江戸
「いってらっしゃいませ」
「うむ、いって参る」
辰の刻、五つの鐘を合図に旗本、上林角兵衛の屋敷はいつもながらの妻女が夫を送り出す光景がみられた。
禄高三百石の身上で二百五十坪の敷地の玄関先に妻の美緒が礼儀正しく見送りの口上を述べている。
庭は表門まで石畳が敷き詰められ、頭上に広がるつぼみ桜の枝ぶりに目を奪われる。あと半月もすれば、満開に咲き誇る姿が見られるようになるであろう。
上林家は代々勘定方与力を拝命、角兵衛自身も親から受け継いで今に至っているが、職場での経験も豊富で、勤めもソツなくこなしており、上役、同僚の評価も上々といったところである。周囲から次期奉行候補との噂も聞こえており、本人も上昇願望と出世欲が強く、昇進が手の届くところまできているとの意識があった。妻の美緒も長年苦楽を共にし夫を支えて来たとの自覚があり、同様に家の地位向上に期待していた。
「母上、行って参ります」
半刻後、一人息子の小太郎が近くの私塾に通うため玄関に現れ、床に座り両手をついて礼儀正しく挨拶した。まだ元服までには数年あり、顔立ち、立居振舞いには幼さが残っている。
「今日もしっかりと学問を身につけてくるのですよ」
「はい、畏まりました、母上」
はきはきと答える姿はこれまた毎朝見られる光景であった。奉公人の小者と一緒に出掛けて行く。その後姿を見届けた美緒は奥座敷に通じる廊下の端に備えられた神棚まで移動し、今日もつつがない一日であるようにと祈る。上林家にとって平穏な毎日の繰り返しであった。
*
しかしながら、時節は急激な変化に飲み込まれつつあった。
黒船来航に端を発した尊王攘夷思想は、複雑な経緯の末に長州藩を中心に討幕行動を引き起こすまでに至っていた。
将軍は長らく本拠である江戸を留守にしており、佐幕派大名、多くの旗本、御家人達と共に京都、大坂方面に移動し、勤皇の御旗を巡って敵対する勢力と争っていたのであった。
角兵衛の勤務する奉行所でも、仕事そっちのけで様々な情報が飛び交っていた。近々戦乱が開かれるであろうとの噂がまことしやかに広まっていた。特に長州藩の動きは活発で、もはや妥協はあり得ず一色触発の状況にあるとのことだった。けれども現地から遠く離れた江戸にあっては、ほとんどの武家階級の人々に危機意識はなかった。いわば対岸の火事の例えで、予期せぬ出来事ながら最終的には数に勝る圧倒的な幕臣の力で決着するだろうと誰もが思い込んでいたのであった。
もちろん角兵衛もその一人で、周りから伝わってくる上方の情勢も気にはなったが、当面の関心は、毎日の勤めをソツなくこなし、次の奉行候補として上司から認めてもらうよう気配りすることであった。
*
小太郎は今日も塾で四書五経の声唱を繰り返した。何度も復唱しながら内容を把握した上で次の段階に進むのだが、割合に上達は速いほうである。だからといって学習が楽しいというわけではない。いつも終了時刻が来るとほっとして早々に退出するが、それでその日の日課から解放される訳ではなかった。
一旦屋敷に戻り、昼食を済ませた後、今度は剣術の習得のため最寄りの道場に通う。いやしくも武家の子弟たるもの武術を身につけるのは当然であるとの風潮がまだまだ根強かったのである。もちろん両親には熱心な修業を装っているものの、本心は全く気乗りしない習い事であった。もともと腕力や敏捷性といった能力についてはあまり自信がなく、鍛錬して強くなろうという意志も乏しかった。
むしろ市中で流行の産物や、珍しい物品への好奇心が強く、こつこつ調べることの方に関心があった。
道場仲間で商家の息子の敏郎という同年齢の少年と仲良かったが、帰りが一緒である時自宅に誘われて寄ってみると、中規模の薬種店で陳列棚や置台にずらりと並べられた多種多様な薬を見て心を奪われたのだった。
「このようなものを本当に病気になった時呑めば治るの?」
小太郎は素朴な疑問を聞いてみた。そこには植物の根や茎から抽出したものが多いが、ヘビや亀、明らかに動物の一部と思われるものまであった。
「そうですよ。人によって症状が微妙に異なり、服用する薬も多種にわたります。患者様の具合によって適正且つ副作用のないものをお勧めするのが私どもの役目なんですよ。万が一、間違った薬剤をお渡ししてしまうと、病状が悪化したり、場合によっては命の危険につながってしまいます。神経のいる仕事なんですよ」
と店の主である敏郎の父親の嘉右衛門は言った。
薬品ごとに効用が記載されていたが、塾で文字を習得したおかげで、読みこなすことが出来た。小太郎の熱心な質問に対しても、武家の息子であることを意識してか丁寧に教えてくれた。
それからというもの道場を退くと、真っ直ぐに薬種店を目指した。そして彼なりに分類、整理し塾用に持ち歩いている覚書帳に記入し始めたのだった。
植物性、動物性、鉱物性の区分け、或は、風邪、頭痛、腹痛等々の症状別の分類。更に、日本古来の薬、漢方薬、近年の蘭方医学で扱うものまであり、詳細に書きとめた。
小太郎にとってその時間は大変な楽しみとなり、観察し自分なりに整理することに熱中した。その店の息子である敏郎もしばらくは付き添ったものの、退屈してしまい、小太郎単独で来ることとなった。店主や店員達は、熱心な上に礼儀正しい態度を見て、好意的に接したが、そのうち飽きるだろうと予想していた。けれども一向に打ち切る気配はなかった。むしろついつい長居してしまい、あわてて帰路を急ぐことも再三あった。もちろん両親には内緒で、道場での稽古が長引いていたことにして、同行の付き人にも口裏を合わしてもらった。小太郎にとっては毎日が充実したものとなった。
*
一方で上方の情勢は幕府側にとって抜き差しのならない事態に陥っていた。
討幕勢力を一網打尽にするはずだった長州藩との戦闘にまさかの敗退を喫してしまった。そして大藩である薩摩が長州と手を組むや、多くの藩が同調し始めた。
ここに至り一気に苦境に追い込まれたのであった。
幕府首脳は熟慮した上で、起死回生の大政奉還に打って出る。これには全国の大名、幕臣も寝耳に水であった。ここまで幕府が弱体化したことを初めて知った者も多くいたのである。ある程度情勢を認識していた人々ですら、唐突な発表、短期間での急激な変動は予想もつかなかった。
将軍を始め権力の中枢が上方に集中しており、ある意味では留守を預かっていた旗本や御家人達に至っては、全く心構えの出来ていない状況にあった。上林角兵衛もその一人で大変な事態が発生していることを理解できても、さて今後どのように推移し、自らどう対処すべきなのか皆目わからなかった。
自分たちの処遇がどうなるのか、奉行所の幹部に尋ねたり、同僚とも意見交換し合ったりするものの正確な情報は得られない。お互い不安を抱きながらも幕閣からの指示を待つ以外なかった。
*
「不思議なものですねえ。道端に咲いているありふれた草花が医薬品として役立つなんて」
「ええ、その通りです。たとえばヨモギは血止めとして用いられていますし、冷え性にも効きます。ゲンノショウコは下痢を抑えます。ドクダミは文字通り解毒剤として使われます。その他、ニワトコ、ハコベ、ツユクサ、それにイチョウ等の樹木の葉や実、枝に至るまで私達の体に役立っているんですよ」
「いったい誰が効き目があるのを発見したり試したりしたんでしょうね」
「ハハハ、大半は随分昔から伝わってきたものですよ。それも中国から取り入れた薬が主で、何千年もの間に試行錯誤の上確かめられた歴史の産物で、私達は先人の知恵を取り入れて、その恩恵に預かっているわけです。もちろん日本古来のものもあって種類も豊富になり病状によって使い分けているわけです」
「じゃあ、お客さんに悪いところを聞きながら薬を決めるわけですね。よほど詳しく知っていないと相談に乗れないですね」
「まあ長年この仕事に携わっていますと自然に覚えるようになりますが、坊ちゃんのように優秀だと習得するのも早いですよ。おや、いけない、旗本の上林様のご子息を薬屋にする訳にはいかないな。私の独り言だと思って聞き流してくださいね」
と主の嘉右衛門は言い訳したが、小太郎の学習意欲と有能な素質に密かな期待を抱くようになっていた。彼の子供たちが家業にほとんど関心を示さず外に出ていることが多いのとは逆に、最近毎日顔を出し、品物の一つ一つを熱心に調べ、覚えようと質問してくる姿を見るのが楽しみでさえあった。
「朝鮮人参は体力回復にいいと聞くけど、マムシにスッポンは少々気味が悪いですね。愛用する人がいるんですね」
「ええなかなか手に入らないだけに重宝されていますよ。もっと珍しい貴重な薬剤に、牛の胆嚢、熊の肝、鹿の内臓などもあるんですよ。もっとも高価すぎて試したこともありませんがね」
小太郎にとっては半信半疑だが興味深々の説明であった、彼にとっては全てが新鮮で好奇心が刺激される内容であった。
*
「いったいどういうことでござるか。お上が上方から戻られるや寺院で謹慎されるとは。全く信じかねる」
「拙者も同感ですぞ。負け戦で撤収されたことはさておくとしても、まだまだ我等旗本八万旗は無傷なはず。譜代、親藩も合わせれば相当な戦力となり薩長などものの数ではござらん。何を血迷われたのか恭順の意を示されるとか。我が身可愛さに臆病風に吹かれ申されたとしか思えん」
「聞くところによると、小栗様のお諫めにも取り合わず城中を退去されたとか。呆れてものも申せぬ」
「いやいや、あれほど気位が高く気性の激しいお方。勝安房をはじめとする取り巻きが知恵を授けたとしか思えん。彼らが敵方と通じて企んだこととの噂がござるぞ」
上林角兵衛の周囲で同僚達の侃々諤々尽きることのない興奮したやり取りがあった。いずれも将軍徳川慶喜の弱腰に対して、非難轟々の意見が飛び交っていたのである。
将軍家にとって朝廷への政権の返上は、徳川家の権威を再浮上させる目論見があったが、逆に事態は悪化の一途を辿り、王政復古の号令を導いてしまった末に、朝敵の立場となってしまうのである。ついには鳥羽伏見で両軍の戦端が開かれたが、形勢不利と見るや、慶喜は兵を置き去りにして江戸に退去したのであった。これには上方に集結した幕府方の兵達も唖然とし、憤りはしたものの、戦闘続行は不可能となり雲散してしまう。
薩長を中心とする朝廷側は勢いを増し、旧幕府勢力の追討のため東征が開始されたのであった。
*
江戸にあって時勢の急変動に翻弄される旗本や御家人の動揺は、征討軍の情報を耳にする度に大きくなってゆく。一部に徹底抗戦を主張し結集する勢力もあったが、もはや幕府側として戦う意思がない以上、歯痒さに苛立ちを抱きながらも大半は諦めの境地で今後の動静を模索していたのである。ただ受け止め方はそれぞれの職制や地位即ち現在の境遇によって異なり、よほどの特殊な能力の持ち主であればともかく、階級が上位の者ほど精神的なダメージは大きかった。
上林角兵衛もその一人で長年の目標が手に届く寸前だっただけに落胆が濃く、やり場のない怒りが胸を覆った。今までの苦労はいったい何だったのか。上役から認められようと勘定所の仕事に専念し、毎晩遅くまで身を粉にして勤めてきたのはひとえに出世を目指してきた為ではなかったか。年々厳しくなる幕府財政を必死に切り盛りし、支えてきた手腕を評価されているとの自負も、盆暮れに途絶えることのなかった過分な付け届けも、全てが水泡に帰してしまった。それどころか先祖から代々引き継いできた屋敷まで没収され、地位身分まで剥奪される恐れもあった。
無念の境地ではあったが、角兵衛は美緒に使用人に暇を取らせるよう指示した。長年苦楽を分かち合ってきた者もいて、身を切られるような思いで別れを惜しんだ。
「お前様、私達はこれからどうするおつもりで」
ひっそりと静まり返った屋敷内で美緒は夫の角兵衛に問い掛けた。
「うむ・・」
すっかり憔悴しきった表情からはその一言だけで、答えは返ってこなかった。
*
東征三方面に展開した官軍の動きは速かった。何か所かで激しい攻防があったが、それぞれの進行を妨げるものではなかった。幕府の本拠である江戸を目指した征討軍も、一気呵成に箱根表まで進出する。この時点で勝海舟を始め幕府側の一部で、江戸が戦場となり火の海となるのを危惧し、懸命に和平を働きかける。そして、西郷・勝会談がもたれ、江戸城が無血で官軍側に明け渡されるに至った。この間数か月、幕府方にとって瞬く間の展開となってしまった。この状況に旗本や御家人は右往左往するばかりとなった。もちろん徹底抗戦を主張する者もいた。榎本武揚を始めとして軍艦を奪い江戸湾から脱出する者、彰義隊士として上野の山に集結する者、東北諸藩の反抗勢力に身を寄せる者。一方で、あくまで旧幕府将軍となった慶喜に忠節を誓い、行動を共にしようとする者、士分の身を諦めほかの道を模索する者等、様々であった。そして、もうひとつの決断もあった。
上林角兵衛も時代の波に翻弄されていた。もうすでに幕府が死に体であることは承知していた。だからといって、これから何をすべきか当てがあるでもなかった。世の中の変化に対応していこうという気もなかった。彼にとっては今までの幕府体制の中で勘定所の仕事をつつがなく勤めることが全てであった。そして少しでも評価され、昇進を目指すことが彼の生き甲斐であった。それだけに、上方の戦で幕府側が敗れたとはいえ、まだ一縷の望みは捨てていなかった。けれども、江戸城開城の報を耳にし、全てが水泡に帰してしまった。もう勤めに出なくなって久しい。これからも用向きはないであろう。
屋敷内は静かであった。妻の美緒は所用で出掛けていた。息子の小太郎は塾に行っている。美緒については、日頃親しくしている彼女の実家が手を差し伸べてくれるだろう。小太郎は塾の同僚が討幕軍と戦うため、脱走していることを知っていながら、あまり関心がなさそうで一安心。まだまだ若いから、何とか自分の道を歩んで行くだろうと独りごちた。だがすぐに手前勝手な理屈だろうと苦笑した。
そして、しばらく屋敷の庭を見た後、奥の座敷に足を踏み入れた。
*
「なんということをしてくれたのじゃ角兵衛殿は、このような時に。気持ちはわからなくはないが、他に方法はなかったものか」
「まことに義父殿のおっしゃる通りでござる。このご時世を嘆いておるのは兄上だけではござらぬ。全く我々も同じで、いささか軽率な行動に存じます。おまけに首をくくるとは、武士にあるまじき行為、かえすがえす残念でござる」
この日、上林家では妻の美緒が帰宅してみると、奥の座敷で夫の角兵衛が天井の梁に帯を引っ掛け首を吊っているのを発見した。
彼女は茫然自失となりしばらくその場に座り込んでしまったが、気力を振り絞って夫を宙から下ろし床に寝かしつけた。周囲をながめてみると側の小机に美緒と親族宛ての三通の遺書が置いてあった。
彼女にはそれを読むまでもなく夫の自害の理由を承知していた。幕府崩壊への失望は大きく、将来に対する絶望感にほかなかった。
そして悲しみに暮れる間もなく、遺体を見苦しくないよう処置をし、親族宛てに書状をしたため、まだ屋敷に残っている使用人に持たせ、内々にと言い含めて届けさせたのである。
「とは言っても死んだ者は返っては来ぬ。これからのことを考えねばなるまいの」
「うむ。拙者あての遺書に娘の美緒と小太郎のことをくれぐれもよろしくと書いてある。もちろん言うまでもないことだが、この屋敷もいずれ官軍側に接収されよう。それは拙者のところも同様で途方に暮れているのが正直な胸の内じゃわ。」
「小太郎の様子はどうかな」
「はい自室に下がらせ喪に服しております。衝撃は大きかったようですが、今は割合落ち着いております」
「不憫なことじゃの、もうすぐ元服というときになんという不運。厳しいご時世に振り回されているとしか思えぬ」
「それは我々も同じでござる。周りの若者の一部は義戦と称して彰義隊に参加しております。されど、どうみても土壇場のあがきに思えてなりませぬわ」
「そうだの。我々にとっては八方塞がりのようだの。角兵衛殿も悩まれたことだろうて」
そのあとも暗い話は尽きなかったが、相談の末、角兵衛の自害は秘することになった。外部には病死として公にすることにして、葬儀も近親者だけで簡素に済ますこととなった。もっとも江戸に征討軍が入場し、庶民が混乱の最中にある時期、今まで通りの格式は不可能といってよかった。
*
一方で官軍は話し合いによって開け放たれた江戸城に入城し、幕府軍との大規模な衝突は避けられることになり、一応人口百万を超える住民は戦火を免れることとなった。
しかしながら完全に江戸が平定されたわけではなく、降伏条件に不満を持つ抗戦派は彰義隊を組織し上野の山に集結した。これら抗戦派に対し新政府側は武装解除の戦いに臨むこととなる。続々と江戸に入ってきた官軍は新政府側の大名屋敷だけでは収容は間に合わず、順次旧幕府側の旗本屋敷が接収の的となった。特に身分の高い主戦派の武家屋敷は官軍兵士に占拠されるところもあった。
急激な権力体制の移行に江戸の武士階級は混乱の極みにあったが、一般庶民の生活にさほどの変化はなかった。市街地の町民が暮らしている地域にある数多くの店舗は今までと同様に商いを営んでいた。彼らは権力抗争に関心はあったものの、自分たちの生活に影響があるとの実感はなかった。もはや、権力者が誰であろうと簡単には変わりようのないほどの大規模な社会になっていたのである。
*
嘉右衛門が商う薬種店も普段と変わらず店を開いていた。もちろん彼も官軍の江戸への進攻に関心はあった。世の中の変化によっては、これからの商売にも影響が出ることが考えられた。従って、常の情報収集は欠かせなかった。それともう一つ個人的な関心事があった。
「最近、上林様のご子息を見かけなくなったが、何か聞いておらんか?」
彼は外回り担当の店員に尋ねた。上林小太郎は医薬品の種類に強い関心を示し、習い事が終わった後、必ず店に顔を出し、薬剤の知識を吸収していたのである。もともと学業も優秀で、説明を受けたことの呑みこみも早かった。嘉右衛門の子供たちが全く家業に興味を示さないこともあり、その熱心さに出来るだけ力を貸そうと暖かく見守っていた。
けれども最近になって姿を見せなくなった。今回の江戸開城との関連がありそうで、まさか彰義隊に参加しているはずがないと思われたが、少し心配になっていた。
「ええ親しくしている武家屋敷専属の棒手振り屋から聞いたんですが、勘定奉行所の上林様が突然お亡くなりになったそうで」
「なに、それは本当か、いったいどうして?」
「ご病気でということですが、どうやらこたびの官軍入場によって職を奪われ、前途を悲観してご自害されたとの噂にございます」
「なんてことだ」
嘉右衛門は上林家当主の死に至った精神的な苦悩を想像した。確か次期勘定奉行の有力候補として、一歩手前の職にあったと聞いていたが、幕府瓦解によってすべてが水泡に帰して希望を無くしたのであろう。けれども他に選択肢はなかったのであろうか。彼は残された御家族のことを思った。上林殿には奥方と一子、小太郎殿の家族構成で家臣や使用人が仕えているはずである。おそらく今は傷心の思いで過ごしているに違いなかった。これからどのように暮らしていかれるのであろうか。嘉右衛門には、このまま見過ごすことが出来なかった。
しばらく思案したあと、その店員に向かって言った。
「少し頼みたいことがあるのだが」
*
上林角兵衛の密葬は身内の者だけで慌ただしくとり行われた。一連の葬儀手順を省略し、懇意にしている寺で納骨した。本来であれば、一応役付きの名のある旗本だけに、身分相応の葬儀が行われたはずだったが、時勢の急激な変化と、なによりも不可解な死因を考慮した上での措置であった。
出席したわずかばかりの血縁者が去ったあと、故人の妻女の美緒はひっそりと静まりかえった屋敷の一室で、言いようのない淋しさに襲われていた。
かつて夫とともに歩んできた日々の記憶がよみがえり、過ぎ去っていく。楽しいことよりも辛い想いのほうが多かったような気がするが、その都度二人で苦難を乗り越えてきたことは、それなりに充実したものに思えた。
けれどもその良人ももはや遠く旅立ち、一人取り残されてしまった。
今までこらえていた涙が止めどもなく頬をつたい、悲しみが一気に押し寄せてきた。これからのことを考える心の余裕など皆無であった。
夫の遺言には、長年我慢して付き添ってくれたことへの感謝の気持ち、自らの力の無さゆえに苦難を強いることになった謝罪の言葉がめんめんと書かれていた。美緒は繰り返し読みながら心の中で叫んでいた。なぜ自害を決行する前に打ち明けてくれなかったのか。なぜ一緒に死のうと言ってくれなかったのかと。
一方で文面には小太郎のことをくれぐれも頼むと書かれていた。おそらく我が子については心残りだったのであろう。いや、美緒についても同様ではなかったか。角兵衛の家族への想い、優しい性格は知悉している。道ずれにしたくなくて、武士の死に方の風儀とは別の手段を選んだのであろう。よくわかっているだけに残念でならなかった。
実家の肉親からは、二人を引き取ることを承知していた。けれども世の中が混乱の極みにあるこの時期に、厄介なお荷物だと見做しているのは間違いなかった。二人に同情はしつつも、言葉の端々にそれは感じられた。もっとも水臭いと不満を抱くことはできなかった。今は自分たちの先行きですら、見通しが立っていない状況で、人のことなど構っておられないのであろう。
美緒は決心した。夫、角兵衛の後を追おうと。二人ではともかく、小太郎一人であれば負担は少ないであろう。ましてや、年少とはいえもう大人とひけを取らないほどの働きは可能で、ものの分別もつくはずであった。性格も素直だし気に入られるかもしれない。
それと、武家社会に身をゆだねる寡婦の立場であれば、後追い自決も周りは不自然に思わないであろう。むしろ称賛されるかもしれない。いや、それは決して本意ではないが、なによりもこのまま生きてゆく意味がないように思えた。それも出来るだけ早いほうがいいだろう。だが、あまり周りを煩わせたくもない。とあれこれ考えに耽っているとき、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「奥様・・奥様・・」
美緒はおもわず我に返った。まだ屋敷に残っている使用人の障子越しの呼びかけであった。
「なにかあったの?」
「はい、薬種屋の嘉右衛門というお方が奥様にお会いしたいとお見えになっていますが」
「はて、薬種屋・・嘉右衛門・・」
名前からするとどうやら町方のようである。けれども親しくしている商人には聞き覚えはなかった。角兵衛のことを知っている人物か。最近は物騒な手合いが増えており用心にこしたことはなかった。
「用件は聞いていますか?」
「ええ、小太郎殿のことで奥様とどうしてもお話したいとの仰せで、それ以上はお目にかかってからと申されます」
意外であった。小太郎のことを知っている町民であろうか。なにか不始末でも起こして言いがかりをつけにきたのかも。いや小太郎に限ってそのようなことはないはず。それともほかの何か。美緒はさっぱり思い浮かばなかった。会ってみる以外なさそうである
「どのような感じの方ですか」
「はい、言葉遣いが丁寧で、誠実な方のように見受けました」
もっとも信頼している使用人が言うので間違いはないだろう。少し安堵して言った。
「わかりました。座敷にお通しして。私もすぐ参ります」
覚悟を決めた身にもう何も怖くはないはずであった。ただ、小太郎のことは気掛かりで関心を抱いた。
*
嘉右衛門は座敷に通され待っている間、どのように話を切り出そうか迷っていた。
上林角兵衛の自害の噂を耳にしてすぐに、残された家族の様子や今後の身の振り方を調べるように店員に依頼した。
その結果、妻子は親族に身柄を一任するようだが、どの旗本家も自らの今後の去就が見えておらず、受け入れに消極的な状況であるとの報告であった。更に死因が首くくりだったようで、武士としての体面が損なわれたとの見方から、周囲の印象は悪く遺族も肩身が狭いだろうとのこと。
もちろん悲しみも深いはずで屋敷も近々明け渡さねばならず、途方に暮れているのではないか。従って、これから嘉右衛門が行う申し出は、渡りに船とも思えるが、あまり自信はなかった。なによりも相手は武士階級で自分のような一介の商人からの同情に反発するかもしれない。
また、これから会う奥方とはまったくの初対面でどのような女性か白紙の状態であった。子供は素直でも親は正反対の性格である例は何度も見ている。その人なりによって、言葉遣いは十分注意しなければならない。
そのように思い巡らせていると、廊下から足音が聞こえてきた。嘉右衛門は居住まいを正し、頭を心持ち下げた。障子が開き部屋に人が入ってくるのがわかった。そして嘉右衛門の正面に黒い衣服を目にするやいなや、穏やかな女性の声が耳に入った。
「お待たせしました。上林の家内でございます」
嘉右衛門は幾分緊張しながら、そのままの姿勢で挨拶した。
「はじめてお目にかかります。嘉右衛門と申します。今日は突然お伺いすることになり、大変恐縮に存じます」
一息入れてすぐに続けた。
「また、このたびはご主人様ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます」
もちろん故人と面識はなく、手短に伝えた。
「それはそれはご丁寧にありがとうございます。どうかお楽になさってくださいませ」
嘉右衛門はやや顔を上げ、上目づかいに相手を見る。心労が絶えないはずだが、背筋を伸ばし品位が感じられた。途切れることなく自己紹介を続ける。
「私、こちらから一町ほど離れた河岸に店を持ち、主に薬を商っております。もちろん私が始めたわけではなく先代から引き継いだものですが、おかげさまで顧客にも恵まれて、何とか商いを続けられております」
「そうですか。私もお薬には日頃大変お世話になっております」
「一応、薬種も馴染みのものは取り揃えておりますが全てに効くわけではございません。病も人によって異なり、医者でもございませんので、お勧めする薬種は経験と勘が頼りで、少しでもお役に立てればと願っております」
「そうですか。やはりご苦労なさっておいでですね。で、小太郎のことをご存じだと伺いましたが」
やつれてはいるが、理解が早く聡明な女性のように見受けられた。やはり慎重に言葉を選ぶ必要があった。
「はい、私の息子も剣術道場に通っており、同い年の小太郎殿と親しくさせてもらっております。どうやら帰りもご一緒させて頂いているようで、もうかなり以前になりますが、店に立ち寄られました。その際店頭に並べております薬品に大層関心をもたれまして熱心にご覧になられました」
「まあ、それはご迷惑ではありませんでしたか」
「いえいえ少しも、それからというもの何度もお越しになり、一つ一つの薬の名称や内容について私や店員に詳しく聞かれるようになりました。その際、小太郎殿も商いに差支えならないよう気配りなさっておられましたし、また、大変誠実で人柄も良く誰からも好かれて、むしろこちらから声をかけて、教えたくなってしまいました」
「そうですか、それは少しも知りませんでした」
婦人は本当に驚いたようだった。
「いえ、だからと言って当店で時間をつぶしておられたわけではなく、道場の練習が終わってから来られましたし、日が暮れる前にお帰りになりました。その点はきちんとなさっておいでです。ただ、私共が驚きましたのは、薬の種類や用途、効能を短期間に覚えてしまわれたことです。漢方薬、我が国固有の和薬、それに近年出回っております蛮薬に至るまで幅広く習得されてしまいました。大人でもなかなかそうはいきません。息子に聞きますと、小太郎殿は塾でも常に一番の成績だとか。なるほどと納得した次第です。もっとも、本人は謙遜なさってごく普通だとおっしゃいますが」
そして嘉右衛門は本来の意志をさりげなく伝えた。
「私も小太郎殿を拝見しているうちに、叶わないことではありますが店に来て頂いて、お力を拝借できればと思ってしまいました。と言いますのは私どもの子供たちは全く家業に関心がなく、流行ごとや、娯楽に夢中で学問をしようとせず、いまだに初歩的な薬の種類すら理解できていない有様です。親として頭の痛いところです」
婦人は頭を巡らし不意に尋ねてきた。
「嘉右衛門殿はもちろん今の世の騒ぎをご存じでしょうね」
嘉右衛門はやはり察しの良い御仁だと確信した。
「ええ、存じております。日頃様々なお方と接しておりますと、好むと好まざるに係わらず諸々の風聞を耳にします。今の世の動きによって多くの方が辛い思いをされていることも承知しております。幸い私共は世の中の底辺で暮らす身、今のところ影響は少ないだろうと思っていますが、今の暮らしを支えて頂いた方々への恩は忘れてはならないと心得ております。従って、縁あって親しくさせて頂いた方とは、微力で平凡な身の上ではございますが、末長いお付き合いできればと思い参りました」
嘉右衛門は今の旗本家の窮状や家長の自害については触れないようにした。また、同情の押し売りは極力避けて意思を打ち明けるように努めた。婦人はしばらく思案した後で言った。
「そう言って頂くと大変ありがたく存じます。それと、小太郎を何かと気にかけていただき親として感謝いたします」
「いえいえ、こちらこそ取り止めのないことを申しまして恐れ入ります」
嘉右衛門は話が通じて胸を撫で下ろした。そのあと話題はもっぱら嘉右衛門の扱っている薬種品や商いの話に移り、お互い交流を深めた。
一刻の後、嘉右衛門が辞去する時には、小太郎と同様、その母親にも好意をもっていた。
*
上林美緒は客が帰った後、相手の会話を思い返していた。
直には言わなかったが、小太郎を預かってもいいとの申し出であった。おそらく夫亡き後の困窮を見抜いているのであろう。
一方で町民が武家に手を差し伸べることに遠慮もあるだろうし、大変買っているとはいっても小太郎の意向も定かでないことから、あのような言い回しになったと理解した。
けれども少しも嫌みな気持ちにはならなかった。むしろ誠実で安心感を抱いた。それは、同じ旗本の知人や肉親にも感じたことがない心地であった。
ただ、美緒の決心は変わることはなかった。むしろ商人ではあるものの、小太郎の能力を買う人がいることは後顧の憂いが少しは和らぎ、もはや武士に固執することもないし、本人が決めればよいと思った。
早速、客人から申し出があった話をしよう。美緒は奥の間に向かった。そして、小太郎の部屋の前まできて呼びかけた。
「小太郎、小太郎」
ところが返事がなかった。再度呼んだが同じであった。屋敷から出て行った様子もないし、居眠りしているのではないかと思った。
けれども事は急を要する。起こしてでも話を伝えようと思った。
「小太郎、入りますよ」
そして、美緒は障子を開けた。すると、小太郎は眠ってはおらず、畳に直に正座していた。その前には刀剣が置かれ、食い入るように睨んでいる。
「何をしているのです。小太郎」
その刀はいつ持ち出したのか上林家に代々伝わる小太刀であった。小太郎は歯を噛み締め苦しそうな表情で言った。
「母上、私は悔しゅうございます」
「いったいどうしたと言うんです?」
「私は塾の同僚のように義戦に身を投じることはできませぬ。父上のように死ぬことも出来ません」
「何を言っているのです、小太郎」
そう言いながら、美緒は小太郎の横まで近づき肩に手を添えた。
「同僚は父上が首をくくったことを悪しざまに言います。なぜ武士らしく腹をきらなかったのかと、なぜ敵と戦わなかったのかと」
「それはお父上の考えあってのこと。人からとやかく言われても小太郎が気にすることではありません」
「私は言いました。父上は卑怯者ではないと。すると、お前はどうなんだ。同じように逃げるのかと」
「なんと、なんということ・・」
「私は答えました。武士として死ぬことも厭わない。もちろん、腹をくくることも平気だと・・」
「ばかな、そのようなことを考えるのではありません。小太郎はまだ子供です。まだまだこれからなのですよ」
「ではいったいどうすれば、臆病者の私はどうすれば・・」
次の瞬間、自分でも意外と思われる言葉が流れるように飛び出していた。
「生きるのです。小太郎、あなたは決して臆病者ではありません。生き抜くこと。それがあなたのこれからすべきことです。人が何と言おうと」
「では母上は?」
美緒は一瞬ためらった。
けれども自分の覚悟が氷解していくのを感じた。
とにかく今は小太郎を勇気づけることが先決であった。
「もちろん私も生きますよ。たとえどうような境遇になっても、厳しい試練が立ちはだかっていても生き抜くこと。そうすることでいずれは光が見えてくるはず。弱いか強いか定かではないけれど生きていればこそ光を味わうことが出来るのです。もちろん小太郎、あなたもですよ。それがお父上の遺言です。自分には出来なかったお父上のたっての願いなのです」
美緒は小太郎を説得すると同時に、自らにも言い聞かせていた。
*
それから間もなく旧幕府主戦派の士族が参加した彰義隊は、新政府軍と戦ったがなす術もなくたった一日で敗れてしまった。
いわゆる上野戦争であったが、この敗北によって江戸幕府の土台を支えた旗本家の没落は疑いのないものとなった。
けれどもその後も主に東日本各地で戦いは続く。北越、秋田、庄内等の戦い、会津藩の悲劇を含む東北戦争、そして北の地、函館戦争の終結で戊辰戦争が幕を閉じたのは翌年であった。
その間、江戸では様々な変化がみられた。
まず年号が明治へと変わり、江戸が東京と名称変更、天皇行幸および東京遷都、徳川家駿府に転封、さらに版籍奉還へと進む。またたく間に時は過ぎていく。
そして人々も否応なく時代の波に飲み込まれてしまう。
「母上、行って参ります」
上林小太郎は三和土に直立し、はきはきと挨拶した。
「行ってらっしゃい。くれぐれも気をつけてね」
母親の美緒は玄関の板の間に座り、息子を送り出す。もう数え切れぬほど幾度となく繰返してきた朝の光景。
小太郎が出て行くのを見届けた後、美緒は立ち上がり奥の部屋に向かう。そして片隅に備え付けられた仏壇の前で正座し、扉を開けて手を合わせ、今日もつつがない一日を送らせてくださいと念ずる。
この慣習を煩わしいと感じたことはなかった。美緒にとって一日の始まりであり、生きている証でもあったから。
二年前までは広い旗本屋敷で行われていた武家の妻女としての勤めであった。そして戊辰の役で幕府体制が崩壊、旗本で将軍の家臣であった夫、上林角兵衛が自害し一時は後を追うことも考えたが、一子、小太郎の行く末が気がかりで思い直した。
ちょうどその際、薬種店の主、嘉右衛門の熱心な誘いかけがあり、迷った末に小太郎の身を委ねることにした。
今にしてみれば、その決心は間違いではなかった。その後、敗者となった旗本や大名家の家臣等の身の振り方はさまざまで、大半が辛酸をなめることになった。
新政府軍との戦いに身を投じた者、新たな職業に就いて試行錯誤する旧士族たち、いわゆる国替えで徳川の家臣として駿府に赴いた者も大変な苦労をしていると聞く。案の定、美緒の肉親も自分たちの糧を得るだけで精一杯の有様。どうやら武士も町民も区別のない世の中になっていくようだ。
表戸の外で話す小太郎の声が耳に入った。
「おはようございます。いいお天気ですね」
「ああ、小太郎さん、おはよう。感心ねえ、早くから」
「おはよう。お仕事はどう、忙しくない?慣れた?」
「ええ、おかげさまで。まだまだ覚えることが沢山あって。でも仕事は楽しいです」
どうやら同じ長屋の洗い物をしている女房たちに挨拶しているようだ。
嘉右衛門は小太郎を引き受けると同時に、母子の住いの世話も申し出た。
武家出身に見合った住居のようであったが、美緒は丁重に断った。一時は死を覚悟した身の上を頭に置くと、好意に甘えることはできなかった。とにかく死んだ気での一からの出直しと自分に言い聞かせ、かつての使用人に探してしてもらい、今の長屋に落ち着いたのである。
これからはどんなに辛くても、貧しくとも乗り越えていかねばならない。小太郎も不平を言ったことがなく、むしろ仕事が面白くてしようがないようで、嘉右衛門もかわいがってくれているようだ。また、長屋の隣人も親切な人ばかりで、美緒に仕立ての仕事も紹介してくれていた。
「お勤めは薬嘉堂さんね。お薬いろいろあるのかしら」
「ええ、一応のものは取り揃えておりますが」
「私ねえ、最近胃がもたれて食欲がないのよ。なにかいいお薬ないかしら」
「ああ、それでしたら・・」
小太郎が説明しているのが聞こえる。
以前の屋敷に嘉右衛門が訪れたあの日の、苦渋に満ちた落ち込み様からすると、まるで別人のように生き生きとしている。美緒は思った。小太郎は、もともとが明るい性格で物事にこだわるほうではなかったはず。今から考えると、あの行為は私に自害させないよう、自演ではなかったのかと。もしかしたら、私の悲壮な決意を見抜いていたのかもしれないと。
親のひいき目ではないが、まだ年少とはいえ分別は人並み以上と承知していた。むしろ、救われたのは自分ではなかったのかと。
更に、嘉右衛門から打診がくることを予期していたのかもしれない。
その後、武士の身分へのこだわりは全くなく、先のことについては、私に全て任せるとの返事だったのである。
「そう、そのお薬一度ためそうかしら」
「ええ、今日帰りにもってきますから」
「じゃあお願いね、小太郎さん」
美緒は物思いから目覚めた。思わず頬が緩み立ち上がる。そして思った。生きている実感。それが光を味わうことなのかもしれないと。