人の心はどこにある?
人の心はどこにある?
電車の座席の心地よい揺さぶりにぼーっとしていると、俺の前で立ち読みをしている人の本のタイトルが目に入った。
他人の心のことは分からないが、俺の心は間違いなく俺の頭の中にある。
くだらないタイトルだとは思うけど、何も考えず呆然としていたい今の俺には、ある意味打って付けの内容かもしれない。
『人の心はあーではない、でもこーでもない』と考えていると、本は持ち主のバッグに隠されてしまった。
もしかして俺のせい? と思って本の持ち主を見ると、案の定、俺のことを不思議そうに見下げていた。
俺と年の近い、若い私服姿の女の子だった。
これといって特別な感じの子じゃないけど、黒くて大きな瞳に見られていると吸い込まれそうになる。
「なにしてんの」
隣に座る良きクラスメイトの実里に脇を小突かれた。
「なにって……別になにも」
「あんた、最近ぼーっとしてること多くない? 今も心ここにあらずって感じだし」
俺は取り繕うように「そんなことないって」とは言い返してみたものの、「ほんとに? 信用できない」と実里の疑いが解かれることはなかった。
気付けば、目の前にいた女の子は場所を移動していた。
もし俺たちに気を遣わせてしまったせいなのなら、申し訳ない。
実里とは駅を出て直ぐに別れた。
実里いわく、たまには違うことして頭を使ったほうがいいよ、とのこと。……具体的にどうすればいいのかまで教えて欲しかったな。
いや待て、そこまで思考停止したらもはや末期だろ、俺。
そのくらいは自分でかんがえ……そうだ、帰り道を変えるってのはどうよ?
我ながら名案だと思う。
小道を逸れて、いつもとは違う景色の中を進んでいく。
ここら近辺も地元の範囲内なので、当然道は知っている。――はずなんだけど、どうしてだろう、見覚えのないところに出てしまった。
急に頭がくらくらしてきた。目眩や頭痛とは少し違う、眠気に近い感じ。でも眠気ではない。
わりと適当に歩いているけど、流石に迷ってはいないと思う。
むしろ、絶対に辿り着ける自信と気力が不思議と内から湧いてくる。
――そしてたどり着いた。
見知らぬ場所で、電車の中で会った女の子の待つここへ。
「遅かったけど、まあいっか」
え? 遅い? なにが?
「えっと……」
「ん?」
俺は言葉に困った。今の俺に言った言葉だよな? ってか、なんで俺もわざわざ立ち止まって知らん女の子と向かい合ってんだろんだろ。
「例のモノ、持ってきてるよね」
「例の……もの?」
例のものってなんだ? なんのことだ?
「そう、例のモノよ。早く出して。――出しなさい」
彼女に、黒い瞳で真っ直ぐに見つめられながら命令される。と、例のモノがなんであるかを俺は思い出した。
俺は自分のバッグからクリッパーを取り出した。
そうだ、俺はこのために自分に下手な言い訳をしてまでここへやって来たんだ。
こんな大事なことを、今までどうして忘れていたのか、不可思議でならない。
「うんうん、日を跨いでもちゃんとかかっているね」
「う、うぅ……」
かかるって……なんのことだ?
頭に靄がかかったみたく、思考が回らなくなる。
「私の目を見なさい」
言われた通り、俺は彼女の吸い込まれるような美しい目を見た。
一度見てしまうと、自分の意思ではどうしても視線を外せない。外そうと思えなくなる。
「私と目を合わせていると気持ちいい。ずっと、こうしていたいでしょ?」
「……はい」
心からそう思う。ずっと、ずっと見ていたい。このまま時が止まってしまえばいいのに。
彼女に「あそこを見て」と言われ、視線を移すのを残念に思いながら見た先に、どっかの中小企業の鎖で閉ざされた扉があった。
「鎖をそれで断ち切って、中に入りなさい。入ったら次にどうすればいいか自然と思い出す。そして、思った通りのことを実現させるのは、とっても気持ちがいい」
そ、そんなことを言われたら、試してみたくなるじゃないか!
「特に今回のは、今までで一度も感じたことがないくらい気持ちよくて幸せな気分になれる。だからほら、張り切って行ってきなさい」
も、もももも、もう駄目だ。我慢できない!
俺は脇目も振らずに扉まで走った。
早速、チェーンの切断に手こずってイライラする。
そして、ようやく扉を開けて中に入ると――
頭がぼーっとする。
俺はなんで鏡に映る自分の顔を見つめているのだろう。ナルシスト……ではないはずなのに。割とマジで、自分の行動が謎過ぎる。
家の洗面所の鏡から離れて、それでもまだ釈然としない。
なにか、とてつもなく大事なことを忘れてしまっているような気がするが、それがいったいなんなのか。まるで思せない。
こりゃ、実里のしてくれる心配にもっと真摯に向き合う必要がありそうだ。
「しっかし、うぅ~ん。体のあちこちが痛い。筋肉痛、なわけないだろうし」
いつもと大差ない日を過ごしたはずなのに、かなり疲れてる。
明日は学校あるし、ちと早いけど、今日はもう寝よう。
翌朝、まだ頭がスッキリしない。
寝起きはいい方だと思ってたのに、どうもおかしい。
特に昨日の帰り道あたりから記憶が曖昧になっている。
リビングに向かうと、母さんがせっせせと食卓の準備を進めていた。
「あのさ母さん、変なこと聞くけど、昨日俺が帰ってきた時どんな感じだった?」
「えー? どんなって……普通だったわよ」
時間をかけて、真顔で返されてしまった。
「それならいいんだけど」
「どうしたのよ、なにかあったの? 事件とか事故とかやめてよね。――そういえば、夕べ近くの会社が強盗に遭ったんですって。あんたも気をつけなさいよ?」
「はいはい」
強盗なんて、遭おうとして遭えるもんでもないだろうに。近くだからって心配しすぎだ。
気を抜くとすぐにぼーっとしてしまうこの症状も、勉強する時だけは現れない。むしろ、授業中は以前よりも集中力が増して、授業内容に楽してついていけるようになった。
本日最後の数学の授業では、先生に難題と言われた問題を先生が解くより早くに解いて、実里に教えてやるほどだ。
いつもは問題の難易度に関わらず、俺が一方的に教えてもらっていたのに。
この急成長っぷりに、実里はやっぱり俺に何かあるのではと怪しんでいる。
ホームルームが終わるのと同時に、実里がイの一番で俺の机に身を乗り出してきた。
「ほんとうにあんたはどうなってんの?」
「さあ、どうなってんだろ? 俺もちょっと不思議には思ってるんだけど」
「なにそれ? 馬鹿な答え。一応、私のために言っとくけど、別にあんたに教えてもらうのが悔しいとか、そういうんじゃないからね。純粋に……何かあったと思うのが普通でしょ?」
そんな逆ギレっぽく聞かれても困るよ。
とはいえ、俺だって自分の身に何が起きているのか――あっ!
「ん? どうしたの?」
あの人、今一瞬だったけど廊下を歩いているのが見えた。
「ちょっとゴメン、俺用事あるの思い出した!」
「えっ? はぁ~?」
実里の呆れため息を背に受けて、俺はすぐにあの人――名前も声もしらない女子生徒の後を追った。
どうして彼女を追ったのか、理由はない。わからない。でも、彼女に会えば胸の奥でつっかえている何かが外せる気がした。
いくつか目の廊下を曲がったところで、まるで俺を待ち構えていたかのように、彼女はそこに立っていた。
これといって特別な感じはしないのに、とにかく黒い瞳が大きくて印象的な女生徒だった。上履きの色から察するに、一つ上の上級生だろう。
「あの!」
「私になにか用ですか?」
用かと聞かれれば、けっして用があったわけでもなくて。
とにかく、
「えっと……」
なにか言わないと、
「き……き……」
「き?」
「近所で強盗があってさ、なんだか最近物騒な世の中……じゃ、ないですよね。ごめん」
うわっ、自分でも何を言ってるのか分かんねぇ。
これじゃ絵に書いたような間抜けじゃん、俺。というか変質者だ。
「近所で、強盗ねー」
めっちゃ意味深に反芻されてしまった。恥ずかしいぃ!
「ちゃんと消したはずなのにな。仕方がない。――ねぇ、私の目を見て。そんなに緊張しなくても大丈夫だから」
大丈夫なわけあるかあ! とてもじゃないけど相手の目を見れない。できることなら今すぐ回れ右して帰りたい。
「まあいっか。それなら……何も考えず、ただ私についてきなさい」
――ドクン。
なんだろうこの感じ。この違和感。さっきまでの自分が嘘みたいに、命令された途端に恥ずかしさが消えた。
彼女について行った先は、誰もいない空き部屋だった。ドアを閉めれば廊下を歩く生徒たちの音も遠ざかり、一対一の空間になる。
「催眠術って、どう思う?」
彼女の質問は、俺の意表を突くには十分だった。
催眠術、そんな縁も縁もない言葉、未だかつて考えてみたこともない。
「例えば、耳鳴り。よーく意識を集中して耳鳴りを感じてみて。――聴こえるでしょ?」
集中してみれば、たしかに小さく聞こえなくもないけど……なにが言いたんだ?
「普段は全く気にならないけど、一度気づくとしばらくの間は耳鳴りが気になって聞こえ続けてしまう。言葉にはね、大なり小なり相手の心を惑わす力があるのよ。簡単に言うと、これを術として実用的に高めたものが催眠術」
はあ。ん、で? まったく話が飲み込めずにいるんだけど。
「まだ思い出せないって顔してる。中途半端に解けることもあるのね……。いいわ、私の目を見なさい。綺麗に忘れるためにも、一旦、全てを思い出させてあげる」
そう言って覗き込まれた彼女の黒くて大きな瞳に、俺の頭は真っ白になった。
静かに、だけど着実に、昨日のことを思い出していく。
母さんが言っていた強盗事件、あの犯人は紛れもなく俺だ。
どうして忘れていたのだろう。いや、どうやったらこんな大事なことを忘れられるのか。
「もしかして、これって……」
彼女はただ愉しそうに微笑んでいる。
「化物を見るような目で私を見ないでよ。あなただってすっごく楽しそうだったじゃない?」
「俺は知らない! 俺じゃない!」
俺が強盗したのか? 俺のせいなのか? 信じたくはないけど、あの時のことは鮮明に覚えている。
「俺はお前に操られて……」
「でも、嫌な気分でもなかったんでしょ?」
穢らわしい。何もかもが穢らわしい。この女も、女に操られていた俺自身も。
あぁ、頭がどうにかなっちまいそうだ。
「そんなに怖い顔しないでいいんだよ? 全部思い出したところで、今度こそ綺麗さっぱり忘れさせてあげる。自分を責めてるの? なら、自己嫌悪は気持ちよくて幸せなことに変えてあげる。そう悲観することないよ。あなたはもしかしたら、世界一の幸福者になれるかもしれないんだよ?」
「ふざけるな! 悪魔だ、お前は悪魔だよ! 俺にそれ以上近づくなっ!」
「私だって人の子なんだけどな。そこまで言われたら、少しは悪いことしたーと思うし。だからこれ、あなたにもあげる。これで少しは機嫌直してよ」
彼女はバッグから札束を掴み出した。かなりの量だ。
「そのお金は盗んだやつか」
「もちろん」
平然と言ってのけるこの女、おぞましい。おぞましいにも程がある。
「い、要らない。俺は受け取らない!」
それでも彼女は俺の横で、俺のバッグに勝手に札束を詰め込んでいく。
「そんなこと言って、本当は欲しいんでしょ? いいんだよ、あげるよ? ほら、私の目を見て。大丈夫から。すぐに全てが気持ちよくなる。あなたはもう私には逆らえない。私を受け入れることを覚えたあなたは、私からは逃げられないことを知っている。そうでしょ?」
彼女の耳障りの良い声を聴いていると、体から、力が……抜けていく。
「そう、良い子だね」
あわやこれまでか、と思ったそのとき、部屋のドアが開いた。
「こんな所にいた! やっと見つけた。急にどっかいっちゃうし、探したんだからね」
後ろからだけど分かる。実里だ、実里の声だ! 助けてくれ、この女は俺を操って犯罪を強要した極悪人だ! そう叫びたいのに声が出ない。
くそぉ、体に力が入らない。
「あなたはどちら様?」
「私はそこの男子に話があって。――あの、私もしかして、タイミング悪かった?」
相手が年上だと気づいたのか、実里は謙虚に何かを感じ取ったようだった。
「実は私たち……付き合うことになって、ちょうど今後のお付き合いの仕方について話していたの」
この女は真性の悪魔だ。平気ですぐばれる嘘を吐くなんて。付き合う? 今後? あるわけがない! 頼む実里、騙されないでくれ。
「そ、そーなんだ。私、知らなくて入ってきちゃった……」
「ホント、急に告白されて私も驚いてるの」
「そう、なの?」
実里の震える声が背中から届く。勿論違うと言いたが、体が動かないと伝えようがない。
そんな時に、悪魔のような女が悪魔のようなセリフを俺の耳元で呟いた。
俺には抗う術がなくて。
「そ、そうだ。も……もももちろんだ。そ……そう……だ」
自分で自分の口から出た言葉が信じられない。否定したいはずが、女の嘘を俺が認めてしまった。
俺は――俺の心はもう、俺のものじゃなくなってしまった。
実里は何も言わずに立ち去った。
「どれじゃあ、始めようか。二人だけで、とっても良い事を――ね!」
その後、地獄のような極楽のような囁きが俺の何かをさらって行くのを感じながら、俺は意識を――自分を失った。