プロローグ 20年前のできごと
公爵令嬢フィオリア・ディ・フローレンスはやたらと腕っぷしが強いが、けっして脳筋ではない。
領地のあちこちをぶらり一人旅するうち、世の中の流れというものを自分なりに把握していた。
お茶会とダンスパーティばかりの貴族令嬢よりも、ずっと的確に。
「東方との貿易が始まって以来、商人たちは急激に力をつけてきました。彼らは裕福な貴族家をターゲットにして、ハゲタカのような狡猾さで隙を狙っています。油断していれば、我が家もあっという間に食い荒らされるでしょう」
フィオリアは、自分の父親……宮廷では『氷の宰相』として恐れられている人物に向かって、そう言ってのけた。
「これからの時代、必要になるのは経済力です。1年で構いません。貴族学校を休む許可と、領主の代行権を私にください」
「……我が娘は、ずいぶんと無茶を言うものだ」
フィオリアの父、グレアム・ディ・フロ―レンスは仮面のような無表情で呟いた。
「駄目だ、と言ったら?」
「私の手でフローレンス公爵家の歴史に幕を引きます。無様に衰えるくらいなら、派手に散らして見せましょう」
フィオリアは左手にあるものを掲げてみせた。
赤々とおいしそうに熟れたリンゴ。
フローレンス公爵領の名産品である。
――それを、片手でいとも簡単に握りつぶした。
ぐしゃり、ぽろぽろ。
リンゴはバラバラになり、フィオリアが右手に持っていたガラス製の果物皿へと落ちてゆく。
「いつも忙しいお父様への差し入れです、どうぞ」
「ナイフを使え、はしたない。…………うまいな」
「文句のわりによく食べるんですね」
「娘からの差し入れだ。断る理由はない」
グレアムは怜悧な面持ちに、わずかだが笑みを滲ませた。
「おまえは、フローラによく似ている」
フローラ・ディ・フローレンス。
グレアムの前妻であり、今は亡きフィオリアの母親である。
もとは農村の貧しい家の出だったが、徴兵されると軍でめざましい活躍を遂げ、女ながらも将軍位まで上り詰めた。
「フローラも、私の目の前でリンゴを握り潰したことがある。結婚するか、ここで死ぬかを選べ……あんな情熱的なアプローチは初めてだったよ」
「お父様もお母様もあたまおかしいんじゃないですか」
「その娘がおまえだ、フィオリア」
「私はお母様とは比べものにならないくらい淑女と思います。軍人じゃないですし」
「東方には『どんぐりの背比べ』という言葉がある。……まあいい、休学と代行権については許可しよう。ただし1年だけだ」
「1年もあれば十分です。いざとなればフローレンス公国として独立できるだけの領地にしてみせましょう」
その宣言は、決して嘘ではなかった。
フィオリアが領主代行の地位に就いてからというもの、フローレンス公爵領は大きく発展していった。
彼女の業績は数多く、それを説明するだけでも一冊の本ができあがるだろう。
税制改革、交通網の整備、東方との技術交流、平民への教育制度、新商品の開発ならびに商会設立――。
もちろん障害も多かったが、それでもなんとかやりとげた。
やがて1年が過ぎ、フィオリアは17歳になった。
約束通りに領主代行権を返還し、王都の貴族学校へ復帰。
領地でやり残したことも多いが、そこで渋らないのがフィオリアである。
ああ見えて、わりと義理堅い。
さて貴族学校でのフィオリアだが、わりと男勝りな性格のせいか、周囲の令嬢たちからはまるで王子様のように慕われていた。
久しぶりに登校するだけで貴族学校はてんやわんやの大騒ぎになった。
「おかえりなさい! お姉様!」
「領地でのご活躍は耳にしていましたわ! どうか詳しい話をお聞かせくださいませ!」
「復帰のお祝いにクッキーを焼いてきたんです! その、フィオリア様に食べていただけたらなあ、って……」
クッキーはどうにも焼き過ぎでほろ苦い味だったが、フィオリアは笑顔のままで食べきった。
せっかく自分のために作ってくれたのだ。
ありがたくいただくのが礼儀というものだろう。
1年間まるごと休学していたが、貴族学校に留年という制度はない。
誰もが15歳で入学して18歳で卒業する。
フィオリアは今年から3年生、最終学年である。
同級生たちは変わらぬ親しさで迎え入れてくれたが、貴族学校ではひとつの変化が起こっていた。
「昨年、オズワルド王子が入学されたのですが、その」
「お姉様の婚約者を悪く言うのは憚られるのですが……」
「あんな顔だけ王子、フィオリア様にはふさわしくありませんっ!」
フィオリアには婚約者がいる。
この国の第一王子、そしておそらくは王位継承者のオズワルド・ディ・トリスタンである。
現在、16歳。
フィオリアのひとつ下にあたる。
トリスタン王国の貴族社会において、年上の女性を妻に迎えることはほとんどない。
だが現国王の母親、王太后アナベラがフィオリアをいたく気に行っており、また、王家とフローレンス公爵家とのつながりを強くするため、異例ともいえる婚姻が成立したのだ。
フィオリアとしては政略結婚に異存はない。
貴族家に生まれたのだから当然のこと、と捉えている。
だがオズワルド王子のほうは嫌で仕方ないらしく、婚約が決まってからというものまったく口を利いてくれない。
昔はとっても素直ないい子で、フィアお姉ちゃんフィアお姉ちゃんと懐いてくれていたのに。
ちょっと寂しい。
「オズワルド王子ったら、お姉様がいないのをいいことに好き放題してるんです」
「イソルテ男爵家の平民娘に惑わされて……」
「正直、王家への忠誠心もなくしてしまいそうですわ」
令嬢たちの話を聞くに、どうやらオズワルド王子はひとりの少女にご執心らしい。
アンネローゼ・ディ・イソルテ。
もともとは平民として暮らしていたが、イソルテ男爵家の落胤であることが判明し、貴族の仲間入りを果たした。
ちょうどフィオリアが休学していた時期のことである。
アンネローゼは平民ゆえか溌溂と天真爛漫な性格で、他の令嬢とは毛色の異なる存在であった。
それが男子生徒らにとって魅力的に映ったらしく、彼女に思いを寄せる者も少なくない。
いまでは何十人もの取り巻きが生まれ、オズワルド王子はその筆頭だという。
「ふうん」
事の顛末を聞いたフィオリアは、しかし、平然としていた。
「お姉様、お怒りにはならないのですか?」
「オズワルド王子も男の子だし、火遊びがしたい年頃なんでしょう? それくらい許してあげるわ」
フィオリアがオズワルド王子に向ける感情は、夫というよりは弟に向けるものに近い。
嫌でも自分たちは結婚するのだから、その前にひとつふたつくらいは恋愛を経験させてあげてもいいんじゃない? 私も私で、この一年、領地経営が恋人みたいなものだったし。
「なんてお優しい」
「王太子妃になる方は度量が違いますわ」
「それに比べてあの泥棒猫のアンネローゼは……」
どうやら令嬢たちは心の底からアンネローゼを嫌悪しているようだ。
フィオリアとしては、さほどアンネローゼに含むところはない。
むしろ平民育ちのわりによく貴族学校になじんだものだと感心している。
しかも出身地は自分の母親……フローラと同じ農村らしく、少しだけ親近感を覚えていた。
ならばフィオリアとしては見て見ぬふりを続けるかというと、決してそうではない。
オズワルド王子には一言くらい注意をしておくべきだろう。
仮にも王家の男がいち令嬢の取り巻きだなんて情けない。
「どうせなら、他のライバルを片っ端から蹴落とすくらいの気概を見せてほしいものね」
泰然と呟くと、周囲の令嬢たちは「さすがお姉様は器が大きいですわ……」と感嘆のため息をついた。
それからいくつかの授業を挟んで、放課後。
「フィア姉……じゃなかった、フィオリア・ディ・フローレンス! お前との婚約を破棄させてもらう!」
中庭のテラスで友人たちとお喋りをしていると、オズワルド王子がやってきて、いきなりそんなことを言い出した。
「へえ」
弟分の成長を目にして、フィオリアは思わず口元を綻ばせた。
なかなか面白い展開になってきた。
恋は男を変えるというけれど、どうやらそれは本当らしい。
泣き虫だったオズワルドが、こんな凛々しい顔をするなんて。
「貴様! 王子に対して無礼だぞ!」
声をあげたのは、オズワルドの隣にいた男子生徒。
たしか近衛騎士団団長の息子で、名前はケネスだったか。
ケネスは鼻息を荒くしながら、フィオリアの肩を掴んだ。
そのまま腕をねじりあげて地面に引き倒そうとした……が、しかし、何も起こらない。
フィオリアは悠然と椅子に腰かけ、優雅に紅茶を嗜んでいる。
「肩でも揉んでくださるのかしら?」
ケネスは16歳のわりに立派な体格だが、どうにも相手が悪すぎた。
フィオリアは華奢な身体つきだが、幼いころは母によって鍛えられ、長じてからは領内の魔物を退治して回っていた。そんな相手に敵うはずもない。存在の格というものが違い過ぎる。村人が徒手空拳で魔王に挑むようなものだ。
ところでこの時オズワルドは、ケネスのほかにも十数名の男子生徒を連れていた。
いずれもアンネローゼの取り巻きである。
裏庭のテラスには他の一般生徒の姿もあったが、彼らがオズワルド一行に向ける視線は痛ましいものを見るかのようだった。たとえるなら、ドラゴンの前に放り出された闘技場の死刑囚を眺めるかのよう。
なにせ相手は、あのフィオリア・ディ・フローレンスである。
曰く、入学後1週間で学園長の不正を暴いて簀巻きにした。
曰く、子爵家令嬢を脅して襲おうとした侯爵家長男を、ボコボコに叩きのめして去勢した。
曰く、王都にはびこる麻薬組織の本拠地を更地に変えた。
ひとたび悪と見れば徹底的に叩き潰す、嵐のような公爵令嬢。暴風の女帝。
それが一般的なフィオリアのイメージである。
オズワルドはアンネローゼに浮気しているわけだし、翌朝には屋上から全裸で吊るされていてもおかしくない――。
誰もがそう考えていた。
「婚約破棄の理由を伺ってもよろしいかしら?」
だが周囲の予想を裏切って、フィオリアは冷静にオズワルドに問いかける。
フィオリアにはひとつ大きな弱点があった。
身内にはやたらと甘く、もしもオズワルドが心からアンネローゼを愛しているというのなら、身を引いても構わないと考えていた。もちろん婚約破棄にも手を貸そう。国王や父親はいろいろと反対するだろうが、なに、目の前でリンゴのひとつふたつ握りつぶせば問題ない。交渉力と攻撃力は比例する。
「とぼけるな! アンネローゼへの嫌がらせ、その黒幕がお前なのは分かっているんだ!」
「そう言われましても、私は一年間ずっと休学していましたが」
「公爵家の地位を傘に着て、他の令嬢にやらせていたんだろう!」
「証拠はあるのですか?」
「話を逸らすのが何よりの証拠だ! アンネローゼも犯人がお前だと言っている!」
「つまり王子は、私がアンネローゼを虐めていたから婚約を破棄する、と」
「そうだ! 俺と彼女の仲を認めていれば、正妃の座くらいはくれてやっていたものを。自業自得だ、後悔しろ!」
「…………興醒めね」
失望を隠そうとせず、フィオリアは嘆息した。
オズワルドが男らしくアンネローゼへの愛でも謳い上げていれば、諸手を挙げて二人を祝福したというのに。
ありもしない罪をでっちあげ、他人を悪者に仕立てることで望みを叶えようとする。
なんて姑息。
なんてつまらない。
気持ちが、すっと冷めていくのを感じた。
「言いたいことはそれだけかしら、オズワルド様?」
抑揚の欠けた声。
父親譲りの鋭い視線を、自分の婚約者に向ける。
「ひっ…………」
たったそれだけのことで、オズワルドの強気は崩れた。
フィオリアの威圧感に呑まれ、怯えの表情を浮かべてしまう。
このままであれば、もしかするとオズワルドは土下座して謝っていたかもしれない。
だがここに思わぬ味方が現れる。
「フィオリア様、どうか素直に罪を認めてください!」
人垣を割ってぴょこんと現れたのは、ふんわりとした栗色の髪の少女。
ややたれ気味の瞳は、いかにも男たちの庇護欲をくすぐりそうな雰囲気を漂わせていた。
アンネローゼ・ディ・イソルテその人である。
「ちゃんと謝ってくれるなら、あたしへの嫌がらせは水に流します。フィオリア様の罪が軽くなるよう、国王様に口添えもしてあげますから」
「身に覚えのない罪だもの。認めるわけがないでしょう」
「そんな、あたしはフィオリア様のために譲歩してあげてるのに…………」
よよ、と泣き崩れるアンネローゼ。
取り巻きたちはそんな彼女を案じ、慰めの言葉をかけるとともに口汚くフィオリアを罵った。
「オレたちのアンネちゃんを泣かせるなんて!」
「公爵令嬢だからって偉ぶるんじゃない!」
「こんな悪女が第一王子の婚約者だったなんて!」
「それにひきかえアンネちゃんはなんて優しいんだ!」
馬鹿馬鹿しい。
フィオリアは冷ややかな目で男たちを眺めていた。
同じ女からすれば、アンネローゼの?泣きは明白だ。異性の同情を集めるためのアピール。
そもそも彼らが言うほどアンネローゼは心の清い人間だろうか?
言葉の端々から、どうにも傲慢さというか優越感が滲み出ている。
こんな相手に引っかかったのか、オズワルドは。
「付き合ってられないわ」
婚約はもう破談でいいだろう。
オズワルドは弟のような存在だったが、いくら身内でも許せないラインというものがある。
彼はそれを越えた。
もう他人だ。
ひとたび割り切ってしまえば、フィオリアに容赦はない。
このままオズワルドが王位を継ぐなら、トリスタン王国はめちゃくちゃになるだろう。
知ったことか。
勝手に栄えて、勝手に滅びろ。
「公爵領の独立も考えておくべきかしら」
冷たく言い放つと、フィオリアは席を立った。
立とうとして、ぐにゃり、と視界がゆがむ。
「えっ…………?」
足に力が入らず、地面に膝を衝いてしまう。
「お姉様!?」
「フィオリア様!?」
同級生(フィオリアとしては同い歳なのに『お姉様』呼びされることが疑問でしかたない)たちが左右で声をあげる。
「どうやら薬が効いてきたようだな、フィオリア」
急に得意げな様子で語りかけてきたのは、オズワルドである。
「朝、取り巻きからクッキーを渡されただろう。あれには薬が入っていてな、アンネローゼが故郷から持ってきてくれたんだ。遅効性の自白剤だ。さあ、おまえの罪をあらいざらい吐いてもらおうか」
「……ぅ…………ぁ……――――」
だがフィオリアは何も言うことができなかった。
全身が痺れて、だんだん息苦しくなってくる。
呼吸が止まりかけた。
これは自白剤なんかじゃない。
明らかに、人を殺すための毒だ。
薄れゆく視界の向こう、アンネローゼの顔が見えた。
男たちには気付かれないよう巧妙に俯きつつ――――計算高い笑みを浮かべていた。
「ま、だ……よ……――」
この世界には魔法が存在する。
もはや詠唱もできないが、意志の力はまだまだ残っていた。
全身の魔力を活性化させながら、必死に中和を試みた。
たかが毒くらいで死んでたまるものですか。
たとえ何十年かかろうとも、この代償は払わせてあげる。
それまではこの勝利をせいぜい誇っていなさい、アンネローゼ・ディ・イソルテ。
まるで勇者に敗れた魔王のような心地で、フィオリアは深い眠りへと落ちていった――。
* *
フィオリアに盛られた毒は、致死性のものだった。
特効薬もなく、生きるか死ぬかは本人次第。
彼女は奇跡的に一命を取り留めたものの、昏睡状態に陥ってしまった。
この事件はトリスタン王国を大きく揺るがせた。
なにせ第一王子がフローレンス公爵家の娘を殺しかけたのである。
本人は「毒とは思っていなかった」「あくまで自白剤と聞いていた」「アンネローゼに騙された」などと主張したが、決して許される行いではない。
オズワルドは王位継承権を剥奪され、宮廷の時計塔へと幽閉される。
その一方、他の男子生徒らはやたらと息巻いていた。
ここでアンネローゼを支えてポイントを稼ぎ、他のライバルたちを出し抜こう――。
誰もがそう考え「僕だけは君の味方だよ」「家の権力を使ってでも無実を証明してみせるよ」などと優しい言葉をかけようとしていた。
しかし、予想外の事態が起こる。
アンネローゼはどこかへと雲隠れしてしまい、さらに、彼女が他国のスパイだったことが明らかになったのだ。
取り巻きの男子生徒らは真っ青になった。
なにせアンネローゼの歓心を買うために、皆、競うようにして国や家の秘密を喋っていたのだから。
彼らは重い処罰を受け、ひどい場合は実家から離縁された。
そうして20年の月日が流れた――。