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終章  作者: 野原いっぱい
光あるところに陰もあり
4/16

東京(一)


挿絵(By みてみん)


「やったぞ小太郎、とうとうやったぞ!」


「どうした敏郎。いったい何があった?」


「どうしたとはご挨拶だな。うかったんだ。東京府の邏卒に採用されたんだ」


「そ、そうか。それは良かったな敏郎」


「どうやらあまり信じていないようだな」


「いや、決してそんな訳じゃあないんだが、邏卒は薩摩の藩士がほとんどと聞いたものだから」


「それがな、近々薩摩人が大挙して国に帰ってしまうんで、補充する必要が出来たんだ。そこで選考にあたって、江戸が名称変更して東京府になっても住んでいる人間は同じで、治安を維持する要員は地元民でもいいだろうということになって、士族ではなく町民の俺にも白羽の矢が立ったというわけさ」


「なるほど運も味方した訳だな。だがそれだけではあるまいさ。敏郎の熱意も買われたんじゃあないのかな」


「その通り。俺はもともと武士に負けまいと昔から道場で剣術の腕を磨いてきたんだ。今回の採用試験で棒術があって、何人かの相手を打ち負かしたら、試験官に気に入ってもらって合格になったんだ。今になって役に立ったというわけさ」


「そうか、あらためて祝福するよ。それでいつから出仕することになるのだい」


「それがな、明日からでも来てほしいって。かなり急いているようだ」


「それは慌ただしいことだな」



江戸幕府崩壊、王政復古によって発足した新政府は、首都を東京に置き、明治初頭に様々な改革を実施した。

それは中央行政全般から地方組織にまで及ぶが、さらなる改革を実現するため、不平等条約の改正と西洋の諸制度の研究を名目に、岩倉使節団が欧米に派遣された。

実際には留守政府が引き続き西洋文明を参考にした諸改革を実施していったが、その過程で征韓論が唱えられ、海外視察からの帰国組と軋轢が生じた。

その結果、政治抗争に敗れた西郷をはじめ留守政府の主要参議が下野することになった。

当時明治政府には官僚、軍人等に薩摩出身者が多数占めたが、周りから慕われていた西郷の帰国と同時に要職を離れる者が多くみられた。



「ところで親父はどこに行った」


「ああ、旦那様は問屋街の縁者のお店に行かれた。もう少ししたらお帰りになると思うんだが」


「わかった。姉貴の嫁ぎ先だな。なかなか子が生まれなくて肩身が狭いようで、親父が慰めに行っているんだろ。亡くなったおふくろの替わりのようだな」


「用件は聞いていないが、留守を頼むと言われたんだ」


「おっと俺もこうしちゃいられない。明日からの支度に取りかからなくちゃ。親父によろしく言っておいてくれないか」


「わかったよ。頑張ってな」


「じゃあ」


と言って敏郎は店から離れていった。



小太郎が薬種店の薬嘉堂に勤めてから数年が経つ。

もうほとんどの扱っている薬の種類と製法、仕事内容を覚え、商いをひと通り任されるまでに至っている。もともとが旗本の子息であったのだが明治維新による幕府崩壊で、前途を悲観した父親が自死してしまったが、興味本位で通っていた嘉右衛門の店に見習いとして誘われた。

敏郎はその息子で小太郎とは剣術道場で親しくなり、帰りに親の店を紹介されたのがそもそものきっかけであった。

今は近くの町人長屋に母親と暮らしており、そこからほとんど毎日通っている。

嘉右衛門は武家屋敷から放り出される母子の境遇に同情したことも事実だが、それ以上に小太郎の誰からも好かれて利発な性格に惚れ込んだ。見込み通り、小太郎の仕事の上達ぶりは目覚ましいものであった。薬種、効用、製法、業務等々、ひと通りの知識をまたたく間に覚えてしまった。

さすがに通っていた塾で成績一番だっただけのことはある。

嘉右衛門は満足げに成長を見守ったが、当の本人は決しておごらず常に謙虚で周りからの評判は良かった。


嘉右衛門に子は男女二人いた。

娘は相思相愛の相手と一緒になりもう5年以上になる。材木問屋の跡取り息子の嫁に納まったのだがいまだに子が授からないのが頭痛の種であった。

一方、息子の敏郎は家業にまったく関心がなく、もっぱら武道等自らの鍛錬に情熱を注いだ。今や武士階級は消滅しつつあるが、武家出身の小太郎と逆であればと、嘉右衛門は溜息を吐く。

それだけに小太郎にかける期待は我が子と変わらないものがある。


その小太郎にも弱味があった。性格的に人が良く情が移りやすいことである。

もう2年前のことだが、薬嘉堂に親の使いで煎じ薬を買いに来る娘がいた。母親は胃腸が悪く無理な外出は控えているようだった。父親は外商の仕事で地方回りが多く、長く家を空けることがあった。

娘は明るい性格で、店先に同じ年頃の小太郎がいると、何かと話しかけてきた。

親しみやすい相手で打ち解けるのに時間はかからなかった。

小太郎にとっては初めての女子との関わりといってよかった。

家の事情で手元不如意となり、娘が薬を買えなくて困っているとき、小太郎が特別に融通することもあった。そのような時に、店の主人の嘉右衛門はしいて何も言わなかったが、日頃面倒みてもらっているおかみさんの方から、


『うちも商いをやっているのだからさあ、人助けもほどほどにしておいた方がいいよ』


と釘を刺されことがあった。ところがその娘がある日から店に来なくなった。お互い親密に言葉を交わしていただけに、小太郎も寂しい思いを禁じ得えなかった。

その理由は十日ほどしてわかった。おかみさんが察して娘の家まで様子を見に行ったのである。そして帰ってくるなり沈痛な面持ちで小太郎に言った。


『小太郎や、がっかりするでないよ。もうあの娘が来ることはないよ。コロリに罹って亡くなったそうだよ。なんてことだろうね。あの娘の定めだと思ってあきらめるしかないね』


小太郎は落ち込んでしまった。もうあの明るい笑顔を見られないとは信じられなかった。

家の使いであちこちに出歩き、発症者から病を移されたことが原因らしい。

ところが、衝撃はそれだけではすまなかった。小太郎を励ましたおかみさん自身が病に倒れてしまったのであった。

もともとが世話焼きで困った人を見捨てておけない性格が災いしたようだ。

自らがコロリに罹ったと悟り、周りの者を近づけないよう引き込もった後、あっけなく亡くなってしまった。


コロリ、すなわちコレラはインド発祥で、江戸時代末期に対馬や長崎に入港した外国船が日本に持ちこんだと言われている。その後、明治にかけて全国に蔓延し、羅病者の致死率が非常に高く人々の間に猛威をふるった。この疫病は患者の便や吐瀉物に汚染された水や食料が感染源で、激しい嘔吐や下痢を伴い、わずか数日で死に至る場合があった。当時は西洋医学でも漢方でも有効な治療法はなく、予防知識も乏しかった。


「なんであんなにいい人たちがこんなことに・・」


小太郎は最も身近な人間が突然いなくなり、涙が止まらなくなった。仕事も手につかないほどの喪失感に襲われた。父親の死去以来の虚脱状態を救ったのは、同じように悲しい思いの嘉右衛門の一言であった。


「小太郎、この病もいずれは治せる方法がみつかるはず。それは薬剤であるかもしれないし、他の措置であるかもしれん。我々の役目は出来るだけ早く、多くの人に伝え、少しでも安心して暮らせる世をつくること」


それまでの小太郎は職業知識を覚え、深めていくことに夢中であったが、この時を境に、一方で自分の生きる意味を追い求めていくことになる。



「お帰りなさい店主」


「ああ小太郎、遅くなって済まなんだ。何かなかったかい」


「ええ、敏郎が来ました。東京府の邏卒に正式採用になったそうです」


「おお、とうとう雇ってもらったか。なかなか難しいと思っていたのだがな」


「敏郎が言うには、薩摩の出身者が役を離れて大挙国に帰ることになったそうです。それで旧士族以外や未経験の者でも選考の対象になったとか」


「なるほど、そういうことか。今維新政府は内紛で大変な状況だと聞く。物騒なことにならなければいいがの。で、喜んでおったか」


「はい、それがもう明日からの出仕だそうで、慌ただしく寮に帰って行きました」


薬嘉堂は店員が住む寮が近くにあり、敏郎はそこに入っていた。


「そうか、あいつもとうとうこの店から離れ独立することになりそうだな。商売のことなど見向きもしなかったからな。まあ念願叶って祝ってやらねばなるまい。ところで小太郎、お前には言っておくが、理久が戻って来ることになりそうだ」


「え!理久さんが。遠州屋さんからですか?」


理久は敏郎の5つ違いの姉で木材卸の遠州屋に嫁いでいた。

敏郎も言っていたが、子が出来なくて肩身の狭い思いをしているようだ。嫁入りした婦人が跡継ぎを産めなくて離縁されたという話はよくあった。ただ遠州屋の長男との夫婦仲はいいと聞く。

もともとがお互い幼馴染で成長して後、遠州屋のたっての要望で婚姻するに至ったのである。当初は両家の関係は良好で特におかみさんが頻繁に時候の挨拶がてら、娘を見に足を運んでいたものである。ところがなかなか二人の間に子が授からないのと、おかみさんの急死でぎくしゃくしだしたようである。

その件で店主の嘉右衛門が頭を痛めていたことは知ってはいたが、実際に出戻りになるとは思ってもみなかった。


「ああ、色々あってな。帰ってきたらよろしく頼むよ」


と言って嘉右衛門は嘆息したが、その理由を詳しくは語らなかった。



*

敏郎は念願の邏卒として勤務することになった。

明治維新によって、邏卒には薩摩藩をはじめ諸藩の藩士が多数従事していたが、彼らはもともとが藩兵でもあったため、自藩の都合で移動すなわち抜けることがあった。

幕府時代は江戸の治安は各奉行所が担っていたが、人口百万人に対して同心がほんのわずかであったため、多数の岡っ引きや下っ引きの町民に維持業務にあたらせていた。そのため、邏卒にも経験豊富な町民も採用されるようになっていった。但し、任務にあたる者は政府の方針で洋式を採用し、決められた制服を身に着けることが義務づけられた。

もちろん敏郎も着用することになったが、新たに制定された階級制度にのっとり、まだ駆け出しであることから最下級の四等巡査に任じられた。

それでも敏郎は晴れがましい気分と同時に幾分緊張気味で職務に携わることになった。

組織は内務省管轄で階級の上には警視、警部、巡査も幾段階にも分かれており、敏郎は心の中で誓った。


「手柄を立てていずれ偉くなってやる」

と。


*

数日が経ち、小太郎が店番していると、理久が嫁ぎ先から帰ってきた。

さぞかし落胆しているものと予想していたが、表情はいつもと変わらず笑顔を見せていた。


「小太郎さん、元気にしてた。今日からまた厄介になるからね」


これに対して小太郎は返す言葉がすぐにみつからなかったが、なんとか、


「こちらこそよろしくお願いします」


と答えた。

小太郎が薬嘉堂にいわゆる奉公に来た時は、すでに理久は嫁入りしていた。

その後、所用で帰って来るたびに、弟と同じ年の小太郎に、気軽に話しかけてくれて、可愛がってもらった。

性格が明るく気さくなところは母親似と言っていい。従って小太郎も気兼ねなく接することができた。


この後、理久は普段通りの会話を二三交わして店の中に入って行った。建屋の表側は店舗で応接の広間の両側に棚があり、所狭しと各種薬剤が並んでいるが、奥にはいくつもの部屋があり、店主家族の住居も兼ねている。理久にとっては我が家同然で躊躇うことなく自分の部屋に向かう様子は、少しも気落ちしたところはみられなかった。

けれども胸の内に憤りを秘めていると知ったのはしばらく経ってからであった。

と同時に今回の出戻りの経緯も知ることとなる。それも当人の口から聞くことになったのである。


「小太郎さん、ちょっといい?」


店番の小太郎が一息入れに他の者と交代してもらう頃合いであった。

理久も店に戻ってからは、掃除や商品の整理等、色々手伝っていたが、小太郎に話があるようで奥の間に誘った。店主の嘉右衛門は外出中で店にはいなかった。

仕事の話かなと思いながら、ついていき部屋に入ると、理久が用心深く襖を閉め、小太郎を座らせた。

そして、正面に座り声を落として真剣なまなざしで言った。


「小太郎さんにお願いがあるの」


いきなりの言葉に少し慌ててしまった

「も、もちろん、理久さんのご依頼であればなんなりと」


「私が帰ってきた理由を知ってるわね」


「え、ええ、子が出来なくてとだけ・・」


「小太郎さんは武家の出身だったわね。どう思う?」


小太郎はためらいながらも記憶を手繰って返答した。


「私の家は旗本だったのですが、家門を守るために子が生まれなければ養子を取ったと聞いております。母から聞いた話では、祖父も親族から選ばれて家督を引き継いだそうです」


「そうよね。遠州屋は商家だけど大店なのでそういう話も出たこともあったわ。でもそれが難しくても彦さんとは一緒に暮らしていこうって誓い合っていたわ」


彦さんとは理久の亭主で遠州屋の若旦那である彦次のことである。


「それがあの女のおかげでこんなことになったのよ」


理久は憤懣やるかたのない口調で言った。


「あ、あの女とは・・」


「去年遠州屋が雇い入れた住み込みの小間使いで、お竹と言って主夫妻の世話掛かりよ。本人は二十歳と言っているけど本当は幾つかわからないわ」


「その小間使いの女が何かしたんですか?」


「そうよ。数か月前に材木問屋の会合があって、体調を崩した舅の代わりに彦さんが出席したんだけど、宴会でしこたま飲まされて帰ってきたの。もともとお酒には弱い方でどうして帰ってきたのかはっきり覚えていなかったようで、朝酔いが覚めたらお竹の部屋にいたのよ。私も心配でその夜は寝ずに待っていたんだけれど、お竹から呼ばれるまで気がつかなかったわ。その時にお竹は何もなかったから安心してくださいと言ってたのよ」


小太郎はその場の状況をなんとなく想像できた。


「ところが最近になってお竹が子をみごもったと言ってきたの。もう4月くらいで彦さんの子に間違いないって。ちょうど会合の後、お竹の部屋で酒に酔った彦さんから求められて身ごもったと、それも直接本人に言うのではなくて、主夫妻に話したのよ。お竹は日頃二人に愛想を振りまき気に入られているから叱られることはないと思っていたようね。案の定二人は驚き半分喜び半分で彦さんに問い質したわ。彦さんはほとんど覚えていないけれどお竹の部屋にいたことは認めたの。そして二人はお竹の言うことを信じて、念のため知り合いの産婆に診させたところお目出度は間違いないということになったの」


「それで彦次さんはどう思っておられるんですか?」


「彦さんは当惑しているわ。もともと私との間に子が生まれないのは自分のせいだと思っていたぐらいだから。ご両親もそうよ。彦さんが小さい時に患った熱病のせいだと言っていた矢先のお竹の懐妊よ。二人とも大喜びよ。彦さんは気が小さくて二人に頭が上がらないものだから言いなりよ。そうなれば私の立場がないわ。うまずめの嫁は遠州屋から去るしかないのよ」


と理久は悔しそうに言う。


「主夫妻は穏便に事を収めようとおとっちゃんを呼び、経緯を話したの。おとっちゃんからすれば、店の格が違うのと、私が子を産めないひけ目もあって、相手の言い分を呑まざるを得なかったようね。要するに私が彦さんと別れることで話がついたの」


小太郎は嘉右衛門が遠州屋から渋い顔をして戻ってきたのを思い出した。


「でもね、私はどうしても腑に落ちないのよ。あの時、お竹は彦さんが部屋を間違えて入ってきて熟睡してしまったと言ってたのよ。翌日も二日酔いで気分が悪そうだったわ。お竹と間違いを犯すとは考えられないのよ。だからお竹が嘘をついているとしか思えないの」


「嘘とは、どういう・・」


小太郎は首をひねって質問した。


「お竹には兄さんがいて時々遠州屋に顔を出すの。二人とも地方の出身で、この東京で働くただ一人の身内の妹が心配で見に来るらしいわ。でもどうもおかしい気がするのよ。あの二人は全然似てないし、前に二人が話しているのを近くで見たんだけど、お互いが鼻で笑うような時があって、少しも兄妹らしくなかったわ。私はどうも二人が何か企んでいるような気がするのよ」


「と言うとどのような・・」


「つまり、お竹のお腹の子は彦さんではなくて、別の人の子でないかと思うのよ」


小太郎は驚いてしまった。


「もしそれが事実であれば大問題ではないですか。あきらかに詐欺行為で罪になりますよ」


「そうなんだけど、私が言っても誰も信じてくれないわ。悔し紛れに放言していると思われるのがおちよ」


「だからといって、このまま見過ごしていいとも思いませんが」


「そうなの。お竹の嘘を暴かなくてはと思って色々考えたの。すると一つ方法を思いついたの。私は今でも子が生まれないのは彦さんに原因があると思っているのよ。それはお竹が相手でも同じなはずよ」


そこで理久は一息入れて続けた。


「もし私に子が授かればその証になると思うのよ」


その時、小太郎は理久が考えていることをようやく理解した。

そして小太郎に打ち明けた理由も。その後、ようやく理久の願い事を聞かされることになった。

小太郎は仰天してしまった。

返答するにも、しばらく言葉がでなかったが、ようやく考えさせてほしいとだけ答えた。誰にも相談は出来なかった。

母親にも、もちろん主の嘉右衛門にも。自分で決める以外なかった。

けれども、次の日、理久から昨日の話はなかったことにしてほしいと耳打ちされた。

小太郎は助かったと胸を撫で下ろした。

けれども理久さんはどうするのだろうと疑問が残った。



*

東京府は新政府による一連の改革に伴って、明治初頭に広範な分野で急激な変化がみられた。

まず文化・風俗においては断髪令が出され髷を結う風習がなくなり、士族の帯刀の義務もなくなった。また一般の庶民にも苗字の名乗りが許されるようになり、従来制約のあった肉食あるいは洋食も徐々に普及していった。

一方、教育にも力を入れることとなり学制が発布され、新聞各紙が発行されるようになる。

交通は人力車が普及していくが、西洋化の象徴として、鉄道が新橋~横浜間に開通、蒸気機関車が運行開始となる。又、電信網が整備されていき幅広く通信が可能となっていく一方で郵便制度も開始された。

もちろん街並みも西洋化がみられ、銀座の大火を契機に煉瓦街の建設やガス灯の設置が行われていく。又府内数か所に公園が設けられる。


敏郎も東という苗字を名乗り、巡査として府内の治安維持、警備業務に携わっていた。

採用当初、短期間の教育訓練があったあと、人員不足の影響ですぐに新しく設けられた交番所の勤務になった。管轄区域は生まれ育った場所に近く、その周辺の地理には明るかった。巡査は交番所を拠点に巡回業務を行うが事件や事故が起こった場合は、現場に呼び出されることもあった。

すでに士族の帯刀もなくなりつつあったが、巡査は治安を守る必要性から、制服を着用しサーベルを身に着けていた。勤務体制は交代ではあったが日中から深夜にまで至り、歓楽街や人通りの多い場所もあり事件も散発し、かなり体力的に厳しいものがあった。

巡査の任務は多岐にわたり、殺傷事件、暴力行為、窃盗、騒擾行為、ゆすり、脅し等々の取り締まり、更に留置監視、護送、警備業務も行った。

敏郎にとっては、いずれも初めての経験であったが、行動を共にする相方が、一回り年上だが親切で親身になって色々と教えてくれる。もともとが親藩の江戸藩邸に仕える下級武士であったが、付き合いのあった元勤皇志士の口利きで維新を機に警邏の職に就き経験は豊富であった。

両親に女房、子供を養っていて一家の大黒柱でもあったが、幕末に江戸三大道場の一つ千葉道場に在籍したこともあり剣の腕は立つ。


「東君、そろそろ時間だな、巡回に出ようか」


「はい、私も出られます。参りましょう、春日さん」


この時期、旧幕府勢力の反抗はすでに治まっていた。

けれども版籍奉還や廃藩置県等の施策によって特権を奪われ失業した士族や、勝ち組の勤皇藩でも期待していたほどの恩賞が出なかった藩士たちの不満が募っており、首都となった東京はなにかと物騒な状況であった。

二人は所定の道順で見回りを行っていくが、時間の都合でどうしても目抜き通りや繁華な場所に限られてくる。ときどき顔見知りや協力者に異常がないか声を掛けたり、法に触れるようなことがあれば、注意を促しながら巡回していく。

時には困っている者がいれば手を貸してやり、怪しい人物には職務質問もする。そうすることによって、警察巡査という職の体面を保つことにつながっていく。


二人は町中を抜け地方街道につながる分岐点まで足を運び、元来た道を戻ろうとした。ところが、脇道に一人のかぶり笠の白布で顔を隠した女がたたずんでいるのを見かけた。待ち人がいるのか街道の方に目を向けている。それにしては、立木の陰で人目を避けている風でもあった。

春日は長年の巡査勤めの勘で推し測った。


「もしかしたら、あの女は街娼のたぐいかもしれんな。まだ陽は明るい。ちょっと声をかけてみるか」


確かに客となる通行人を物色しているようでもあった。


「おい、そこの女」


その声に女は二人の方に振り向いたが、巡査だと分かると慌てて木立の奥の茂みに駆けて行った。


「あ!」


それを見て敏郎は思わず声を出した。

その反応を逃げた女に対して発したものと解釈した春日巡査は敏郎を諌めながら言った。


「やはりな。だが追うこともないだろう。この時間に売色するのは何か訳あってのことかもしれんな」


「え、ええ」


「俺も若い頃は安上がりの遊郭や岡場所に何度か足を運んだもんだが、親しくなった相手に話を聞いてみると、農村の実家が貧乏で子供の頃に女衒に売られて遊女になって働かされたままで、もうこの苦界から抜け出すことが出来なくなったと言ってたな。他の女郎も似たり寄ったりで不憫に思えてならなかったよ。ましてや、夜鷹を生業にしている者たちはそれぞれ事情があると思うが、さぞや気の毒な境遇の持ち主だろうさ」


敏郎は適当に相槌を打っていたが、ほとんど耳に入っていなかった。

頭にはさきほど逃げて行った女の顔が焼き付いていた。

もっとも身近な見知った顔であった。


『なぜ、こんなところに・・』


もはや他のことが考えられないほどの疑問が頭を覆っていた。


*

薬嘉堂では主として一般庶民向けの各種漢方、和漢薬を扱っているが、蘭学も含めた医学の普及に伴い常に最新の薬剤を取り揃えていく必要があった。

有名なものでは宇津救命丸、龍角散、紫雲膏、七ふく、中黄膏、百毒下し等々。

奉公人となった小太郎は、仕事のかたわら、一つ一つの薬剤を詳しく調べた上で整理し記載していった。

もともとが学問好きで、新しい知識を学ぶことになんら苦にすることはなかった。

今では手持ちの控え帳がかなりの分量になっており、店で取り扱っている商品のほとんどを認識していた。


小太郎は今日も日課となっている薬剤の在庫を調べるために、店の奥にある貯蔵室に向かった。廊下を歩いていると、店主の居間から大きな声が耳に飛び込んできた。


「な、なに!それは本当なのか!」


「間違いないそうよ。腕の確かな産婆さんにみてもらったら、もう四か月くらいじゃないかと言っていたわ」


「いったい誰の、まさか彦次さんの・・」


「違うわ、残念ながら彦さんの子じゃないわ」


「じゃあ、誰の?」


話しているのは店主の嘉右衛門と理久の親娘であった。聞き耳を立てるのは良くないとは思ったが、関心ごとでもあり立ち止まってしまった。


「おとっちゃんの知らない人よ。もっとも私も誰だったか覚えていないけど」


「ということは・・つまり・・」


「そうよ、知らない人に手伝ってもらったのよ」


「手伝ってもらったって・・お前・・」


小太郎もようやく合点がいった。どうやら理久が身籠ったようである。数が月前、小太郎に決意を打ち明け頼ろうとしたが諦め、別の相手を探し実行に移したようである。

敏郎から理久を普段めった行かない街道沿いで、妙な格好をして一人でいるのを見かけたと聞いていたが、その理由が今になって明らかになった。

嘉右衛門も察したようで溜息をつくのが伝わってきた。


「そんなことより、これで私がうまずめでないことがはっきりしたわ。彦さんの子ができないのは私の所為でなかったのよ。だからあの女が彦さんの子を産めるわけないわ」


「そんなこと言ったってお前・・」


「間違いないわ。あの女が兄さんって言っている男と謀って嘘ついているのよ。皆が騙されているんだわ」


理久は思惑が当たり、いつもより言葉に活気があった。それに対して嘉右衛門は考え込んでいるようだ。小太郎は理久の言っていることが正しいかどうかは分からなかった。ただ真剣な覚悟でいることは伝わってきた。

やがて嘉右衛門が口を開いた。


「それで、そのお腹の子はどうするんだ」


「もちろん産むしかないわ。だって子が出来たって言うだけじゃあ信じてもらえないかもしれないもの。私は産婆さんに子を取り上げてもらうつもりよ。そうすれば間違いなくあの女の嘘の証になるわ」


「するとそれなりの準備をする必要があるな。それともっと大事なことは、周りにそのお腹の子の父親をどのように伝えるかだ。見ず知らずの相手では、世間体が悪かろうし、特に遠州屋の心証を害することになりかねん。それと彦次さん本人はどう思うかだ」


「それは・・」


今度は理久が言葉に詰まっている。理久にそこまでの見通しがなかったのかもしれない。

いや、今は嘘を暴くことに精いっぱいなのだろう。小太郎はその真剣さに心が揺さぶられた。そして何か力になりたいという思いに駆られた。

小太郎は決心した。

そして襖越しに二人に声を掛けた。


「小太郎です。親方様、理久様、失礼とは思いますが入らせていただきます。」


そして、戸を開け中に入った。嘉右衛門は少し驚いたようであったが、小太郎の方を見て応じた。


「どうした小太郎。何か急用かい」


小太郎は戸を閉め、二人の前に正座しておもむろに口を開けた。


「お話を立ち聞きしてしまいました。申し訳ございません」


そして不意に浮かんだ思いを一気にしゃべった。


「お願いがあります。その子の父親を私ということにしてください。経緯はどのような内容でも一向に構いません。私と理久さんとの間にできた子にしてください」


と。

これには嘉右衛門も理久も唖然となり、すぐには返す言葉がなかった。



*

薬嘉堂からそう遠くない距離にある町人長屋から小太郎は通っていた。

幕府が崩壊して以来武家階級であった母親美緒と一緒に暮らしているが、手狭でありながらもこの住まいを気に入っていた。

特に美緒にとっては、以前の旗本屋敷での生活と比べると雲泥の違いがあるものの、人情味のある長屋住民との触れ合いが、思いも寄らなかった夫との死別という心の痛みを、やわらげるものとなっている。

従って、今まで何度か、より住みよい家屋への引っ越しを勧められたがこの場所から動くことはなかった。


今日も、美緒のもとに小太郎が勤める薬嘉堂の主人の嘉右衛門が訪れていた。

もともとが、小太郎の才能を惜しんで助力を申し入れたのだが、初対面の折り、美緒の気品と知性に感服してしまった。

それ以来、小太郎とは店で主従として毎日顔を合わすが、美緒とも時々長屋まで足を運び雑談するのが密かな楽しみとなっていた。

初めの頃は母子二人の不慣れな生活の話が主となったが、連れ合いを亡くした後は、嘉右衛門の家族の近況の話題が多くなった。

この日もおのずと娘の理久について相談することになった。


「まさか小太郎があのような申し出をするとは思ってもみなかったので、正直私も理久もびっくりしてしまいましたよ」


いつもは嘉右衛門も年配同士とはいえ男女二人であることから周りの風評を気遣って、表戸を開けたままで、座敷には上がらず、上り框に腰掛け会話していた。

さすがにこの日は話の内容が噂話になりかねないため、美緒自ら戸を閉めに行った。


「まあ、そういうことでしたの。私には近々驚くようなことを耳にするかもしれませんとだけしか言わなかったものですから」


「なるほど小太郎らしいですな。もっとも親しい者であってもうかつに口にしないその思慮深さが回りから信用されているところなのでしょうな」


嘉右衛門は小太郎を誉めると同時に美緒に対しても同様の信頼感を抱いていた。

良識に優れた女性だからこそ、身内の内密な話や困りごとを打ち明けることができた。


「おそらく小太郎は嘉右衛門殿や理久さんにお世話になっている恩返しの気持ちだと思いますよ。私からはどうこう言うことはありませんわ」


「美緒さんからそのように言って頂くと胸のつかえが下りました。全く娘もとんでもないことをしでかして、おまけに小太郎を巻き込むことになってどうしたものかと弱ってしまいました。ただ、理久は小太郎の申し出を喜んでおりましてな。やはり自分の行為が間違ってないか不安だったようで、理解してくれるものがいて救われた思いだったのでしょうな」


「おそらく美緒さんはご主人だった彦次さんですか、その方をよほど好いてらっしゃるのね。別れたとはいえ騙されるのを見て見ぬふり出来ないのでしょう。もちろん私にはほんとのことかどうかわからないけれど。ただその一途さには同じ女として心を打たれますわ。で、これからどうなさるおつもりで」


「いやあ、どうもこうもやはり男親はいけませんなあ。こういったことにはさっぱり妙案が浮かびません。家内が生きていれば違っていたのかもしれませんが、今となっては娘の言う通りにさせないとしょうがないなと思っております。その内気が変わるかもしれませんが」


「いえいえそれは女親でも同じだと思いますよ。特に妊婦さんになられて大切な時期ですから、ご本人の気持ちが尊重されますわ。するとお子をお産みになるとすると、それはそれで大変ですわね」


「その通りなんですが、先ほども言いましたように家内はおりませんし、事情が事情だけにあまり大げさにもしたくなくて、本人は一人で大丈夫とは言っておりますが、やはり心配でしてな。誰か気心の知れた人を捜そうかと思っております」


「どうでしょう。嘉右衛門殿や理久さんご本人さえよければ私がお手伝いさせていただきますが。幸い私の手間仕事のほうは時間が決まっておりませんし、理久さんとも奥様の御不幸の折り、何度かお会いしておりますし。とはいってもたいしたことはできませんが」


嘉右衛門は妻の葬儀の日を思い起こしていた。

予想もせぬ突然の病死だったこともあり、嘉右衛門をはじめ近親者のほとんどが右往左往してしまった。

けれども薬嘉堂はそこそこ知れ渡っている老舗であったため、相応の葬儀を取り行う必要があった。

ところが前日からお手伝い来た美緒が控えめながらも準備作業に手際よく行動し、つつがなく通夜や告別式を向かえることができた。

本人曰く、主人の時を思い出して動いただけと謙遜したが、その時の作法や物腰には周りの者も感心してしまった。

又、懇意となった理久もすっかり信頼したようだった。


「そのように言って頂けるとありがたいことですが、美緒さんにまでご迷惑かけるわけにはいきません」


「いえいえお気遣い無用です。お話をお聞きし今は少しでも理久さんのお役に立てればと思っています。いえぜひお力になりたいのです。といっても私自身が経験したのは昔のことで、自信があるわけではないのですが」


嘉右衛門は美緒であれば理久の不安な気持ちを和らげることが出来るだろうと思った。

そのつもりは毛頭なかったが、今はその申し出に甘えるしかないと判断した。


「大変恐縮です。ではお言葉に甘えまして無理のない範囲でお願いするとしましょうか。恐らく理久も喜ぶことでしょう」


そして、その後二人は極めて稀な例であることを念頭に置きながら段取りを話し合った。



*

早速、次の日美緒は薬嘉堂に足を運び、理久と話し合った。もちろん理久を傷つけないよう心を配り、同情心を交えて助力を申し出た。

思いがけない味方と情に満ちた言葉に理久は大いに喜び、そして安堵した。

ただ、美緒には一抹の不安があった。人によっては理久の行為が非常識と思われるかもしれない。特に夫であった彦次がどう思うかだ。

そして、その結果を小太郎から聞くことになった。

小太郎には嘉右衛門から頼まれ、理久の世話をすることは話してあった。


ある日の午後、理久は買い物があると出かけて行った。ところが、帰ってきた理久が目に涙を溜め、何も言わずに奥の間に入って行くのに気づいた。

小太郎はお節介と思いながらも廊下を進む。すると半開きになった部屋から嗚咽が聞こえてきた。

小太郎は少し迷ったが意を決して声を掛けることにした。


「理久さん、小太郎です。どうかされましたか?」


理久は顔を上げうなずいた。頬に涙が伝わっている。


「私、今日彦次さんに身籠ったことを話したの」


小太郎は正直驚いてしまった。まさか遠州屋に行って本人に言うとは思わなかった。


「もしかしたら、ふしだらだって言われるかもしれないって覚悟してたの」


理久は指を涙をぬぐいながら続けた。


「そうしたら彦次さん言ってくれたの。すまないすまないって。俺のためにそんな辛いことをさせてしまって・・待ってほしい・・いずれ何とかするからって。そしてその子は産んでほしいって。私の子であれば二人の子同然だって・・私嬉しくて嬉しくて・・」


要するにうれし涙であることがわかった。

小太郎からその話を聞くと美緒の胸のつかえが下りた。



*

征韓論が端緒となった政治抗争で、西郷らの主要参議が下野した明治六年の政変は各地での士族反乱につながる。

すでに四民平等令、徴兵令等の新政府の施策によって特権を奪われた士族は不満が噴出し各地で暴動を起こしていた。急激な変革がもたらした社会現象である。

そして、前参議の江藤新平が関与した佐賀の乱がおこる。

政府は最高責任者の大久保内務卿自らが陣頭にたち鎮圧したが、一方で台湾出兵を実施することによって不満士族の懐柔を図る。

けれども反乱は治まらず神風連の乱、秋月の乱、萩の乱へと続く。

さらに明治初期の大乱西南戦争が起こるのだが、東京府の薬種屋の倅である東敏郎が、戦乱の真っただ中で死闘することになるのはまだ先のことである。


「春日さん、小耳に挟んだのですが、近々我々警察官も西日本に軍隊の一員として派遣されるかもしれないとか」


「ああ、知ってるよ。佐賀では大変な戦いだったとか。まだ不穏な地域があると聞く。志願兵も募っているようだが場合によっては警視庁も座視しているわけにはいくまいな」


「ではそのうち人選があるかもしれませんね」


「そうなるかもしれんが、行先は遠方で間違いなく長期の遠征になるな。ただ俺の場合今は扶養家族が多すぎる。出来れば外してほしいのだがな」


「それに比べると俺は比較的身軽な立場だし、名指しされるかもしれませんね」


「ただ敏郎、できれば避けるにこしたほうがいいぞ。戦さは捕り物とは訳が違う。情け容赦のない悲惨な殺し合いだ。相手が善人悪人にかかわらず殺さなければ殺されるんだ」


「そういえば春日さんは戊辰の折り、戦いに参加されたそうですね」


「ああ、俺も幕臣の仲間たちとともに政府軍と戦うために宇都宮から日光、さらに白河、会津まで行ったよ。最後は降伏してしまったが、仲間が次々と死んでいくなかなんとか生き延びて、今ここでこうしているのは、運がいいとしか言いようがないな」


敏郎は春日巡査以外からも戊辰戦争の悲惨さは聞いていた。

ただ、本当の戦いを体験したことのない若者にとって、講談や読み物で知る興奮を、肌で感じたい誘惑もあった。



*

 数か月のち、理久は元気な男の子を生んだ。

美緒は生まれるまでの身重の間、時間の許す限り薬嘉堂まで出向き、理久の話し相手となり世話を焼いた。その甲斐あってほぼ順調に出産した。

子供の名前は理久みずから彦太郎と名付けた。明らかに前夫の彦次を想う気持ちがあった。

けれども理久の口からは、次第に遠州屋や彦次の名前が聞かれなくなった。特に今の彦次の女房となったお竹が男の子を生んだという噂が流れてからは、その話題を避けているようであった。

さらに理久は色々経緯があったものの彦太郎を可愛いがった。

この様子に嘉右衛門も胸を撫で下ろし、初孫の誕生を大いに祝った。父親がいない分、余計に情が移るようだ。

美緒からみても、理久が抱いていた心の痛手はふっきれ、新たな生きがいを歩んでいくように思われた。

そして、美緒は肩の荷をおろし以前の生活に戻ったが、けれどもそれは甘い見立てであった。


*

明治政府は西郷が参議を辞し帰省した鹿児島を最も警戒していた。

西郷を慕って引き揚げた旧薩摩藩士や鹿児島城下の士族、そして郷士たちがまとまり、政府も干渉できない独立国家が形成されていった。

さらに私学校が開設され集まった青少年に軍事教練がほどこされるようになる。政府への対抗を意識した組織改革であることは明らかであった。

これに対して政府側も軍組織を拡充する必要に迫られた。各地区の鎮台兵士に加え、徴兵兵士や警察官として採用された不平士族等も含め戦時体制が整えられていく。

予想通り警視庁も警官が駆り出され東敏郎もその一員として指名された。


その時に小太郎が勤める薬嘉堂で事件が起こった。

小太郎が店番していると、外から理久が彦太郎を連れて駆け込んできた。

どうやら裏口から散歩に出ていたようである。


「小太郎さん、この子をお願い、私用があって行かないといけないの」


焦っている様子で、小太郎は即座にうなづいた。普段、主人の嘉右衛門と同様に彦太郎のお守をすることがあり、変だとは思わなかった。

ただ、理久は彦太郎の前でかがんで声を掛けた。


「お母さん行くから、いい子にしてるのよ。お母さん行っちゃうからね」


何度も彦太郎の顔を覗きこみ言い聞かせている。母子の触れ合いにしては、すこし大げさであった。

そして、理久は立ち上がり再び小太郎に頼んだ。


「小太郎さん、この子をお願いね。おとっちゃんにもよろしく伝えてね」


このときはじめて気づいたが理久の顔が険しく、瞼が潤んでいる。

小太郎は気になって聞いてみた。


「理久さん、どちらに行かれるので?」


理久は答えず、『お願い』を繰り返し小走りに外に出て行った。小太郎は妙だと思いながらもどうすることもできない。

その後、他の店員と一緒に彦太郎の相手をしながら、店番していたが、一刻が過ぎても理久は戻ってこなかった。

小太郎は胸騒ぎした。いったいどこに行ったのか皆目見当がつかない。

その内、出かけていた主人の嘉右衛門が帰ってきた。

小太郎は、理久が彦太郎を置いて一人で出掛けて行った様子を伝えた。

嘉右衛門は首を傾げながら言った。


「もしや彦次さんに会っているのかもしれないな」


彦次とは遠州屋の前夫であるが、最近はほとんど話題に上らなくなっていた。

とはいっても可能性がなくはない。散歩の途中で偶然出会ったのかもしれない。

ただ、今は待つしかなかった。


成りゆきが急変したのはしばらく経ってからである。

巡査の制服姿の敏郎が二人の前に突然現れた。息が上がっており、駆けてきたようだ。


「ね、姉ちゃんはいるのか?」


表情はこわばり、取り乱した様子である。嘉右衛門は少し躊躇いがちに答えた。


「いや、今はここにはいない。帰ってくるのを待っているところだ」


そして、彦太郎を小太郎に預けていった経緯を話した。


「それはまずい」


敏郎の顔が強張っている。不審に思った嘉右衛門が問い詰める。


「どうした。いったい何があった?」


敏郎は声を潜めて話し始めた。


「遠州屋の若おかみのお竹が首を絞められて殺された。どうやら下手人は夫の彦次さんのようだ。遠州屋からは出てしまっていて行方を追っている」


その話に二人は仰天してしまった。


「住み込みの女中や雇人が深夜、離れの部屋で言い争っている声を聞いている。その内静かになったそうで、朝二人が起きてこず、子供の泣き声がするので、部屋にいってみると、お竹が仰向けに死んでいて、彦次さんの姿は見えなかったそうだ。俺も遠州屋と縁が深いので急遽呼ばれ、検証に立ち会い、そのあと彦次さんの行方を探し始めたんだ」


「それで理久と会っていると思った訳だな。彦次さんがやったのは間違いなさそうか?」


「ああ状況からみて、ほぼ間違いないんだが、検証の際一つ判ったことがあって、出来るだけ早く捕まえたいんだ」


「なるほどそういうことか。小太郎から聞いた様子からすると、二人はどこかで会っているな。恐らく彦次さんが理久を呼び出したようだな」


「では、お二人はいったいどこに行って、何をするというんでしょう?」


小太郎が不安げに尋ねる。三人の顔に緊張が走った。


「捜すぞ、心当たりを捜すしかない」


「とにかく俺はかたっぱしから捜し回る」


「もちろん私も参ります」


そして店は他の店員に任せ、二人が親しくしていた知り合いの家や近郊の社寺、空き家、人気のない場所等を探し回った。

顔見知りには二人を見ていないか確かめ、見かけたら知らせをくれるよう依頼した。

巡査も動員し、街はずれも捜査した。

皆、暗くなるまで足を棒にして歩き回ったが、その日は結局見つからなかった。


そして次の日の朝、二人の姿は思わぬところで見つかった。

前夜から交番所で待機していた敏郎のもとに、神田川下流の橋げたに男女の遺体が引っかかっているとの通報が入った。

敏郎は先輩の春日巡査と一緒に、張り詰めた面持ちで現地に急いだ。

逸る気持ちとは裏腹に別人であってほしいとの願いもあった。

敏郎達が橋の側の土手に着いた時は、すでに二人の遺体は引き上げられていた。

並べられた男女の顔を見た途端、姉の理久と彦次であることが分かった。

敏郎は悄然と立ちつくした。恐れていた通りの最悪の結果となった。


「間違いないか?」


春日巡査は察したようだが、一応聞いてきた。

敏郎は悲痛な面持ちながらもはっきりした声で答えた。


「ええ、二人に間違いありません」


「そうか、それは気の毒だったな」


春日巡査は敏郎の肩に手を掛け慰めた後、振り向いて現場にいた男たちに状況を尋ねた。

いずれも発見者でもある川岸工事の人夫たちであるが、遺体が橋げたを離れ海に流されるのを恐れ、早めに数人がかかりで引き上げたとのこと。

上流から流されてきたが、心中であることは確かで、二人はお互いを縄で結び合っており、それが幸いして離れ離れにならず橋げたに引っかかったようである。

ある程度聴取した後で、駆け付けた別の巡査に、薬嘉堂と遠州屋への連絡、遺体の移送手配を頼んだ。


一刻後、薬嘉堂からは小太郎が駆けつけた。

父親の嘉右衛門は前日捜し回った疲れと悲しみが深く動けない状態だという。ただ、店には小太郎の母親の美緒も来ているとのこと。

小太郎は理久の変わり果てた姿を見るなり、目から涙がこぼれ泣き出してしまった。敏郎以上の落ち込み様であった。

少し後で、遠州屋から彦次の妹が供の者と一緒に現れた。敏郎より年が若く咲という名であった。

咲も寝かされた二人を見て泣いてしまったが、更に、


「なんてこと、なんでこうなるのよ!」


と悲鳴を上げた。そして膝をついてしまい、


「可哀そう、二人とも可哀そう」


と繰り返す。敏郎はしばらくその様子を見ていたが、不意に供の一人に尋ねた。


「遠州屋さんは?」


やはり両親ともに悲嘆が大きく来れないのではと思ったが、そうではなかった。

店に殺されたお竹の兄が来て騒いでいるという。

立ち合いには咲が行くと言い張ったそうである。


「わかった。これから遠州屋に行ってみる」


そう言った敏郎の顔に怒りの色がみられた。それを感じとった春日巡査が引き留める。


「まあ待て、俺も行く。お前ひとりでは行かせられん」


そして他の巡査や、小太郎達に後を託し二人は遠州屋に向かった。



*

遠州屋の奥座敷ではお竹の兄が座り込み、大きな声を張り上げていた。


「何度も言うようだが、お竹は俺の大事な妹なんだ。国には両親もいる。こんな無残な目に遭わされて俺は何と言って連れ帰ればいいんだ」


勢いに呑まれた遠州屋の店主はただひたすら頭を下げるばかりであった。

自分の息子が犯したことはほぼ間違いないだけに謝罪する以外なかった。

おかみや店員達も遠まきに見守っている


「もちろん妹は俺が引き取って帰る。ただこんなはした金じゃあ満足に墓に入れてやることもできない」


お竹の兄は当初妹が殺されたことに激昂し喚きちらしていたが、次第に償い金を求める方に重点が移った。店主も弔いの掛かりは認めざるを得ないと思ったが、今の段階で高額の償い金を手渡すのは時期が早すぎると感じた。

もうすでに彦次と理久の心中については耳に入っていたが、お竹を殺めたことについてはまだ正式な結論は出ていないし、それに子供の扱いもあった。


「わかりました。それでは私も家内も妹さんには大変お世話になったことでもありますし、とりあえず謝礼金も合わせてお渡ししましょう」


「なに言ってるんだ。妹はここの若おかみとして跡継ぎの子を産んでいるんだぞ。そんなちっぽけな金子では承知しないぞ」


その時、襖障子の方から声が掛かった。


「いつからお竹が妹になったんだ。源太」


「な、なに!」


「それにあの女はお竹という名じゃない。検死の時に確認したんだが、お銀と言ってお前の女房だったはずだ。それに同僚の東君から聞いたんだがお銀が二十歳の訳がない。もうすでに三十路近いはずだ。随分さばを読んだじゃないか」


「あ、あんたは春日・・」


「そうだ、久しぶりだな。つつもたせでしょっぴいて以来だな」


春日巡査と敏郎は座敷に入り込み二人に近づく。


「俺が聞いた話じゃあ、お銀は二度子を産んでいるはず。いったいその子はどうしているんだ」


源太の顔は青ざめ、その横の主人は驚いてしまっている。


「お、俺はそんなこと知らねえ」


「今度は二人して何を企んでいたんだ。女房が亡くなってしまったのは気の毒だったが、自業自得じゃなかったか」


「い、いや今度のことはお銀が勝手にやったことなんだ。お、俺には関わりがない」


「では、なぜ遠州屋に金を要求する。それに何度も兄と言って尋ねてきたそうじゃないか」


「そ、それはお銀が心配で・・」


源太はしどろもどろにうろたえてしまった。


「どうやらいっしょに来てもらって、詳しく話を聞く必要があるな」


「待ってくれ、俺は何もしていないよ」


源太が逃げようとすると、敏郎が両腕を押さえ抱え込んだ。


「お前のせいで姉ちゃんが、許せん」


源太は敏郎の権幕にすっかり呑みこまれてしまった。


「まあ東君、気持ちは分かるがあまり手荒な真似をするな。これから源太にはすっかり吐いてもらうから。それと、遠州屋、もっと人を見る目を持たないとな。いくら気に入ったからといって騙されちゃあなんにもならん」


主人は唖然とした表情で頭を下げた。

座敷から出て行こうとした春日巡査は思い出したように言った。


「それと息子さんは後ほど帰ってくるよ。二人はお互いを縄で括り合っていたよ。よっぽど離れたくなかったんだろうな」


その言葉を聞き主人はうなだれ嗚咽しだした。




















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