真夜中の訪問者
鬼釜哲がインターホンに気が付かなかった理由は色々とあった。ヘッドホンをつけて音楽を聞いていたし、モニターに映し出された情報を追うのに夢中だったし、一日よく働いて疲労していたせいもあっただろう。
けれど、一番の理由は時刻だった。二十三時十七分。常識的に考えて、他人の家を訪問する時間ではない。たとえばいつでも気楽に、ふらりと予告なしに現れてもいい親しい人間がいるならアリかもしれないが、哲にはそんな友人はいなかった。
哲がヘッドホンを外したのは、聞いていた曲が終わって、喉の渇きを覚えたから。
そこにチャイム。
隣の家か、とスルーをしたところに、もう一回。
住んでいるマンションは中途半端に古い築十一年という代物で、モニターはついていない。
短い廊下の先にある玄関扉の小さな窓を覗くと、そこには長い髪をだらりと顔の前に垂らした不気味な女が立っていた。
見覚えはない。かつて付き合った女性のうちの一人かもしれないが、それにしても様子がおかしい。薄暗いマンションの廊下に立つ女は濃い影に覆われて顔がまったく見えず、ホラー映画にでも出てきそうな陰鬱な空気を噴出させていた。
誰なのか問うべき状況だが、哲はそれをしなかった。
出来れば関わりたくない。時間的にもビジュアル的にも、まともとは思えなかったからだ。
のぞき穴から離れ、息をひそめて扉の前に佇む哲に向けて、女は再びインターホンを押す。
オーソドックスなチャイムの音は哲の後ろ、ダイニングから聞こえてくる。
「鬼釜さぁん、鬼釜哲さぁん……」
それにプラスして、フルネームでの呼びかけがあった。もしかしたら長い時間、こんな風に扉の向こうから呼びかけていたのだろうか? 不快な予感が頭をよぎり、哲の表情は曇る。
「いるんでしょう? 出てきて下さぁい」
女の声は暗く、低い。そして更に、こう続く。
「鬼釜さぁん、ニックシーの管理人の、鬼釜さぁん……」
鬼釜哲はとても冷静な男で、滅多に感情を表に出すことがない。だがこの瞬間、哲の表情は凍った。
ヘイト専門SNS、「Nix-y」。
最近巷でちょっぴり話題になっている他人への恨みつらみを書き込む専門のSNS。それを作り管理をしていることについて、哲は誰にも話した覚えなどないのだ。
「どちらさまですか?」
扉は開けず、鋭い声で問いかける。
「あはぁ、良かった、やっと答えてくれたぁ!」
のぞき穴の向こうで、女の長い髪が揺れていた。
どこまで伸ばしているのか定かではないが、少なくとも胸よりも下まではあるだろう。髪が多い所為なのか、相変わらず顔は見えない。多分、百八十度回転しても同じビジュアルになるだろう。
「あなたに用があるんです。最近の日本の憎しみを独り占めにしてる鬼釜さんにぃ」
「どなたかと間違えていらっしゃるのではないですか? 仰っていることの意味がわかりません」
さて、どう出るだろう。哲は目を細め、不気味な女の様子を窺う。
「んもぅ、トボける気? あなたがあのよく出来たアレの創造者だって、わかってるんだからぁ」
女の声は低いが、口調はやたらと甘ったるかった。くねくねと体を揺らし、長い前髪の隙間から唇をむにゅっと尖らせてくる。
「なんのことかわかりませんし、こんな時間に知らない相手を訪ねるなんて非常識でしょう。そんな人の相手はできません。これ以上そこに居続ける気なら、警察を呼びます」
毅然とした口調で哲が告げると、女は尖らせた唇から「ぶう」と不満を漏らした。だが、そこまでだった。諦めたのか、右の方へと去っていく。右隣の部屋の向こうには、階段もエレベーターもある。もしかしたらまた別の日に改めて来るかもしれないが、昼間に来るなら少しは良識を持ち合わせているということだろうし、こんな深夜に突然来られるよりも随分マシだ。
短い廊下を再び歩く。
なにもない殺風景な通路の先には、哲が寝起きしている部屋がある。
ベッドと、机と、椅子と、パソコン、オーディオとCD。
ほぼそれだけしか置いていないはずの部屋にはなぜか、先程の不気味な女が待っていた。