揺れる想い
「哲って全然酔わないのねぇ」
飲み会はつつがなく終わり、今日も鋭斗をタクシーに押し込んでから、無事に帰宅。
参加した全員がそれなりに楽しんだのは結構なことだが、本来の目的はまったく果たされていない。エリィは肩をすくめ、やれやれ気分で呟いている。
「この作戦は駄目なのかしらね」
「でもエリィさん、いつも通りではなくなっているし、それが少しだけ気にならなくなってきています」
「結局はその程度なのよねぇ。めちゃめちゃに崩れて乱れちゃえばいいのに」
「繰り返しているうちに、もっと崩せるようになるかもしれませんし」
本当にそう思う? とエリィは問いかける。
哲は自信のなさそうな表情で、もしかしたら、と答えている。
「あの人妻なんか、間違いなく落ちるわよ。哲が言えば即よ、即」
「なにがでしょうか」
「とぼけちゃって。さすがに気が付きなさいよね、哲。あの女、あなたにメロメロなんだから」
瑞島さんは既婚者ですよ、というお利口すぎる答えに、エリィはまた肩をすくめてみせた。
「今日、ニックシーだって人の役に立っていたんだって、ちょっと喜んでいたでしょう?」
「どうしてわかるんですか?」
「あのゲスにお礼なんて言っちゃって。あいつは勘違いしてますます哲のこと好きになったみたい」
でも、哲の役には立たない。
不満のはけ口がなくなっただけの話で、感動するなんてピントがズレているもいいところだった。
「哲は本当はとても柔軟な人なのに、どうしてなのかしらねえ?」
「柔軟だなんて初めて言われました」
本当にそう思うんですか? エリィに問いかける表情は真摯で、紳士で、男前だった。
「あん……、その顔すごく素敵。だから正直、あたしは気が進まないの。ずっと綺麗なままの哲がいいわ」
でも、今のままでは少し苦しそうだから。
エリィは足をふんばって、ふらつきかけた体をまっすぐに立て直すと、長い前髪を払って哲を見つめた。
「哲の心の真ん中は、本当はとても柔らかいわ。頭が固い人ならば、あたしたちのことを受け入れないもの。そういう人達は理解を越えたものはシャットダウンして、本当に見えなくなるの」
「見えなくなるのですか?」
「そうよ。許容できないものは見えなくなるの。お固い人はみんなそう。多分だけど、哲のお母さんは見えないタイプだわね」
母の名前が出された瞬間、明らかに哲の表情は曇った。
エリィは前髪の間から細く長くため息を吹きだす。
らしくないし、必要がない。どうして哲のことをこんなに気にかけているのか、わかっているが、でも、あまり積極的に認めたくはない。
「哲はどうして、アレを作ったの?」
「ニックシーのことですか」
エリィは無言で頷き、哲の反応を待つ。
飲み会のせいで帰宅は遅れ、哲の部屋はほんの少しだけ、完璧な状態ではなくなっている。
きれいに片づけてはいるのだが、初めて入った時とは空気が違っていた。
「僕は以前、とある会社で働いていました。その時の同期に色々と言われて、それで、疑問に思ったんです。みんな何に苛立って、どうして許せなくなって、消えてほしいとまで言うようになるのか、知りたかったんです」
哲の色が青く染まって、部屋の空気がしっとりと重くなっていく。
その哀しみ様がたまらく辛くて、エリィは足の裏に力を入れた。
「あたし、こういうの駄目よ。悲しいのは嫌なの」
「すみません、エリィさん」
素直に謝る哲は純粋で、とてもいとおしいとエリィは思った。
「あたしは哲に怒ってほしい。あなたの溜め込んでいる不満や憤りを爆発させてほしいわ」
「エリィさん」
哲は「ありがとう」と言う。
エリィの言葉を「思いやり」だと勘違いして、礼を言っている。
(そうじゃないのよ、哲)
人でなしが吸う負の感情には色があって、ろくでもない人間の感情は濁っていてマズい。吸ってもあまり満たされないし、ひどい時には胸やけを起こしてしまうこともある。
一番良いのは、若い思春期の怒り。混乱と不安、自尊心と希望。芳しいものがいくつも混じっていて、輝いている。甘くておいしいけれど、なかなか外ではお目にかかれない珍味だ。
もしも哲が怒ったら、心の底から誰かを憎んだら、きっとそれ以上の甘露になるはずだった。
初めてやって来た日に気が付いていた、未知の味。それを味わいたいから今、協力している。
それ以外にも、見た目が綺麗だからという理由もあるが、やはり二番目だ。
「どうせ哲に嫉妬したのよ。哲は綺麗だし、女はみんなメロメロ。ゲス男だって笑いかけられたらうれしいのよって、アイツは基本的に孤独だから、友達ができたって勘違いして喜んでるだけなんでしょうけど」
エリィの慰めは心に響かなかったようで、哲の表情は曇ったままだ。
するとやけに自分が無力に思えてきて、エリィは「人でなし」のくせにシュンと落ち込んだ。
「ごめんね、哲。あたし頭が悪いから、なんて言ったら哲が喜んでくれるか、わからない」
いや、喜ばせる必要なんてそもそもない。
ますますどうしたらいいのかわからなくなって、テーブルの下に落ちた影に溶け込むとエリィは哲の家から出て行った。
金曜の夜は深夜でも人通りが多く、バカ騒ぎをしている酔っ払いや、キャバ嬢に真剣に恋をする男たちが道に溢れている。
彼らの横を通り過ぎて隠れ家へ返り、エリィは「ボス」の待つ廃バーのカウンター席に座った。
「またあの男のところに行っていたのか?」
「そうなの。行っていたの。そうしたら、悲しくなったの」
「もうやめるんだな。これ以上関われば、どんな形にせよお前は消えちまうだろう」
「ボス」はすぐそこに立っているのに、姿は見えない。人の形をしていないのかな、とエリィは考えているが、実際どうなっているのかは不明だ。
「あなたが行かせたんじゃないのよぉ。あたしを、哲のところへ」
「お前が足並みを揃えないからだろう? 我々は皆で協力し合わなければならない。お前はいつもフラフラ町中を彷徨って、時には人に姿を見せている。苦情は全部私のところに来る」
「誰から苦情が来るっていうの?」
「他の連中からさ」
「そんな心配いらないでしょ?」
だって、あたしは力が弱いんだから。
エリィが言うと、「ボス」は同意したものの、彼女を赦しはしなかった。
「弱かろうが、強かろうが、大勢はルールを守っている。特別扱いはしたくないんだ。この街で生きるつもりなら、多少は譲るのが筋だろうさ」
ただ生きていくだけなら、一日に三回、その辺のサラリーマンか主婦から不満を吸い取れば充分だ。
けれど、「人でなし」はそれ以上を望むことができる。たくさん吸って、力を溜めて、成長することができるのだという。
人の心や物を操る力を得るらしい。この街には「強い人でなし」が何人かいて、ボスのもとに集っているという。
(そんなの必要ないもの)
誰からも姿が見えなくて、小競り合いを見つけては一口吸わせてもらう。
それだけで充分だとエリィは思っている。
(つるまなきゃいけないのは、無駄に強くなろうとしているからでしょう)
人に危害を加えてはならない。人ではない者たちはこんなルールを作って、守っている。守らない者はマークされ、一番強いこの街のリーダーに制裁をくわえられるんだとか。
(あたしは関係ない。もう縛られるのは嫌だし、一人がいいの)
灯りのない真っ暗なねぐらで丸くなり、長い髪に包まれている時が一番安心できる。
誰にも虐げられない暮らし。かつて人だった頃の記憶はもうおぼろげだが、ずっと悲しい思いをして暮らしていた。魂の底に刻まれた傷は完全には消えず、孤独なひとでなしの心を苛んでいる。
(あの頃、哲みたいなひとがいたら、少しはマシだったかしら)
ゲスにも優しく、いやらしい目で見てくるインモラルな人妻にも慈愛の目を向ける、清らかな哲。
でも、傷ついて苦しんでいる。
かつての自分のように。
違うのは、相手を憎んでいるか、そうではないかだ。
そんなのは些細な差だとエリィは思う。つまり、哲と自分は「同じ」だった。
(哲を助けてあげたいけど)
ビルの外からは酔っ払いの嬌声や車が走り去る音が聞こえてくる。
(どうしたらいいのかしら?)
いいアイディアは浮かばないけれど、哲の顔が見たくなってエリィは次の日の朝も早い時間にねぐらを出ていた。
土曜日の朝、五時。いつも通りの行動をするなら、哲は散歩に出てくるはずだった。
月浜駅から徒歩七分のマンション。オートロックのドアの向こうから出てきた顔に喜んで、エリィはゴミの集積場から飛び出していった。