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終章  作者: 野原いっぱい
光あるところに陰もあり
10/16

横浜(一)


挿絵(By みてみん)


上林嘉右衛門は先代から引き継いだ薬嘉堂を盛り立てていこうと腐心していた。

以前からあった店は、西南戦争が勃発し世の中が騒然としている最中に、火災により焼失し、店主夫妻も命を落としたが、周りから後継者とみられていた上林小太郎が中心となり再建することができた。

小太郎自身まだ若かったが、ほぼ十年の間いわゆる奉公人から店員の期間を経て、店主見習いの経験を積んできたことから、周囲の協力を得て引き継ぐことが可能であった。

そして、なにより小太郎自身が非凡な才能の持ち主で、旗本の子として育った幼少の頃からの好奇心旺盛の性格が幸いして、薬種業全般の知識を習得し、商いの要領を身に付けるに至ったのである。

幸い新装開店した店の方は、経験豊富な古くからの店員がそのまま残っており、知人や仕入れ先の協力も得て顧客も回復し、順調に切り回せるようになっていた。


次に小太郎が実行すべきことは、薬嘉堂の店主が代々名乗った嘉右衛門の襲名であった。

小太郎は先代の後妻の子で、実子であり現在警察官になった東敏郎の懇請もあり、また周囲の人々からの要望もあって改名を引き受けざるを得なかった。

もちろん覚悟はしていたものの、薬嘉堂の主であるという責任が増すことになったのである。


「小太郎いるか?俺だ、敏郎だ」


店の奥にある事務室で官報を見ている嘉右衛門に声がかかった。

部屋には洋風の椅子と机が置かれており、改築を機に内装も大幅に変えている。

返事を聞いて入ってきた敏郎はいつものように警察官の制服の装いであったが、早速謝った。


「悪い、悪い、どうも嘉右衛門とは言いにくいな。親父を思い出してしまう」


「少しも構わないよ。今まで通り小太郎でいいよ」


「そうもいかんだろう。次は気をつけるよ。ところでどうだい、欲しがっていた薬は手に入りそうかい」


「ああ、なんとかなりそうだ。知り合いの横浜の業者から手に入りそうだ」


「そら良かったな。だが厄介なことだな。今までの薬が駄目でこれからは西洋の薬を扱いなさいとはな」


「だから常に官報に目を光らせておかないとな。発売を禁止された薬を売っていると違反になってしまう。下手すると営業停止になってしまうからな」


明治新政府は社会文化の西欧化推進に伴い、薬については科学的な根拠に基づいた西洋薬を推奨し従来から扱っていた家伝薬などの売薬を規制していった。

このため、古くからの売薬業者は打撃を蒙ったが、一方で西洋薬の入手も容易ではなかった。

海外貿易の窓口となる商人も必要な知識がなく、粗悪薬品が出回ることも多かった。


「全く猫も杓子も西洋化だ。困ったことだな」


「公僕の身分でそんなこと言っていいのかい」


「もちろん小太郎にしか言わないさ。おっと肝心なことが後回しになったな。生まれたよ。男の子だったよ」


「おお!それは良かったな。母子とも元気かい」


「ああ、咲も初産にしては順調だったもので元気だよ。子供も大きな声で泣いているし」


敏郎は西南戦争が終結し戦地から戻ってきたが、周囲からの勧めもあって昔から家どうし付き合いのある遠州屋の娘、咲と結婚した。

二人にとってはそれぞれの姉と兄が心中事件を起こしたこともあって複雑な思いもあったが、戦場における過酷な体験で精も根も尽き果てて帰って来た敏郎には、誠心誠意世話を焼く咲を、生涯を共にする嫁に相応しいと感じた。

そして夫婦となって一年後、二人の間に男子が生まれたのだった。


「それはおめでとう。早速お祝いしなくちゃあな」


「ところが舅の遠州屋がお披露目の席を設けたいようなんだ。名前もいくつか考えている様子で、咲も頼みもしないのに気が早すぎると怒っていたよ」


「ハハハ、遠州屋さんにとっては本当の初孫で有頂天になるのも無理はないのかもしれないな」


以前に孫誕生の騙りに合い、遠州屋の長男と薬嘉堂の長女の心中事件につながった。


「まあ、俺の方は両親ともいないんで名付け親になってもらってもかまわないが、どうも遠州屋の跡継ぎにしたいという思惑がありそうに思えてな」


「まだ生まれたばかりで早すぎやしないか」


「まあ、そうなんだが、いずれにしろお披露目は日を決めてすることになったんだが、小太郎、すなわち嘉右衛門と彦太郎にも出てほしいんだ。俺の身内としてな」


彦太郎は敏郎の亡くなった姉の子で、産まれた子の従弟にあたる。


「私は構わんが、いいのかい咲さんや遠州屋さんは知っているのかい」


「ああ大丈夫、むしろ薬嘉堂の主人としてもぜひきてほしいそうだ。今までいろんなことがあったからな。皆でお祝いをしたいようだ。俺もそう思うよ」


「わかった。喜んで出席させてもらうよ。彦太郎にも話しておくから」


「ありがとう。日が決まったら連絡させてもらうよ。でもいまだに信じられないよ。あの悲惨な戦争からまだ何年も経ってないのに子供の親になるなんて」


「敏郎は運がよかったんだよ。咲さんも言っていたよ。敏郎は回りの人々から守られているって。そういう巡り合わせかもしれないよ。そういえば戦場で出会った人のことは分かったかい」


「ああ宮田さんと言うんだが、俺を助けてくれた恩人だよ。内々で調べてもらったんだが、敵軍の中にはその名前自体が見当たらないそうだ。もし健在ならばひとこと礼を言いたくてな。いまだに忘れないよ。名前を教えてもらったときのあの笑顔を」



***

ニューヨークの港地区にある集合住宅バードハウスの一室に一人の日本人女性が訪れた。

彼女は津田梅子と名乗り、こちらに日本語を話せる婦人がいると聞き、立ち寄ったのだと言う。

彼女はまだ十台半ばと思われたが、英語は堪能であった。

応対したのは部屋の主人であるエイミー・ジョンストンで、それは娘のナミ・ジョンストンのことだと言った。

ただ、本人は今日仕事が休みの日だが、買い物に出かけているそうで、待たせてもらうことになった。

エイミーの傍らには愛らしい顔をした幼女がいた。

梅子は一目で気に入り頬を緩めて挨拶した。

エイミーはかなりの年長者であったが、大変親切で梅子を手厚くもてなした。

昔、日本の長崎に1年ほどいたことがあり、その時、知り合った人々の印象は非常に良かったそうだ。

ナミもその一人で、一緒にアメリカに連れて来たのだという。

側にいる幼女はそのナミの子だと説明した。

梅子は納得した。

幼女の父親のことが気になったが、まず自分の自己紹介をした。


彼女は日本政府が送った初めての女子留学生の一人で今はワシントンで暮らしており、既に八年ほど滞在しているという。

当地で語学やピアノ等を学び学校にも入学し自然科学や心理学、芸術なども勉強した。

ただし、幼少からの留学でむしろ日本語は話せなくなっていた。

従って、母国の言葉を復習する目的もあって会いにきたのだと言う。

梅子が色々と留学生活について説明している途中で、ナミ・ジョンストンが帰ってきた。

梅子は一目見るなりナミの美貌に惹き付けられた。

ナミは梅子の訪問を大いに喜んだ。

久しぶりに日本人に会える機会を持ち、懐かしさを禁じえないと笑みを浮かべながら言った。

梅子にとって二人は年上ではあったが、すぐに打ち解け会話は弾んだ。

特にナミが現役の教師で、エイミーも以前子供たちに教えることが生き甲斐であったと聞き、梅子は強い関心を抱いた。

二人は熱心な教育者で、しかも教養豊かな女性で、年の離れた梅子に対しても丁寧な言葉遣いで接した。ただ、梅子が再度、留学生の一員に選ばれた経緯を説明しているとき、二人がお互い顔を見合わせ何か物言いたそうな素振りが気になった。

そして、しばらくしてエイミーが席を立ちながら言った。


「じゃあ、私ソラと一緒に散歩に行ってくるわ。梅子さん、ゆっくりしていってね」


このとき、初めて幼女の名前がソラであることを知った。

梅子は突然の訪問に係わらず歓待してもらった礼を言いながら二人を見送った。

その後、恐縮しながらナミに言った。


「もしかして、私エイミーさんの貴重なお時間のお邪魔をしたのでしょうか」


ナミはすぐに打ち消した。


「いや、そうじゃないのよ。気をきかせて私たち二人だけにしたのよ」


梅子は日本語のレクチャーのことかなと思った。

が違った。


「実は娘のソラの父親は日本人なの」


確かに彫りの深い目鼻立ちのナミに比べるとソラの顔立ちは日本女性に似ているようだ。


「彼が留学生としてニューヨークに立ち寄った際に、ある出来事がきっかけで偶然に知り合ったの。そして、ひと月余りの短い期間だったけど、私は彼を街のあちこちに案内し、一緒に過ごしたわ。とても楽しかった。そしてお互い愛し合うようになった」


そして、ナミは昔を懐かしむように話を続けた。

彼の名前は宮田賢一と言い、ヨーロッパ諸国を回った後でアメリカを見聞する予定だった。

けれども日本の政府が分裂し、政情不安にあるという情報が伝わり、留学途中で帰らざるをえなくなってしまった。

二人は将来夫婦になるとお互い誓い合って別れたが、その後音信が途絶えたままになっているそうだ。

妊娠したことも別れた後で知り、宮田の耳に入れたいのだが、いまだに連絡がつかず、ソラが生まれたことも伝えられないでいる。

その後、日本で戦争が起こったと聞いているが、宮田が巻き込まれたかもしれないと不安に思っているとも語った。

その宮田賢一も梅子と同じ使節に加わった留学生の一員だったはずと聞き、ナミが告白した訳を知った。梅子は二人の素敵な出会いと悲しい別離の事情に心を打たれた。

なんとか力になりたいと思ったが、その名前は記憶になかった。


「ごめんなさい。私留学した当初は六歳だったもので回りの人のことはほとんど知らなくて」


と言いながらも頭を巡らし続ける。


「でも日本人のお知り合いは何人かいるんです。帰ったら早速問い合わせてみます。私からの依頼であれば調べてもらえるはずです」


それを聞いたナミは大いに喜んだ。もう何年も経っており急くことはないが、返事を心待ちにしていると言った。


その後、二人で日本語のレッスンをはじめた。

今の梅子にとって、母国である日本語は、異国の言葉といっても過言でなかった。

情けなく感じたが、ナミから初歩的な言葉を根気よく教えられた。

ナミ自身もアメリカに来て宮田と出会うまで日本語を話す機会がなく、すっかり忘れていたと聞き、多少慰められたが、幼少時からのブランクは大きくほとんど初心者同様であった。

それでも、ナミの熱心な教え方のおかげで、帰る頃にはある程度の言葉がマスターできるようになった。丁度、エイミーとソラも戻っており、3人から見送られバードハウスを後にした。

梅子はこの家族を大変好きになってしまった。

また尋ねていいかと問うと、いつでもいいから必ず来てほしいと即答があった。

梅子は大喜びで再訪を約束した。

そして、その時にナミから頼まれた件の返事が出来ることを強く望んだ。



***

上林嘉右衛門は西洋薬品の購入のため輸入業者との打ち合わせで横浜に来ていたが、その帰りに懇意にしている開業医に立ち寄った。

伴野医院と言い、以前に薬種業者仲間に加わり洋薬の説明会に参加した際、同僚の一人が腹痛を起こし、嘉右衛門が付き添って診てもらったのが付き合いの始まりである。

伴野医師も嘉右衛門と同様に武家階級の出身で二人は年の開きはあるものの、相性が合って、横浜来た時は必ず顔を合わせていた。

また、仕事がら医業と薬種業は隣り合わせの関係にあり、お互い情報を共有できる利点もあった。


「私も時々困ることがあるよ。うちに来る患者さんの病状はさまざまで、問診の結果、治療方法がわかったとしても、もっとも必要とする薬が手元になかった時はまったくもどかしい限りだよ。その場合は代用薬を処方するんだが効果が疑わしい時があって、医者として冷や汗もんで試行錯誤することがあるんだ。重い病状だと命に係わることもあるからね」


伴野は洋医で、先代が開業した診療所で見習いとして働き、才能を見込まれてそのまま入り婿となって現在の医院を引き継いでいた。


「先生も大変ですね。医術が進歩しているとはいっても現場ではまだ実態は伴ってないでしょうから。私どもも時々顧客から教えられることがあるんですよ。こういう新薬を耳にしたんだが置いていないかって。慌てて問い合わせたりするんですが、何分従来の経路では手に入らないものも多くてね」


「私たちも患者の診療ばかりでなく、常に医学の勉強をしていないとすぐに時代遅れになってしまう。特に海外からの情報は重要で、西欧の学者が今流行している主要な感染症の原因が病原体によるものだと唱えその発見に力を注いでいるそうだ。もし発見されれば治療や予防の方法が見つかるかもしれないね」


「そうなるといいですね。そのうち結核やコロリも容易に治せるようになるかもしれませんね。ただ、頭の痛いのは薬も同様に海外任せで時間がかかるということです。政府が推進する西洋化はごもっともですが、洋薬を手に入れるまでが一苦労で今のところ業者に頼らざるを得ないのが実情ですね。今回も薬種業組合が要望する薬品を一括して私が購入交渉に来たんですが、いつ届くのやら。ああ、入手次第先生のところにも持参しますよ」


「それはどうもありがとう。でも嘉右衛門さんもそういう窓口を引き受けておられるところをみると皆から信頼されているんだね」


「いえ、仲間内では私が一番若くて頼みやすいんでしょう。それに以前の店が焼失して再建する際、周りから助けてもらいましたからね。よほど無理難題でないかぎり依頼があれば引き受けるようにしています。それに新しい店は巷で見た書物や西欧に詳しい人の意見を参考に思い切って洋風を取り入れた造りにしていましてね。周りから見ると海外品に通じていると思われて当然なんでしょうね」


嘉右衛門も先代から店を引き継いでいるが、幸い新装して代が変わっても顧客は離れず順調に商いを続けられている。

また、昔からの信頼できる店員も残っており、店を任せて外出することが出来た。


「ハハハ、知恵の豊富な嘉右衛門さんだからこそ出来るんでしょうな。一度お店に伺いたいと思っていますが、どうです、薬も海外に頼ってばかりでなくて、ご自身で作ってみられることも考えては。時間はかかるでしょうけど」


「え!そのようなこと可能なんでしょうかね」


その時、廊下から足音が聞こえ二人の少女が顔を出した。

そして、ほぼ一緒に口を開いた。


「お父様、これから習い事に行って参ります」


そのあどけない物言いに陣野も思わず頬がゆるむ。


「ああ、気を付けていくんだぞ。それとお客様にご挨拶は?」


お辞儀しながら、再び揃って小さな口から言葉を発した。


「いらっしゃいませ。ゆっくりしていって下さい」


おそらく躾どおりに振る舞っているのであろう。

思わず嘉右衛門も立ち上がり挨拶した。


「こんにちは」


良く見ると二人は似た顔をしており、同じ笑顔を見せて振り向き廊下を駆けて行った。

嘉右衛門はあっけにとられて見送った。


「双子なんですよ」


と伴野が言うと、嘉右衛門は納得した。


「なるほど、でも大変可愛くて先生がうらやましい」


「妻の叔母がやはり双子だったそうで、どうやら血筋のようです」


「ほう、そういうことがあるんですな」


「嘉右衛門さんにも息子さんがいらっしゃるそうで」


「ええ、彦太郎と言うんですが、前にも申しましたように私の実子ではないんです。火事で亡くなりました私の主人の娘の理久さんが母親で、大店の幼馴染の息子さんと愛を貫き通して心中するに至ったんですが、不妊の原因が自分でないことを証明するために売色行為をされたんです。その結果、子が産まれて理久さんの願いがかなったんですが、二人が亡くなった後、少なからず係わりのある私が面倒見ることになったんです」


「お気の毒な事情があるのですな。私が伺ってよろしかったのかな」


「ええ、私の周りのほとんどが知っていますので。それと先生のことは信頼しておりますから」


「それは恐縮。では彦太郎君の父親が誰かわからないのですな」


「その通りなんですが、私から見ると彦太郎は大変器用な子でしてね。仕掛け品や道具を解体したり逆に組み立てたりすることに夢中になるんです。血ということからすると、どうやら父親のほうではないかと。というのは、主人と一緒に焼死した私の母親から聞いた話ですが、理久さんは相手に真面目そうな人を選んだと、もちろん名前は聞かなかったそうですが手工業の職人さんだったそうです」


「なるほど。父親の才能を受け継いだかもしれないね。そういえば私も昔、長崎で留学生として勉学に明け暮れていた時期に、ひょんなことから身寄りのない農家の娘を預かることになったんだが、偶然、我々の米人教師の奥さんの目にとまり英語を教え始めたんだ。ところが、ほんの数か月で覚えてしまい通訳出来るまでになってね。父親が白人というだけで不明なんだが、どうやらその血が流れているんじゃないかと思ったもんだよ」


「その娘さんは今どちらに?」


「ああ、その教師夫妻が米国に連れていったよ。ところで、嘉右衛門ご自身は嫁を迎えるつもりはおありで?」


「いえ、今のところは店を存続するのに精一杯でとてもその気になりません」


実のところ嘉右衛門には周囲から妻帯を勧める話が数多くきていた。

けれどもその都度断っている。

相手の問題ではなく、嘉右衛門の心の中に縁者を増やしたくないという思いが根強くあった。

両親や親しい人々の不幸、すなわち突然の死別に何度も遭遇し、今後の人生において悲しい思いを避けたい気持ちが募っていた。

嘉右衛門にとっての家族は、血はつながっていないものの、彦太郎だけで充分であった。


「まあ嘉右衛門さんだったらいくらでもお相手は見つかるよ。まだお若いし急くことはないかもしれないな」


その後も二人の話は多岐にわたった。

けれども嘉右衛門は帰りの電車の時刻が迫り、名残惜しい気持ちで腰を上げることになったが、伴野が言った『ご自身で薬を作ってはどうか』の言葉が頭から離れなかった。



***

エイミー・ジョンストンが倒れた。

孫娘のソラと一緒に散歩に出かけたが、途中で気分が悪くなり、戻ることになった。

なんとかバードハウスまで帰ってこられたものの、玄関で頭を抱えしゃがみ込んでしまった。

ソラの泣き叫ぶ声を耳にした隣人が駆けつけた時は、意識がもうろうとしており、動けない状態であった。

何人かで部屋に運び入れベッドに寝かされ、すぐに医者を呼びにやられた。

娘のナミにも連絡が行き、学校を早退して駆け付けた時は、顔見知りの人たちが、昏々と眠っているエイミーを暗い表情で見守っていた。

居残っていた医者に聞くと脳卒中だと言う。

この症状は町医者では手に負えないし、腕のある医師でも治すのは難しいと付け加えた。

ナミはとりあえず礼を言い、専門医を紹介してもらうことになった。

また、世話をしてもらった人々やソラの相手をしてもらった隣人に感謝を述べ、後はナミがエイミーを看ることになった。

けれどもナミの出来ることは限られていた。

眠り続けるエイミーを少しでも体を楽にさせて、後は目を覚ますのを期待するしかなかった。

その日からナミは休職の届けを出し、ソラの面倒を見ながらも、可能な限りエイミーの側を離れなかった。

時おり声を掛けたが、規則的な寝息が聞こえるだけで反応はなかった。


二日後、紹介してもらった専門医が訪れた。

エイミーを診察したが、病状は深刻で今の医療で治すのは困難であり、回復するのは奇跡を待つ以外ないと告げた。

そして、保ってあと一週間だろうとも言った。ある程度、覚悟はしていたものの、ナミにとってショックは隠せなかった。

エイミーは老いたとはいってもかけがえのない母親であり、ナミを導いてくれた恩人であった。

そのエイミーの生死を彷徨っている姿を前にすると、悲しみで涙が止まらなかった。

バードハウスの入居者は家族同然で、病人やソラの世話を申し出てくれた。

急を聞いてお見舞いに来た人々も皆親切であった。

ナミは有り難く思い、あらためてエイミーの人望の厚さに触れた気がした。

一人でエイミーの枕もとで見守っていると、次から次へと過去の思い出がよみがえってくる。

日本の長崎でのエイミーとの出会い。

そして付きっきりで英語を教えてもらい、開かれた世界にナミを導いてくれたこと。

さらに、小さい頃からあこがれていた海の彼方へと連れ出してもらい、アメリカに渡ることになる。

今から思うと夢のような出来事であった。

その後、フランク・エイミー夫妻の愛情を一身に受けて成長し、十分な教育を受けて、今や教師になるまでに至った。

エイミーはナミにとって感謝してもしきれないほどの大切な存在であった。

そのエイミーが命を尽きようとしている。

ナミは祈った。

何度も何度も。


『神様エイミーを助けてください』

と。


ある日、ナミが寝ているエイミーの側に座り、うつらうつらしていると、彼女を呼ぶ声を耳にした。

ナミが目を開けると、エイミーの瞳が彼女を見つめていた。


「エイミー気が付いたのね。よかった!」


ナミは大喜びでベッドに近づきエイミーの手を取った。

エイミーは微かに首を横に振って言う。


「そうじゃないの。表のベンチで休んでいると、フランクが来て言うの。また、一緒に旅に出ようって」


声は小さかったが、ナミにははっきりと聞こえた。

また、表情は青白いものの目は澄んでいた。


「私は少し待ってほしいと頼んだの。ナミに話したいことがあるからって。フランクは笑って頷いたわ」


「なあに、エイミー?」


「ナミ、あなたは私たちの娘よ。それもとびきりの親孝行の娘。あなたは言葉を覚えてからなんでも私やフランクに話してくれた。嬉しいこと。驚いたこと。悲しいことも。そして、分からないことはなんでも聞いてくれた。私たち二人だけの時と、生活が一変したわ。時には返答に困ることがあったけど、あなたと過ごすようになってから毎日毎日が充実し楽しいものになった。学校に行きだしてから友達や多くの人々と親しくなっても、私たちを一番大切に思ってくれた。それはフランクが亡くなってからも同じ。いえ、前よりも一層、私に甘え、そして元気づけてくれた。私と同じ教師にもなってくれた。あなたがいてとても幸せだったわ。だから礼を言いたいの。ありがとうナミ」


エイミーは一語一語かみしめるように話した。

ナミも手を握りその口元に目線を注いだ。


「それは、宮田さんと愛し合うようになっても変わらなかった。私のことを決して忘れなかった。宮田さんがここに泊まりはじめて三日ほど経って私のところに相談にいらっしゃったの。その時彼はこう言ったわ。


『私は今まで多くの国を回り、多くの人々と出会いました。けれどもナミさんほど魅力的で優しい女性は正直いませんでした。ここに留まれば私は特別な感情を抱くことになるでしょう。また、ナミさんからも私は良い印象を受けているようです。もし、エイミーさんがナミさんの将来について思うことがおありなら、私はここに留まるべきではないと思うのです。大変辛いことではありますが』


それに対して私はこう言ったの。


『ナミはとても賢い娘よ。もう自分の行動が正しいかどうかの分別がついているはず。だからナミの将来については本人が決めることで、私が口を挟むべきことではないわ。だから宮田さんがいいのであればこのままここに居てほしいの』


そして、宮田さんが予想した通り二人は親密な関係になったわ。でも私が彼に言っていないことがあったの。ナミ、あなたが子供を産みたがっていたことよ」


ナミは思わず表情を崩した。


「そう、あなたは私に早く孫を見せたかった。以前、ジェシカに娘が生まれた時、私たち大喜びで抱き合ったわ。その時、あなたは老いていく私のために少しでも早く子が欲しいと思った。私に赤ちゃんを抱かせたいと思った。私にはあなたの考えていることは手に取るようにわかるのよ。そしてあなたの前に宮田さんが現れた。もちろん二人の愛情は真剣だったことはいうまでもないことだけど、一方で願いが叶えられると思ったのね。そして、とても可愛いソラを産んでくれた。宮田さんのことは気掛かりだけど、私はあなたとソラと今日まで過ごせてこの上もなく幸せだったわ。でも私の身勝手だったかもしれないと時々考えるの」


ナミは首を横に振った。


「これからはね、ナミ、あなたは自分がやりたいと思うことをすればいいのよ。私にはわかるのよ。ナミが何を望んでいるのかを。行きなさい。あなたの道を。大丈夫、あなたなら出来るわよ。私もフランクと一緒に見守っているから。ソラのことは心配しなくていいのよ。あらあらフランクが待ちくたびれているわ。そろそろ行くわね。ああ、それと私のことを気にかけて見舞ってくださった方々によろしく伝えてね」


エイミーはしばらくナミを見つめて微笑んだ。


「じゃあ、お休み、ナミ」


と言いながら静かに目を閉じた。

ナミはエイミーの顔から片時も目を離さなかった。

そしてエイミーが再び静かな寝息を繰り返すのをじっと傍らで見守っていた。

安心したような穏やかな表情であった。

ナミには分かっていた。エイミーが二度と目を覚まさないであろうことを。

そして、しばらく経ってエイミーは天国に旅立った。



***

上林嘉右衛門の姿はこの日、東京大学の通用門の前にあった。

子供時代に塾で肩を並べて学んだ幼馴染と久しぶりに会うためであった。

大久保将平と言い嘉右衛門と同じ旗本の出身であった。

明治維新により旧幕臣の多くがその後、不遇の身に転落していった中で、叔父にあたる大久保一翁が徳川慶喜の大政奉還や江戸無血開城に尽力し、徳川家臣として駿府に移住した後、明治政府で東京府知事を務めたことから、将平も明治十年に設立された東京大学に口利きで職員に採用されることになった。

もちろん、塾では当時小太郎という名であった嘉右衛門と肩を並べるほどの優秀な成績であった将平は、その後も学問を積み重ね、東京大学の前身校に入学するに至った。

従って、本人の能力も認められて、日本で初めての近代的な大学に従事することになったのである。


東京大学は発足時、法学、理学、文学、医学の学部構成で医学部の中に製薬学科が設けられている。

薬学は医学と並んで医療に不可欠な重要な学問とみなされ、国内外から専任の教師が招聘されていた。

従って、薬剤を取り扱う業者として、嘉右衛門はこれからの薬種の方向性を知る上で、足を運ぶ必要があると考えた。


「おお、小太郎かい?本当に小太郎なのかい?」


構内から嘉右衛門とほぼ同年配の男性が現れ、以前の名前で呼びかけられた。


「そうだ。将平かい。将平もすっかり変わってしまったな」


「それはお互いさまだよ。当時はまだ子供で、なにしろ十年以上になるからな。心配していたんだぞ。元気そうだな?」


「ああ、何とかやっているよ。今日は突然で悪いな将平、色々教えてほしいことがあって」


「ちっとも構わんさ。久しぶりだからゆっくり話しあおうじゃないか。とにかく中に入って、案内するよ」


二人は大学構内に入り、左右に建つ校舎を見ながら、真っ直ぐの通路を進む。空き地や処々に置かれた長椅子の周辺に数人の生徒たちが見られた。

教師であろうと思われる外国人ともすれ違った。

将平から目に入った建物や出会った人々について、その都度説明があった。

さすがに今までの教育施設と比べると、規模が大きく、近代的な威容に満ちている。

二人は正面奥の事務棟に入り、二階の一室に腰を落ち着けた。


「僕はあれから家族と一緒に駿府に移ったんだ。けれども移住した幕臣の中に小太郎の名がないんで気になって聞いてみたんだが、誰も行先を知らないっていうんだ」


「ああ、父が亡くなってから母は先行きを悲観し色々と悩んでいたんだ」


「知っているよ。お父上にはお気の毒なことだったな」


「その折に私が興味本位で立ち寄っていた薬種店の主人から、店に来ないかいと声が掛かって、勤めることになったんだが、母も私と付き合って市井に身を投じることになったんだ」


「なるほど、それで手紙に薬嘉堂云々と記載してあった訳か」


「ただ、母は武門の出であることを気遣って、身内の者に失踪したことにしてほしいと頼んだんだ」


「道理でそういうことだったんだな。どうやら苦労したみたいだな」


「それは皆同じさ。将平も大変だったんだろうな」


「ああ、駿府に行って待っていたのは貧窮生活さ。ほとんどの者が食いつなぐのに土地を耕すことから始めなければならなかったんだが、抜ける者も多かったよ。ただ僕は回りから勉強を続けることを勧められて、学業に専念出来たんだ。その後、叔父が政府から呼ばれて東京に出る時に一緒に連れていってもらい、こちらの学校に入学したのさ。そして、今はここで働いているわけなんだが、運が良かったんだよ。それにしてもここに僕がいるとよくわかったな」


「ああ、たまたま東京大学の記事に目を通しているときに、職員の名簿が記載してあって、偶然将平の名を見つけて連絡を取ってみようと思ったのさ」


「なるほど、でも決して人に教えている身分ではないよ。今でも学修することは山ほどあるんだ」


「外国人の教官も目につくな」


「そうさ、学部によっては日本人だけでは専門教師が不足していて、外国人に頼らざるを得ないのさ。特に医学や理学の分野は西洋の最先端の知識や技術を学ぶ必要性があっておのずと欧米から専門教師を招聘しているのが現状さ。我々が羨ましいほどの報酬を受け取っているよ」


「なるほど、じゃあ、将平はここでどのような仕事をしているんだい?」


「僕か、僕はいわば裏方の仕事をしているよ。あくまで主役は教官と生徒なんだが、講義の時間割だとか連絡業務、講義室や教材の確保、場合によっては実習に必要な資材を入手するのも僕らの仕事なんだ」


「実習というと器具を使って学習したりするのかい?」


「ああ、僕の担当は理学なんだが、とても分野が広くて多岐にわたるんだ。建築、機械、化学、農学等、さまざまで、それぞれの教官からの要望で講義用の教材を取り揃える必要があってさ、調達するのに苦労することがあるんだ。最近、ようやく環境が整いつつあるがね。近代的な大学とはいっても実際はまだまだこれからなんだよ」


「なかなか大変そうだな。実は今日私が来たのは、自分が携わっている仕事が、政府が目指している産業の西欧化にかなりの影響を受けているんだ。そのために普段から官報や専門紙にも目を通し、業界の情報を把握するように心掛けているんだが、やはり最新の技術動向を知った上で、役に立つ知識を今後の商いに生かしていきたいと思っているんだ」


そして、嘉右衛門は自分が働いている薬嘉堂の説明、奉公人として勤め始めた経緯、さらに先代の店主に認められて主要な業務を任されていったこと、また、店が火事により焼失し、先代店主と実母が亡くなり、残った店員と協力して建て直したこと等を順を追って話した。

その後、自分が嘉右衛門を名乗り、店を引き継ぐことになったが、医業と同様に薬も西洋化への転換が図られており、取り扱う商品も従来の漢方から洋薬に切り替えているものの、入手に時間がかかったり、粗悪品があったり問題も多い。

今後店の運営をどのように進めていけばいいか思案していると言った。

その間、将平は熱心に耳を傾けていたが、大いに感心した上で応じた。


「さすがに小太郎だな。すっかり今の仕事が板についているし、先を見る目も確かだ。昔、同じ塾に通っていた中でも一番の成績であったし、今もその才能を充分活かしているように思えるよ。確かに今の時代はあらゆる分野で西洋化の波が押し寄せ、従来の手法では対処できなくなっているんだ。この大学が出来たのもそれが発端さ。だからかなり注目されているし、入学希望者も多いよ」


「特に気になったのは薬学に関する講座があることなんだが、どういったことを教えているのか知りたいと思ってね」


「ああ正式には製薬学科と言うんだ。僕もその方面は詳しくはないが、どちらかと言えば薬全般の教養を身につける一方で、生産や研究に携わる人材を育成したいようだな。それは他の分野にも言えることで、早く西洋に追いつきたいという政府の方針に基づいているんだ。外国人教師を盛んに招聘しているのもその一環さ」


嘉右衛門はその話を聞き、うかうかしていると時代に取り残されると感じた。


「そう言えば、大坂の道修町の業者からも問い合わせがあったな。確か昔から薬種を扱っている仲買業の店が集まっているところで、全国に薬を流通しているんだが、新たな薬の開発にも乗り出しているそうだよ」


それについては嘉右衛門も認識していた。

実際に現地から中継業者を通じて薬剤を購入していたし、ヨードのような自家製品も扱っていた。

ただ、あらためてその名前を耳にすると嘉右衛門の頭に関心が膨らんだ。


その後、大学の教育内容、講座の区分、学士号の授与等についての説明を受けた。

もちろん嘉右衛門自身、あらためて講義を受ける立場ではないが、時代の最先端にある教育機関の実情を知っておくことの重要性を強く意識した。

時間が過ぎ、礼を言って辞去する際に、将平から、同じ身の上の者として今後も事業への協力を惜しまないし、出来る限りの支援をしたいとの申し出があった。

嘉右衛門は深く感謝の意を述べ、これからも連絡を取り合っていくことを伝えた。

別れ際に将平が言った。


「そうだ、近々米国から優れた大学教授が招かれてやって来るよ。専門は合成化学ということだが、薬品関係にも詳しいと思うよ」


「そうか。機会があれば話を聞いてみたいな」


「ああ、その際はもちろん連絡するよ」


嘉右衛門は通用門から外に出て帰路についた時には、次に成すべきことについて決心を固めていた。










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