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背徳のフライデー

 お互いをよく知らない二人の飲み会はぎこちないスタートを切ったが、一時間もすると一方がすっかり出来上がり、距離は一気に縮まっている。


「鬼釜君はぁ、そんなにイケメンなのにぃ、どおしてあんなショボい店で働いてるんですかっ!」


 ゆでだこと化した鋭斗は唾を飛ばしながら哲の腕を掴む。

「そんなことありませんよ。駅から近いし、便利なお店です」

「んもおー、物腰やわらかぁ!」


 げへげへと笑う鋭斗に、哲はひたすら困惑している。

 鋭斗がこの後無事に帰れるかどうか? 家がどこかは当然知らない。これ以上酔ってしまったら、帰りつけないかもしれない。

 店に問い合わせて住所を聞くべきかどうか。悩める哲の首に、エリィの腕が絡み付く。

「そうじゃないわよ、哲。このゲス()がこれ以上ぐだぐだになったら、哲が酔えなくなっちゃうじゃない」

 店であった珍エピソードから始まり、今気になるアイドルの名前、好きなアニメについて。

 哲が聞いてくれていることにすっかり気を良くしたらしく、鋭斗はよくしゃべった。飲んで、食べて、笑って、上機嫌になっていた。


「鬼釜君って上品だよねえー。あらゆる体液がいい香りしそうだもん。なんでなの? なんで俺と同じ人類なのに全然違うのおー?」

 飲み会が始まって以来、何度「そんなことはない」と言っただろう。

 哲の中に生まれたちいさなうんざりの芽に、エリィはニヤリと笑う。

「俺なんか負の遺産しか持ってないのにー! 学校にいる時はずっとイジられ役だし、いるだけで女子はキモいクサイって言うし、頭も悪いし運動もできないし中途半端にデブだしいー」


 哲が酔って正体を失くし、乱れてしまえばいいと思っていた。

 その路線は大失敗に終わったが、今、新しい道が開こうとしている。

 鋭斗の絡みは時間の経過と共に性質が悪くなっていき、哲の眉間には小さな皺が寄り始めている。


 結局、飲み会で乱れる計画は失敗に終わった。

 鋭斗はタクシーに押し込まれ、哲は自宅へと歩いて帰る。ほんの少し足がふらついた程度で、粗相は一切ないまま無事に帰宅をしていた。


「あのゲス、自分ばっかりいい気分になりやがって」

 鼻息を荒くするエリィを、哲はこうなだめた。

「でも、僕はいつも通りの行動から外れています」

 いつもならば一日の仕上げ、音楽を聴く時間。だが、服についた居酒屋臭に包まれ、キッチンで立ったまま水を飲んでいる。

「こんなもんで満足してどうするの? って言いたいけどぉ、哲にしてみれば大きな変化なんでしょうねえ」


 エリィの言葉に、哲は微笑む。

 その柔らかさに体を熱くして、エリィは部屋の隅の暗がりの中へ消えた。






「鬼釜君、昨日はごめん。色々、変な事言っちゃったと思うんだけど」


 開店前の準備の時間。店の入り口付近で特売品を並べる哲に近付いているのは鋭斗で、ぺこぺこと頭を下げていた。

「いいえ、変なことなんてありませんよ」

「嘘なんて言わなくていいよ。本当にごめん」

「嘘ではないですよ。楽しかったです」

 哲の優しい言葉に、鋭斗の顔はとろけんばかりの至福を浮かべている。


 二人の組み合わせ自体、あまり見るものではない。話したとしても業務上の伝言くらいだったはずだ。なので、ゆきえは不思議に思った。この親密さは一体、どこから生まれたものなんだろう。


「三方さん」

 

 憂鬱な二番レジに入る手前のお菓子コーナーには、ちょうど鋭斗が立っていた。新商品のスナック菓子を並べていた鋭斗はみるみる緊張した顔つきになって、目を血走らせている。

「なん、なんですか、瑞島さん」

 鬼釜さんとなにかあったんですか? 

 零れ落ちそうになった台詞を、ゆきえは慌てて飲み込んだ。

「あの、ええと」


(どうしよう、なんて聞いたらいいんだろう?)


 そんな聞き方では、哲に関心があると告白するようなものだ。寸前で気が付いて、ゆきえは悩む。目の前の鋭斗はげっそりとしていて顔色が悪い。


「今日、顔色が良くないですけど。大丈夫ですか?」

 とっさに出したこの言葉に、ゆきえは少しだけ後悔をした。


 鋭斗の目は潤んで、表情も幸せそうにゆるんでいく。鋭斗のようなタイプの男性が、ゆきえは苦手だった。二次元の美少女にしか興味がなさそうだという一方的な偏見が心の片隅にあって、そう決めつけては悪いと思いつつも、警戒してしまう相手。なるべく接触したくないと思っていたのに、こんな顔をさせてしまった。

 後悔は先に立たない。だがこんな小さな悔いは、次の言葉で消し飛んだ。


「や、昨日、鬼釜君と飲んだんですよ」

「鬼釜さんと? そうなんですか?」

「へへ、ええ。同い年で、一緒に働く仲間なんで。それでちょっとその、たまにはどうかなって話になりまして」


(いいなあ)

 ゆきえは内心で盛大なため息をついていた。

(私のことも誘って欲しい)

 

「そうなんですか。二人で?」

「ええ。二人で飲んじゃいました。楽しかったです!」


 急にいきいきとしだした鋭斗に、ゆきえははっきりと嫉妬していた。

 あんなに綺麗な鬼釜さんと二人きりで飲み会をするなんて。

(いつの間にか鬼釜くん、って呼んでるし)

 ただの同僚だというだけでいいなら、自分にだって、資格はあるはずで――。


「いいですね。楽しそうで」

 ストップを効かせたはずなのに、ブレーキの踏み込みが甘かったようだ。ゆきえの口からはぽろりと本音が飛び出していく。

「私もたまには飲みたいなあ」

「……じゃあ、ゆきえさんも一緒に。どうですか? 仕事終わりに都合のつく日があれば、良ければ」


 

 ゆきえのシフトは、月曜日、火曜日、そして金曜日の週三日。

 本当は毎日、哲と同じ時間に働きたい。けれど、夫が嫌な顔をするので増やせない。もちろん、帰りが遅くなるとなれば文句を言われる。

 

 それでも勇気を出して、職場の懇親会があるから、とゆきえは夫に言った。

 渋い顔をされたが、仕方ない。帰ってから少しだけ我慢(サービス)すればいい話だ。

 

 気が進まなかったものの鋭斗とメールアドレスの交換をして、同僚たちの飲み会は金曜日に第二回が行われることになった。




 再び、居酒屋べろんべろん月浜駅前店。

 予約済みのテーブルには、今日は三人が座っていた。美青年、引きニート、地味な巨乳。奇妙な組み合わせには拍車がかかって、給仕係の女性が二度見しながら通り過ぎて行く。

 ビールで乾杯して、会話はぼそぼそ。勢いが良いのは店員たちばかりで、ちっとも弾まない。


(鬼釜さん、ビール飲むんだ)

 ワインの方が似合うな、とゆきえは思う。細くて白い指にはジョッキよりもワイングラスの方がふさわしい。


 哲ばかりを見つめるゆきえ、というシチュエーションに、鋭斗は慣れていた。なので、視線が一切向けられなくてもなんのショックもない。むしろ目の前で繰り広げられる妄想ステーションに、ワクワクが止まらなくなっていく。興奮のあまり、ピッチが上がる。


「鬼釜君、飲んで。ほら飲んで、そして食べて? 痩せすぎだよ鬼釜君は。そしてゆきえさんドリンクカラになってますよー。次なに行きますか。どうしますか」


(三方さんすっかり出来上がっちゃってる)

 でもお蔭で、哲ばかりを見つめずに済んでいる。ゆきえは少し安堵していた。

 テーブル席で、向かいの左側に哲、右側に鋭斗が座っている。この距離の近さで、哲ばかりを見つめていたらさすがにバレてしまうだろう。恋しているわけではないけれど、少なからず「好意」はあるわけで。既婚者としてのマナーを守らなければならないとゆきえは思っていた。平気な顔で浮気、不倫なんて話をするアバズレにはなりたくはない。

「僕は梅酒にします。瑞島さん決まりましたか?」

「あ、じゃあ、同じものを」


 緊張がほどけて、会話も少しずつ進んでいく。

 店の話、店長の噂、毎日見かける常連客について。酒の力で理性は鈍って、ゆきえはついこんな愚痴をこぼしてしまう。


「みんな一番レジに並ぶから困っちゃいます」

「どうしてなんでしょうね?」

「そりゃあー、鬼釜君にレジピッピしてもらいたいからだよおー!」


 飲み始めてから一時間で、鋭斗の酔いは最高潮になっていた。

 月曜の反省を生かして、今日は飲み過ぎない。ゆきえの前できりりとしている。そう決めたはずが、誓いは早速破られてなかったことになっていた。


「俺も鬼釜君にピッピされたい! や、ゆきえさんでもいいです。俺のことピッピして下さい!」

「三方君はもうソフトドリンクにした方がいいですよ」

 

 哲は穏やかな声で鋭斗をなだめ、グラスをそっと遠ざけていく。

(優しいなあ、鬼釜さん)

 こんな酔っ払い相手でも紳士なのだとゆきえは感心し、優しくされた鋭斗もまた同じ感動を味わっていた。


「鬼釜君……。ねぇ……、なんでこの間俺のこと見てたの? ブサイクだから? もしそうなら言って。今日のネタゲットできちゃうからあ」

「見てたというのは?」

「先週俺のことじっと見てたじゃーん! ドキドキしたよお、鬼釜君超イケメンなんだもん! あんな濡れた感じの目で見られたらもう俺、惚れちゃうよおー!」

 

 やんやんと騒ぐ鋭斗に、給仕の女性の目は冷たい。ゆきえもダメだと思いつつ、顔のひきつりを制御できない。

「ねえ鬼釜君、イケメンからブサイクって罵られちゃったって、書いていい?」

「どこに書くのですか?」

「ニックシーだよおーん!」


 うぇっへーい! と笑う鋭斗を、哲は真正面から見つめている。

 ところが、ご機嫌はすぐにへなへなと崩れ落ちていった。


「あ、そうだ。なくなったんだった」


 つい一分前のテンションはどこへやら、鋭斗はがっくりと肩を落とし、ぐすぐすと鼻を鳴らしている。


「知らないよね、鬼釜君は。ニックシーなんて下劣なインターネットをさ。人の悪口専門で書きこんでいいっていう、素晴らしいサイトがあったんだよ。書いたらスッキリ、読んだら元気っていう最高のSNSだったのに、先週いきなりなくなっちゃってさあ」

「すみません」

「おうして鬼釜君が謝るのー? こっちこそごめんね、下劣な話しちゃって! お下劣なんだ俺は。本当に心の底からお下劣ニートなんですよーう!」


 鋭斗はテーブルの上に突っ伏し、一本だけ焼き鳥の残された皿がガチャンと音を立てる。


「なんですか、ニックシーって」


 ゆきえが疑問を口にすると、鋭斗はがばっと起き上がった。


「ヘイト専門SNSなんですよ。ムカついたこととか、憎いやつのことを書きこむサイトがあったんです」

「そんなサイトが?」

「それがねえ、よく出来てるんですよゆきえしゃん! 書き込む時は実名で書いていいんです。めっちゃめちゃ悪口を書きまくって、でも投稿されると、人名の部分は違う単語に置き換えられてるの。俺は店長とか客って書いたんだけど、投稿された記事にはメロンとか落ち武者、って書いてあんの! すごく気が利いてるでしょう? 思う存分書けて、でも情報は守られて、友達登録とかもできないようになってんの!」

「へえ。それはちょっと、すごいですね」

「ゆきえしゃんだって姑の悪口とか言いたい時が、あるじゃないですかあ」

(やめてよ、鬼釜さんの前で!)


 慌てて首を振ったものの、興味を惹かれたのは確かだった。

 誰にも話せない。親しい友人は皆こどもがいて幸せで、姑との愚痴を話して聞かせられる相手ではない。結婚していない人達は仕事に夢中だし、不妊治療中の人にはヘタな話を振れない。

 夫には、義母の悪口など言えない。

 実の両親に言えば、揉め事になってしまう。


 仕事場にいるのは世代の違う若い子ばかり。

 派手なネイルの女の子には鼻で笑われそうだし、男の子からは疲れたオバサンだと思われてしまうだろう。

(そんなサイトがあったんだ)

 そこに書き込めば、少しくらいは気分が晴れただろうか?

 それとも、かえって虚しさに押しつぶされてしまっただろうか?


 テーブルの上に置かれた空のグラスを眺めていると、前方から声が響いてきた。


「読んだら元気というのは、どういうことですか?」


 哲の表情はいつも通りの穏やかなものだ。頬がほんの少しだけ赤くなっているだけで、口調もはっきりしている。

 それに対して、鋭斗は酷い。酔っ払いの見本のような赤ら顔で、こんな風に一気にまくし立てた。


「えー、みんなもイヤなことがあって、ムカついて、はらわた煮えくりかえりつつもちゃんと生きてるんだなーって。俺だけじゃないって思ったら、勇気出たんだよ。うわ、俺マジで底辺。社会の底辺! 鬼釜君ごめんね、こんな世の中の暗部の話なんて聞きたくないよね? ごめんね」


 すがりつくようにして謝る鋭斗に対して、哲はどこまでも紳士だった。


「そんな、いいんです。ありがとう三方君、話してくれて」


(笑ってる)


 いつもいつも、微笑んでいるような表情をしているけれど。


(こんな顔で笑うんだ)



 哲がはっきりと笑みを浮かべている姿はゆきえの心に焼き付いて、帰宅してから夫に抱かれている間も、一瞬たりとも消えることはなかった。

 

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