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似た者同士

 鬱陶しい前髪をだらんと伸ばした黒い女。

 そんなのが毎日部屋の隅に、職場では自分の真後ろに常にいる生活。

 意外となじむものだ、と哲は思っていた。

 初めて姿を見た時は驚いたし、通報するつもりだった。


(人間じゃないなんて)

 信じたことのなかった存在をすんなり受け入れ、耳元で囁かれ続けている。

 彼女は自分を褒め、慕い、力になろうとしてくれている。

(人間じゃないからこそ)

 信頼できるのだろう。そう思うと寂しい気分になってきて、哲は一番レジの中で足を少しだけ震わせた。


 エリィが現れてからそろそろ一ケ月。

 彼女が部屋の片隅にいる生活にすっかり慣れて、今ではすっかりルームメイトのような存在になっている。今日やって来た客の悪口だとか、店長の頭髪の後退具合だとか。相変わらず鋭斗はゲス、ゆきえはインモラルな人妻呼ばわりだ。そんな「日常的な会話」ばかりが二人の間には溢れていて、関係の始まりである「怒りと憎しみについて」はすっかり語り合うことがない。


 置かれたかごを手前に引き寄せ、バーコードを読み取って、レジ袋の中へしまっていく。

 単純作業は意識しなくても簡単に出来て、哲はいつも通りの薄い微笑みを浮かべて客のおばさまのハートをわしづかみにしている。


(諦められたのかな)

 自分が変われないということについてはもうわかっている。哲自身も残念だし、せっかくエリィがしてくれたアドバイスをカケラも受け入れられなくて申し訳ない気分だった。

(でも、もしかしたら)


 そのままの哲でいい、ともエリィは言う。

 今のままの素敵な哲も好きだと。

 そんな言葉を、言われたことがなかった。

 自分に向けられるのは否定ばかりで、だから、真面目に生きるしかないと思っていたのに。


(三方君も、ゆきえさんも、僕を否定しない)

 堅苦しいばかりの自分を認めてくれているのか、それとも、裏では不満に思っているのか。

(わからない。誰がなにをどう思っているかなんて)

 でも、エリィにはわかるようだった。彼女は人の中に渦巻く悪意や不満を読み取っては、哲にこっそりと教えてくれる。

(僕は妄想のネタなのかな)

 だから、鋭斗は楽しげに飲みに誘ってくれるのか。

 ゆきえがわざわざ夫に断りを入れて参加してくるのは? どうしてなのだろう。


 こんな風に悩んでいる時に限ってエリィはなにも言わない。


(僕とつきあっていいことなんてない)

 足元にぽっかり穴があいたような気分。時々襲ってくる虚ろな気持ちに囚われて、哲は目を伏せた。心の中に涙がみるみる溜まって、哲は暗がりのなかに沈んでいく。

(エリィさんみたいだ)


 彼女も暗がりの中へ消えていく。いつの間にか現れているし、いつの間にか消えている。どこへ行っているのか、家はあるのか、わからない。気紛れに沈んで、気紛れに浮かんでは現れる。彼女は、人を恨んで恨んで死んだのだという。


(だから僕は、エリィさんにいてほしい)

 とても健全な暮らしをしている。住まいは駅の近くで、家は少しばかり古いけれどなんの不便もない。近所との付き合いはなくても生きていける。毎日清潔な服を着て、贅沢ではないけれど食事も出来て、勤め先もある。給料だって出る。友達のような誰かも、出来た。時には愉快な気分になって、ちびちびと杯を傾けることだってできる。


 それなのに、心にはぽっかりと穴が開いている。大きな大きな穴で、応急修理ではとても間に合わない。ふと心を緩めた隙に暗闇に襲われてはめそめそと泣いて、水の底で一人、膝を抱いて、自分を襲う嵐が過ぎるのをただ待つしかない、あまりにも無力な「僕」。


(エリィさんにはわかると、期待しているんだ)

 エリィに話したことはない。でも、理解してほしい。自分の心を覗き込んで、知って欲しかった。口に出せば崩れてしまいそうな自分の弱点、心の傷、もろすぎる魂について。


 

 混雑する時間帯を過ぎて、哲は一人、休憩室でサンドイッチを食べていた。

 エリィはテーブルの向かいに座って、長い前髪にふうふうと息を吹きかけている。哲の思いを知っているのかどうか、とにかく触れてくる様子はない。


「今日も忙しかったわねぇ、哲。みんな面白いくらい二番レジには行かなくって」

 ようやく口を開いたかと思えば、最近お決まりのこんなセリフしか出て来ない。

「そうですね」

「ふふ、でもエロい中年オヤジはこぞって二番レジに行くけどね。やるわね、あの人妻。あたしもあれくらい胸が大きければ人生が違っていたかしら」


 こんな下世話なトークに返す言葉は用意できなくて、哲はいつも黙ってしまう。

 曖昧な微笑で困惑をアピールするルームメイトに、エリィはぐふぐふと笑うだけだ。


「エリィさん」

「ごめんね、哲。困らせちゃって。下ネタなんて困っちゃうわよねぇ」


 さして悪くも思っていなさそうなエリィに、哲は静かに首を振る。

「違うんです。エリィさんに話したいことがあって」


(話せばいいんだ。僕はエリィさんを信頼している)

 この世の誰よりもきっと。今まで生きてきて出会ったすべての人よりも、ずっと。

 

「鬼釜君、いる?」

 哲がお願い事をしようとした瞬間、扉は開いた。そこにいたのは店長の寺崎という男で、額の面積が広いのが目下の悩みの四十三歳だ。

「休憩中にごめんね、君にお客さん」

「お客ですか?」

「そう。えと、オニガマさんっていう女の人がね」

 店長は額をぽりぽり掻いて赤い線を三本つけると、よろしく、と残して去っていく。

 

「馬鹿ねぇあの店長ったら。すぐわかるでしょうが、哲の母親だってことくらい」

 食べかけのサンドイッチはパックの中へきれいに戻して、休憩室を出て、狭い廊下を行く途中。エリィは哲の背中にしがみついて耳元でそう囁いてきた。

「母親とは、限りませんよ」

 そう言いつつ、哲は尻のポケットに入れていたスマートフォンを取り出していた。一週間に一度しか電源を入れない、持っている意味があるのかわからない使われ方をしているスマートフォンは、メールが大量に届いていたんですけどと怒ったようにランプを瞬かせている。


 見れば一目瞭然だった。今、誰が来ているのか。

 留守番電話のオプションはつけていない。つければあっという間にいっぱいになって、声を聞かなければならなくなってしまう。


「どうしたのよ、哲。会いたくないなら帰ってもらえばいいじゃない」

「そうですね。会いたくないなら、帰ってもらえばいいんです」

 オウム返しをしながらも歩みを止めない哲に、エリィは訝しげな表情を浮かべた。

「哲、行かなくていいのよ。あのゲスにでも伝言を頼んだらどうかしら。会いたくないんでしょう?」

「わかりますか?」

「嫌な色の心になってるもの」

 

(やっぱり、エリィさんにはわかるんだ)


 歩みは止められない。呼ばれたら行くしかない。来いと言われたら逆らえない。


 これが、二十七年分の成果だ。哲は目を閉じ、唇を噛みながら、進む。

 



 短い廊下はすぐに終わって、従業員用の入口から出るとそこにはすぐ、哲の母親が立っていた。


「哲さん、何度も電話したんだけど」

「すみません。電源を切っていました」

「ずっと?」

「はい」


 店の隅で向かいあう親子の隣には、まだ開封されていない段ボールが山積みになっている。

 客からはちょうど見えないようになっていて、哲はそのことにまず安堵をしていた。


「どうしてなのかしら。先月言ったでしょう。お家に帰ってきてって。待っているのよ、お母さんもお父さんも、哲さんが帰ってくるのを待っているの」


 だが、店員たちの一部からは見えている。哲の代わりに一番レジに入っているアルバイトの武山君と、二番レジにいるゆきえ、そしてレジ袋の補充に現れた鋭斗は、哲と来客の姿に気が付いたようだった。


「僕は一人で暮らします。自分のことは自分でできます」

「それはわかっているの。哲さんはとても立派だもの。お洗濯も、お掃除も、お料理もできるんでしょう。お母さんはとても誇らしく思っているのよ。琴や継にも見習ってもらいたいわ。あの子たちこそ、一度世間を知るために家を出るべきでしょう」

「琴さんも継さんもやればできますよ」

「今はいいの、哲さんの話よ。電話にも出ない、家に行ってもいない、仕方なくここへ来たんです」


 哲の答えは「はい」だけで、エリィは苛々を募らせている。

 普段は摂取する対象である苛立ちを覚えたことに、危機を感じている。


 哲の母親は紺色のスーツを着ていて、壁の黄ばんだディスカウントショップにはまったく馴染んでいなかった。本部から査察でも入ったんじゃないかと思わせる光景に、鋭斗は複雑な視線を向けている。


「ねえ哲さん、どうして戻ってこないの? もしかして、会社を辞めた事をまだ気に病んでいるの?」

「いえ、違います」

「それ以外にないでしょう。あの時お母さんは随分哲さんを責めてしまったけれど、もう済んだことだから、いいのよ。もう言わないと決めたんです。哲さんが家を出た方がショックで、くだらないことで怒ってしまったって反省しているのよ。お母さんをもうこれ以上いじめないでほしいの」


 哲の心の底から滲みだす暗い色に気が付いて、エリィは思わず手を握りしめていた。

(いいわよ、哲。出しなさい。怒りなさい。そのまま、全部、ぶつけてしまいなさいよ)

 この瞬間、やっとハッキリとした。哲の中に溢れている哀しみの原因は母親。哲が実家に行った時に感じた不快感は、エリィの中で確信へと変わっていく。

(あるじゃないの、あなたの中には、こんなにも強い想いが)

 ぐらぐらと煮える海底火山の奥から、今にもマグマが吹きだしそうになっている。

 とうとう味わえる、純白の怒り。

 最近すっかり薄くなってきた自分に止めを刺す、史上最高に甘美な矢が飛び出そうとしていると思ったのに。


「すみません」


 火口には見えない透明な蓋がされてしまっている。

 マグマは封印されて、地下でぐつぐつと煮えるだけ。その上を冷たい水が覆って、火山はみるみると冷やされていく。


「じゃあ帰って来てくれるのね?」

「それは、……出来ません」

「どうして?」


 哲は口に出せない。彼の「綺麗な」魂が邪魔をして、思いを吐き出せないでいる。

「哲、いいのよ。言っていいの。思っていることを言っていいのよ。この後どうなろうと大丈夫よ。あなたはとても強い人なんだから」


 エリィは必死で背後から囁いたが、声は届いていないようだった。

 哲はかなしげに震えるだけ。


「どうしてまだ耐えるの? このままじゃ哲、あなたが駄目になっちゃうわよ」


 姿を実体化させて突然現れたら、母親は驚いて逃げていくだろうか?

 息子の背後に悪霊がついていると勘違いして、去って行ってくれないだろうか。


 決意を固めようとするエリィの脳裏に、「ボス」の声が響いてくる。駄目だよ、それは許されない行為だと。

「あたしは哲を助けたいのよ!」

 

 それでも駄目だと「ボス」は言う。彼の声には力があって、エリィの姿は見えないままに留められてしまう。

「哲!」

 母親の責める声にますます心は青く染まって、漂う冷気はエリィまで一緒に包みこもうとしていた。

 

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