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散歩道

 鬼釜哲の朝は早い。毎朝必ず五時には起きて、六時の朝食の前に三十分ほどの散歩をこなしている。


 夜中、心がざわめいて眠れなかったが、幸いなことにこの日は土曜日で仕事は休み。

 なんとかいつもの時間に起き出して、いつもより少しだけのろのろと着替え、人気のない月浜駅周辺へと向かう。

 車道を通り抜けていくミニバン、これから遠征に行くのであろう、学校指定のジャージに身を包んだ高校生。人影はまばらだが、過ぎ去っていく新聞配達のバイクの音がやたらと響いて、そろそろ街が目覚めるぞと告げて回っている。


 

 黒いスニーカーはウォーキング用。靴ひもをきっちりと結んで、哲は歩く。

 自宅から月浜駅までは歩いて七分程度。駅の改札、バスの停留所など、複雑な立体交差で繋がれた道を、今日はどう歩こうか。

 気分は重い。寝不足のせいで、足も重たい。

 いつもはしない昼寝をしなければならず、では何時からが適切か、哲は考える。


 若者の気分と同じ、空は曇天。灰色の雲が空を覆って、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 駅前のバスの停留所へ繋がる大通り。誰もいない道の上で立ち止まり、哲がアスファルトの上に溜め息のしずくをこぼすと、どこからともなく声が聞こえてきた。


「おはよぉ、哲ぅ」

 

 哲の足元に突然現れたのは、もちろんエリィだった。通りに面した喫茶店のゴミ箱の影から、地面スレスレの高さから顔を出し、ニヤニヤと笑っている。

「どう、調子は。昨日は相当イライラしたでしょう? うふ、うふ、ぐふふふ」


 いつものようにいやらしく笑ってみせたが、エリィはすぐにそれを引っ込めた。

 哲の表情は暗い。怒りとは程遠い、哀しみばかりが溢れている。


「怒らなかったの? あの、キモい男のこと」


 返事をしない哲に向かってエリィは口を尖らせると、「やっぱり?」と呟いた。

 再び歩き出す哲に、エリィはついてくる。

 彼女は誰にも見えなかったり、見えたりするようだ。店に現れた時にはレジまでベルトを持ってきたし、あの時周囲にいた客はエリィの怒り様に驚いたようだった。

 だが、その後は哲以外には見えていない。では、声はどうなのだろう? 冴えない思考の中で沈んでいる哲に、エリィはしなだれかかってくる。


「昨日言われたのよねぇ。哲は怒らないんじゃないかって。カラスが、そう言ったの」

「カラスというのは、エリィさんの友達ですか?」

「ううん、友達なのかしらねえ? でも、仲間ではあるわ」


 人ではない、ということなのだろう。

 長い髪に阻まれ、エリィの顔は見えない。気だるい喋り方のせいで、エリィがどんな気分でいるのかもよくわからなかった。


「普通の人間ならカンカンだわよ、あんな気分の悪い妄想のネタにされてるんだもの」


 哲は顔をまっすぐ前に向け、朝日に照らされる前の街を見つめている。

 横顔は悲しげで、物憂げで、エリィ的にはセクシー極まりなかった。

 疼く下腹をそっと抑える妖怪に、青年はこう答えた。


「悲しかったです」

「あらそう」


 何がどうなって悲しいのか、エリィにはわからない。

 もしも自分が、誰かの、特に男性の性的な部分を刺激する妄想として使われていたとしたら……。想像してみると、嬉しくて体がねじれてしまった。


「ビックリしてたわよぉ、あの男。大好きな人妻に見られてて、ついでに哲にまでじっと見つめられたから」

「人妻というのは、瑞島さんでしょうか」

「そうよぉ。哲があの男を見てたから、なにがあったのかって思ったみたい」


 それっきり無言のまま、哲は歩いていく。

 月浜駅の改札前を通り抜け、歩道橋の上で少しだけ立ち止まり、遠くを見つめて、そしてまっすぐに家に帰っていった。

 朝食はシンプルに、トーストが二枚と目玉焼き、サラダと紅茶。

 食べ終われば食器を洗い、たいして散らかっていない部屋の掃除をし始めている。

 

 エリィは哲の様子をキッチンの隅から見つめていた。

 不気味な妖怪には一切構わず、一心不乱に。

 後片付けまで済ませるとようやく哲はエリィを振り返り、小さな声でこう呟いた。

「エリィさん、すみません。昨日よく眠れなかったので、少しだけ寝ます」



 本当は、壁をすり抜けて寝顔を見に行きたかった。

 だが、どうしても今日はそうできなくて、エリィは哲の部屋を出ると月浜の街をぶらぶらと歩いていた。土曜日はこれでもかというほど大勢の人間がやって来て、騒ぎ、発散し、溜め込み、散らかしていく。あちこちでぶつかり弾ける感情をつまんでは食べ、口の中で転がしながら、エリィは歩く。


「普通の人間って、こうよねえ。好き放題、嫌ったり、怒ったり、妬んだり、喜んだり悲しんだりするものよねえ」

「そうとは限らない。押さえつけられて声をあげられない者も、時にはいる」


 ウォーターランド行きのバスが出る三番停留所の前に立つエリィの隣に現れたのは、カラスと呼ばれている「男」だった。

 月浜駅周辺に棲んでいる「人ではない者」の一人で、エリィは彼についてそれくらいしか知らない。人ではない者たちは皆で集まって互いの存在を確認し、ルールを設けて人間たちとどうかかわっていくか決めているらしいが、エリィはその輪に加わっていなかった。

 大勢がエリィを疎ましく思っているらしいが、カラスはそうではない数少ない存在で、時折姿を現しては話を聞いてくれる。問われれば答え、エリィが面倒になれば去ってくれる、気の利く「友人」だった。


 けれど決めつけるようなカラスの話し方は好きではないので、エリィはぷいと顔をそらし、行き過ぎる学生たちを見つめた。

 

 今日こそ告白しようと息巻いている十八歳。

 抜け駆けされたくなくて、「親友」を牽制し続ける二十一歳。

 ヤリたくてヤリたくて仕方がない十七歳。


 彼らの欲望をつまんでは口に放り込み、噛みつぶし、今度はバーゲンに向かう女性たちへと目を向ける。


 ともだちの結婚式に出たくない三十一歳。

 孤独に苛まれて耐えられなくなってきた三十四歳。

 夫よりも素敵な「あの人」にときめいている三十九歳。


 彼女らのドス黒さは、誰かの怒りの上に振りまいてトッピングにする。そうすればほら、よくあるムカつきにもコクが出て、スパイシーになる。真昼間から宴会気分になって、エリィは満足そうにげふんと喉を鳴らした。


「エリィ、あいつに関わるのはもうやめるんだ。怒りなど教えられるものではないよ。あいつには元から備わっていないんだろう」

「あたしが世界で一番嫌いなもの、教えてあげようか」

 「人でなし」らしい昏い瞳で睨みつけると、カラスは諦めの笑みを浮かべて消えていった。


「怒りを持たない人間なんているわけないわ」


 聖職者だって欲望に負け、快楽の虜になる。

 エリィの前を通り過ぎて行く凡人たちに至っては、言わずもがなだ。今どれだけご機嫌に歩いていたとしても、誰かと触れ合えば心を擦切らせ、心の奥底から湧き出す暗闇に飲まれて呻くのだ。


「言っていいのよ。気持ち悪い目で見てるんじゃねえよって。旦那がいる癖に欲情してんじゃねえよって。ねえ、哲」

 

 エリィの呟きは土曜日の喧騒に踏みつけられ、消えていく。



 散々つまみ食いをしてからエリィが哲の部屋へ戻ると、家主はまだ眠りの中に居た。

 白い頬にふれると暖かく、エリィの胸は小さく疼く。

「寝顔も綺麗なのね、哲」

 額にかかった前髪を指で押しあげながら、「人でなし」は呟いた。

「哲の中には全然怒りがないのね」

 憎しみも妬みも姿を見せない。

 暖色の欠けた心の中に、エリィは首を傾けてみせる。

「全部、哀しみになってしまうの?」


 本当はわかっている。「ボス」やカラスが哲に関わるなという理由が。

 哲に限らず、人間と深く関わっていいことなどないのだ。

 わかっているけれど、エリィは後ろ髪を引かれている。

 赤黒く染まった人間たちの群れの中で溺れている、蒼白い青年が気になって、足を留めてしまっている。


 「人でなし」を死して尚この世に留める原因になったのは、人だ。「人でなし」は人を見下すし、強く憎む者もいる。だから「ボス」は特に、人間と関わってはならないと強く言う。


 だが、エリィは少しだけ、他の人でなしたちとは違っていた。


「楽しいのよねぇ。あの頃のことなんてもう、覚えてないもの。今は毎日、美味しくて、愉快だわ。罵り合いも、一方的な暴力も。好きよ。だって、激しければその分、満たされるから」


 エリィの邪悪な呟きが不快だったのか、哲は顔をしかめ、もぞもぞと動き始めた。


 人でなしを作るのは、人間。

 人間は食料。

 憎いけれど、いなければ困る。

 反する二つの要素の中を、エリィはへらへらと笑いながら「生きて」いる。


「哲、ありがとう。あのへんてこなサイトを閉鎖してくれて」

 ニックシーがなくなって以来、街には負の感情が明らかに増えた。

 憎しみを存分にぶつけられる場所が突然なくなったせいで生まれた怒りも、今日いくつか吸った。

 見えない場所に溜まっていた怒りは解放されて、そこら中に撒き散らされ、道の隅で塊になって渦巻いている。


 呟いてはたと気が付き、エリィは首を傾げる。

 怒りの素を提示してやれば、自然と火がつくものだと思っていた。だから、鋭斗の欲望についてのすべてを聞かせてやった。

 けれど、その前に、哲はニックシーの管理人だった。日本中の人々のやり場のない憎しみを、これ以上ないくらい見てきたのはほかならぬ哲のはずだ。


「あんなにも他人のあからさまを見たのに」

 それでも、わからないのだろうか?

 それとも、場所の提供だけして、見ていなかったのか?


 ねえ、哲。エリィのささやきに、眠れる王子は目を覚ました。


 長いまつげをぱたぱたと揺らして、哲はいつもの微笑を口元に湛える。


「エリィさん、ずっと、そこに居たんですか?」

「ううん。今、来たところよぉ」


 時刻は十六時二十三分。

 薄暗い部屋の中で目を合わせる二人の耳に、インターホンの音が届いた。

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