表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/14

デイアンドナイト

 二日後、鬼釜哲がいつも通りデイアンドナイト月浜中央店で一番レジに入っていると、夏だというのに全身黒づくめの余りにも怪しい風体の客が駆け込んできた。

 台の上に置かれたものは、ベルトが一つ。商品の説明ポップには「爆安価格 一本百八円(税込)」と書かれているが、これはセット料金であり、衣料品のコーナーでなにか他に買い物をした場合にのみ適用される。知らずに単品で買おうとすると、値段は一気に八百六十四円まで跳ね上がるという仕組みだ。


「こちらはセットで購入した場合のみ割引される品でして、単品ですとお値段が」

「いいの、いいのよもう、この嘘つきクソ野郎! こんなにお上品な顔をしているくせに、とんだゲスだった! おかげでもうあたしはこの二日間キュンキュンしっぱなしよ、どうしてくれるの!」


 親切心に溢れた説明を遮ったのは、重苦しい低い声だった。

 あの日とは違うファッション、長いつばのついた帽子、サングラス、マスク、トレンチコート。マスク以外はすべて黒で身を包んでいるが、背の高さ、話し方からして間違いなく「エリィ」だ。


「鬼釜哲! どうして? まだバリバリ稼働中じゃないの」


 デイアンドナイトのロゴ入りエプロンの奥に着ている白いシャツの胸ぐらを掴んで、エリィはぐいぐいと引っ張った。

「やめてください」

「あん、ダメ。あたしその声に弱い」

 哲が右手を添えると、エリィはあっさりとシャツから手を離した。

「今仕事中なので、お話があるなら後でうかがいますよ」

「また騙そうっての?」

「エリィさんは僕の自宅を知っているでしょう? 騙したところで押しかけられたら意味がない」

「それもそうねぇ」


 自宅に急に現れた日、エリィの受け答えはふわふわとしていて、隙だらけだった。

 哲は言葉を選びながら、招かれざる客を軽くあしらっていく。


「十九時に仕事は終わりますので」

「うふん、わかった。十九時ね」


 おそらく買うつもりはなかったであろうベルトをレジ横に回収し、哲は次の客を迎えた。

 十一時を過ぎ客は少しずつ増え始め、二台のレジが稼働しているものの、会計を待つ三人の客はみな一番レジ、哲の前に並んでいる。


 二番レジを担当するのはパート店員の瑞島(みずしま)ゆきえで、年齢は二十九歳。結婚して三年目、子供はまだいなくて、顔立ちは地味、ただし巨乳の人妻だった。

 並んでいる客は全員中年の女性で、どうしても哲に会計をしてもらいたい。なので、二番レジを避けてわざわざ並んでいる。女性客の多い時間帯はどうしてもこんな哲様現象が起きてしまい、お暇な二番レジについて店長からチクチク文句を言われるのが最近のゆきえの悩みだった。


(今日もお客さんはみんな鬼釜さんのレジに並んでる)

 ゆきえは努力している。服装は清潔感があるものを選んでいるし、派手にならないような髪型とメイクにしている。店のエプロンの下につけているのは紺色のポロシャツに、ジーンズ、下着は目立たないベージュ、レースなどの飾りが一切ないものにしている。前髪は短めにカットして、伸ばしている髪は一つにまとめて黒いゴムで結んで。

(仕方ないなあ、鬼釜さんは素敵だもの)

 出かけたため息をごくりと飲み込みながら、ゆきえは哲の後姿をじっと見つめていた。


 三歳年下の独身の美青年。冷静で、優秀な男。会計の処理は早いし、ぺらぺらと話しかけてくるおばちゃんのあしらいもうまい。哲はあまりしゃべらないのに、その無口さこそが彼の美貌によく似合っていて、大した反応をしなくても反感を買わないらしい。おばちゃんたちは勝手にキャアキャア騒いでは、ありがとうございました、だけで済ませる哲にうっとりしながら帰っていく。

(クールで、カッコいいから)

 ゆきえは哲とまったく逆で、鈍くさい、トロい、あか抜けないと苦情を申し立てられる日々だ。哲のレジに出来た行列に向け、二番目にお並びのお客様こちらへどうぞ、と声をかけると客は舌打ちをしながらやって来る。哲ちゃんのレジがいいのに、とブツブツ呪いの言葉を唱えられた挙げ句、あんたそんなエロい格好して色目使ってんじゃないわよ、なんて濡れ衣を着せられてしまう。

(エロい格好なんてしてない)

 夫からは不評な、セクシーのカケラもない無地のシャツしか着ていないのに、こんな言いがかりをよくつけられた。

(色目だって使ってない)


 でも、今は見つめている。


 いつ「お並びのお客様」と声をかけようか悩んでいる。

 悩んでいる体を装って、哲のまっすぐに伸びた背中を見つめている。


(彼女とか、いないのかな)


 シャツから覗いた首の白さに、ときめきを感じている。


(そんな気配、全然ないよね)


 その上に浮かんでいる、柔らかい髪を想像の中で撫でている。


(いつも綺麗にカットしてあって、えらいな)


 夫とは大違い。ゆきえの夫と、哲は、大違い。

 優しい人だし、自分を愛してくれているから結婚したけれど。

 確かに優しい人だけれど、のんびりしすぎているというか。

 いつまで経ってもこどもが出来ないことも、真剣に考えてくれないし。

 夫の母親からネチネチと責められても、悪気はないんだよ、で済ませてしまうし。

 夫の妹は子だくさんで、実家に行くたびに肩身が狭い思いをしているのに。

 言わなけばなにもかもがそのまんま。脱いだ靴下、シャツ、ズボン、ゴムの緩んだトランクス。

 新婚の頃の情熱はどこへやら。旅行の回数は減り、記念日はすっかり忘れ、お腹まわりにたっぷりお肉を乗せて、家にいればじゃれついて甘えてきて、眠ったかと思えば大きな音でいびきをかいて。


(鬼釜さんは絶対に、そんなことをしない)


 スマートな背中を見つめているうちに、店長にまた叱られるかもという不安が湧き上がってきて、ゆきえの足元を揺らす。

 でも、声をかければ客から舌打ちされてしまう。

 二番レジが開いているとわかっていて並んでいるのだから、彼女らに声をかけたくない、とゆきえは思う。


「いつまでだって見続けていられるものねぇ」


 YESとNO、二つの答えが同時に心の中で響いた。

 甘美と、背徳。いいえ、そんな大層なものではない。たまたま同僚になっただけの人を、頼もしいなと称えながら、少しの間見ているだけ。

 もしくは、気の利く女だとあのずうずうしい客(オバチャン)たちから思われたいだけだ。


 はっとして、ゆきえは振り返った。

 今、耳元でした声は、自分のものではない。心の中にひそんだ悪魔の誘惑かと一瞬、錯覚しかけたけれど、そうではなかったから。


 しかし、ゆきえの周囲には誰もいなかった。

 低くけだるそうな女の声がしたように思ったのに。


「会計お願いしまーす」

「あ、はい!」


 やっと現れた「何番レジでも構わない」お客様に慌てて笑顔を向けて、ゆきえは商品のバーコードを読み取る作業に没頭していった。





 十九時を二十分ほど過ぎて哲が店の裏口のドアを開けると、そこにはなにかが居た。


「あら嬉しい! 気が付いてくれるなんて」


 雑居ビルの狭い通路の奥からぬうっと現れたのはエリィで、二日前哲の家を訪れた時と同じファッションに身を包んでいる。紺色の上には白い巨大なひらひらの襟が揺れている。

 エリィは何故か白いストローをくわえていて、それをぷらぷらと揺らしながら哲へと歩み寄ってきた。

「お疲れ様ぁ、お仕事大変ね。あんな汚泥みたいな渦の中で働くなんて、あたしお蔭で元気が出ちゃったぁん」

 哲は薄く微笑むだけで、返事をしない。

 エリィの言葉の意味がさっぱりわからない。何を言わんとしているのか、想像すらつかなかった。

「おなかいっぱいになったせいで忘れて帰るとこだったわ。良かったぁ、鬼釜さんが来て。さ、あのサイト、早くヘイカイしてちょうだい」

「もしかしてまた家に来るつもりですか?」

「当たり前でしょう? やめるって言ったのに、ちゃんと終わらせてくれてないから、鬼釜さんが!」

「やめるとは言っていませんけど」


 口元だけ微笑んで、その他は一切無感情の哲に、エリィはあんぐりと口を開けた。


「はあ? やめるって言ったでしょう?」

「言っていません」


 二日前の夜のやり取りを反芻していく。が、記憶が定かではなく、エリィは頭を抱えて長い髪をふり乱した。

「カラス、カラスぅ! 今の本当なの?」

 突如暴れ出した女の不気味さに、哲はわずかに眉をひそめている。

「え? 本当? まあなんて姑息な男なの、鬼釜哲はぁ!」

 今度は怒ったようで、再び、哲の胸ぐらを掴んでエリィは鼻息を荒くしている。

 かと思いきや、急に頬を赤く染めてくねくねと身をよじらせ、ビルの壁によりかかっていき。

「もう、嫌だ。綺麗な顔……。困っちゃう、ねえ、あたし困っちゃうわ」


 哲と、ビルの隅にある暗がり。その二つを交互に見つめ、エリィは全身を震わせている。


「あの、鬼釜さんどうしたんですか?」

 そこへ、着替えを終えたゆきえが現れた。

 ゆきえの勤務時間は十時から十九時。パートを始めた当初は、十時から十五時までだった。少しずつ仕事に慣れてきたから、楽しくなってきたからと延長(いいわけ)をして、今では週に三日、哲と同じシフトで働いている。

「声がしたように思ったんですけれど」


 裏口を出てすぐの狭いスペースに、哲は一人で立っている。

 美青年は視線を動かし、通路の奥の暗がりを見つめている。

 ゆきえも同じ方向を見たが、なにもない。


「誰かいたんですか? あ、もしかして、三方(みつかた)さん、とか?」


 同じような時間帯で働いているもう一人のアルバイトの名前をあげたが、哲は小さく首を振った。


「あれ、私の気のせい……ですかね。あはは、ごめんなさい。お疲れ様でした」


 ゆきえがぺこりと頭を下げると、哲はいつも通りの表情と声で「お疲れ様でした」と返してくれた。


(鬼釜さんと話しちゃった……)

 心の中の小さな小さなろうそくに火をつけて、ゆきえは通路を通り抜けていく。



 哲は動揺していた。

 ゆっくりと去っていくゆきえの背中にストローをさし、エリィがちゅうちゅうと「なにか」を吸っていたからだ。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ