長い髪のエリィ
ヘイト専門ソーシャルネットワーキングサービス、「Nix-y」。
鬼釜哲が個人で作ったこのSNSは、他人への恨みつらみを書き込むことを目的としたものだ。
とても褒められた存在ではないとわかっているので、哲は誰にもこの話をしていない。
○
「どうやって入ったんですか?」
部屋の奥に設置したベッドと壁の小さな隙間に、女はちんまりと体育座りで収まっていた。前髪は床につくほど長く、のぞき穴の向こうに居た時よりもより一層不気味な空気を撒き散らしている。
「だって、入れてくれないから」
「理由になっていませんけど」
扉は開けなかったのに、どうやって入ったのか。
哲は部屋の手前で立ち止まり、隣にあるダイニングへ目をやった。そこにはベランダへ続くガラス窓があるが、鍵は閉めているはずだった。
「いいのよぉ、どうやって入ったかなんて。それよりもアタシたちからお願いがあるの。あのニックシーっていうアレ、もう終わりにしてくれない?」
「アタシたち、とは?」
哲は腕を組み、鋭い瞳で女を見据えた。
不気味な女はゆらりと立ち上がり、手で長い前髪を払う。立ち上がると女は思いのほか背が高くて、一七三センチの哲とそう変わらないようだった。
「アタシたちは、アタシたちよ。とにかく、あなたのせいで困ってるの。おなかがペコペコで、このままじゃみんな消えちゃうんだから」
女は笑っていた。へらへらとした不気味な笑みを浮かべながら、左右に大きく揺れながら哲へと近づいていく。
太い眉毛は下がり気味で、目を覆い隠すほどの長いまつげが生えている。
美醜以前に、女の顔はとにかく、昏かった。
顔色は悪く、蒼白い。蒼白い中に眉毛とまつ毛の黒が際立って、泣いているような、笑っているような気味の悪い表情を浮かび上がらせている。
「鬼釜さんには他人の憎しみなんて必要ないでしょう?」
女はとうとう哲の目の前までやってきて、折れそうなほど細い手をゆらりとあげた。
冷たい。両手で哲の頬を挟んで、女はニヤニヤと口元を歪める。
が、すぐに伏せていた目を丸く開いて素っ頓狂な声をあげた。
「あら、やぁだぁ! 綺麗な顔してるのね、鬼釜さんたら……」
顔を挟んでいた手も慌てて引っ込め、女はもじもじと身をくねらせ始めている。
鬼釜哲。二十七歳、職業はフリーター。
ディスカウントショップ「デイアンドナイト」月浜中央店で週五日、朝九時から夜十九時まで働いている。仕事内容は、商品の陳列やレジ、苦情を言いに来た客の対応など。
身長は先程述べた通りで、運動はあまり得意ではなく興味もない。やせ形で、柔らかい髪を少し長めに伸ばしている。アーモンドのような形の目は、上下ともに長いまつげで縁どられている。眉毛はまっすぐで、細くも太くもなく、意思の強さを感じさせる男らしいライン。顔立ちは端正、知的かつ上品な印象であり、女がくねくねしてしまうのもやむを得なかった。
「出て行ってください。警察を呼びますよ」
「いいわよぉ、呼んでも。どうせ見えないから」
女は頬を紅潮させ、どこか遠くを見つめているような瞳でまだ体をねじらせている。
「見えないとは?」
「アタシたちってそうなの。ふふ、呼んだら鬼釜さんが困っちゃうわよぉ」
女の話し方はねっとりとしていてひどく不快だった。哲はほんの少しだけ目を細め、机の上に置いている携帯電話に手を伸ばした。
「あん、ダメ。おまわりさんに怒られちゃう、鬼釜さん」
女は手を伸ばし、哲を止める。その冷たさに驚きはしたものの、不法侵入者をこのまま部屋に留めておくわけにはいかない。
「なら出て行ってもらえますか?」
「そういうわけにはいかないの。アタシたち困ってるから、あのぅ、こんな素敵な人だって知らなかったから、ごめんなさぁい。もしよければ、家に入る前からやり直してもいいですかぁ?」
女の言葉の意味がいちいちわからず、哲はますます表情を曇らせる。
「あの、あなたに、こんなにも素敵なあなたになにかしようっていうんじゃないの。ニックシーだけ閉鎖してくれればいいんです」
誰にも話していなかった事実。いつの間にか部屋に入り込んでいた女。警察には「見えない」。
鬼釜哲は幽霊だとか、超常的な現象に興味はない。
だが、とても公平な人間だった。
興味がないし、見たこともないものだが、それらは本当に存在しないのか? 断言できるほどの知識も経験も推測もない。
「あなたはなんなのですか? 普通ではないように思います」
「あぁん! なんて、やっぱり、素晴らしいのね、顔が美しい人は、心までピュアなんだわ」
女は喜びの声をあげると、哲の体をぺたぺたと触った。
「やめてください。あと、もう少し詳しい説明をお願いします」
「わかったの」
哲の部屋の床にぺたりと座りこむ女を促し、哲はダイニングへと向かった。
小さなテーブルの上には何も置かれていなくて、椅子は二脚あるが、いつも片方、窓に近いものしか使っていない。座面についた小さな埃をティッシュでふき取り、哲は不気味な女を自分の向かいに座らせた。
長い長い髪の奇妙な女は、紺色の野暮ったいシルエットのワンピースを身に着けていた。
冬の空を思わせる重たい紺色の、首周りには大きな襟。ふちにはひらひらとした子供じみたレースがついていて、女の印象をますます気味の悪いものに仕立て上げている。
「あなたは誰なんですか?」
お茶も出さずに、哲はきり出す。
「あたしは、エリィよ。みんなの代表として、あなたにお願いをしにやって来たの」
「エリィさん」
「やん、そんな。エリィさんだなんて。素敵ね、声も」
エリィは身を小さくして、恥ずかしそうに床に向かって呟いている。
自分への賛辞の連続については一切気にせず、哲は鋭い瞳を女に向けた。
「あなた方、とは?」
「ええと、あたしたちは、そのう。憎しみが必要なのよ。そういう、団体なの。そう。団体よ」
「憎しみが必要な団体ですか」
「そうなの。あなたが作ったニックシーに、みんなが憎しみを捧げているから。だからあたしたちは食べ物がなくなっちゃって、消滅の危機なの。ええと、リーダーが、ヘイサイ、じゃなくて、ヘイカイしてもらって来いって」
「サイトを閉鎖しろということですね」
「そう、そうよ。鬼釜さん素敵ね! 素敵なだけじゃなくて頭もいいなんて、すごい」
この数分の間で、エリィはすっかり哲にメロメロになってしまったようだ。
青白い顔の頬の部分だけをほんのりと肌色に戻して、重たい庇のようなまつ毛をパタパタさせながら向かいに座る美青年に熱視線を送り続けている。
「わかりました。あなた方にはご迷惑なんですね」
「あ? あら、そう。なんて素直でものわかりのいい人なんでしょう。鬼釜さんってもしかしたら育ちがいいのかしら?」
そんなことはありません、と小さく呟くように答えて、哲は立ち上がった。
「一瞬ですべてのデータを消すことはできません」
「どのくらいかかるの?」
「データを消すだけで何時間かかかります」
「そのくらいなら、いいの」
微笑みを浮かべる哲に、エリィはうっとりとしながら立ち上がる。
そして促されるまま、玄関へ。
「では、さようならエリィさん」
鍵を開け、女は扉の外へと追い出されていく。
「さよなら、なのね。ふふ、この切なさもいいわぁ。苦しくって、今夜はきっと悶えちゃう。あなたのこと、思い出して」
重苦しい長い髪の縦じま模様に覆われた背中を押し、エリィを追い出すと、哲は扉に鍵をかけ、普段は使わないチェーンをかけた。
変質者に、室内へ入り込まれてしまった。
不快な体験だったが、無事に追い払えたし、害はない。
小さく息を吐くと、哲は再び自分の部屋へ戻り、管理画面を映し出しているモニターの前に座った。