少女たちの箱庭遊戯Ⅲ 厄災の魔女5
厄災の魔女編完結です。つぎは続編をあっさり終わらせます
「さて、用意は良いかのう」
お腹も満たされた二人は修行を再開していた。
紡は両足を肩幅に広げ、クランが作った木刀の先を地面につけるような形で構えている。
海神流剣術攻の構え『水鏡月華』――静かな夜、月を映し出す水面のように心を穏やかに保つ基本の構えだ。
クランは数体の狼の使い魔を携えて紡から少し離れたところに立つ。
「行け」
クランが右手を掲げて使い魔に指示を飛ばす。
使い魔の狼たちは一斉に地を強く蹴り上げて紡めがけて突進してくる。
じゃり、と下駄が砂を噛む。
両手に力込め木刀をしっかり握りしめて腰を落とし、使い魔を迎え撃つ姿勢を取る。
「海神流剣術弐ノ型」
じっと使い魔との距離を測り、一匹が攻撃範囲内に足を踏み入れた。
「『青嵐龍舞』ッ!」
瞬間、腰の高さはそのままに木刀を胸の高さで水平に薙ぎはらい、防の構えである『巡志』の構えで仕留め損ねた一体の使い魔に標準を合わせる。
そして流れるような動きでもう一つの攻の構え『雨蒸竜変』の構えを取り、地面を蹴りあげる。
「海神流剣術参ノ型ッ」
木刀を肩の高さまで持ち上げ、突くように構える。
「『隠蝉・鬼龍怒号』ッ!!」
加速するスピードと自身の重みを上乗せさせた一突きは鎧袖一触。使い魔の真ん中を貫き、使い魔の狼は粒子となって弾け跡形も無く空気中に霧散した。
紡は再び『水鏡月華』の構えを取り、瞳を閉じて大きく深呼吸して呼吸を整える。
その様子を見ていたクランは思わずほぅ、と感嘆のため息を漏らした。
――まさかこれ程までとはな。
「じいじー! 見てたー!?」
構えを解いた紡はクランの元へと駆け寄って子犬のように彼の周りをくるくる回った。
そんな紡の頭を優しく撫で回す。紡はくすぐったそうに、しかし幸せそうな顔で笑った。
「上出来じゃな。荒削りだが、少し指南した程度であそこまでやれるとは思わんかったぞ」
「えへへ〜、じいじに褒められたー!」
「まぁ儂から見ればまだまだ未熟だがのう」
「えぇー……」
持ち上げて落としにくるクランの言葉に、紡の肩も落ちる。しゅんとしょげかえった紡を見てクランはさらに続ける。
「そんな簡単に習得されたら開祖もかなわんだろう。なぁに、お前さん筋は良い。直ぐに実戦でも使えるレベルにはなるだろう。あとは極限まで無駄を削ぎ落として行くのみじゃ」
「うん、わかった! 頑張る!」
クランから激励を受け、紡は直ぐに顔を上げてやる気に満ちた瞳を向けた。
あまりにコロコロと表情を変える紡を前に思わずクランも表情を崩す。
何が面白かったのか理解していない紡はこてんと首を傾げて頭にハテナを浮かべている。そんな紡に対して沸き起こる感情を「なんでも無い」の一言で押しつぶした。
「さぁ休んでる暇は無いぞ。いかんせ時間は有限だからのぅ」
はーい! と良い返事をした紡は木刀を握りなおし水鏡月華の構えを取るが、刹那、ヒィンと背後の空気が切り裂かれる感覚に襲われる。
直感だけで咄嗟に横へ跳びのく。
それと同時に一発の弾丸が顔の横を通過し、はらりと数本の髪を散らし、遥か後方の樹の幹を抉る。
――敵襲!?
考える間も無く続いて怒涛の弾幕の嵐が二人を襲う。
紡を庇うように前に立ったクランが突き出した右手の先に半透明の防御壁を展開し、弾幕から彼女を守る。
弾幕が収まった隙を見て掲げていた右手を払うと周囲の木々も一掃され、前方にワインレッド色のツインテールの少女――深理の姿が露わになり、紡の目が見開かれる。
悔しそうに舌打ちした深理は鋭い目つきで二人を睨みつけた。
「先の弾幕はお前さんの仕業かのう」
「そうよ、だったらなに?」
反抗期よろしく不機嫌に噛み付いてくる少女を前にしてもクランは余裕の笑みを浮かべている。そんなクランの態度が余計彼女の神経を逆なでしているのだろう。
深理は即座に一本のマスケット銃を召喚し、そのままクラン目掛けて発砲するが、クランはそれを腰に携えていた剣で弾き飛ばす。
「深理、なんでこんなことするの?」
紡が悲痛な声で深理に向かって叫ぶが、深理は表情を歪めたまま、なおマスケット銃を召喚し構える。
「紡よ、あの娘と知り合いか?」
剣を構えたまま紡に問いかける。
紡は困ったような顔のまま静かに縦にうなずいた。
「さっきあの子の人探しを一緒にしてたの」
そうか、とうなずいたクランは深理に視線を戻し口を開く。
「お前さん、紡の知り合いのようじゃが名は何と云う」
少女は再び舌打ちし、マスケット銃を油断無く構えて口を開く。
「あたしは繰乃深理、厄災の魔女にしてこの世界を構成する一人。そして、魔女狩り実行者の一人よ」
魔女狩りの言葉にクランの眉が僅かに動く。
――どうやら儂の勘はまだ衰えておらぬようじゃな。
クランは背後にいる紡にそっと耳打ちをする。
「お前さんはここから立ち去れい」
「や、やだよ。私も一緒に……」
「戦えるとでも云うのか?」
クランの言葉に、紡は口を噤んで気まずそうに足元に視線を泳がせる。
「なに、お前さんには別に頼み事があるだけじゃ。ルナたちのところへ行って此奴のことを伝えて欲しい。語り部の魔女であるお前さんならできるな?」
紡は顔をあげてしっかりと頷いて見せた。そして、クルリと踵を返して元来た道を全力で駆け抜ける。
「逃すわけないでしょっ!」
すかさず紡に照準を合わせるが、引き金を引くよりも早くマスケット銃は大根のように真ん中ですっぱりと切り落とされる。
「我が海神流に切れぬものなど無いぞ」
「っ! うっとおしいわよ老害ジジイ!! あんた何者よッ」
「儂は四賢者が一人、不老不死の魔導士クラン・ハーデスじゃよ」
くっくと喉を鳴らして名乗るクランを前に深理は僅かに目を見開くが、すぐに臨戦態勢を取る。
「四賢者だとか不老不死だとか知らないけれど、あんたもあいつも鍵じゃないなら此処でくたばりなさい!」
バッと両腕を水平に掲げると背後に大量のマスケット銃が現れる。
照準をクランに合わせ一斉照射。再び弾幕がクランを襲う。
「海神流剣術壱ノ型一番『零華』」
キィンと剣が空気を切り裂き、その斬撃が深理の放った弾幕を相殺する。
そのまま跳躍。深理との距離を一気に詰めるが、深理が一瞬の判断で自分の前にマスケット銃を召喚し秒速で発射する。
しかしクランは臆することなく剣を構えてさらに距離を縮ませる。
「海神流剣術玖ノ型四番『天覇龍神撃』」
発射された弾を賽の目状に切り裂く神業にも等しいそれはマスケット銃諸共粉々に粉砕する。
間一髪巻き添えを避けた深理は更に攻撃を仕掛けようとマスケット銃を再び召喚した。
「『スターダスト・メテオ』ッ! 散りなさい、クソジジイ!」
星々のような魔弾がクラン目掛けて次々と放たれる。
クランが地を蹴ってそれらを避けるが、弾は地面すれすれで軌道を変えてクランを追尾する。
「ふむ、追尾弾か、厄介じゃのう」
言葉とは裏腹に余裕の表情を崩さないクランはくるりと弾幕に向き直り剣を構える。
「海神流剣術壱ノ型二番『海渦昇龍斬・蒼』」
剣を上から下へ地面に叩きつけるように振りかぶると、衝撃波と共に水柱が吹き出し追尾弾を阻む。
水柱が収まると大きく肩で息をする深理の姿があった。
クランは『水鏡月華』の構えを取る。
「お前さん魔女に成り立てじゃろう、それも人間から魔女に成った者だな」
「…だったら何よ」
「魔法の使い方がなっておらんからのう。どれ、儂が一つ手解きしてやろうか」
「余計なお世話っ‼」
深理の足元で渦巻く黒い影が植物の蔦のように彼女の周囲を蠢く。
深理を取り巻く空気が変わったことを肌で感じ取り、クランは防の構えである『巡志』に切り替えた。
「あたしは居るだけで厄を振りまくの。あんたにはわからないでしょうね、居るだけで忌み嫌われ続けたあたしの気持ちなんか!」
天高く掲げた右手の指をパチンと鳴らすとクランの足元を黒い影ががっちりと絡め取り動きを封じる。
少し油断しすぎたか、と内心舌を巻いたクランはしかし油断無く『巡志』の構えを崩さない。
深理は再度マスケット銃を、クランをぐるりと囲うように配置するとそれぞれの銃口に黒いエネルギーの塊がチャージされる。
「喰らいなさい、『ユラナス・ブレイクショット』ッ‼」
♰
紡は森の中を駆け抜けていた。
髪や服が汗で身体に張り付いてくるのも構わず足を動かす。
あと少しで森を抜けるというその時にふと、頭の中である一場面が本人の意思など関係無く上映された。
――前にもこうやって海軍さんに伝言を頼まれて走ったっけ。
そこまで思い出すと、紡は走るスピードを緩め、ついには足を止めてしまった。
息を切らしながら紡はじっと考え込む。
海軍さんに伝言を頼まれたことは覚えている。それなのに何故か彼の顔も声も、名前さえ思い出せない 自分に今更違和感を抱いてしまった。
あんなに大切な人なのに、思い出も頭を撫でてくれる手の暖かさも覚えているのに。
「っ……!」
必死に記憶を手繰り寄せていると、突然頭の奥を鈍器で殴られたような激しい頭痛に襲われ思わず膝を折る。
まるで何かに思い出すことを阻まれているような感覚。これ以上思い出そうとすると意識を保てなくなりそうな程の痛みに顔をしかめながらも、あと少し、と再び糸を手繰る。
紡の持つ記憶の中で、海軍さんとの思い出は伝言を頼まれたあの時が最期だった。
――あの後、戻ったら海軍さんが死んだって報せを聞かされて……。
ゾクリと泡肌が立った。思わず肩を抱きかかえて震えそうな身体を抑え込む。
「じいじ……っ」
紡は危うい足取りで立ち上がると、二匹の蝶の使い魔を召喚した。
「私の代わりにルナと……ファヴォリにもじいじからの伝言持っていってね」
蝶がそれぞれの方向へひらひらと飛んでいく様子を横目に、紡は踵を返して元来た道を再び全速力で走り出した。
脚の動きを無意識に任せ、紡の頭の中はもう一人の少女――深理のことでいっぱいだった。
――深理は魔女狩りだって云っていたけれど、あんなの絶対深理の意思じゃない。
上手く云えないけれど、深理はあんなことする子じゃない。
肺が悲鳴を上げるのを無視して来た時よりも更に速く脚を回す。
やがて、空気が変わったことに気付き戦場が近い事を悟る。同時に僅かに空気中に漂う魔力を察知し、違和感を覚える。
一つは馴染みのある魔力、クランのものだ。もう一つは深理のものだろう。
張り詰めた空気が更に濃くなる。もう目と鼻の先だろう。
やがて、ワインレッドの髪を捉える。先ほどの魔女だろう。そして更に視界に入るのは大量のマスケット銃とそれに囲われるクランの姿。
「じいじっ!」
紡は魄灰姫を携えて戦地に飛び出した。
突然の紡の登場に深理だけでは無くクランまでも驚きの表情を浮かべている。
そんな二人など御構い無しに紡は魄灰姫を構える。
「海神流剣術弐ノ型二番『青嵐龍舞』ッ」
マスケット銃の包囲網の一部をなぎ払い、クランの元へと駆け寄る。そして『水鏡月華』の構えから流れるように魄灰姫で空気を切り裂く。周りの土を巻き込みながらマスケット銃を斬撃波が襲う。
深理はその衝撃の強さに思わず腕で顔を覆った。
風が凪ぎ辺りが静まり返る。深理が目を開けると『水鏡月華』の構えに戻った紡が静かに立っていた。
紡が小さく刀を振るうと、クランの脚を縛っていた黒い影が散り自由の身となる。
「お前さん、何故戻ってきた」
クランが問うと、紡は泣きそうになるのを笑って塗りつぶして答えた。
「戦うのはまだ怖いけれど……じいじがいなくなっちゃう方がもっと怖かったから」
そう言って笑う紡の頬につつ、と一筋の涙が伝う。
クランがそれをそっと指で拭い、そのまま紡の頭を撫でた。
「大丈夫じゃよ、儂は勝手に居なくなったりせぬ」
「ん、わかった。約束だよ」
二人は顔を見合わせて頷くと、紡は『水鏡月華』の構えを、クランは攻防の構え『狩羅豪』をとり深理と視線を合わせる。
「ねぇじいじ」
紡は深理から目を離さないまま静かに口を開いた。
「私ね、ファヴォリのこと心配させたくないんだ。でも……あの子のことも助けたいの。あの子、すっごい辛そうだから」
紡が云いたいのはおそらく目に見えないところ――深理の心境のことだろうとクランは察する。
成る程な、と頷いたクランの選択は決まっていた。
――紡の勘もまた、侮れぬのう。
「お前さんがやりたいようにやれば良い。若者の後始末は老ぼれジジイの役目だからのう」
「ありがとう、じいじ」
引き金が引かれるのと同時にそれぞれの方向へ跳躍。二人が踏みしめていた地面を弾丸が抉る。
――聞こえるな、紡よ。
脳内にクランの声が直接響く。紡は深理の動きから目を反らすこと無く声に意識を傾ける。
――銃撃を得意とする相手には懐に潜り込むのが得策じゃ。加えてあの娘は魔力の使い方が十分では無い。
「わかった。頑張る」
紡は聞こえるか聞こえないかくらいも声量で呟いた。心なしか遠くにいるクランが満足そうに笑った気がした。
――臆するな、お前さんのことは儂がいる限り傷つけさせんよ。
その言葉を最後にクランの声が途絶える。
一度視界をシャットアウトし、呼吸を整えて目を見開く。刹那、大量の弾幕を遠くに確認した紡の右の瞳が赤く揺れる。
「剣よ踊れ、炎よ舞え! これが私の『豪火剣乱』ッ」
魄灰姫を炎が包み、それを振るう。紡の前に炎の壁が生まれ、弾幕を飲み込むが、幾つかの弾丸が壁を突き破り眼前に迫る。
咄嗟に身体を捻って回避するが、勢いあまってバランスを崩しかける。しかし、すかさず後ろから飛んできたクランが紡を小わきに抱えてその場から離れる。
「儂は後ろから援護しよう。あの娘に声を届けられるのはお前さんしかおらんからのう」
「ありがとっ」
紡はクランの腕から飛び出して再び深理に迫る。
――もっと、もっとよく見て!
自分にそう言い聞かせて神経を研ぎ澄ます。
脳の奥がカッと熱くなるのを感じながら冷静に目の前の動きを追う。
深理が大きく後退しマスケット銃を召喚。流れるように引き金が引かれる。
空気が弾丸によって割かれ、周りの空気を巻き込みながら紡の頭目掛けて飛んでくる。
ここまで読んで、紡は、上半身は『水鏡月華』の構えのまま走る。
「海神流剣術参ノ型 『隠蝉・鬼龍怒号』ッ」
先ほど読んだ弾の軌道に沿うように剣を突きつける。魄灰姫と弾が触れ合った瞬間、弾の先端が割かれ真っ二つに分かれカランと軽い音を立てて地面に転がった。
紡は『水鏡月華』の構えに戻り、静かに息を吐くが心臓は痛いくらいに早く鼓動している。
紡の横にクランも降り立ち、剣を構える。
「ねぇ深理、こんなことやめようよ! 深理だってこんなことしたいわけじゃないでしょ?」
「煩いッ! あんたにだってわからないわよ! ずっと独りだったあたしのことなんかっ!!」
「わかるよ」
声を荒げる深理とは対照的に紡は静かに一言云い放った。深理の瞳が動揺で揺れる。
紡は構えを崩して自然体となり更に言葉を続ける。
「独りは、寂しいよね。みんなが自分から離れていくのはつらいよね。私もそうだったもん」
だから、と呟いて紡は魄灰姫を握り直して続ける。
「私は深理を救う。そのために貴女と戦うっ」
紡が地面を蹴りあげると同時にクランが指を鳴らす。それに応えるように深理の足元から植物の蔓が伸びて彼女を拘束する。
「先ほどの礼じゃよ」
クランが喉を鳴らして嗤う。
「ウザいッ!」
苛立った表情の深理は舌打ちをして魔力を解放。足元に黒い影が生まれ、蔦を粉砕し、紡も跳ね飛ばされる。
――流石にこれは困ったのう。
急速に膨れ上がる魔力を感じ取ったクランはいつもの余裕がある表情を崩さなかったが、内心焦燥感に駆られていた。
基本的に魔力を持たない人間から魔女に成った場合、基本的なスペックは純血の魔女に劣るが、彼女らは感情の起伏によってその魔力を増幅させることがある。
そして深理は怒りや憎しみと云った負の感情をもってその魔力を高めたのだろう。
人間の負の感情は海よりも深い。長期戦に持ち込まれる前にカタをつけなければ。
この際深理の生死は問わない。今この場で紡を救えればクランはそれでよかった。
クランが剣を構えた瞬間、右の脇腹に激痛が走り思わず膝を崩す。
どくどくと脈打ちながら熱を帯びるそこを左手で抑えると、ぬめりとした生暖かい液体が彼の手を汚す。
「じいじ!?」
深理の猛攻をくぐり抜け動けないクランを回収し、木の裏に姿勢を低くして身をひそめる。
「じ、じいじ、血出てる、早く手当しなきゃ」
あたふたと慌てふためく紡を宥めるようにクランは右手で紡の頭を撫でる。
「安心せい。この程度すぐ癒える。それに儂は不老不死、死にはせんよ」
「でも、でも、痛いでしょ? 一旦退いてファヴォリのとこ行こうよ」
「儂よりあの娘を心配してやれ」
紡はハッとして背後を振り返る。黒い影が自分たちを見つけ出そうと手当たり次第木々をなぎ倒しに来るが、深理はカクンと首を脱力させ微動だにしない。
「あれは魔力の暴走じゃな、あの娘は今、己の魔力に飲み込まれておる」
「助けられるの?」
「お前さんならな」
私が? と不安そうに小首を傾げる紡の額と自分の額を合わせて、クランは幼い子どもに言い聞かせるように優しく云った。
「紡よ、お前さんの真っ直ぐなその優しさならあの娘の闇を振り払えるはずじゃ。あの娘の苦しみを理解できるお前さんにしかできんことだ」
不安そうに歪めていた顔を引き締め、紡は力強く頷いた。
そして立ち上がって深理の前に姿を現した。
黒い影が一斉に紡に襲いかかる。紡は抜刀の勢いで群がる黒い影を牽制。
しかし一瞬怯んだだけで、めぼしい効果は得られなかった。
それでも紡はその一瞬をくぐり抜け深理へと距離を詰める。
「深理っ!」
紡の呼びかけにゆっくりと首を持ち上げた深理の桃色の瞳はガラス玉のように曇っていて何も映さない。
その曇った瞳の奥で、紡はドス黒い蟠りのようなものを視た。
――あれが。
全ての意識を集中させ、不要な情報を脳が自動でカットしていく。やがて訪れる白い世界に浮かぶ、真っ黒な塊。
真っ直ぐ剣を構え、大きく振り被る。
魄灰姫を振り下ろすその時、誰かの声が紡に囁きかける。
それを反芻するように紡が口を開く。
「海神流剣術零ノ型 三番『真剣・空絶斬華』」
スパンと塊は真っ二つに裂ける。
一瞬半球を保っていたそれは程なくしてバランスを崩して崩壊する。
それを引き金に世界は情報を取り戻す。
紡の目の前には瞳を閉じた深理が棒立ち状態で突っ立っていたが、やがて膝から崩れ落ちるのを慌てて抱きとめる。
「ん……」と僅かにうめき声をあげて深理がゆっくりと目を開けた。
「深理、気付いた?」
紡が穏やかな声で深理に声をかけるが、深理は気まずそうに口を噤んだ。
「私ね、深理と別れてから考えてたんだ。もし出会う世界が違ったら友達になれたかなって」
背後から動ける程度にまで傷を回復させたクランが静かに姿を現し、深理と目が合う。ふいと、目を逸らした深理は黙って紡の話に耳を傾ける。
「でもね、どこで会うかとか、きっと関係ないと思うの。だから私、この世界で深理と一緒にいたいな」
暫しの沈黙。次に口を開いた深理の声は震えていた。声だけではなく肩も小刻みに震えている。そんな 彼女を、紡は更に強く優しく抱きしめる。
「……ばっかじゃないの」
「うん」
「あたし、あんた達のこと殺そうとしたのよ」
「うん」
「あたしは厄災の魔女なのよ」
「知ってるよ」
「あたしの側にいたら……不幸になるのよ」
「そんなこと無いよ」
そう云って紡は深理から身体を離し、目と目を真っ直ぐに合わせる。深理の瞳に、紡の空のような青い澄んだ瞳と太陽のような黄色い柔らかな瞳が映る。
「深理は不幸になんかさせないし、深理の周りの人も、勿論私も不幸にならないよ」
紡が余りに迷いなくきっぱり言い放つので、深理は思わず呆れてしまった。しかしすぐに表情を和らげ、暫く使わなかった表情筋を使うせいか、ぎこちなくだが確かに笑って見せた。




