乱れマンデー
「え、飲みに?」
週が明けて月曜日のデイアンドナイト月浜中央店。従業員たちは順番に休憩を取って、それぞれ昼食を済ませていく。
狭苦しい休憩室でいつも通りのランチタイムを過ごそうとしていた三方鋭斗は、少しビビっていた。
いつもはいない人物が、自分の隣に座っている上、話しかけてきたからだ。
「鬼釜君と?」
「はい」
「俺が?」
「駄目ですか?」
いやいや全然ダメなんかじゃないけど、と鋭斗は大いに慌てた。
隣に座って駅前のパン屋のサンドイッチを取出してから、哲はしばらく動かなかった。おかげで鋭斗も弁当を開け辛い。ようやく口を開いたかと思いきや、「三方君、一緒に飲みに行きませんか」と来たのだ。
(いや、しょげないで。しょげないでよ鬼釜君!)
意外過ぎて返事が出来なかっただけで、嫌ではないし、駄目でもない。そう告げると、哲は安堵したようでいつもの薄い微笑みを浮かべた。
(なにこの子可愛い。笑ってるし。ビビりながらも思い切って職場の同僚を飲みに誘って、断られるかと思いきやOKもらって超ほっとしてるし!)
美少女だったらいいのに! と心の中で吠えながら、鋭斗はコンビニ弁当のふたを開いた。がっつりから揚げ弁当の油の香りが休憩室に漂い、もちろんそれは、哲の鼻にも届いてしまうわけで。
(鬼釜君、コンビニ弁当の匂いとか好きじゃなさそう)
恋する乙女のような心配をしながら、鋭斗は箸をからあげ一号につき差し、口へ運びながら考えた。
(なんで突然俺が誘われちゃうんだろうか?)
「哲はほら、理性でガッチガチなのよねえ。時間通り、いつも通りにしたい気持ちが強いでしょう?」
実家から帰った後のアンニュイな深夜帯に、エリィは哲にまずこう切り出していた。
「確かにそうです」
「まずそれを崩したらいいと思うのよぉ。本能に忠実なケダモノになっちゃいなさいよ」
「ケダモノにはなれません」
あっさり白旗をあげる哲に、エリィは仕方なく、受け入れられそうな言葉を探していく。
「そこまで乱れる必要はないの。とにかく今のままじゃ、怒りや憎しみがどうのなんて一生わかんないから、まずはタガを外さないと」
人でなしはドヤ顔で哲に向けてこう話し、とことん酒におぼれてはどうかという提案をした。
「お酒ですか」
「そうよぉ。剥き出しになるのよ、哲。酒は嫌い?」
「たしなむ程度にしか飲みません」
哲にはとてもふさわしい返事だ。正直、崩したくない完成度なのだが、乱れた哲だって見てみたい。
「それが良くないわ、哲。駄目よぉ、気取っちゃ。駄目よ、鎧を着てちゃ。全部脱ぎ捨てて引っ張り出しましょう。誰か一緒に溺れてくれる人を探して、一緒に乱れたらいいわ」
その一緒に溺れてくれる人の候補に挙がったのが鋭斗だった。
月曜日から酒におぼれるなんて、と困惑する哲に、月曜だからこそ飲め、とエリィは告げた。
明日は仕事だから飲まない。こんな理性のある結論は今は不要で、仕事はサボっていいし、パンツ一丁で道端に転がっても構わない。
「もしもそんなことになったら、三方君を巻き込むのは申し訳ありません」
「大丈夫よぉ、あいつの心は今でもニートなんだから。自分好みのエロい人妻のネタを集めるために来てるだけのゲスなのよ? だから大丈夫。それに、哲の誘いなら必ず乗るわよ」
エリィの指導は哲にとってスパルタそのものだった。
酒に溺れて乱れろ。気に入らない奴がいたら殴り、寄ってくる女は全員抱けと言う。
とても無理だと言うと、折衷案として「とりあえず月曜から飲み」が出てきて、一日中話し合った結果採択された。
途中で何度もこじれた「哲の改造計画」。
日曜日の昼頃に、エリィは一度「もうやめよう」と思っていた。
たまたま出会った美しい青年の容姿はこれ以上ないくらい好みだったが、悩みにつきあう理由などない。容姿が好みなら、遠くから見ていればいいだけ、そう「ボス」やカラスから言われていたし、エリィも今更ながら「それもそうだ」と感じていた。
時間になれば昼食、掃除など、決まった事項をこなさなければ気が済まない哲を気の毒だとは思う。
ほんの少しだけ垣間見た人生の中に、哲の苦悩ははっきりと浮き出していて、苦しみもがいているのだとよくわかった。
だが――。
「エリィさん」
人でなしがもう去ろうと思った矢先、哲は床を磨きながらこう呟いた。
「エリィさんは、とても親切ですね」
固く絞った雑巾で、きゅっきゅと音を立てながら。
「僕と付き合うのは面倒でしょう? 理由もありませんし。そもそも僕の頼み自体がおかしいですよね。それなのにこんなに根気強く、真正面から付き合ってくれるなんて、あなたは本当に優しい女です」
床へ向けていた視線をあげ、哲は部屋の隅で立ち上がりかけていたエリィへと向ける。
「やん……」
額に汗を浮かべながら、哲は笑っていた。いつものほんのりとした微笑よりもずっと、嬉しそうに。
エリィは既に人ではない。世の中と人類を恨み、憎みながら死んだ「人でなし」だ。
彼らの命は、前世の憂さ晴らし。そう言われている。
その辺で揉めているカップルや、家族や、友人、上司、部下、先輩、後輩、ご近所さん、通りすがりなどなど、行き交う人達の起こす摩擦を、生じる負の感情を喰らって生きている。もっと怒り、憎みあえばいい。それで「人でなし」は満たされる。本来の人生を送っている間に与えられなかった甘味や充実を、貪欲に摂取していくようになっている。
ねぐらに戻ったエリィに、「ボス」は言った。
エリィ、お前は何をしている? もう用は済んだはずだ。
月曜の朝、哲の家へと向かう道の途中に現れ、カラスはこう告げた。
エリィ、早くあの男から手を引いた方がいい。
「なによぅ、カラス。あたしの勝手でしょう?」
「お前たちは不思議だな。人への憎しみから異形へと変わった存在だというのに、どいつもこいつも『お人よし』ばかりだ」
「そんな間抜けがいるっていうの?」
「ああ、いたよ」
カラスはそれだけ言うとあっさりと影の中へ消えていく。
カラスについてエリィが知っているのは、彼の正体が蛇だということと、この辺りに集う「仲間」の中ではかなり年長の部類に入るらしいということだけだ。
人ではない者たちの、特に年長者は誰も彼もやかましい。人に正体をバラすな、ちょっかいを出すな、仲間の集いには必ず出ろ、などなど。だが、カラスは違う。「仲間」を心配して声をかけてはくるものの、しつこく絡んではこない。
「なによぅ、お人よしって」
エリィのひとりごとは笑みを含んで軽やかに、早朝の月浜に響いていく。
だが、誰にも聞こえない。
眠たそうな顔で通り過ぎるサラリーマンの憂鬱をぱくりとつまんで、エリィは歩く。麗しの君、哲の部屋へ。
十九時三十二分、月浜駅前の居酒屋「べろんべろん」に、二人の客が入った。
薄暗い店内はいくつもの小さなスペースで区切られている。
ちゃちな仕切りの中は大抵が定員四人のテーブル席で、この日三番目のお客は五番のスペースへ通された。
一人は睫毛の長い美青年で、すらっとしていて手足は長くモデルのよう。
一人はずんぐりむっくり、脂でしっとり、見るからに「ヲタ」丸出しのおそらくはニート。
アルバイト店員の若い女性は二人の組み合わせに首をひねりながらお通しを出し、オーダーを取っている。
(やっぱりミスマッチっすよね、俺と鬼釜君じゃ)
鋭斗はそう考えつつ、ぐふふと笑う。
(いいだろ、こんなイケメンと差しで飲む俺が! うらやましいだろうこのビッチめ! てめぇの頭の悪い彼氏と比べて今夜は悶えやがれ!)
茶髪の女性店員を勝手な思考で罵りながら、鋭斗は生ビールを頼んだ。
酒にはあまり強くないので、すぐにソフトドリンクに切り替えることになるだろう。メニュー表の一番後ろに控えているノンアルコール軍団をチェックしつつ、では哲はどうだろう? と思いを巡らせていく。
「早速始めているわよぉ、あのゲスは」
哲はきっとワインが好きだとか、オサレなカクテルばかり飲み干していくだろうとか。エリィが詳細を耳元でささやいてきて、哲の集中力は切れていく。
理性と誠実、清らかさ。哲を作り上げている三大要素を、今日は破壊しなければならない。
「では、僕もビールを」
時間がかかった割には平凡なオーダーをした哲に、鋭斗はまたぐふぐふと笑った。
(ビール飲むんだ、鬼釜君も。ビールとは程遠いビジュアルですのに! シャンパンをタワーで用意して良いくらいですのにッフーゥ! あ、お口に泡とかつけたらどうしよう。白いおひげをちらっとつけちゃったらやべえ超可愛い写メ撮っていいかい鬼釜君!)
愉快な妄想に浸ってニヤニヤした途端、哲の表情が曇った。
鋭斗は慌てて口元を押さえ、汗をどばっと噴出させた。
「ごめん、鬼釜君……、あの、えと」
「え? いえ、どうして謝るんですか、三方さん」
余りにもタイミングが良すぎて、妄想が全部聞こえてしまったのではないかと不安に陥いるも、そんなわけないじゃない、と鋭斗はなんとか持ち直していく。
「や、同い年なんで、さん付けしないで下さいよ。っていうか俺、勝手に鬼釜君とか呼んでてごめんなさい」
「いえ、そんな。いいんです。そうですよ、同い年なんですから、鬼釜君で問題ないです」
哲は慌て、鋭斗はおどおど。奇妙なぺこぺこ合戦に、エリィはニヤニヤと笑っている。
同い年の同僚なのに、あんまりな構図だ。鋭斗は悩んだ挙句、こんな質問を哲にぶつけた。
「あの、鬼釜君はなんで俺を今日誘ったの?」
今日はどうしても酒に溺れて乱れなけばならず、それに巻き込んでも平気そうな人材だったから。
正直にそう言うわけにはいかない。だが、哲は、嘘をつけない。
なにか、鋭斗を誘う理由に足りる真実を――。
慌てて脳内を検索した結果、こんな言葉が哲の口をついて出てきた。
「ええと、三方……君と、友達になりたいと、思って」
正直に言えば、特に友達になりたいと熱望しているわけではない。
だが、絶対にお断りかというと違う。
お断りではないのだから、友達になっても、良い。
こんな思考の飛躍から出てきた嘘八百に鋭斗はひどく感激して、目を潤ませながら運ばれてきた生ビールを高く掲げた。