パン屋の娘と日常①
パン屋の朝は早い。日も昇らないうちから始まる。
私は目を覚ますと着替えをし、洗面所で顔を洗い、長い髪が落ちないようにお団子に結んで衣類用のブラシで髪の毛や埃を払う。これからパンの仕込みをするのだから異物混入には気を遣う。
店の調理場に行けば、もう両親が仕込みを始めていた。
調理場の隅にかけてあるエプロンと三角巾を身につけると、もう一度衣類用のブラシで埃を払う。それから肘上まで手を洗うと私もパンの仕込みに入る。
下準備が終わっているようなので、小麦粉を混ぜてこねていく。ただひたすらこねて、こねて、こねて、こねていく。
これが機械ありきの前世のパン屋だったなら、生地のこね機もあっただろうけど、ここは中世ベースの異世界だ。まあ、部分的に魔法で近代的な部分もあるけど、科学は発展していないので、様々な種類のパン生地を全部人力で用意しなければならない。
腕力、つくよね。
あ、もちろん上腕も前腕も常人並ですよ?カッチカチになんてなりませんよ?パン屋の娘はゴリマッチョでも細マッチョでもないんで、普通ですんでご安心を。
生地もある程度出来上がって成形出来そうな生地と、冷蔵庫から前日に作っておいたチョコレートクリームを取り出す。
そしてここからが腕の見せ所。切り分け伸ばした生地の上にクリームを乗っけて包み、装飾を施していく。パンダにウサギ、くま、ネコ、ハリネズミetc...いわゆる動物パンを作り上げていく。
これが結構人気で、近所のお子さん達からリクエストが入ってきたりするのだ。ウサギのお耳をハートにしてとか、くまに王冠付けてとか。ほっこりするでしょ?
そういった買ってくれる子供達の顔を想像するだけで俄然やる気になる。
実は父親も母親もなぜだかこういった作業が不得手なようで──普通のパンは成形できるのに、愛らしいウサギが殺戮ウサギに、人気者のパンダがゾンビパンダになってしまう──故に動物パン作りは私の大事な仕事の一つになっていた。
仕上がったパンを鉄板の上に並べていって、いっぱいになったら棚に並べていく。それが半分くらい埋まる頃には最初のパンが焼き上がってくる。
竃の温度調節と焼きは家族の中で唯一魔法が使える父親の仕事だ。焼き上がったパンを棚へ戻し、次のパンを竃に放り込む。
焼き上がったパンの匂いをかぐといつだってお腹が減ってくるのはしょうがないことだろう。だって朝食はまだなのだから。
元日本人としては白いご飯にお味噌汁、卵焼きか鮭が出てくると飛び上がるくらい喜ぶが、私はパン屋の娘。基本、売れ残ったパンや新作の試食のパンが多い。
いや、文句はないですよ?パンだって好きだし、うちのパンは贔屓目無しに美味しいし。
ただ、無性にご飯と納豆が食べたくなる時があるってだけだ。卵かけご飯でも醤油ご飯でもいい。とにかく何でもいいからご飯が食べたい!
ぐぅうぅぅ~・・・
ご飯の事ばかり考えていたのが悪いのか、お腹が鳴った。
クスリと笑いを漏らされ、両親の視線がこちらに向く。
「リリー、ご飯の準備しておいで。準備が終わったらすぐにご飯にしよう」
やった!と思わずガッツポーズをする。この世界にガッツはいないんだけど、ガッツポーズなんて言うから、もしかしたら私以外にも転生者はいるのかもしれない。
手持ちの生地を成形し終えると野菜籠から人参や豆を取りだし、野菜スープを作り始める。やっぱりパンだけじゃ栄養は取れないし、味気ない。
戸棚から昨日の売れ残りのパンを出す。売れ残りとは言っても繁盛店なので、3人分の朝食には少し多すぎるくらいの量だ。
その中から食パンを残して焼きすぎないよう竃の手前に押し込んだ。食パンは後でラスクにでもしてオヤツにしよう。
この世界にはレンジもトースターもないので竃で温めるか調理をする他はそのまま食べるしかない。竃は場所も取るし魔力が無いと火力の調整が出来ないので、一般的に出回っている調理用魔導器具はコンロのようなものだ。
五徳の中心部分には火の魔法が仕込まれた魔導石があり、この上にこれまた魔方陣の描かれたフライパンや鍋をセットすると火が点く仕組みになっている。火力を調整したい場合は魔導石を取り替えるか、複数個五徳が並んでいる場合はそれぞれが違う火力の場合が多いので、そこに置くかすると火力の調整がきく。
野菜スープもこの魔法のコンロで作っていた。
ブクブクと沸騰して中の野菜にも火が通ったくらいにウインナーを数本入れて、それにも火が通ったら完成だ。
出来たよと両親に声をかければ、母親は作業がまだ残っているのでそれが終われば食べるようだ。自分と父親の分のスープをカップによそい、父親が温めたパンを皿に乗せる。その皿にチーズを切り分け、ミニトマトを添える。
調理台の端っこに椅子と盛りつけた料理を二人分並べ、父親と一緒に食事前の祈りをして食べはじめる。
うん、いつものお味です。スープはいつも通りの普通の野菜スープ。パン作りは年々上達するのに、他の料理はそれ程上達しない。
まあ、毎日作る量が桁違いだからしょうがないんだろうけど。
「そう言えばリリー、あんたも年頃だし、彼氏の一人や二人でも出来た?」
ぶっっ!!!
突然の母親の発言に私も父親も食べている物を吐き出しかける。ギョッとして二人で母親を振り返った。
いきなり何を言い出すんだ。今までそういう話題も出した事とかなかったのに。
「だってさ~、リリーは来年17でしょ?私が17の時にはもうシアンと出会ってたし。それにリリーにはスト」
「あ~!!リリーにはまだそういうの早いんじゃないかな!?ライラも僕と出会ってすぐに結婚した訳じゃないし──僕はまだ素敵な愛しい奥さんとその奥さん似の可愛い娘と一緒にまだまだ暮らしたいな」
遮るようにまくし立て、キリッと決め顔で最後に、ね?とニッコリ笑いながら父親が母親を見やれば、母親は年甲斐もなくポッと頬を染めた。
うん、こりゃ父親の作戦勝ちって所かな。案の定、母親は小さくウンと頷いた後、俯いてパンの成形をし始めた。
はいはい、ごちそうさま。我が両親ながら仲がよろしい事で。
私はちょっと口から飛び出してしまった物を皿の端に拾い集める。
いやー、びっくりしたわ。娘が行き遅れる事を心配したっていうよりは、自分の昔を懐かしんでって感じかな。
まあ、私も恋人が欲しくない訳じゃないけど、如何せん出会いも萌えキュンも何一つ無いんだよね。
なにせ体は子供、頭脳は大人!のどこかの漫画の主人公状態だから。同年代とは言っても私から見たら子供だし、その子達が何やってもときめかないもん。微笑ましいとかほのぼのするとか、近所のおばさん目線になっちゃうからしょうがないよね~。
そんな事をつらつら考えながら食事を再開する。父親はチラッチラッとこっちを気にしているけど、無視しよう。
貴方が心配しているような事はありませんよ。貴方の娘さんは店を繁盛させる事と貯金が楽しみの喪女ですよ。とは言えないもの。
でも、余りに視線が鬱陶しいから話題を変える事にした。
「そういえば今日はもうマーモットさんの所に持ってく分は焼き上がってるの?」
「もうすぐ出来上がるよ」
そう言って父親は竃の様子を覗き込む。
マーモットさんは『銀の鈴亭』という宿屋兼居酒屋をうちの近所でやっている。冒険者ギルドが近くにあるので宿屋よりは居酒屋の方が繁盛しているらしいのだけど、宿屋の利用者が全くいない訳ではない。その為自分の所でパンを焼いて用意するよりは、こうやってうちに外注する方が遥かに効率的で安上がりという訳だ。
「じゃあ、食べ終わったら届けて来る」
「ああ、よろしくね」
あからさまに父親がほっと胸を撫で下ろしたような顔をした。
母親はそんなに過保護でも親バカでもないけれど、父親は過保護で親バカだ。結婚して十数年経っても未だに自分の妻の事を愛していて、その妻にそっくりな(私は違うと思うけれど)愛娘を溺愛せずにはいられないらしい。
私と父親が食事を終える頃には母親も作業が終わり、ようやく交代で食卓につく。
私は二人分の食器を流しで洗いながら、父親は籐の籠にマーモットさんの注文分のパンを詰め込みながら、もちろん母親は食事をしながら、今日の販路や担当、休憩なんかを確認する。
うちはバイトを雇っていないのでこんなふうにでも確認しとかないと休憩が取れなくなる事もある。そこをなあなあにしてしまうと、一番気が回る人に皺寄せがいくからだ。前世の会社勤めの時に経験済みである。
今日一日の予定を把握する頃には食器も洗い終え、濡れた手をエプロンで拭う。そしてエプロンと三角巾を取って元の位置に戻した。代わりに注文を書き留める為のメモ帳をワンピースのポケットに使い込んで小さくなった鉛筆と一緒に突っ込む。
洗面所に行って歯をみがき終えればすぐにでも配達に出れる。洗面所で歯ブラシにミントの香りのする歯磨き粉をつけて磨きはじめる。
科学が発達していないわりにこういった便利道具や文化がこの世界には存在する。魔法が代わりに発達しているからあっても不思議ではないかもしれないが、私と同じように転生者がいるのではないかと思う。
OK牧場のあの人がいないのにガッツポーズはガッツポーズと言うし、中学校はないのに中二病という言葉が存在し、キリスト教がないのにクリスマスやバレンタインがある。もちろん、この世界独自の文化もあるが。
そんな事を考えていたら歯は磨き終わっていた。
身支度を整えて先程パンを詰めた籠を抱える。両親を見ると父親はパンを取り出す所で、母親は食器を下げる所だった。
「じゃあ、行ってくるね~」
いってらっしゃいと二人の声が揃う。
裏口から裏庭に出るとどこかで何か物が倒れる音と猫の泣き声が聞こえてきた。猫が何か倒したのかなと思いながらもマーモットさんの所に向かいはじめた。
店の前の通りに出ても誰もいない。それもそうだろう。ようやく空が明るくなりはじめた所だ。響く足音も私一人分。
銀の鈴亭はご近所なので鼻歌一曲分歌い終える頃にたどり着く。店の正面は防犯の都合上、今の時間帯は空いていないので裏口に回る。
「おはようございます!」
裏口をノックして声をかける。いつも銀の鈴亭には同じ時間帯に訪ねているので間もなく裏口が開く。
中から出てきたのは中年の恰幅のいい女性だ。
「リリー、おはよう!」
マーモットさんはニコニコ笑いながら籠を受け取ると、かぶせてあったフキンを少しめくり中のパンを「いつもながらいい香りだねぇ」なんて言いながら嗅ぐ。うちのパンを褒められたら悪い気はしなくて、つい笑顔になってしまう。
それから私の方を見やってから困ったように笑うと、今日の夕方の分を注文する。
「いつも通りバケット五本分お願いね」
「はい!じゃあ、いつもの時間に配達でいいですか?」
「いつも通りでよろしくね」
夕方の注文をメモ帳に書き留め、再びワンピースのポケットに戻す。じゃあ夕方にと挨拶をしてもと来た道に戻っていく。
通りは先程と同じで人通りはない。もう2時間もすれば向かいの冒険者ギルドが解放されて賑わい始めるのだろうけど、それまで大体どのお店も閉まっている。
ここは冒険者ギルドを中心に栄えている街だ。宿屋や飲食店、武器アイテムのお店だとかが多い。
まあ、うちはパン屋なだけに客層は人畜無害な一般市民から屈強の冒険者までいる。日持ちするパンは冒険者には人気だし、惣菜パンはお昼のお弁当代わりに人気だ。
我が家に着くと続々とパンを焼き上げている所だった。
「ただいま」
「おかえり」
「マーモットさんの所はいつも通りのバケット5本だったよ」
「うん、じゃあ、今日は予定通りで大丈夫かな」
調理場手を洗い、エプロンと三角巾を身につける。それからワンピースに入れっぱなしにしていたメモ帳を破り、銀の鈴亭の注文を柱にとめた。




