第49話 サイン伯爵の覚醒 (前編)
今回は、フィオリアとモフモフの話。
あと、みなさん、ケネスという男を覚えてますか。1章に出てきたアイツです。
フィオリアは魔狼モフモフにこう零したことがある。
「私は何になってしまったんだろう」
20年ぶりに目を覚ましてから4ヶ月が経とうとしている。
成長期は終わっていないはずなのに、身長はピタリと止まったまま。
どれだけ食べても体重は変わらず、日差しに晒されても肌は焼けない。
夢のような身体ではあるが、同時に、奇妙さがつきまとう。
だからこそ、疑問を抱かずにいられない。
自分はほんとうに人間なのか。
人間ではないナニカに変わってしまったのではないか。
当時のフィオリアは、まだ、その答えを見出せていなかった。
しかし、今は――
* *
「ご主人、サイン伯爵にはどのような沙汰を下すつもりだ」
「……彼の態度次第かしら」
コスイン市を出たフィオリアは、ゆっくりと街道を進んでいた。
白い巨狼――モフモフの背に乗り、そよぐ春風に身を任せている。
「モフモフ、もうすこしスピードを緩めても構わないわ」
「サイン伯爵に時間を与えるつもりか。逃げられたらどうする?」
「決まっているでしょう。……ケネスのときと同じよ」
逃げるのであれば、追いかける。どこまでも追いかける。
その罪業に裁きを下すためなら、フィオリアは地の果てだろうと追ってゆく。
たとえば、かつてケネスという男がいた。
毒婦アンネローゼの取り巻きである。
もともとは騎士団長の息子だったが、強盗や殺人に手を染めたあげく、元第一王子オズワルドの脱獄にも手を貸した。
いわば、国家規模の大罪人といえる。
彼はフィオリアを恐れるあまり、高速船に密航し、はるか西の新大陸へ逃げ込んだ。
辿り着いたのはプエルリコの街。
さらにそこから海路を経て、アトラ王国に亡命する……つもりだったが、その計画はもろくも崩れ去ってしまう。
フィオリアが追いかけてきたせいである。
ベルガリア大陸から、新大陸のプエルリコまで。
ケネスの罪を裁く、ただそれだけのために。
「逃げるか、戦うか、泣いて慈悲を乞うか――サイン伯爵には、己の末路を選ぶ権利を与えましょう。願わくば、彼なりの意地を見せてほしいところだけれど」
街道を進むこと半日。
フィオリアとモフモフがサイン伯爵邸に辿り着いたとき、すでに日は傾いていた。
まぶしい西日が、洋館に大きな影を落としている。
「……人の気配がしないな。サイン伯爵は逃げたのかもしれんぞ、ご主人」
「いいえ、いるわ」
フィオリアは、じっ、と洋館の1点……3階のあたりを眺めていた。
「私への恐怖に震え、顔を真っ青にしながら――必死に歯を食いしばっている。屋敷のどこかに身を隠し、静かに息をひそめ、私を討つ機会を窺っている。……ふふっ」
フィオリアの口元が綻ぶ。
まるで純真な少女のような、朗らかな笑みだった。
「プライドばかり高くって、そのくせ小心者。ちょっとしたことで怒鳴り声をあげる、典型的なダメ貴族。……そんなふうに思っていたけれど、土壇場で化けたわね、サイン伯爵」
声が弾む。
胸の高鳴りを抑えられない。
サイン伯爵、貴方、ずいぶん可愛らしいことをしてくれるのね?
あんまりにも可愛すぎて、少し、遊びたくなったじゃない。
《神罰の杖》なんて無粋なものは使わない。
《開闢の黎明》で大天使を呼ぶのも、《雷霆の剣》で叩き潰すのもやめておくわ。
貴方の決意、愛でてあげる。
どんな策を張り巡らせているか知らないけれど、真正面から受け止める。
真正面から受け止めて、すべて踏み越えて――貴方の末路を、滅びの華で飾りましょう。
* *
豪奢な紋章が刻まれた正面扉を開く。
フィオリアは、玄関に足を踏み入れた。
その、途端。
「ふうん」
足元の床がはじけた。
内部に火の魔法石を仕込んだ、魔法地雷。
ひとつではない。
ふたつ、みっつ、よっつ――。
無数の爆発が重なり合って、フィオリアを消し炭に変えようとする。
地雷の恐ろしさは、熱波と衝撃だけではない。
地雷の外殻や、爆発に巻き込まれた物体の破片。
そのすべてが鋭い凶器となり、フィオリアの身体を貫かんと迫る。
「素敵な歓迎ね、サイン伯爵」
だが黄金の女神には微塵の動揺もない。
口元を綻ばせ、余裕の表情のままに魔法を発動させる。
「《深淵の渦》」
それは闇の魔法。
詠唱とともに空間そのものがグニャリと歪み、虚空に孔が穿たれる。
“むこう側”に広がるのは無限の暗黒。
光さえも届かぬ闇が、その咢を広げた。
すいこまれてゆく。
爆炎も、烈風も、破片も。
フィオリアを脅かそうとするものはすべて、孔の向こうへ呑まれて消えた。
二度と戻ってくることはない、一方通行の深淵。
あとに残ったのは、無残に焼け焦げた玄関と――
「闇魔法も、やろうと思えば使えるものね」
フィオリア・ディ・フローレンス。
その白い肌は相変わらず艶やかで、ドレスにも綻びひとつない。
無傷のまま、悠然と立っていた。
「無事か、ご主人」
白い魔狼が、気づかわしげに声をかけてくる。
フィオリアは穏やかな表情のまま後ろを振り返った。
「ありがとうモフモフ。案ずるに及ばないわ」
「分かっている。だが油断は禁物だ」
「もちろんよ。いまのサイン伯爵は、何があっても不思議じゃないもの」
「どういうことだ?」
「サイン伯爵はとても臆病な男だったわ。私に睨まれただけで腰を抜かす。そういう、小さな人間。……けれど今、彼はこの私に立ち向かおうとしている。覚えておきなさい、モフモフ。人間はね、追いつめられた時にこそ奇跡を起こすのよ」
命が輝きを放つ。
そう言い換えてもいいわ。
私は、そんな人間を眺めるのが大好きなの。
フィオリアは呟く。
翡翠の瞳は、どこか遠く、超然とした色合いを湛えていた。
さながら、天上の存在のような――。
「ご主人は、不思議だ」
モフモフは、そっと軽く、フィオリアに寄り添った。
「『黄金の女神』。それが綽名に過ぎないことは分かっているが、時々、本物の神のようにさえ思える。……このごろは、特に多い」
「でしょう、ね」
フィオリアは、ぽん、とモフモフの背に手を置いた。
慈しむような手つきで、ゆっくりと撫でる。
やわらかな毛並み。
暖かな体温。
その心地よさに、ふふ、と笑みを浮かべながら言葉を続ける。
「私はきっと両方なの。人間みたいに振る舞うことも、神様みたいに振る舞うこともできる。どちらでもあって、どちらでもない。
その曖昧さに戸惑ったりもしたけれど……もう、答えが出たわ。
私には、人間めいた部分と、神様めいた部分がある。
両方を持つ者として、この世界をより善い方向に変えていく。
両方を持つ者だからこそ、この世界を変えていける。
それで十分。
それが、フィオリア・ディ・フローレンスという存在なの。
私は、私自身をそう定義した。
だったら、もはや疑問を持つまでもないでしょう?
いいえ、それ以前に――
ねえ、モフモフ。
私が神様だったとして、それで貴方の忠誠心が揺らぐものなの?」
「……いいや、否だ。ご主人が何者であろうと、オレの心は、永遠にご主人のそばにある。いずれ肉体は老いて滅びるだろうが、魂は常に寄り添うことをあらためて誓おう」
「ありがとう。これからも頼りにしてるわ。私のモフモフ。
――それじゃあ、行きましょうか?」
フィオリアは、颯爽とした足取りで屋敷の奥へ向かっていく。
すぐ隣に、白き魔狼を従えて。
モフモフの命が尽きるまで……否、絶えた後も続く、永遠の主従の姿がそこにあった。




