人でなし
エリィは去りゆくゆきえに真横から抱き付いている。
ゆきえはそれに気が付くそぶりも見せずに歩いていく。
エリィは長いストローをゆきえの首に刺して、頬をすぼめている。
奇妙な光景に、哲は声を出せない。
やがてゆきえの姿が見えなくなり、エリィだけが喜色満面で戻ってくる。
「はぁ、美味しかった」
一言そう漏らし、うっとりとした顔でため息をひとつつくと、哲の腕にしなだれかかってきた。
「さあ行きましょ。今日こそアレを終わりにしてもらわないと」
絡み付いてきたエリィの手はぞっとするほど冷たい。血が通っているのか疑わしいほど、物理的にも冷たかったし、おそらくは今目の前で起きた怪現象のせいもあるだろう。
腕をふりほどき、哲はエリィを見つめる。
目と目の高さは大体同じ。乱れた長い黒髪がだらだらとかかっていて、瞳まではよく見えなかったが、哲はエリィに向けてこう問いかけた。
「今、なにをしたんですか?」
「なにをしたって?」
「瑞島さんにです」
「ああ、さっきの欲求不満の人妻のこと?」
あからさまな物言いに、哲は困惑してしまう。瑞島ゆきえについて知っているのは、年齢と、既婚者だということくらいで、そのパーソナリティについてはまったく興味がない。
エリィはへらへらと笑うと、首を左右に何度もがっくんがっくんと振りながら答えた。
「食後のデザートってところかなぁ、時間帯からいうと。あたしはここのところマトモに食事してないから、量が少なくても、久々の御馳走って気分だったけどぉ」
もともと、関わり合うつもりなどなかった。
突然現れ、家にまで侵入してきた不審者について、哲はとにかくスルーしようと心に決めていた。入ってくるなら外へ出し、なんとか追い返せればと思っていた。それが一番良い応対だと考えていたのに、崩れていく。
超常的ななにかが「いない」とは言わないが、「いる」なんて、これっぽっちも思っていなかったのに。
どうしたらいいのかすっかりわからなくなって哲が踵を返すと、エリィは慌ててその後についてきた。
「やん、鬼釜さん待って。今日こそアレを消してもらわなきゃ、あたしたち消えちゃうんだからぁ」
一直線に自宅へと戻る哲に、エリィは結局ついてきた。向けられた視線も困惑もすべてないような態度で、当然と言わんばかりに哲の部屋に入って座り込んでいる。
「あのSNSを消してくれ、って話ですよね」
「そうよぉ、言ったでしょ? アレのせいであたしたちは困ってるの」
「憎しみを食べているから?」
「そうなの。ニックシーが出来て以来、大勢の負の感情があそこに捧げられているから。あなたが独占しているから、あたしたちはおなかがすいて仕方ないのぉ」
十九時半。夕食の時間だ。週末に作っておいた作り置きのおかずと、タイマーをしかけていた白米。それに、カップの味噌汁をつけると決めていた。
「先に夕食を済ませていいですか?」
「いいわよぉ」
エリィが部屋の隅にうずくまったので、哲は少しだけほっとして台所へと向かった。
準備を手早く済ませ、小さなテーブルの上に並べる。食器はすべて白。一口一口よく噛んで、お茶はいつでも熱いものを。テレビなどはつけないが、音楽は流す。
他人が家の中にいるというイレギュラーのせいで、一層「いつも通り」にせずにはいられない。クラシックのCDを小さな音量で流しながら、三十分かけて、締めのヨーグルトまでを平らげた。
二十時八分。いつもよりも八分遅れて夕食を終えて、哲は悩んだ。この後のスケジュールについて。夜のウォーキングとシャワー。日課をこなしていきたいが、それよりも、早く一人に戻りたい。
「エリィさん」
「なあに?」
黒い前髪の向こうからする声は嬉しそうで、ねっとりと汗ばんでいるような響きだった。
その不快さに耐えながら、哲は低い声でこう告げる。
「あのSNSをなくすのは構いません」
この一言で飛び上がり、エリィは哲にしがみついてきた。
「ありがとぉ、鬼釜さん! 嬉しい、あなたって素直なのね。どうして一昨日消してくれなかったのかわからないけど、でも助かるわ。みんなもよろこぶもの」
「消す前に、もう少し聞いてもいいですか?」
エリィは少し困った様子で頭を左側に傾けている。
そしてぶつぶつと髪の中で何かを呟くと、こう答えた。
「答えられることなら、いいわ」
許可をもらって哲は再び、エリィの本質について問いかける。
「あなたの正体は、なんですか?」
見せつけられたあれやこれ。家の中に入り込んでいたこと、ゆきえの背に乗ってなにかを吸っていたこと。憎しみを食べて生きる生物とはなんなのか。
哲からのストレートな質問に対し、エリィは考え込み、何度も曖昧な表現を繰り返した。
憎しみを食べているとか、人にはあんまり見えないだとか。
不安は既に確信に変わっている。
エリィから放たれている不可思議な空気に毒されて、心が紫色に染まっていくようなこの感覚。明らかに違う。いや、普通なんて表現はそもそも使えない範疇のもの――。
「あなたは人間ではないのでしょう?」
抑えきれずに哲が言うと、エリィは明らかに狼狽えたようだった。
「え、うー、ううん、ええと、人間だった、わよ。人間だわよ」
「だった?」
「うう」
長い髪をかき分けたり、床を人差し指で突きまわしたりとエリィの動きは忙しない。
散々頭を振り、部屋の中をうろつき、ドアにぶつかり、哲の背中をなぞったりした挙げ句、十分後。
「そう、なのよぉ。あたしたちは、人間じゃあないの。前は人間だったけどぉ、そのう」
ようやく為された告白に、哲は息をのむ。
一方エリィは突然頭を押さえ、うるさいうるさいと呟いている。
「では今は、なんなのですか」
「うう」
右、左、下。エリィは何度も虚空に向かって手を払うようなしぐさをしてから、哲の質問に答えた。
「あのねぇ、正式な名前はないの。でも、『人でなし』って言われてる」
「人でなし」
「そうなの。あなたたちの感覚からいうと、多分だけど、『妖怪』って言葉が一番近いと思うんだって。あたしたちはいっぱいいっぱい、恨みを持ったまま死んだの。恨みをたくさん抱えて死んだ人間は、人でなしになっちゃうのよぉ」
それで憎しみを食べるのですか?
哲が問いかけると、エリィは口を尖らせたままこくんと頷いた。
「憎しみだけじゃなくて、怒りとか、妬みとか、そういうのも食べるけどぉ。その辺で喧嘩してるカップルがいたら食事どきなの。チュウっと吸うのよ」
どこから出したのか、エリィの手には白くて長いストローが収まっている。
「じゃあ、さっきも?」
「そうよ。だってあの女ったら、うふ、ぐふ、ぐふふふ!」
いやらしい声でエリィは笑う。その様子を、哲はじっと見つめていた。
視線に気づいたエリィはぱっと頬を染めて、腰をくねらせ始める。
「鬼釜さん……、ううん、哲って呼ぶわ。秘密を知られちゃったんだもの。顔も見られているし。ねえ、哲。うふふ、本当に綺麗な人ね、あなたって」
一気に距離を詰めて哲に寄り沿い、エリィはすべてを話した。
世間には、人ではないモノがたくさん入り込んで暮らしているだとか。
ニックシーが出来てから怒りも憎しみも、多くがWEB上に捧げられるようになったとか。
「その辺りの仕組みがよくわかりません。なぜ、サイトに書き込んだものは食べられなくなるのですか?」
「質が変わっているのよ。ムカついている相手にではなくて、書きこむための怒りなの、それは」
「捧げられるというのは、そういう意味なんですか」
「そうなの。って、実は難しくて、あたしもよくわかってないんだけどねぇ」
世にも不気味な「人でなし」と哲は長い間話し続けた。
怒りを吸った時の気分だとか、憎しみの甘味についてだとか。
人でなしは何十年、何百年も生き続けて人の負の感情を吸い、糧がなくなれば消えてしまう。
そんな話を延々とし続けて、時刻はとうとう〇時二十一分。
「エリィさんは人の怒りだとか、憎しみを吸い続けてきた人なんだ」
「人じゃあないけどね、ふふ、そうよぉ。怖くないの、哲は。大抵の人間はあたしたちを毛嫌いする。見た目が良い者だっているけど、この体から滲み出る匂いは消せないから」
前髪をだらりと落として顔を隠し、エリィは口元だけをニヤリと歪める。
確かに、不快だった。哲にとってもエリィの姿は気分の良くなるものではなかった。
だが、彼女こそがまさに「求めていた人」だった。
「わかりました。エリィさん、ニックシーは閉鎖しましょう」
「哲、ありがとう。でもやだどうしよう、哲に会う口実がなくなっちゃうわね。それは寂しいわぁ」
伸びてきた冷たい手を取り、哲は囁く。
「かわりに、教えてほしいことがあります」
「あたしに? 血液型はOだけど、スリーサイズとかなら期待しない方がいいわ。ガリガリだから」
「違います」
他人の恨み、つらみを食べて生きる「人でなし」ならばきっと知っているはずだ。哲が長い間探し求めていたその答えを。
「人はなぜ、他人を妬み、憎むのでしょう? 僕はそれを知りたい。あなたが知っているすべてを、僕に教えてくれませんか」