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針の筵

 それから一時間後、哲とエリィは電車の中にいた。

 インターホンを押したのは、二十代前半と思しき女。エリィは突然の来客を苦虫を噛み潰したような顔で見つめていたが、程なくして哲の妹だとわかった。


「どうして電話に出ないの? メールも何回も送ったんだけど」

「すみません。気が付きませんでした」

 妹に対しても丁寧な口調を崩さない哲を、エリィは「らしい」と笑う。

「着拒にしてんの? まさかね」

 あんたの大好きなお母さんが何度も電話してるんだよ、と妹は腹立たしげに告げる。哲は悲しげに目を伏せたまま、ごめんなさいとだけ答えている。

「今日は久しぶりに家族揃って夕ご飯なんだってさ。早く準備して」


 妹の名は「琴」というらしい。哲が「琴さん」と呼ぶので、そうなのだろうとエリィは兄妹の様子を真横から見つめていた。

 琴の口調はキツく、兄への信頼だとか、親しみはカケラも感じられない。

 彼女の身から放たれる苛立ちをストローで吸い取りながら、エリィは哲の支度をじっと待っている。

「早くしてよね」

 何度も急かされつつ、哲は自分のペースを崩さなかった。着替えをし、髪をとかし、カバンを用意して財布の中身を確認し。

「もう、どうせ忘れ物なんかしてないし、見た目も大丈夫だよ。それ以上チェックしなくていいから!」


 とうとう苛立ちの塊になってしまった妹に手を引かれ、哲は家を出されていた。入れそびれたハンカチが机の上に残されており、それを掴むとエリィも後を追って、月浜駅へと向かう。


 白いシャツを着た哲は、両手に四つも紙袋を持たされていた。兄を呼びに来る前に、妹は夏のバーゲンを満喫してきたらしい。

 琴の戦利品が入った袋を握りしめた哲の顔は暗い。

「哲、どこに行くの?」

 エリィが呼びかけても哲は答えない。答えたくないのか、あえて答えないのか。


 寂寥は「人でなし」にとって一番必要のない感情だ。これらは吸っても苦いばかりで、全身にかゆみが生じ、時には酔っ払いのように嘔吐してしまうことすらある。

 哲の苦悩に満ちた横顔は美しいが、吸えない。哲の美しい首から甘い露を吸いたいのに、出てくるのは苦く乾いた欠片ばかりで、エリィは久しぶりにやるせない気分になっていった。


 浮かれた客が一斉に帰路につく時間帯の電車は混んでいて、哲も琴もドアのそばに立っている。二人の距離は近いのに、会話は一言もない。

「哲ぅ、ねえ、妹とは仲が悪いのぉ?」

 絡み付いて耳元でささやいても、哲は答えなかった。


 各駅停車の旅は三十分ほどで終わり、大瀬本町駅で三人は降りる。

 駅の周りにいくつか店があるだけで、後は家ばかりの物静かな街だった。慣れない閑静な住宅街を、エリィは落ち着かない様子で視線を彷徨わせながら歩く。


 ゆるやかな坂を登り、五分後。

 ぐるりと高い木の塀に囲まれた邸宅の中に二人は吸い込まれていく。

 門の中へ入れば庭は広々としていて、程よい間隔で木が植えられ、花を咲かせた鉢が並べられていた。白い花ばかりのガーデニングに舌打ちしつつ、エリィも続く。

 整頓された玄関と、壁にいくつか絵画がかけられた上品な廊下。右手に見える扉を抜けるとそこはだだっぴろいリビングで、食卓と、大きな革のソファが置かれていた。

 家の中は高級感漂うダークブラウンを基調にした内装で、家具の形も配置もシンプルだった。それはいかにも哲を想起させるデザインで、なるほどここで育ったのだなとエリィは一人納得している。

 食器も掃除用具もなにもかもが、壁の中に収められているのだろう。無駄なものは何一つ置かれていない。テーブルの上に並んでいるのは花瓶と食器だけ。部屋の隅に設置されたオーディオからは、クラシックの曲が低い音量で流されている。


「哲さんお帰りなさい」


 食卓の奥はキッチンで、そこから出てきた女性は両手を広げて哲を迎え入れた。

 キッチンとは反対側の革のソファには二人の男性が座っているが、動かない。

「ただいま」

「ああ、良かった帰って来てくれて。さあ、座りなさい。今すぐ準備するから」

 神経質そうな顔の女性は、哲の母親なのだろう。息子の帰還を喜んだが、すぐに手に持っている紙袋を見咎めて眉を吊り上げている。

「琴! 自分の荷物でしょう? 自分で持ちなさい!」

 いつの間にか姿を消していた妹からの返事はなく、哲の母は苛立たしげに紙袋を奪い取ると、廊下にそれを置いた。


 それが済めば、母の表情は菩薩に戻る。大切な息子を食卓につかせ、夕食の準備を再開させていく。エリィは団欒の場であろうリビングをウロついて、窓辺に置かれた写真を見つけてそれを眺めた。


 母と妹、ソファに座っている二人はおそらく父と弟だろう。見た目の年齢からそう判断し、エリィは写真の中に収まる鬼釜家の人々と見比べていく。


 一家全員で揃っているものもあるが、ほとんどの写真が哲一人で映っているものばかりだった。どの時代の哲も麗しく聡明で、今と同じ、薄く微笑んだような表情を浮かべている。五枚に一枚程度の割合で姿を見せる妹と弟は憮然とした顔で、ブサイクではないが、兄ほどの美しさは持ち合わせていないようだった。父は誠実そう以上の印象はなく、母は美人ではあったが気が強そう、神経質そう、そんなネガティブなイメージが前面に出ていて、柔らかさがない。


「哲さん、しばらく顔を見せなかったでしょう? 元気にしていたの?」


 キッチンの向こう側から声がして、哲は小声で、ええ、とだけ答えている。

 ソファの二人は時折、久しぶりに姿を現した長男に目を向けるが、なにも言わない。

 なので、母の声はリビングによく響く。


「まだあの汚いお店で働いているのかしら? あのお店、お母さん何回か見に行ったのだけれど」

「準備を手伝いますね、お母さん」

 哲は母親の言葉を遮り、立ち上がる。手を洗ってくるからと洗面所へ向かう美青年を、エリィも追った。


 廊下に出ると奥の階段からは琴が下りてきて、置かれている戦利品を見て舌打ちをした。

 


 鬼釜家の食卓はとても静かだ。

 しゃべるのは母親だけで、言葉を向けられるのは長男だけ。

 最近あった出来事、世間の関心事、楽しい習い事、お教室でのエピソード。

 出てくる料理はどれも美しく盛り付けされ、漂う匂いも良い。エリィは腹の虫を鳴らしながら、冷たい会食の様子をキッチンから眺めていた。


 サラダ、パン、魚、肉、最後はデザート。

 紅茶とチーズケーキが五つずつ並んだテーブルは、えもいわれぬ冷気に包まれている。


「どうだったかしら? 久しぶりにとても頑張ったのよ。美味しかったかしら?」

 母親の笑みは結局最後まで哲にしか向けられていない。

 他の三人の瞳は料理しか見つめていない。

 哲は頷き、とても美味しいです、と微笑んでいる。


「良かった。哲さん、家に帰っていらっしゃいよ。狭いお部屋に住んでいるんでしょう? あんなところで暮らさなくていいの。あの職場はお母さんはちょっとどうかなって思うけれど、もしも万が一気に入っているならここから通えばいいわ。朝は快速に乗れば月浜まで二十分くらいでしょう? ねえ(けい)、そうよね?」


 同意を求められたのは、おそらくは哲の弟であろう青年だった。まだ若く、二十前後と思しき継は、なんの返事もしない。視線すら向けない。


「もう二十七ですから、大丈夫です。いつまでも実家でというわけには」

「年なんて関係ありませんよ。哲さんは大事な鬼釜家の長男なんですから。確かに色々あったけれど、お母さんはもう怒ったりしていないのよ。哲さんが自分で選んだ道なんだから、それでいいんです。お仕事はいいとして、住む場所よ。快適なお家で暮らす方が幸せでしょう?」


 お部屋は整えてあるから、今日からでも帰ってこいというのが母の主張らしい。

 

 部屋に充満する負のしたたりを残さずストローで吸いこんで、エリィはげっぷを漏らしている。次から次へと湧いてくる苛立ち、蔑み、妬み、そして憂鬱。父、母、妹、弟。四人分のあれこれを吸いながら、エリィは腹をさすりながら哲をじっと見つめた。


 溢れ出す哀しみの色は白。純白で、庭に咲いている花と同じ色。


 どうにかして息子を家に戻したい母の情熱は、冷め切った家族の中で際立って黒い。

 


 母の攻勢をなんとか避け切って、哲は一人、家路についていた。

 エリィはなんとなく距離を開けながら、ぶらぶらとそれについていく。


 街灯にぽっかりと照らされた道の途中で、哲は突然立ち止まるとくるりと振り返った。


「エリィさん、すみません。何度も話しかけてくれていたのに、返事をしなくて」

「やん、いいのよぉそんなの。わかってるもの。あたしは他の人間には見えないから、返事をしたら哲が変人だと思われちゃうもんねぇ」


 街灯のすぐ脇にはごみの回収ボックスがあって、金属製の頑丈な箱にはダイヤル式の南京錠がつけられている。月浜駅周辺では、ごみは集積場に無造作に詰まれるだけだ。この辺りは整然とした空気を好む、気取った人間ばかりが住んでいるのだろう。


「そんな……ことはありません。僕は充分、もう、変人ですから」


 哲の哀しみは全身から溢れて、足元までじっとりと濡らしているかのようだった。 

 うなだれる姿はまるで捨てられた子犬のようで、ひどく頼りない。


 だが、可哀想な子犬の毛並みはふわふわとして、儚げで、愛らしい。


 エリィは忘れ物のハンカチで哲の額に浮かんだ汗を拭うと、白い耳元に向けてこう囁いた。

 

「ちっとも変じゃないわよぉ。哲はそうねえ、ちょっと、マトモ過ぎるんだわ。大丈夫、あたしが哲を変えてあげる。家でゆっくり話しましょう」


 電車に揺られ、駅から家まで歩いて七分。時刻は、二十一時五十六分。


 哲が鍵を開ける前に、エリィは一足先に壁をすり抜けて家の中へ入った。

 

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