止められなかったかと」


「いえ小太郎、あなたに少しも落ち度はありません。周りの者が口を揃えて屈託のない様子だったと言っていましたから。皆信じられない思いです。むしろ最近、一番長く一緒に過ごした私が理久さんの本心に気が付かなかったのはうかつでした」


「でも、あの時何とかならなかったかと。敏郎も言っていました。あのお竹の正体をどちらかにでも伝えることが出来ていれば、思いとどまったのではないかと・・」


美緒は溜息をつきながら言った。


「私は思うのです。理久さんが言っていたのですが、彦次さんは虫も殺せぬほどの小心で生真面目な性格だったとか。そういう人が騙されていたとはいえ連れ合いを殺めてしまったのです。恐らく自分が許せなかったのでは。それに理久さんは同情し二人は死を選んだのではと思いますよ。よっぽど好きあっていたのでしょうね。もっとも察することが適わなかった自分を慰めているだけかもしれませんが」


そう言った後、美緒は居住まいを正して続けた。


「小太郎、私は決心しました」


小太郎も背筋を伸ばした。


「私はこのままここに留まろうと思っています。つまり嘉右衛門殿の後添いになるつもりです」


一息おいて続ける。


「以前からそれとなくお誘いがありました。けれども私は上林の殿の菩提を弔い供養する身の上、その話題には触れませんでした。けれども今は考えが変わりました。理久さんに先立たれ敏郎さんも近々出征されると聞きました。ご家族に去られる嘉右衛門殿が気の毒でなりません。それ以上に私は嘉右衛門殿の人望に尊敬の念を抱いておりますし、周りの人からは信頼されておられます。更に彦太郎さんの養育の件もあります。もちろん私が適任であるとは思いませんが」


「いえ、彦太郎は母上に懐いております。それに母上のご決断、私に何ら異存はありません。大変喜ばしいことと実感しております。もし上林家のことで続けていくことがあれば、私が引き継いでさせて頂きます」


「ありがとう小太郎。あなたにそう言ってもらえれば、亡き殿からも許して頂けるでしょう。ただ、今までと生活が変わるわけですから、色々と相談しなければなりませんね」


「もちろん承知しております。なんでもおっしゃってください」


二人の話し合いはその後も続けられた。



美緒からの突然の申し入れは嘉右衛門を喜ばせた。

もちろん以前に町人長屋から薬嘉堂へ移らないかと遠回しに勧めてはいたが、美緒が旧旗本の格式のある家の出身だけに遠慮があった。

しかも、不慮の出来事で娘を亡くした直後だけに、思いがけない朗報であった。

店員をはじめ身近な人たちは、美緒の優れた気品と慎み深さを知っているだけに大いに祝福した。

もっとも歓迎したのは、息子の敏郎であった。傷心の父親を置いて出兵することが気がかりとなっていたが、嘉右衛門の喜ぶ顔を見て、これで悔いなく行くことができると安堵した。

嘉右衛門はそれ相応の式事を考えたが、美緒が難色を示した。

理久に不幸があり、また二人とも再婚であることから控えめにすることを望んだ。

結局、ほんの身内だけのささやかな祝言となった。

なお、美緒の旗本時代の親族とは、町家に身を置いた段階で音信が途絶えていた。


その後、美緒は町人長屋を出て正式に薬嘉堂に住まいを移したが、小太郎は敏郎と同様に寮で暮らすこととなった。美緒と相談の上、あくまで薬嘉堂の雇用者である立場を尊重した。


その二人が仕事休みの日に寮で、送別の会食用として調達した食材に舌鼓を打っていた。敏郎はもう間もなく九州に出発することになっている。


「いや、これで俺も思い残すことがなく戦に行くことが出来る」


「なんだ敏郎、その言い方は。今生の別れのようじゃないか。任務が終わればまた戻ってくるんだし、それにまだ戦いがあると決まったわけじゃない」


「ところがどうも間違いなさそうだ。鹿児島県から西郷元参議の暗殺を謀った要員を捕えたとの報せが入ったようだ。真偽は定かでないが、かなりいきり立っていると聞く。もうすでに戦時体制が整えられ、武器弾薬も確保しているらしい。もちろん政府側も俺たち警察部隊をはじめ、各地の軍も九州地区に投入されつつあるとのことだ」


「それは大変な状況だな。実は私のかつて旗本だった同僚が部隊に参加するらしい。幕府体制を崩し旧江戸に乗り込んできた薩摩兵士に一矢報いたいと言っている。もうすっかり今の境遇に染まっている自分には掛ける言葉がなかったよ。本来であれば敏郎と一緒に参加する立場なのに、その意志が気薄になった自分が情けなく思うよ」


「とんでもない小太郎。小太郎は学問が出来るし商才にも恵まれている。だから親父は惚れ込んだじゃないか。逆に俺には全く素質がない。むしろ体力や腕力は人より備わっているつもりだ。もうすでに身分社会はなくなりつつあり、ある程度職業を選ぶことのできる時代だ。小太郎は自分の道を進めばいいし、俺もやりたいことをやる」


「そう言ってもらえると慰めになるよ。だが敏郎、手柄を立てようとして、無茶はするんじゃないぞ。皆が帰ってくるのを待っているんだからな」


「ああ、美緒さんにも同じことを言われたよ。親父と一緒に待っていると。嬉しかったな。だがな、俺たち警察部隊はあくまで援護軍として参加するんだ。戦が始まっても出番はないかもしれん」


「そうだといいがな」


敏郎が少し恥ずかし気に言った。


「なあ小太郎、美緒さんのこと・・おふくろと呼んでいいか?」


小太郎は笑顔ですぐに応じた。


「構わんとも。母上も喜ぶよ」


「母上か、小太郎も変わらないな」


「ハハハ、今さら呼び方は変えられんさ」


二人はお互い可笑しくなり笑い合ったが、その時訪問があった。

二人は入り口に近い板間にいたが、声からすると女人のようである。


「開いてるよ」


と敏郎が声を掛けると、ゆっくりと表戸が開き若い娘の顔が現れた。

遠州屋の娘の咲で、理久と心中した彦次の年の離れた妹であった。但し、母親は違っている。


「ごめんなさい。敏郎さんがこちらにいらっしゃると聞いたものだから」


「ああ、咲ちゃんじゃないか。どうしたい」


「ええ、敏郎さん出征されるとうかがって、おとっちゃんから今の内に礼を言ってくるようにと」


春日巡査と敏郎によって捕えられた源太は厳しい尋問の末、洗いざらい白状した。

遠州屋の若夫婦の間になかなか子が生まれなくて弱っていることを耳にした源太は、連れ合いのお銀をお竹という名前で小間使いとして勤めさせることにした。

そして、お銀と謀り、店主夫妻に気に入られるように努め、一方で若旦那の彦次をおとしいれて、二人の間に出来た子を、遠州屋夫妻の孫として認めさせた。

この間、源太はお銀の兄になりすまし、彦次の嫁の理久を遠州屋から追い出すことに成功した。

けれども結局、この謀に彦次が気づきお銀を手にかけたことから、検視にきた春日巡査が見抜き二人の正体が発覚したが、もしそのまま企みが続けば、遠州屋の財産が横領されるか、罪人の子が後継ぎになるところであった。

だからといって、店主ではなく娘が礼を言いに来たことに首をひねった。


「遠州屋さんはもう落ち着いたかい?」


「おかげさまで。おとっちゃんもお兄ちゃんと理久さんが亡くなったのは、自分のせいだと言ってすっかり落ち込んでいたけど、ようやくもとに戻ったみたい。それと敏郎さんには遠州屋が危ない目に遭わず助けられたってすごく感謝してるわ」


「いや、俺じゃないよ。上司の春日さんが見破ったんだ」


「でも敏郎さんが来てくれたから嘘がわかったんだって。私もそう思う。それと敏郎さんは見違えるように立派になって驚いたって言ってた」


「ああ、そう言えば遠州屋さんに会うのは、姉ちゃんの結婚式以来だったかもしれないな。まだ子供だったからな。もちろん警官になって初めてだったな」


ところがその後、咲がもじもじ両手を合わせながら続けた。


「それでね。おとっちゃんが敏郎さんのことを気に入ってね・・咲のお婿さんには・・敏郎さんのような人がいいんじゃないかって・・」


一瞬敏郎は耳を疑った。隣の小太郎も驚いてしまった。


「ま、待てよ。じょ、冗談だろ。だって咲ちゃんは遠州屋の」


箱入り娘という言葉を呑みこんだ


「大事な娘さんだ。もしかしたらお相手は遠州屋の跡継ぎになるかもしれないじゃないか。俺みたいな警察官じゃあ釣り合いがとれないよ」


「もうそれにはこだわらないって。咲の好きなお相手を探せばいいって。どうやらお兄ちゃんのことで考えを変えたみたい。それとも敏郎さんに決まった相手がいるの?」


「そ、そんな相手はいないよ。俺はこれから戦に行くんだ。もちろん帰ってくるつもりだが、どうなるか判らないじゃないか」



「もし咲が待ってるって言ったら、気にかけてくれる?」


「待つ・・」


敏郎は言い淀んだがすぐに首を振った。


「いや、だめだだめだ。戦に出る人間が心を乱していてはいけないんだ。おい、小太郎からも何とか言ってくれよ!」


小太郎は二人の会話を聞き、笑いを噛み殺した。

一方で咲が正直なのか、活発なのか量りかねた。


敏郎は警視隊の一員として招集され軍事訓練を受けた上で、主戦場となる九州に向かうために仲間たちと船に乗り込んだ。

周りを見渡すと、顔見知りの巡査もいたが、ほとんどが初対面であった。

敵となる相手は薩軍兵士であったが、隊員の中にも鹿児島出身の巡査が多かった。彼らは郷士階級の出身で旧藩時代に城下士から差別されており、維新後も不仲が知られていて、恨みを晴らす気概を持っていた。

また、旧会津藩出身者も多数参加していて、彼らの心に捉えていたのは、戊辰の戦いに敗れた復讐の念であった。

いずれも胸の内に強い意志を抱いており、戦闘未経験な敏郎にとっては圧倒される思いであった。

幾分緊張気味の敏郎に声が掛かった。


「君は東敏郎君じゃないかね?」


初めて見る顔だったが、いわゆる江戸言葉で気安い風情であった。

敏郎が肯くと、


「僕は永井剛という者だが、昔小太郎と塾で机を並べていたんだ。もっとも成績では適わなかったがね」


敏郎は思い出した。小太郎のかつての知り合いが警視隊に志願したと言っていたことを。


「同じ旗本でも僕の家は下級の出でね。幕府崩壊後は人力車の俥夫をして糊口をしのいでいるんだが、いわゆる官軍に戦いもせず敗れたことが悔しくてね、今回の警視隊募集には誰よりも先に応じたわけだ」


「ええ、小太郎からも聞いています。剣の腕は相当なものだとか」


「君もかなりの腕前だそうじゃないか。町民の出身にしては見上げたものだ。ただ僕も君と同様に実戦の経験はないんだ。応募した際には年を嵩上げして、上野戦争経験者と偽って入ったんだが、戦闘は銃が主体になるかもしれないな」


「けれども聞いた話によると、警視隊には実戦経験の豊富な方が多いとか。それも刀剣も交えて戦った即戦力で、農民主体の徴兵兵士より頼りになると」


「その通りのようだな。みたところ皆血気盛んな面魂だな」


「どうでしょうか。本当に戦争は始まるんですか?」


「どうやら間違いなさそうだな。我々が東京から緊急に派遣されるのがその証拠さ」


二人は意気投合しその後も話が弾んだ。

そして九州に上陸したころにはすでに戦いは始まっていた。



「嘉右衛さん、そろそろ参りましょうか」


「すまないねえ。今日も頼むよ」


薬嘉堂から年配の夫婦が外出する。

店員たちが一斉に声を掛け見送る。

この光景が最近の晴れた日の習慣となっていた。もちろん夫は店主の嘉右衛門で妻は美緒のどちらも再婚どうしであった。

美緒はもともと武家出身で夫を殿付けで呼んでいたが、どうも町家では型苦しいため、お互いをさん付けで呼び合うことになった。

嘉右衛門は美緒と夫婦になり大いに喜んだが、ここのところ心労が続いたせいか体調を崩して腰を痛めてしまった。

そのため店内にいることが多くなったが、幸い美緒の子の小太郎が経験を積み重ね得意先や仕入れ先訪問、業者間の寄り合い等、店主の肩代わりできるまでに育っていた。

また、所用や彦太郎の世話は美緒が受け持ったが、嘉右衛門がどうしても外に出歩く必要がある場合は、必ず真横で付き添う美緒の姿があった。

妻は三歩下がって夫に付き従うという意識の強い旗本時代にはあり得なかったが、嘉右衛門の体を気遣う美緒は、そうした慣例を全く意に介さなかった。

また、嘉右衛門もその献身的な介添えを素直に受け入れ、むしろ二人で出掛けることが楽しみとなっていた。さらに誰とも礼儀正しく接し、気軽に声を掛ける二人の性格は、周囲には好意的に映った。

この日も最寄りの神社へ祈願のために出かけていく。もちろん息子の敏郎が無事に戻るよう祈るためであった。

もう何度も二人で通っており、肉親の墓参りとともに慣習となっている。

二人が鳥居をくぐり参道を歩いていると、前方の拝殿で熱心に手を合わせ祈っている娘が目に入った。


「あらあの娘さん見たことがあると思ったら」


美緒が指さすと、嘉右衛門も気が付いた。


「どうやら一人のようだな。何を祈っているのかな」


「どうでしょ。あとで声を掛けてみませんか?」


「そうだな。迷惑でなければいいがな」


二人はその様子をながめていた。



戦いは薩軍の熊本城攻撃で始まった。

熊本城には政府軍の熊本鎮台が籠城していた。挙兵の名分としては、西郷暗殺疑義の追及であったものの、実際には明治政府の権力に反抗する薩軍の暴発といっていい。

戦闘は薩軍の激しい攻撃にもかかわらず、籠城兵士が決死の覚悟で守り抜き結局落ちることはなかった。

戦線は各地に拡大してゆく。熊本の北方では薩軍の猛攻によって、政府軍の連隊旗が奪われてしまい、隊長の乃木希典は大いに後悔した。

そして田原坂では両軍ともに激しい射撃をしあって、死傷者があたり一面累々と横たわる凄惨な戦場となった。政府軍は猛射を加えて銃剣で突撃するも、薩軍は応射を試みながら斬り込み攻撃で応戦する。

政府軍は火力では勝っていながら、西郷隆盛と薩摩隼人に対する恐怖心があり、戦いは困難を極めた。

こうした中、警視隊は剣術に秀でた者を選抜、抜刀隊を編成し対抗する。

そして、敏郎を含む後続の警視隊が前線に投じられることになった。



薬嘉堂も加入している薬種業者の寄り合いの仲間から連絡が入った。

横浜にある外国商館で洋薬の売り込み披露があるため、有志で参加するための嘉右衛門への誘いであった。ただ、嘉右衛門は体調を崩しており、代わりに小太郎を推薦し了承を得た。

最近は店の仕事のほとんどを小太郎が任されていたが、薬材に精通し人当たりが良いことから周囲の評判はよかった。

嘉右衛門は、小太郎が妻となった美緒の子で、身内となったため、由来のある嘉右衛門の名を継がそうと考えていた。ただ、美緒に言うと、時期尚早でまだまだ嘉右衛門に頑張ってほしいと一笑に付された。


数日後、小太郎たち業者仲間は新橋まで行き、そこから開通している蒸気機関車に乗り横浜に向かった。

もちろん小太郎は初めての乗車で、科学技術の進歩に驚き、流れていく車窓の景色を思う存分楽しんだ。

次回はぜひ家族となった嘉右衛門や美緒、彦太郎と一緒に乗りたいと思った。

参加者の中では小太郎が一番若かったが、その誠実な人柄に皆から好感を持たれた。初めて会う顔ぶれであったが、すぐに打ち解け薬剤業に関する様々な話を聞くことができた。

ところが途中駅を過ぎて、年配の店主の一人が、胃の腑の痛みを訴え苦しみはじめた。

持参の痛み止めを飲み、静かにしていれば良くなると言っていたが、電車の揺れもあって、顔は蒼白で悪くなる一方であった。

そして、横浜に着いたときは、店主はすっかり青息吐息の状態になっていた。

そのため、駅近くの医者で診てもらうことになり、小太郎が付き添うこととなった。

他の仲間とは後で合流することになったが、幸いなんとか歩いて行ける場所に医院の看板が掛かっており、ちょうど開業中であった。

診察を依頼すると、小太郎より一回り上だがまだ若い医師が対応してくれた。

診療の結果、食あたりだとわかり、店主は処方薬を呑みしばらく安静にしていることにした。

その間、患者がいなかったこともあって、小太郎は医師と語りあう機会を持った。

最初は医者と薬剤業者の共通の話題が主であったが、小太郎が旧旗本の息子であることを知ると、相手は俄然関心を示しはじめた。

その医師も地方の出ではあるが、階級は低かったが武家出身であると言う。

更に小太郎が武門を離れて薬嘉堂に奉公するまでの経緯を知ると、大いに同情し自らが医者になるまでの道のりを語ってくれた。

若い頃、藩の学問所に通っていたが、恩師の働きかけで長崎留学生に選ばれたこと。

伝習所で学んでいるうちに医学に興味をもち将来医師になろうと決意したこと。帰藩後、更に医術を深めるには横浜の西洋医学に詳しい私塾が相応しいと判断、入門に至った経緯。

さらに医学知識を積み重ね、今の医院に補助要員として通うことになったが、医長の娘に見初められ医院を継ぐことになったのである。

二人は話が弾んで、お腹の具合が回復した店主と暇乞いをするころには、すっかり親しくなっていた。

これが小太郎と坪井数馬との出会いであった。



「伏せろ、伏せるんだ!」

あたりを弾丸が飛び交っている。敏郎も必死で頭を地面に張りつける。

横目で見ると、味方兵士が敵陣に向かって銃を連射している。

耳が張り裂けそうになるほどの濁音がする。

効果があるのかさっぱりわからない。

敏郎が所属する警視隊は、熊本に上陸し、薩軍の主力が展開する戦線に投入された。

政府軍は戦局を有利に運ぼうと重点地区に兵を送り薩軍と対峙、猛攻を仕掛けた。戦闘は熾烈を極め、攻める側、守る側とも銃の撃ち合いとなった。

双方ともかなりの犠牲を強いることとなり、銃弾に当たった兵士が地面に横たわる。苦痛にあえぐうめき声、助けを求めるかすれ声があちこちから聞こえる。

けれども皆、自分の身を守ることが精いっぱいで動きようがない。衛生兵もいたがほとんど役に立っていなかった。

『撃て!撃て!』の声が耳をとらえる。敏郎も不十分な姿勢ではあったが前方をみすえて銃を連射した。ほとんどめくら撃ちに近かったが味方への誤射は避けねばならない。

ようやく銃声が途絶えた時、ふと横を見ると、先ほど見た味方の兵士が仰向けに倒れていた。

運悪く眉間に命中したようで口を開け、顔は血まみれ、明らかに絶命している。

誉れも功もなく初めて来た僻地でのあっけない人生の幕切れ。

敏郎は寒気を覚え身震いした。


「なぜ俺はこんなところに来てしまったんだ」


との思いが頭を過る。

それもつかの間、『今だ!前進!』の号令。

周りの気迫が不意に浮かんだ感傷を吹き消し、体が勝手に動く。

仲間が体を低くして前進していく。敏郎も立ち上がり後に続く。

ところが途中で何かに足を引っ掛け転倒してしまった。

起き上りよくみると、見知った顔が倒れていた。

船中で親しくなった永井剛であった。胸に血溜まりが見えどうやらいけないようだ。

意気込みとはほど遠い過酷な現実。敏郎の頭に猛烈な怒りが渦巻いた。もはや自分の身を守ろうという気が消失してしまった。

前方では敵陣に達した味方兵士が刀剣で斬りかかっている。あの勢いからすると戊辰の戦の生き残りであろう。こうなると銃は用を成さない。

剣や素手で敵を倒すか、あるいは倒されるかの百兵戦である。

敏郎は立ち上がり刀剣を片手に駆けだした。今度は頭を下げもせず修羅場に向かって行く。



「どうやら戦は激しくなっているようだな」


紙面を読みながら嘉右衛門は溜息を吐いた。


「大丈夫ですよ。敏郎さんは予備の部隊にいるんでしょ。危険なところには行かないはずですよ」


美緒が嘉右衛門の肩を揉みながら語りかける。


「そうだといいんだがな」


「それに私たちが何度もお参りに通っているじゃありませんか。きっと無事に帰って来ますよ」


九州での戦局は購入していた報知新聞の戦地直報欄に記載されており、ある程度知ることができた。

夫妻も目を通していたが、お互いにいたわり合うことで、二人の絆はさらに強くなっている。


「ところで小太郎のほうだが、知り合いから、いい縁談があるがどうだろうと言われてね。帰ってきたら勧めてみようと思うんだが、本人の気持ちはどうなんだろう」


今度は美緒が溜息を吐いた。小太郎は今薬種業の仲間たちと横浜に行っていた。


「それは以前から本人の意思を聞いてはいるんですが、全くその気にならないって言っていますね。理久さんの件もあったんですが、今は兄弟以上に親しい敏郎さんが戦に行っているのに自分だけが所帯を持つ気にならないって。私もその気持ちがわからないでもないですよ」


「なるほど、それもどうやら敏郎が帰ってきてからになりそうだな」


そのとき、店頭のほうから幼い声が掛かった。


「ばっちゃ。行こ」


今は亡き理久の子の彦太郎である。昼先から美緒と一緒に縁日に行くことになっていた。


「はいはいもう行かないとね」


美緒は立ち上がり彦太郎の方に向かう。


「ははは、すっかりおばあちゃん子になってしまったな。そう言っては悪かったかな」


「構いませんよ。私はもうおばあさんですよ」


笑顔で答えながら孫の手をとって表に出た。店自体は開いており、数人の店員が客の応対をしている。


「じゃあ行ってきます」


「ああ、ゆっくり楽しんでくればいいよ」


後から嘉右衛門が声を掛ける。


「あら、少し風が出てきたわね。じゃあ参りましょうね」


美緒と彦太郎は手をつないで歩きだした。それを嘉右衛門が見送る。


それからしばらく経って近くの家屋から出火した。



敏郎が踏み込んだ辺りは、敵味方が刃を交わす乱闘の場で、酸鼻を極めていた。

地面には切断された手首や、体の一部と思われるものが転がっている。

血の海の中に横たわる動かぬ兵士。

腹部を切り裂かれてのたうち回っている者や顔面が真っ赤に染まっている者はもはや助からないのではあるまいか。

飛び交う絶叫、怒号、まさに地獄絵図であった。

普段の敏郎であれば目を背けた情景であったが、今は感覚が麻痺し闘争本能が意識の全てを占めていた。

敏郎の目の前に味方兵士と刃を切り結んでいる敵兵が背を向けている。

どちらも渾身の撃ち合いを繰り返しているのであろう吐く息は荒い。

敏郎の頭には、もはや道場で学んだ武道の心得も何もなかった。

卑怯と言われても抜き打ちと言われても敵を倒すのみ。刀剣を両手で握りしめ真っ直ぐ敵兵の背中めがけて向かって行く。

ところが、相手が避けたのか、狙いが狂ったのかかすりもしない。

敏郎はそのままの恰好で地面に突っ込んでしまった。

ただ、思わぬ割り込みの出現で体勢を崩した敵兵の体に、味方兵士の切っ先が振り下ろされる。


「ぎゃあ!」


耳に届く断末魔の叫び。血ふぶきが敏郎にも降りかかる。

崩れゆく敵兵とは逆に、多少顔を擦ったが命には別条はない。


「加勢、痛み入る。大丈夫でござるか?」


手を差し伸べた味方兵士は、明らかに武家出身で戦い慣れしているようだ。

敏郎がうなづくとうっすらと笑みを浮かべた。年恰好からすると、かなりの年配者のように思える。


「よし、次に参ろうか」


倒れた敵兵を一瞥して歩き出す。

敏郎はその無駄のない物腰を見て、自らを恥じた。

ところが、後に続こうとした途端、その味方兵士が前のめりに倒れた。どうやら流れ弾が当たったようだ。


「頭を下げろ!」


と言いながら別の兵士が駆け寄る。

抱き起したが、額に被弾したようで体が痙攣しておりほとんど虫の息であった。

何度も悲痛な表情で名前を呼びかけているが、もちろん答えるはずがなかった。

どうやら親しい武家仲間で目上の人物が果てたようだ。あっけない最後だった。

傍らでこの様子を見届けている敏郎は思った。もしこの戦争で生き延びることが出来たとしたら、おそらく手を差し伸べてくれた笑顔を一生忘れないだろうと。


「くそ、許せん。奴らの後を追うぞ」


仲間の死を嘆き悲しんだ兵士は起き上り、撤退しつつある薩摩兵を追い始めた。

少しでも仕返ししなければ気が済まないのであろう。

数名の同僚も後に続く。もちろん、敏郎も後を追った。

けれどもその追跡はある意味では一部兵士の独断の行動で、しかも土地勘のない者にとっては大変危険であった。

半刻くらい進んだ時点で、敵兵を見失い味方本隊の位置もわからなくなってしまった。周囲は山林で道らしい道はなかった。

最初は敵兵の辿った後を推し計って追跡していったが、途中であきらめただひたすら広い場所に出ることを目指した。

ところがそれぞれが勝手に歩きまわる内に、敏郎自身が他の仲間とはぐれてしまった。

今まで東京の街中から出たことのなかった敏郎にとっては、全くの五里霧中の土地であった。

それでも自らを励まし半刻ほど草木をかき分け山中を進むと、樹林地帯を抜け開けた丘に辿り着いた。

ところが、ほっと安堵し周囲を確認もせずに茂みから飛び出してしまったのがいけなかった。


『ダーン!』


という音を耳にすると同時に体に衝撃が走った。

倒れはしなかったが、銃弾が命中したことは明らかであった。よく見ると左腕の服が焦げて血が滲み出ている。

今のところ命には別条なかったが不注意としか言いようがなかった。目を凝らすと左前方に三人の薩摩兵がおり、一人が銃を構えている。

敏郎はもはや戦うしか術はないととっさに決め込んだ。

むしろ今まで無事だったこと自体運が良かったのだ。幸い右手は使えて刀剣を握っている。

敏郎は薩摩兵に向かって剣を振り上げ駆けだした。


「うわあ!」


生き延びるつもりはなかった。いや今度は間違いなく撃ち抜かれてしまうだろう。

一瞬家族や親しい人達の顔が頭に浮かんだ。自分の帰りを待っている人たちの顔を。

敏郎は、


『すまない、すまない』


と詫びながら走った。



*

「楽しかったかい」


「うん」


美緒と彦太郎は近くの神社境内で催されている縁日を楽しんで帰る途中であった。

彦太郎の手には綿菓子が握られており、歩道の両側に並べられた屋台や見世物の見物に充分満足した様子であった。

美緒も孫同然の彦太郎とにぎやかな風景を心ゆくまで楽しめ童心に戻った面持ちであった。

ところが、帰り道を進むに従って、周囲の気配が慌ただしく感じられるようになった。

何人かが急ぎ足で追い越していく。立ち止まっている人々も前方を見ながら心配そうな表情で話し合っている。

美緒は歩を進めながらいぶかしく思った。

そして、しばらくして『火事・・』と言っているのが耳に入った。美緒は胸騒ぎした。

更に進み、見通しのよい場所にくると、前方の空が赤く染まっている。

その方向に美緒たちが帰ろうとしている薬嘉堂があった。


「彦太郎、急ぐからね」


美緒はそう言いながら駆け足になった。

けれども彦太郎と一緒ではあまり早く走るわけにはいかない。

気ばかり急きながら延焼区域に近づくと、周りに野次馬が集まっていた。

人々をかき分け更に進むと、前方で消防夫が火消し作業に駆け回っているのが見える。

火の粉が舞って煙が家屋から噴き出している。

その先に位置する薬嘉堂も類焼を免れなかったようだが、少なくとも火元であるはずはなかった。

店の者は避難しているはずである。美緒は見知った顔がないか見回した。

すると少し離れたところから声が掛かった。


「奥様、奥様、ここです。ここです」


店の古参の店員で後にはいつもの顔ぶれがいた。


「皆さんご無事でしたか。良かったですね」


そう言いながら彦太郎と一緒に近づくと、どの顔も怯えた様子がうかがえた。

女子店員の目には涙が浮かんでいる。


「店はどうやらいけないようですね。でも体さえ大事に至らなければ」


美緒は皆を力づけようとしたが、古参店員の顔は曇ったままで、


「で、でも・・」


と後の言葉が続かず言いよどんだ。美緒はふっと気づいた。


「嘉右衛さんはどこですか?」


古参店員は助けを求めるように一瞬背後を見たが、観念して話はじめた。


「て、店主はまだ店の中にいらっしゃいます」


美緒は絶句し、燃えている店の方向に目を向けた。


「近くの家屋から火の手が上がって周りが騒がしくなったんで私たちも覚悟していたんですが、あまりに火の回りが早くて店主も一緒に店の外に出たんです」


「じゃあ、なぜ?」


古参店員は辛そうに続ける。


「ところが火が店に移ったのを見ると、急に店主が『だめだ、だめだ』と言われて。『この店は小太郎のものだ。敏郎も帰ってくる』と言いながら店の方に走られ、あっという間に中に入っていかれました。突然のことで引き留めようがありませんでした。私も後を追って店の中に入ったんですが、見当たらなくて、その内煙が充満してきて外に飛び出してしまったんです」


美緒は燃えさかる炎の中に嘉右衛門の姿を思い描いた。


「奥様、大変申し訳ありません。このようなことになってしまって・・」


身を震わせながらうなだれ後が続かないようだった。


「そう、嘉右衛さんはそのように言ってましたか」


美緒は表情を変えずに淡々と語った。


「誰が悪いのでもないですよ。皆さんには日ごろから大変感謝しておりましたから」


そしてふと思い出したように言った。


「嘉右衛さん。不自由されているわね。行ってあげないと」


皆一瞬、聞き違いかと思った。美緒は振りむいて続けて言った。


「お願いがあります」


そして彦太郎の頭に手を乗せ微笑んだ。


「小太郎が帰ってきたら、彦太郎をよろしくと伝えてください」


「お、奥様・・それは・・」


「ああ、それから、私は大変幸せだったと」


美緒はそう言いながら頭を下げた。その顔は普段と同様に優しげであった。

そして再び燃え盛る炎の方に振り向き走り始めた。


「奥様!」


店員達は引き留める間もなく、呼びかけるだけで精一杯であった。

ただ美緒にはその声は耳に入らず、立ちはだかる炎の熱さも黒煙の恐怖も全く意識の中にはなかった。

目に映るのは自分が来るのを待っている嘉右衛門の姿であった。




*

敏郎が坂を駆け下りると、剣を手にした兵士が立ちはだかっていた。

もはや前に進む以外なく、正面にその顔をはっきり捉えた位置で剣を振り下ろした。

ところが相手の刀に触れた瞬間、敏郎の剣は弾き飛ばされてしまった。

明らかに力負けでとても敵わないと思った。それに疲れ切っていて、動くことすらままならない状態であった。

敏郎は腹をくくりその場に座り込んだ。


「もうこれまでだ。一気にやってくれ!」


と大声で叫び、首を前に倒す。


「せからしか!」


薩摩兵が刀を振り上げる。

とその時、


「やめろ!」


別の兵士から声が掛かった。

そして敏郎の前まで歩いて来る気配。後の兵士は指図に従っている様子。


「どうやら一人のようだな。君は東京者か?」


前に立った兵士から声を掛けられた。敏郎の口調で判断したようだ。


「そ、そうだ」


とそのままの姿勢で答えると、更に問われた。


「武家出身ではなさそうだな」


「ああ、俺は薬屋の倅だ。だが覚悟はできてる」


「薬屋?」


少し間があった。何か考えているようだ。

このとき敏郎は初めて気が付いた。相手も東京方言であることを。


「まあ、死に急ぐこともあるまい」


敏郎はいぶかしく思い顔を挙げた。

そして目の前の兵士を見て驚いた。武器らしい物は持っておらず、西洋風の軽装であった。帽子も簡素なもので幾分年上だが表情に愛嬌があり、おおよそ兵隊らしくなかった。

更にその後の言葉に戸惑った。


「君に頼みたいことがある」


敏郎には答えようがなかった。


「私たちは相手が憎くて戦っているのでなければ、私利私欲で戦っているのでもない。日本の国を世界に通用する良い国にしたい。その気持ちに何ら偽りはない」


一呼吸置き続けた。


「君が東京に帰ったら街の人たちにそう伝えてほしい」


言い終わると口元を緩めうなづく。敏郎は呆気にとられてしまった。


「頼んだよ!」


と言って二人の部下と思われる兵士に合図し歩きはじめた。

三人は敏郎から離れて行く。

敏郎は思った。このまま行かせていいものかどうか。

今のままでは敵の慈悲で命を助けられたことになってしまう。死んだ者たちに顔向けができない。

思わず敏郎は呼び止めた。


「お待ちを!」


三人は立ち止まり振り向いた。

ところが敏郎の口から出た自らの言葉は意外なものであった。


「お名前を」


すると先ほどの話をした兵士が答えた。


「私の名前は宮田賢一」


そう言って敏郎に笑みを寄越した。


「さらば!」


と片手を挙げつつ再び歩き始めた。

敏郎は座った姿勢のまま茫然と後姿を見送る。

一方で宮田という名前を耳にした覚えがあった。記憶を手繰ったがどうしても出てこなかった。

前方で時折、部下の二人が振り返るのは警戒しているからであろう。

敏郎は三人が林の中に入り見えなくなってからも、しばらくは動けなかった。

もうすっかり精も根も尽き果てていたから。

それでも立ち上がり地面に転がっている剣と鞘を取りに歩いたのは、反対側の林から人が来る気配があったからであった。

もし再び敵が現れたら。もはや戦う気力は喪失していたが、かといってこの場から逃げる気もなかった。

やはり間違いなく枝葉を掻き分ける音が聞こえ、固唾を呑んで見守る。

そして現れた先頭の兵士の服装に見覚えがあった。

間違いなく味方兵士で敏郎は手を上げた。先方も気づいたようで敏郎の方を指さす。

かなりの人数のようで、一応数人は銃をかまえたままで敏郎に近づく。

その内一人が顔を見据えて言葉を発した。


「雲!」


味方を確認する合言葉である。

すかさず敏郎も答える。


「風!」


「間違いなくお味方のようですな。どちらの部隊であられるかな?」


それを合図に銃が下ろされる。どうやら隊長各のようだ。


「私は警視隊の東敏郎です」


「おお、警視隊は敵に猛攻撃を加え勝利に導いたと聞いております。今はおひとりかな?」


「薩摩兵を追跡中に仲間を見失ってしまいました」


「左肩を負傷されていますな。おい救護兵!」


隊長は銃で撃たれた傷を部下に手当させながら、戦闘の経緯を尋ねた。

敏郎は敵との交戦で繰り広げられた銃撃戦、その後の百兵戦、さらに薩摩兵の撤退時の追撃の様子を詳しく説明した。

その戦闘の際に同僚が多数命を落としたことも付け加えた。

ただ、追跡中に仲間とはぐれたことは伝えたが、三人の薩摩兵と遭遇し命拾いしたことは話さなかった。


「それはそれは大変な戦いを遣り遂げてこられたわけですな」


隊長は敏郎の話に驚嘆する一方で、ねぎらいの言葉を重ねた。

そして、今後の戦いの参考にしたいと礼を言った。

ただ、隊長の次の話には、敏郎は衝撃であった。


「実はここまで来る林道で数人の味方兵士が倒れていましてな。いずれも全身に銃で撃たれた跡がありました。どうやら待ち伏せされたようですな」


それぞれの兵士の姿形から、敵を追跡した仲間であることがわかり、深い悲しみを覚えた。

ただ、敵兵の『我々は憎くて戦っているのではない』という言葉が頭をよぎり、前の時のような憤りを感じず、虚しさが全身を覆った。

隊長は同情し敏郎を慰めた上で、とりあえず同部隊への合流を誘い掛けた。

もちろん他に選択肢はなく同行し、次の戦場におもむくこととなった。

ただ、敏郎には以前のような戦意はもはやなくしていた。



その後の両軍の戦いは、新たな増援部隊が逐次投入される官軍が有利となり、薩軍は苦戦を強いられていく。

そして、各地の戦場で薩軍は敗北して、撤退を繰り返す。最終的には鹿児島に辿り着いた敗残兵が、城山に立てこもり、総大将の西郷隆盛が自刃して戦いは終結する。

この双方合わせ一万三千人余りの死者を出した国内最後の内戦が終わり、次の時代は自由民権思想が潮流となっていくのである。




*

小太郎は寮の部屋で今までの自身の書付を読み返していた。

それは薬嘉堂に勤めて以来、いやそれ以前からの薬剤に関する資料である。

当初は覚え書きとして紙に綴っていたのが、次第に内容が多岐にわたり、今後の役に立つと思われるものは全て書き残すようになった。

薬剤の種類から処方、価格等、更に仕入れの方法、顧客に関することまで、ありとあらゆる事柄が網羅され相当な量となっていた。今となっては小太郎にとって大変貴重なものとなっている。

先日の火災で店全体が消失してしまい、焼け跡には使い物にならなくなった残骸があるだけであった。

ただ、寮のほうは火の手を逃れて無事であった。しかもそれらの書付を寮で保管していたのは、不幸中の幸いといって良かった。

店を再興しようとするには、なくてはならない資料となっている。

小太郎が繰り返し目を通していると、表から声が聞こえてきた。


「小太郎はいるか」


その声には聞き覚えがあった。

小太郎は急いで部屋から出て表戸の方に走った。


「敏郎!」


入り口にいたのはまさしく敏郎に間違いなかった。

左肩を布で吊るしてはいたが、表情は以前と変わらず元気そうであった。


「今戻った」


と敏郎が言うと、小太郎は近づき満面に笑みを浮かべながら両肩に手を添えた。


「待っていたよ。良かった。良かった」


しばらくお互いの無事を喜び合った。

しかしそれはつかの間にすぎなかった。小太郎には伝えることがあったのだ。

けれども切り出す必要はなかった。


「俺はここに来る前に店に寄ってきたよ」


「ああ、見て来たのか」


「ちょうど焼け跡に店の者がいて話を聞いた。もらい火だったこと。それに親父とおふくろが亡くなったことを」


「済まない。私がいてこんなことになるなんて」


「小太郎には責はないさ。その時は横浜に行っていたそうじゃないか」


「その通りなんだが、あの時行かなければよかったと、いまだに後悔してるよ」


「親父は店が焼けるのが堪らなかったようだな。年老いて強い未練を感じたのだろう。でも、おふくろ、美緒さんまで後を追うことはなかったのにな」


「いや、母上にとっては本望だったのかもしれないよ。実は以前の戊辰の折り、父上が自害したときに、母上も後を追おうとしたんだが、幼かった私のせいで決意を翻したんだ。ところが今度店主が店に残るのを目の当たりにして、自分も一緒にと思ったとしても不思議ではないよ。それに理久さんが心中したときも、二人がうらやましいとふと口にしたこともあったからな」


「そういうことか。だがな、俺はこの戦争で多くの人が命を落とすのを見てきたんだ。まさにこの世の地獄だったよ。けれども帰ってきて、いるべきはずの肉親がいなくなっているのはひとしお寂しい思いさ」


「それは私も同じ気持ちだが、残された彦太郎のことを思うと不憫に思われてな。ただ、敏郎が戻ってきて正直ほっとしたよ。その肩の傷は大丈夫なのか」


「ああ、銃の弾が掠ってな。もうかなり良くなったよ。まあこれだけの傷で済んだのは運がよかったとしか言いようがないよ」


「そうか、さぞかし大変な目にあったんだろうな。ところで戻ってきたら相談しようと思っていたことがあってな。もう少し落ち着いてからの方がいいか」


「いや構わないよ。今聞くよ」


「実は薬嘉堂を再建しようと思っている。店主が炎に包まれた店に駆け込む時に、私や敏郎の名前を繰り返し言っていたそうだ。私たちのためにある店なんだと」


それを聞き敏郎の目から涙が滲んだ。


「私も店主にはひとかたならぬ恩義があって、何とか報いたいと思っているんだ。そのためには薬嘉堂を元通りにするしかないと」


「それは俺からも頼む。小太郎なら出来るさ。俺ももちろん協力する。なんでも言ってくれ」


「ありがとう。そう言ってくれると思っていたよ。幸い店主の付き合いが深かった人たちからは好意的に支援を得られそうだ。それと遠州屋が建物の材料を全て供給すると言ってくれている」


「それは姉ちゃんの件で、償いの気持ちから出たことかな」


「それもあると思うが、ある人が強く働きかけてくれてな」


その時表から女性の声が掛かった。


「どうやらその本人が来たようだ」


小太郎が返事をすると、戸が開けられ清楚な顔が現れた。

そしてその両目が敏郎に注がれると、満面笑顔に変わった。


「やっぱり間違いなかった。嬉しい。敏郎さん帰っていらしてすごく嬉しい」


遠州屋の娘の咲であった。

敏郎は驚いた。以前に会った時の子供っぽさは見られず、すっかり大人の女性に変身していた。

しかも気品があり言葉遣いも違っている。


「あ、ああ今戻った」


かろうじて返事したが、その途端咲の瞼から涙がこぼれ落ちた。


「信じていました。敏郎さんが帰って来られるのを信じていました」


頬をつたう涙を拭きもせず咲は続けた。


「私が神社で無事の御帰還をお祈りしていた時、ご夫妻に声を掛けて頂きました。私がお参りの理由をお話しすると、お父様が敏郎さんは必ず帰ってくるとおっしゃいました」


「お、親父がそう言ったのか?」


「ええ、奥様も信じて疑っておられませんでした。更にこのようなことも話して頂きました。敏郎さんは小さい時から家でじっとしていなかった。外に出るのが好きで何か理由を見つけては出かけていくが、でも必ず帰ってきたと。だから今回も間違いなく戻ってくると」


「ああ、親父がそんなことを言ったのか」


敏郎は顔をほころばせてうなづいた。がその時敏郎の脳裏に過去のある情景が蘇った。



『おとっちゃん行ってくる』


敏郎は友人との約束があり店から出ようとしていた。

その時父親の嘉右衛門は若い侍の話し相手になっていた。


『ああ、早く帰ってくるんだよ』


『息子さんですか?』


侍が父親に尋ねた。


『ええ、そうなんですがね。家の商いなど見向きもせず外に出て行くのが好きで弱っております』


するとその侍は敏郎を引き止め話しかけた。


『おいぼうず。ぼうずは将来何になりたいんだ?』


『ああ、決まってるよ。お侍になりたいんだ』


そう言うと侍は面白そうに笑い出した。

父親が慌てて口を挟む。


『これなんてことを。ほんとに困った息子なんですよ宮田さん』


『そうかそうか、いやなれんことはない。だがな侍なぞちっともいいことないぞ』



と言っていたあの若侍は確か宮田という名前だった。

もしかしたら敏郎の顔を覚えてくれていて、助けてくれたのかもしれない。

いや、もしかしたら父親が二人を引き合わせてくれたのかも。

偶然なのか。それとも人違いなのか。敏郎の頭を様々な思いが駆け巡っている。


そして、その間も咲の話は続いている。


「お二人はいつでもいいから店にいらっしゃいと誘ってくれました。私がお言葉に甘えて訪問するといつも歓迎してくださって、旦那様からは色々な話を聞かせて頂き、奥様からは女性としての礼儀作法や様々な心得を教えてくださいました。二人とも大変親切で、しかも和やかでとても仲睦まじいご夫婦でした。それなのにあのようなことになって、咲、悲しくて悲しくて」


小太郎は二人だけにしておいたほうがいいだろうと思い、静かに戸を開け表に出た。

外では彦太郎が近所の子供たちと遊んでいた。


「彦太郎、店の方に行くんだが一緒に来るかい」


小太郎が声を掛けると、彦太郎は仲間から離れて駆け寄ってきた。

二人が歩き出すと、寮の戸が開き小太郎に声が掛かった。


「小太郎さん。私が敏郎さんの包帯を換えてあげることになったの。小太郎さんなら包帯のある場所を知ってるはずだと言われて」


咲であった。

ついさっきまで涙顔であったのが嘘のように晴れやかな表情に戻っている。

小太郎は返事をして、彦太郎に待つように言った上で寮に戻っていく。

小太郎は思った。咲さんにはいつも驚かされると。


















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