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鬼退治

「ねえ鬼釜君、どうかしたの? 大丈夫?」


 悲しみの淵からギリギリのところで哲を救ったのは鋭斗で、レジ袋の塊を持ったまま従業員出入り口のそばまでひょこひょこと歩いてやってきた。

 本部の人かと思いきや、どうも友人の様子がおかしい。もしかしたら次の店長候補にでもなったのか、それなら今夜はお祝いだと浮かれていたのだが。


「大丈夫です、三方君ありがとう」

「どちらさまなの?」

「僕の母です」


 そうですかー、とぺこぺこ頭を下げながら鋭斗は戻っていく。

 その後ろ姿に「役立たず!」とエリィは叫んだが、もちろん声は聞こえない。


「お母さんやっぱりこのお店が好きじゃないわ。汚くて、哲さんに全然合ってない。さっきの方は? こちらの店員さんなの?」

「そうです。僕もいつもお世話になっているんです」

「お世話?」


 哲の母の表情は厳しい。そして冷たい。

 実家で見た時と同じで、優しさはかけらもない。


「あの方、このお店にはお似合いでしょうけれど、哲さんとはお付き合いして欲しくないわ」


 もっとふさわしい職場と、ふさわしい同僚がいるはずだと母は言う。

 お父さんに頼んでもっといい職場を探しましょうと、母は言う。


「もういいでしょう。こんなお店で一生懸命働いたって未来はないわ。ねえ哲さん」

「そんなことありません。僕は、ここが好きです」


 二人の会話はちっとも交わらないまま、時間ばかりが過ぎていく。

 鋭斗とゆきえが心配そうに様子を窺ってきて、哲は申し訳ない気分で二人に小さく頭を下げた。

 息子の態度は母のお気に召すものではなく、苛立ちはますます暗い熱を放っていく。


「哲さんはこんな場所にいる人じゃないの。頭が良くて、上品で、見た目だって本当に素敵だわ。息子だからってひいきで言っているんじゃないのよ。継には絶対言わないわ。哲さんが一番なの。あなたはあんな貧相な人達と一緒に働く器じゃないの」

 

 哲の体が強張って、再びマグマが動き始めている。

 けれど、どうしても噴火できない。吹きだそうかという瞬間に自動的に蓋がされて、抑え込まれてしまう。そんな不発を何度も繰り返し、哲の心は大きく震えていた。


 悲しくて、悲しくて、震えている。

 真っ青になって、今にも息絶えてしまいそうになっている。


「哲さん、お母さんがどれだけ一生懸命あなたを育てたか、わかっているでしょう? お勉強もつきっきりで教えたし、お付き合いする相手もそれなりの方だけにしてきた。琴や継はちっともいう事を聞かずに下品なお友達と一緒にいたから、あんなレベルで止まってしまっているの。哲さんだけなのよ。うちの自慢の息子は哲さんだけなの。お母さんが大事に思っているのは哲さん、あなたなのよ」


 母の言葉が重ねられるたび、哲の心にはヒビが入っているようだった。


「哲、逃げなさいよ。あのゲス、もう一回ここに来ればいいのに! 熟女もなかなかいいですねとかなんとか言って、このクソババアを怒らせたらいいのに!」


 叫んだ瞬間、哲の心がエリィへと向いた。

 冷め切った表情の哲はこう言う。「クソババアではありません」と。


(哲、可哀想ね。ずっと縛られて生きてきたのね)


 幼い頃、いや、生まれた時にかけられた呪いは余りにも強力で、離れようと思っても離れきれず、切ろうと思っても決して切れない。手にも足にも、腰にも、首にも、母特製の鋼のワイヤーが絡み付いている。


(違います、これは、お母さんの愛情なんです)

 悲しげな顔で哲は言う。希望などない死んだ瞳で、ぼそぼそとした小さな声で彼は言う。

「違うわよ。こんなの愛じゃない。愛だと思っていたら、哲がこんなに悲しいはずがないでしょう?」


 ねえ、聞かせて。

 エリィは後ろから哲を強く抱きしめて、マグマの底へ語りかけていく。


「もう嫌なんでしょう? 母親の作った枠の中でしか生きられない人生なんて、嫌でしょう? 息苦しい家で暮らすのはまっぴらごめんでしょう? いつかはあのゲスみたいに酔っぱらって陽気に下ネタ言ったり、人妻と秘密のランデブーしたいでしょう!」


 哲は泣いて、なにも答えない。

 そんなことありません、とでもいつものように答えてほしいのに、小さなこどものように目に涙を溜めて、歯をくいしばるようにして泣いている。


「もう、駄目ねぇ、哲は。あなたって本当に駄目よ。全然怒りも、憎しみも抱けない人なんだもの」


 持っているのに、表には出せない。

 それはきっと、「お母さんの教育」の賜物なのだろう。

 決められた通りをこなし、上品に、理想の息子の通りに生きてきたから。

 もう魂ごと「お母さん」の色に染められてしまって、身動きが取れなくなってしまっている。


 あんまりにも悲しい愛の結末に、エリィは怒って鼻を鳴らした。


「あなたはあたしたちには不要な人間だわ。あたしたちは、悲しみは要らないの。もう十分味わったから必要ないのよね。欲しいのはそれ以外よ。怒りとか、憎しみとか、妬み、恨みなの。それがあたしたちの栄養になるものなの。あたしたちは人を恨んで、散々苦しんで死んだから、それがなきゃ体がもたないのよ。だからもう哲と居られない。あなたは悲しいとか、寂しいばっかりなんだもの」


 だから、お別れよ、とエリィは囁く。

 ようやく聞こえたのか、哲は驚いたように振り返り、エリィを見つめた。


 二人の目と目の高さは大体同じ。

 エリィは長いまつげをばさばさと瞬かせると、ニヤリと口の右側だけをあげて笑った。


「これからあなたをロクでなしにしてあげる。あたしは『人でなし』だから、ちゃんと養分を取れるように改造してやるわ。あなたの中にある節制も、ルールも、正しさもなにもかも奪ってやる。覚悟しなさい、哲」


 長い襟のついたワンピースのどこから取り出したのか、エリィは長い白いストローを取り出すと、哲の胸に突き刺して強く吸った。思いっきり、大きく、吸い込んで、たくさんの寂寥を哲から奪っていく。


「あなたの人生はイチからやり直しよ。哲の人生はこれから苦しくなって、それで、あたしたちは満たされる」


 ストローをぽんっと抜くと、エリィは哲の左の肩を強く押した。

 体はくるりと回って、再び哲は母親と向き合っている。


「哲さん、こんな仕事おやめなさい。今日でやめて、お家に帰ってきてちょうだい」


 母親の目は厳しい。

 けれど振り返った哲の瞳は、もっと強く力に満ちていた。


「家には帰りません。僕はあの家にいたくない。お母さんが僕だけしか見ないから、家族はみんなバラバラです」


 母は驚き、エリィは笑う。

(うわぉ、哲。やっぱり素敵だった。攻撃的な顔のあなたも!)


「僕を育ててくれて感謝はしています。でも、あまりにも不公平が過ぎました。僕は父さんともうまくやりたかったし、兄弟で仲良くしたかった。けれど、みんなは僕のことが好きじゃありません。琴さんも継さんも『兄さんばっかり』と言って僕を避けます。母さんの意向に沿わないと怒られるからと、父さんも何も言わなくなってしまいました。幼い頃から友人も選べず、自力で入っていたと思っていた会社も母さんが裏でお金を払っていたと聞きました」


 どこから知ったのか、そんな情報を流したのは哲の同期の男だった。

 言われたことしか出来ないでくのぼう、実力もないくせにとずっと罵られ続け、自信も居場所も失った。お前の顔を見たくないと言われ、いたたまれなくなって会社を辞めると、早く結婚して欲しいと願っていたはずの女性はあっさりと哲のもとを去って行った。


 弟と妹はいい気味だとニヤニヤ笑う。父はなにも言わない。なぜ勝手に辞めたのかと毎日母からは責められ、迷いながらも家を出た。


 けれど、母の用意したレールの上でしか生きたことがなくて、外れるのはどうしても恐ろしくて、それで、遠くへは行けなかった。


「僕はとても、苦しい。わかってください」


 最後の一押し、決して口にしてはいけないと思っていた言葉が、背中を押されて飛び出していく。

 


 お母さんといると、僕は死んでしまうんです。



 吐き出したすべての言葉は容赦なく母を打って、打って、打ちのめし、デイアンドナイト月浜駅前店から追い払った。

 

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