Sweet & Die
「や、金曜はごめんね。たびたび、恥ずかしいところ見せちゃって」
でもまた飲みに行こうね、と鋭斗は話し、哲は頷いている。
会話が聞こえてきたらまたうらやましくなって、つい、ゆきえも二人のもとへ足を向けてしまった。
「鬼釜さん、三方さん、この間は楽しかったです」
私もまた誘ってくださいとゆきえが告げると、哲は微笑み、鋭斗は喜んで! と声をあげた。
「楽しそうねぇ、哲ったら」
月曜日の昼の休憩室には哲しかいない。いつもなら鋭斗かゆきえ、他のアルバイト店員と一緒になるが、今日は店長から頼まれた仕事があって、遅い時間にサンドイッチを齧っている。
「あんな妄想漬けのゲスに懐かれて楽しいの?」
「そうですね。そうだと思います。三方君は僕の知らないことをたくさん知っていますし」
「アニメとかアイドルとか、実在しないものばっかりね」
「アイドルは実在しているでしょう?」
堅苦しい哲の返事にエリィは笑ったが、次に飛び出してきた言葉は少し意外なものだった。
「三方君もいつか僕を嫌いになって、離れていきますか?」
「そんなことないんじゃない? 初めてのお友達が出来て、嬉しそうだわよ」
食べかけのハムチーズサンドをそっとテーブルの上に置くと、哲は手を組み、まるで祈るように頭を垂れて呻いた。
「でも人は、裏切るのでしょう?」
「それはそうね。でも、裏切らない人間もいるんじゃない?」
「本当でしょうか」
弱々しい声に、エリィは呆れた声で答えた。
「哲は誰かを裏切ったことあるの?」
哲の返事はこうだった。
「ありません」
それなら心配いらないでしょう、とエリィは哲の耳元で囁く。
「でも、僕にはなにもありません。ただ話を聞いているばかりで、三方君の好きななにもかもを知らないし、彼ほど情熱的に夢中になれる自信がないんです」
「あのゲスも友達がいないみたいだけど、哲にもいないのねえ」
立っているだけでその場が少し明るくなるような、そんな「正しい」存在感を放っているのだから、哲に惹かれる人間は多いはずだとエリィは思う。同じフロアで働く店員たちもそうだし、店長にも気に入られているし、客だって混んでいる一番レジにわざわざ並ぶ。
(あたしも目が離せないし)
それなのに、みんな離れていく、と哲は言う。
(哲が素敵過ぎて、畏れ多くなるのかしらね?)
きっちりしていて、いつでも柔らかく微笑んだような顔で、言葉遣いは丁寧、見た目は最上級。
友達になるよりも、ゆきえのように「遠くから見ていたい」存在だと思うのかもしれない。
「じゃあ、あのゲス男を大事にしたらいいじゃない?」
同じレベルにならなくても、ほどほどに理解してあげればいい。エリィがこう告げると、哲は安心したように顔をあげた。
「そうですね。もしかしたら、一生涯の友達になれるかもしれない人ですよね」
(あんなゲスでいいのかしら?)
エリィは笑ったが、同時に哲の心に小さな変化があるようにも感じていた。
決して壊れない素材で作られた、完全な立方体。色は白で、とにかくどうしようもなく四角い。
そんな風に感じられていた哲の心が、今はほんのり色づいて、生気を放つ角丸の立方体になっているようだとエリィは思っていた。
「ねえ哲、今は、一人じゃない時間も前より楽しいんじゃない?」
エリィの質問に、哲は少し考え、大きく頷いてみせた。
「そうですね。以前はもっと落ち着かなかったんですが」
「いい兆候だわよ、きっと。最初に言ってた、怒りとか憎しみを知りたいっていう目的は果たせるかわからないけど」
そもそも、知る必要があるのかどうか?
やはり哲の魅力は、穏やかさではないだろうか。
溌剌とした命は人の目を引くが、柔らかな静謐に癒される魂だってあるだろう。
彼の怒りを食べたいし、憎しみをすべて吸い取ってやりたい気持ちはある。
それはきっと至福の味わいだろうし、そのせいで自分が消えるならこれ以上の幸せはないように思う。
(でも今は、寂しさをなんとかしてあげたいような、気が、する)
どんなゲス野郎であろうと友情を育めばいいし、不倫であったとしても誰かと愛し合う喜びを知ればいい。その結果哲の人生が豊かになれば、きっと満足できる。何一つ吸える負の感情がなかったとしても、きっと――。
「哲は澄ましている顔が素敵だけど、笑っているところも、あたし、いいと思うわ」
ああ、しまったなあ、とエリィは悔いている。
よりによって人間を好きになってしまった。
このままでは「ボス」の言った通りになる。
ひとでなしがこの世から「消えてしまう」理由はいくつかあって、まず、他人の感情をまったく摂取しないでいると栄養失調になって消える。何百年も生き続けているうちに最後には無気力になって、他人の憎悪を吸う気がなくなってしまうらしい。静かにただ消えていく仲間を何人も見送ってきたと、「ボス」は言う。彼もまた、最近では隠れ家に籠もりっぱなしで、おそらくは消える時をまっているのだろうとエリィは思っていた。
他には、とてつもなく大きな憎悪を飲み込んだ時。許容量でも定められているのか、人でなしは破裂してしまう。なかなかできることではないが、体を破壊されれば人間と同じように死ぬ。
他にもいくつか終わりの原因になる事象はあるが、エリィの脳裏にこびりついて離れないのはかつて聞かされたこんなロマンチックな話だった。どんな流れでこんな話になったかは覚えていないが、彼は確かにこう言ったはずだった。
「人でなしは、人間に恋をしたら消える」
真実かどうかはわからない。
人でなしは間違いなく、いつかは消える。かつて人であった時と同じように、必ず終わりを迎えるようになっている。他の生き物と同じ、長いか短いか、満たされているか虚しいか、幸せか、どん底か。差はあっても、結末は一緒。土に、空気に還っていく。
(死んだ時、すごくイヤだった)
哲の帰宅を見届けてから、エリィは月浜の街をぶらぶらと歩いていた。
一度目の終わりについて思いを馳せながら。百年近く前のことだが、鮮明に覚えている記憶はいくつかある。一番嫌いなのは、自分の無力さに押しつぶされながら氷の中に落ちていった記憶だ。
(次の終わりは、もうちょっとマシになるかしら)
目当ての人物はすぐに見つかって、駅前通りにかかっている歩道橋の下の暗がりへエリィは潜り込んだ。
「ねえカラス、人に恋をすると消えるっていうのは本当なの?」
「人でなしの女は、美しい男に本当に弱いな」
カラスの口調はいつでも冷静だが、今日だけは少しばかりの侮蔑が混じっているようにエリィは感じた。
「うるさいわねこのヘビ野郎。どうなの? 本当なのかどうか、教えてもらうために来たのよ」
「俺は便利屋ではない」
ヘビ野郎、という単語にカラスは少し表情を歪めたものの、去りはしなかった。
けれど、エリィの問いには答えない。
その態度こそが答えなのだと、恋する人でなしは勝手に感じ取って、道の上にしゃがむとガードレールにもたれかかった。
「あんたは見たのね、人間の男に惚れて消えちゃった人でなしを」
「ついこの間のことだ」
カラスは遠くを見ている。それはいつも通りの彼の姿なので、切なさだとか、哀愁だとか、そういった感傷に浸っているとは思わない。
「あんたの大事な人だったの?」
エリィが問いかけると、カラスは視線をそのままに答えた。
「お前たちはわれわれとは違う成り立ちで出来ているのだと、はっきり知らされただけの話だ」
人間は「嫌い」。冷たい仕打ちや、惨たらしい扱いをされて命を落とした。だから、死してなおまだ街を彷徨い歩いている。人々が振りまく暗黒を吸いながら、どれだけ時代が移っても愚かなままだと嘲笑いながら生きている。
なのに、どうしようもなく惹かれる。
それはきっと、生きていた頃、もっと違う結末があったかもしれないなんて、甘い夢が心の奥底に潜んでいるからだ。
「弱いやつは皆そうだ。美しい、優しいという感情に蝕まれて消えていく」
恨みつらみを吸い続け、凶悪になる者もいるのに、とカラスは言う。
「弱くたっていいじゃない」
エリィが呟くと、カラスは珍しく笑みを浮かべてこう返した。
「お前たちはきっと、弱い方が良いだろう」
その言葉は否定ではなくて、希望に満ちていた。
なぜか照れくさい気分になったエリィが前髪で顔を隠したが、その隙にカラスは姿を消し、どこかへ去ってしまったようだった。