第37話 カノッサの屈辱 (後編)
「あ、ぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁ、ぁぁぁぁああああぁぁああああぁあああっ……!」
ハウル3世は、両眼から涙を零し、地面に膝を衝いている。
粉々に砕け散った《聖剣》を、指が傷つくのも構わずに掻き集めていた。
「《聖剣》だぞ、《聖剣》なのだぞ。それを壊すなど……貴様は聖女ではない、悪魔だッ!」
「それはどうかしら? 《聖剣》なんて、昔の人間が勝手につけた名前でしょう。魂を吸ってこそ真価を発揮するなんて、どう考えても魔剣の類じゃない」
「なっ……モナド教の言い伝えを否定するつもりか!」
「いまさらね、ハウル。私の目的は、いまのモナド教を完全に叩き潰すことだけど」
涼しげに言い放つフィオリア。
黄金の髪を、ゆっくりとかきあげる。
「新しい時代には、新しい象徴があればいい。――貴方と《聖剣》には、旧時代の遺物として消え去ってもらうわ。それが嫌ならば、さあ、立ちなさい。まだ諦めていないのでしょう?」
「何を、言っている」
訊き返すハウル3世。
顔の右半分は、長い紫色の髪で隠されている。
「誤魔化さなくてもいいわ。だって、まだ《聖剣》は死んでいないもの」
「……っ」
無言のまま、ハウル3世は地面の土を握りしめた。
彼の肉体はいまだ若々しいままである。
それは今も《聖剣》が機能している証拠ではないだろうか。
「《日はまた昇る》ッ!」
振り絞るような絶叫。
それは《聖剣》を再生させるためのキーフレーズ。
ハウル3世の声に応え、粉々になったはずの剣がわずか3秒で原型を取り戻す。
「余の命を好きなだけ持っていけ、《聖剣》! どうせここで勝たねば未来はない! ――《教皇の雷霆》!」
放たれた光熱は、さながら、太陽が落ちてきたかのよう。
大地すらも蒸発させ《聖剣》の真価が牙を剥く。
「余は間違っている。ああ、それは認めよう。清廉さを見込まれて教皇となったにも関わらず、堕落し、おまえの期待を裏切った。……だが! それの何が悪い!」
《聖剣》を叩きつける。
二度、三度、四度――。
そのたびに閃光が弾け、爆炎が大気を焦がす。
「フィオリア! 人間は、おまえほど強くない! 甘い蜜があれば舐めずにいられない、いい匂いがすれば嗅がずにいられない。それは生物として当然のことだろうが!」
「……開き直りもここまでくると、いっそ見事というべきね」
嘆息するフィオリア。
悠然と、黄金の長髪をかきあげる。
「貴方は、聖職者の頂点に立つ存在でしょう? 教皇のくせに、悔い改めるという言葉を知らないのかしら」
「知らん! 知らぬ! 知ったことか! ならば教皇位などくれてやる! そんなものに未練はない! ――この《聖剣》で貴様を殺し、新教を潰し、ベルガリア大陸を支配する! あらゆる贅を極め、空前絶後の覇王として歴史に名を刻む! 文句があるなら止めてみるがいい、力こそ正義だ!」
「それは間違いね。……力が正義じゃない、私が正義よ」
一歩、踏み込む。
左手で《聖剣》を受け止めた。
示指と中指のあいだで、挟み込むように。
「ぬ、おおおおおおおおおおおっ!」
ハウル3世は《聖剣》に力を籠める。
されど刃は進まず、むしろ、徐々に押し返されていく。
「貴方のことを過大評価していたわ。命を捧げれば私に勝てる、なんて言ったけれど――」
フィオリアの右手が、振り下ろされる。
鋭い手刀。
それはハウル3世の手首を、たった一撃で粉砕骨折へと追い込んだ。
「っ、ぐぁ……!」
「――前言撤回よ。貴方じゃ、どうあがいても私に勝てない」
地面に叩き落される《聖剣》。
ハウル3世は慌てて拾い直そうとするも、強風によって吹き飛ばされる。
折れた手首では受け身もとれず、そのまま地面に叩きつけられた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!」
苦悶の表情を浮かべるハウル3世。
その姿は、先程までの若々しいものではない。
紫色の髪はすべて抜け落ち、筋肉はいずれも痩せ衰えた。
まるで枯れ木のような老体。
《聖剣》に生命力のほとんどを吸い取られた結果である。
「ガ、ハッ……!」
地面に落ちた時、肋骨が折れて肺に刺さったのだろう。
咳き込むたび、口元から赤い液体が溢れ出す。
本来なら即死してもおかしくないダメージ。
それでも生きているのは《聖剣》の呪いゆえ。
生命力をすべて捧げるまで、肉袋同然となっても生き続ける。
どんなことがあろうとも死は訪れない。
否。
例外が、ひとつ。
「せめてもの慈悲よ。塵ひとつ残さず、天へと還してあげるわ」
青空が、黄金色に染まる。
神々しいまでの光が、雲間から差し込む。
風が吹き、さながら讃美歌のようなメロディを奏でる。
フィオリアは、ハウル3世を指差した。
「これが貴方の運命よ。もし生まれ変われたら、ちょっとは悔い改めてほしいところね」
――《神罰の杖》。
光の奔流が、ハウル3世を塗り潰した……。
* *
パン、パン、パン、と拍手が響く。
「見事ですね、ええ、見事です!」
謳うような、それでいて、嘲るような声。
遠くから、ひとりの女が近づいてくる。
「わたくしも《神罰の杖》の使い手ですが、貴女ほどの威力にはなりません。恐ろしい恐ろしい。怖くって、ついつい泣いてしまいそう!」
女は、黒いローブを纏っていた。
占い師のような姿である。
右側には長いスリットが入り、白い太腿を露わにしている。
「わたしはベアトリス・ディ・ルクシオン。黒き森の魔女とも呼ばれているわ。よろしくね、フィオリアさん」
「よろしく、そして、さよなら。――《雷帝の裁き》」
「っ!」
問答無用の先制攻撃。
激烈な雷光が、魔女ベアトリスの頭上に迫る。
「これだから最近の若い聖女はっ! ――《邪神の審判》!」
それは闇の最上位魔法。
《神罰の杖》にも匹敵する、絶対終滅の一撃。
奈落より放たれる闇色の奔流が、大地を割り、雷光を呑み込み、その勢いのまま空を貫く。
「やるじゃない」
楽しげに頷くフィオリア。
「では次の試験にいきましょう。――《雷霆の剣》」
聖剣ソル・ユースティティアを振り下ろした。
その切っ先から放たれるのは、暴力的なまでにまばゆい光熱。
亜光速の奔流が、ベアトリスの細身を呑み込む。
否。
「人の話をっ! ちゃんと、聞けぇぇぇぇぇぇっ!」
ベアトリスは絶叫とともに闇の魔力を叩きつける。
あまりにも強引でムダの多い方法だったが、なんとか無傷で《雷霆の剣》を凌ぎきった。
「さすが、300年を生きる魔女は違うわね」
悠然と微笑むフィオリア。
「喜びなさい。これがサードステージよ」
右手を掲げた。
それは《神罰の杖》を発動させる前段階である。
「ああもう、やってられないわ! 覚えてなさい!」
魔女ベアトリスを、黒いモヤが包む。
転移魔法の一種だろうか。
わずか数秒でその姿は消えていた。
後には、声だけが響く。
「あはははははははっ! これでわたしに手出しできないでしょう! ……いいことを教えてあげる。さっき、諸国連合には総攻撃を命じたわ。きっとたくさん人が死ぬ。たくさんの人が、戦争の原因になった貴方を恨むはずよ。さてさて、新しい教会なんて作れるのかしら!」
「あら」
肩をすくめるフィオリア。
「こっちの手間を省いてくれたのね。ありがとう」
目を閉じて、意識を集中させる。
かつてないほどの大魔法を行使するにあたって、魔力を練り上げる必要があった。
「新たな信仰を根付かせるには、奇跡が必要なの。派手で、わかりやすくて、歴史に残るような偉業なら満点ね。さあ、始めましょうか」
フィオリアは、以前、とある光魔法を編み出していた。
《断罪の光天使》。
《聖杯》による大天使の召喚を、彼女なりにアレンジした魔法である。
光の魔力を収束させ、天使のような姿のしもべを生み出す。
これは、その発展形。
「――《開闢の降臨》」
黄金色の空が、落ちてくる。
違う。
それは天使だ。
宗教画に描かれるとおりの姿。
三対六枚の光翼を持つ、見目麗しい青年たち――。
その数は、2人や3人ではない。
空という空を、大天使の軍勢が埋め尽くしていた。
十万。
あるいは、百万。
大天使たちは地上に降り立つと、諸国連合の前に立ちはだかる。
戦いの結果は言うまでもない。
兵士たちは天罰を恐れ、武器を捨てて逃げ出した。
あまりにもあっけない、戦いの幕引き。
「どうして! どうしてよ! どうしてあの女ばっかりうまくいくのよ!」
魔女ベアトリスは、フィオリアを憎んでいる。妬んでいる。絶対に存在を許すことができない。
300年前の話だ。
ベアトリスは聖女だった。
それも、ただの聖女ではない。
《神罰の杖》の使い手であり、人々からは尊敬と崇拝を集めていた。
しかしその栄光は、屈辱の汚泥に沈むこととなる。
教皇との対立。
異端の濡れ衣。
言葉にできないような“異端審問”の末、あわや処刑となりかける。
ギリギリのところで脱出し、黒き森へと逃げ込んだ。
「わたしも、あの女も、同じようなものじゃない。聖女で、《神罰の杖》に選ばれて、教皇とも対立してたのに」
どうしてフィオリアは、自分のような目に遭っていないだろう?
それは魔女ベアトリスにとって許しがたい状況だった。
不平等だ。
不公平だ。
だったら、この手で、おまえの足を引いてやる。
20年前。
アンネローゼに毒薬を渡し、フィオリアの殺害を唆したのは魔女ベアトリスである。
計画は完璧なはずだった。
けれど、どういうわけか、フィオリアは蘇った。
ならばと新教設立を妨げるべく暗躍しはじめたものの、結果はこの通り。
諸国連合の総攻撃は、むしろ、フィオリアに塩を送ることになってしまった。
大天使の降臨は、新教の存在を世に知らしめる一大デモンストレーションとなった。
すでにほとんどの信徒は、モナド教を離脱し、新しい教会へと鞍替えしているという。
「ああ、もう!」
ヒステリックな叫びをあげる魔女ベアトリス。
彼女はすでに自分の本拠地へと引き上げていた。
魔物の楽園、黒き森。
「次は、次こそは、あの女を涼しい顔を、滅茶苦茶にしてやるんだから……!」
魔女ベアトリスは昏い闘志を燃やす。
だが、彼女は気付いていない。
己の喉元まで、フィオリアの手が届きつつあることを――。