-04-
――身体が重い。
ブーツを履いた脚が重い、ライフルを持った腕が重い、顔に付けたゴーグルの締め付けが、ひどく煩わしく思えた。
近くの樹木にもたれかかって、周囲に視線を巡らせる。おびえた考えの下では風にそよぐ草木さえもが敵に見える。怖じ気づいてる場合じゃないとわかっていても、どうしてもビクついてしまう。別段長い距離を走ったわけじゃないのに、息はあがり、汗が全身を濡らしていた。
「はっ、はぁ……ぐ、――誰か、残っている人は返答を下さい……!」
半ば自棄になりながら、口元のマイクに呼びかける。通信機から言葉は返ってこなかった。
「……くっ!」
やりきれない思いを吐き出すように、ヘッドセットを外してポケットにねじこむ。仲間がいないならこれは無用の長物だ。
これからどうする? 勝ちたければ進撃するしかない。僕にそれができるのか? 本当に?
「あぁもう、……落ち着け」
消極的になっていく思考を諫めるために、額に手を当てた。目を閉じてこれからどう動くべきかに考えを巡らせる。迷っている時間も選択肢も、僕には残されていなかった。取るべき方策は定まっていて、それは同時に取らざるを得ない行動でもある。
「くそっ……」
再度毒づいて、僕は重たい足を持ち上げる。
――そこで、微かな違和感を覚えた。
物音がしたというわけではない。ただ、空気が変わったような気がした。首筋の辺りに、ちりちりと焼け付くような視線を感じ、思わず足が止まる。
「誰、だよ……」
問いかけに答えはない。手に汗が滲むのがわかる。振り返って銃を構えるが、そこに自分が動かしているという実感はなく、まるで他人がプレイしているゲームを見ているような、ある種の孤絶感だけがあった。
激しい発汗と口腔の乾き。耳に痛いほどの静寂が満ちた空気の中で聞こえるのは、自身の動悸と荒い息づかいだけだった。
手が震える。身体に力が入らない。そんなこちらの気後れを見透かすかのように、左前方の茂みから暗緑色の影が飛び出してきた。突如として草陰から現れたその影は、流麗さすら覚えるほどなめらかな動作でこちらに迫ってくる。
時間が流れる感覚はひどく緩慢で。それでも、僕は指一本動かすことさえできないでいた。相手が振り上げてくる腕の先に見えるのは、冷たく鈍い灰色の閃き。その刃先が一ミリでも触れてしまえば、呆れるほど簡単に決着が付く。即ち、負けだ。
動いてくれ、指先を数センチだけでいい。この距離だ。撃ちさえすれば確実に当たる。
祈るような哀願とは裏腹に、僕の身体は凍り付いたかのように動かなかった。ナイフの刃先がゆっくりと、しかし着実に、僕の方へ、迫って、くる……
「か、は……ぁ」
悲鳴と呼ぶにはあまりにも小さく、吐息と呼ぶにはあまりにも乾いた声。自分から発せられたそれを聞いた途端、眼前の風景が一変した。
僕の目に見えているのは森林ではなく、ナイフでもなく、ただの天井だった。
急激な変化に混乱しながらも、視線を辺りにただよわせる。白い天井、勉強道具が雑多に積み重ねられた机、棚に入りきらない本が乱雑に積み上げられた床。あまりにも見慣れた景色。
「ゆ、め……?」
荒い息を抑えるようにして、ようやくそれだけを口にする。言葉にすることで、いままで見ていた場景は夢だったのだと実感することができた。
手の甲で額を拭う。普段よりずっと多い寝汗は、おそらく暑さのせいではないだろう。気持ちを落ち着かせるために目を閉じてから、僕は深く息をついた。
「……最悪だ」
朝の教室は喧噪に満ちていた。
入学して間もないといっても、一週間も経てば互いに余裕ができるものだ。教室内にいる人達は出身の中学校に関係なく、気の合う者同士で雑談を交わしていた。
「はよっすリッキー! 今日はいつもより遅いじゃねーの、どしたん? 今日が休みだと勘違いしちゃったん? 残念だけどあと一日あるんだなこれが!」
机に荷物を置いた瞬間、背中に陽気な声がかけられた。僕を妙なあだ名で呼んでくる輩といえば一人しか思い当たらない。振り返って、声の主を確認する。
「おはよ。そんなに遅れたつもりはないんだけど……」
「おう。ま、ホームルーム始まるよかずっと早いし、遅いっても十分くらいだ。ただ言ってみただけで、特に意味はねーよ」
人なつっこそうな笑みを浮かべた長髪の男子が視界に入った。だらけきった椅子の座り方とは裏腹に、制服はきっちりと着ている。
栖原僚一。彼とは腐れ縁とでも表現したらいいのか、幼いころから不思議と接点がなくならない人物だった。高校に上がってからもその関係は継続中で、彼と同じクラスになっていたときは驚きよりもむしろ「やっぱりか」という気持ちの方が大きかったくらいだ。無作為にクジで選んだ席順ですら前後の並びになるとは思わなかったけど。
「そういやリッキー、昨日はどうだったん? 入るかどうかはわからないけど、サバゲー部の見学だけはするーって言ってたよな?」
荷物を適当に机の中に入れていると、僚一が尋ねてきた。真乃と同じく、少し前まで僕と一緒のチームでサバゲーをしていた人物だ。
「僕のこともいいけど、僚一はどうしたの? 高校入ってからも続けるって言ってたよね」
昨日のことを素直に言おうかとも思ったんだけど、どこから説明したものか考えあぐねて、話を逸らす形になってしまった。答えを得られなかったことに不満そうな様子も見せず、僚一はすぐに反応を見せる。
「あ、オレ? 部には行くには行ったよ? 行ったんだけどさぁ……」
そこで彼は妙に間延びした声を上げた。らしくない言葉の濁し方が気になって、続きを促す。
「部の練習ってんで試合やったんだけど、なーんか違うんだよなぁ……いまいち熱くなれねーってーか。物足りない気がしてならんのよ、オレには」
「物足りない?」
「そ。なんつーか、ただ銃持ってフィールド駆け回って撃って撃たれて、っていうのがオレにとってのサバゲーじゃないんだよ。いや楽しいんだけどさ、どっかズレてるんだよなぁ」
彼は小首をかしげて小さく唸り、やがて悩ましげな話し方で続けた。自分の中でも答えが見つけ切れていないようなたどたどしさだけど、しかしそれ故に真剣味が感じられた。
「多分、オレが本当に楽しいって思えるゲームって、オレ一人だけのもんじゃないんだよな。上手く言えないけど。オレがいて、真乃っちがいて。何よりリッキーがいて。そんで初めて楽しいと思えるわけよ」
そこで僚一は一旦句を切り、目を伏せて、おそるおそるといった様子で訊いてくる。
「なぁリッキー。やっぱ、やめんのか?」
「それ、なんだけど……実はさ、もう一回やることになったんだ。サバゲー」
「そうか、やっぱ……って、え? マジで!?」
机が倒れかねない勢いで身を乗り出してきた僚一に事情を説明しようとした、その時だった。
「リクト、いるか!?」
出入り口の引き戸が開き、そこから顔を出した生徒が、雑駁とした会話が交わされている教室のざわめき吹き飛ばす勢いで、僕の名前を呼んだ。周囲の空気が、一瞬にして静まりかえる。
「は、はい?」
虚を突かれて、間抜けな声が出る。泡を食って教室の出入り口を見やると、そこには一人の女子生徒がいた。
日本の高校という場では異質な白い肌。シャギーが入っている微かに波打った金髪。猫のそれに似た形の碧い瞳。顔と名前を一致させるのが苦手な僕でも容易に思い出せる。
「玉屋、先輩?」
「……誰?」
僚一が後ろから尋ねてくるが、僕にその答えを返す余裕はなかった。
皆一様に息を飲んで彼女へと視線を注いでいる。無理もない、中性的な雰囲気を醸し出している彼女の容姿は、嫌でも人目を引く。女生徒用の制服を着用しているとなればなおさらだ。
当の玉屋先輩はといえば、周囲から向けられる好奇のまなざしをものともせず、僕の方へ歩み寄ってきていた。机の前に立って、僕の顔を正面から見据える。
「リクト、お前が必要だ」
直後、クラスにどよめきが走った。
……なんだろう、周りの人に重大な誤解を与えてる気がする。彼女も彼女で、どうしてこんな時に限って妙な日本語力を発揮するんだ。
「昼休みに昨日と同じ場所だ。あんまり時間はかからねぇと思うけど、終わる時間が決まってねぇから、昼メシが不安ならパンでも買って持ってこい。じゃあな」
僕の都合を聞くこともせず、一方的に用件だけを告げると、玉屋先輩はさっさと教室から出て行ってしまった。
「なぁおいリッキー誰あのセンパイ! なぁ!?」
「……なんなんだ、いったい」
再び別の理由で騒がしさを取り戻した空間に、僕の独り言が虚しく吸い込まれていった。
「今週の土曜日に、練習試合がある」
昼休み。
例の呼び出しに応じて部室へ来た僕を出迎えたのは、白崎先輩のそんな言葉だった。それを聞いた玉屋先輩が、待ってましたとばかりに手を打ち鳴らす。
「ヤー! ようやく来たか。ちゃんとした試合やんのも久しぶりだな」
「三年生の人達が引退して、ちょっと前までボク達三人だけだったからねぇ……。もともと二年生はいなかったし、人数的に無理だと思われてたんじゃない? 新二年生が部長やってるって相当だよ。真乃ちゃんと伊坂くんが入ってくれなきゃ、この部は無くなってたわけだし」
その隣に座る萩野先輩が、相も変わらず足をぶらぶらさせながら、机上のチョコ付きプレッツェルを口に運んだ。まだ二日目だからなんとも言えないけど、なにかにつけてお菓子ばっかり食べてるなぁ。背丈の低さからして、どうしても年上っていう実感がわかない。
「土曜日、ってことは……明日ですか!?」
「そうだ。ただ、試合とはいえ対内的なもの……つまり、校内の部との試合となるが、普段からあまり効果的な訓練ができていない私達にとっては、試合形式の練習ができる貴重な機会だ」
「……校内試合?」
「どうかしたか、伊坂?」
「どうもなにも……校内ってどういうことですか?」
「そのままの意味だが」
「まるで情報量が増えないんですが」
「三つサバゲー部があるんだよ、この学校」
なおもわからずにいた僕に簡潔な補足を入れてくれたのは、隣に座っている真乃だった。
「三つ?」
「そ、三つ。……っていうか、昨日玉屋先輩がちゃんと『第三サバゲー部』って言ってたはずなんだけどなぁ」
「そう、だったっけ?」
言われて昨日を思い返す。いろいろなことが起こりすぎて、正直よく覚えていなかった。
「でも、なんだってそんなにサバゲー部が多いんですか?」
僕の疑問に答えてくれたのは玉屋先輩だった。
「なんでも何年か前に、大きくなりすぎた部が二つに分かれたらしい。数ヶ月前までは二つしかなかったんだが、新しく三つ目のサバゲー部ができた。その後の試合に負けたせいで、あたしら『ドッグフェイス』が第三サバゲー部に降格ってわけさ」
「いまじゃ、起源も歴史も関係無しに、ほとんどの新入生が第一か第二サバゲー部に入っちゃうんだよねー。ボク達の部じゃ、あんまり練習できないから」
萩野先輩が横から付け足す。なるほど、そういうことだったのか。
「それはそれとしてだ、ひとまず試合の話に戻ろうぜ。なぁナギ?」
「そうしよう。新入部員二名の加入によって戦力が増強された私達に、学校側から……というよりも、理事長から要求があった。『部としての実力を見せて欲しい』とのことだ。対戦相手
は、第一サバイバルゲーム部『レギンレイヴ』」
「うわ、マジか。橋田んとこかよ……」
相手の名前を聞いて、玉屋先輩はあからさまに顔をしかめた。
「強いんですか?」
「やればわかる。にしても明日か、急だな……。決まったもんは仕方ねぇ、やることは一つだ」
玉屋先輩の瞳が、怪しく光る。白崎先輩が軽く首肯して、僕ら全体に視線を這わせた。
「放課後にトレーニングを行う。ホームルームが終わり次第、部室に集合するように。初参加の伊坂がいるから言っておくが、今日からの訓練は基本的に平日全てだ。……では、解散」
午後の時間が全て教室移動を伴う単元だったことも相まって、なにかと慌ただしく動いているうちに放課後となった。僚一は僕の戦線復帰を喜んでいて、部活の方を覗こうと思っていたらしいけど、用事があるとかで帰ってしまった。
「では、これから訓練を始める」
枯草色の迷彩服を身に着けた白崎先輩が、相も変わらず端然とした姿勢のまま、僕にそう告げた。それぞれ柄は違えど一様に迷彩服を着込んだ連中が集まっているという図は、場所によっては異様な光景にしか見えないが、いまに限って言えばそんな心配は無用だった。
校舎裏、競技場からほど近いところに整備されたグラウンドに、僕達はいた。他の運動部が使っている表のそれに比べると幾分か小さいけど、基礎練を行うには十分すぎる広さだ。
「昨日みたいに実戦形式の訓練はやらないんですか?」
「第一サバゲー部がいっつも競技場使ってるんだよね、あっちのが人数多いから仕方ないけど。そのせいで、ボク達はあんまりあそこで練習できないの」
同じくカーキ色の迷彩服を着込んだ萩野先輩が、横から不満げな顔で漏らした。この身長に合うサイズの競技用迷彩服があることに驚いたけど、それは言わないことにしよう。面倒なことになりそうだし。
近くの競技場からはトイガン独特の駆動音や喊声が響いてきていた。萩野先輩の言にならうなら、おそらく第一サバゲー部の人達が訓練をしているのだろう。
「競技場が使えないため、主な訓練は基礎体力作りだな。これから私達は山の麓をひたすら歩くことになる。距離は九から十キロメートルといったところか」
山には周遊コースがあるから、きっとそれのことを言っているのだろう。フィールド以外の場所で迷彩服を着たまま歩くのは少々マナーに欠ける部分もあるが、昔に比べれば認知度は高くなっているし、場所が場所だから他人に余計な圧力を与える心配も薄い。まあ許容範囲といったところか。
それにしても、彼女の言動にひとつだけ疑問な点があった。
「歩く? ……走る、じゃないんですか?」
「走れるってんなら、走ってもいいぜ?」
隣の玉屋先輩が、挑発的とも取れる表情で言う。いまは単なる基礎練だからか、ゴーグルやタクティカルベストといった類の装備は着けていなかった。
「体力についてはそれなりに自信はありますから、走るくらいならなんとか……」
「悪いことは言わねぇからやめとけ。……でも、自信があるなら少し重めにするか」
「……重め?」
気になる一言を後半に付け加えて、玉屋先輩はその場にしゃがみ込んだ。訝しげに思っている僕を尻目に、彼女は手近に置かれていた大容量のバッグを開いてなにやらいじりだす。かと思えば、立ち上がって取り出した物を僕に手渡してきた。
「ほれ、これ着ろ」
渡されたのは黒い防弾ベストだった。昨日の玉屋先輩が使っていたタクティカルベストよりもずっとゴツい。
「え? いや、僕はベストとか使わないんですよ。持つ物だってそう多くありませんし、サスペンダーとそれに着けるホルダーで十分……」
「手ぇ放すぞ」
「は? どういう――うぐぅあぁ!?」
彼女がベストにかけていた手を開いた瞬間、ずっしりとした重さが腕にのしかかってきた。
「着ろ。その状態で行軍するんだよ」
平然と言いながら自分も同じ物を着込み始める。見れば、白崎先輩や萩野先輩、真乃まで一様にベストを装着している。
「な、なに入ってんですか、これ……」
「もともと結構重いけど、鉛板入れて重くしてあるんだ。それは十五キログラム。いや、大変だったぜ? ここまで持ってくるの」
「これを、着ろと?」
「あぁ。……どうした? やり方わかんねぇのか?」
「わからないっていうより、わかりたくないっていうか……」
どれくらいの距離を歩くのかは不明だが、少なくともこんな装備を着けたまま歩行するなんていうのは未経験だ。着るときに鉛版をいくらか抜いておこうか。
「なにゴチャゴチャ言ってんだ? ……ん。ま、まあ、わかんねぇなら仕方ねぇか」
別に付け方がわからないわけじゃないんだけど、僕がそのことを言うよりも先に、玉屋先輩が手中のベストを半ばひったくるように取り去った。
「腕、上げろ」
「は?」
「着せてやるから腕上げろ」
「あぁ、別に自分でもでき――」
「いいから。さっさとしろよ」
そう言う彼女の表情には、なぜだか有無を言わせない迫力があった。まさかこっそり板を抜いておこうとしたのがバレたのか。馬鹿な。下手にごねても仕方がなさそうなので、僕は観念して腕を広げた。十五キロの重さが肩にのしかかってくる。
「うわッ! なに、これ、重ぉ……!」
「このくらいでなに呻いてやがる? そんなに重くはねぇはずなんだけどな……」
脇にあるバックルを調節してからはめ合わせて固定し、玉屋先輩は満足げにうなずいた。
「……よし。こんなもんか。こっちは準備オーケーだ、ナギ」
「うん、それでは訓練開始だ。私の後ろについて来い」
「ついて行ける気が、しないんですけど……!」
踵を返して動き始めた白崎先輩の背中を追いかけてぞろぞろと山道に入っていく部員達。僕はその最後尾を、重い足取りでついて行った。
数週間前まで多数の観光者が訪れていた山の周遊コースには、僕らの他に誰一人いなかった。人々の目を楽しませていた山桜の花は散っており葉だけになっていて、鼻孔を満たす土の香りと共に、暑さの到来を予見させている。春とは言い難く、夏とも断言するには肌寒い。なんともどっちつかずの季節だが、僕はこの過ごしやすい時季が嫌いじゃなかった。
「重、い……」
そんなさわやかさすら感じる空気の中、僕は汗だくになって列の一番後ろを歩き続けていた。
学校を発ってから三十分ほどが経過している。最初の内はまだなんとかなってたんだけど、一キロも歩いたあたりからベストの重さが少しずつ身体にこたえ始めて、いまとなっては前を歩く真乃の背中を追いかけるので精一杯だ。走るときの疲れ方とはちょっと違う、それよりも緩やかに、しかし着実に体力を奪われていく感覚。
「いーっちいーっち、いっちにー! いっちにーさんしー、ふぁいとー、おー!」
ここしばらく耳に響き続けているのは、やたらと元気で調子外れな行進歌。先頭を歩く萩野先輩のそれだ。白崎先輩は黙々とその後ろについて歩いていた。自然観察でもしているのか、時折景色を見てはほんのわずかに口端をあげている。まるで余裕そうだった。
「お前ら、疲れてねぇか? 別に根性試しじゃねぇから、あんまり無理はしてくれんなよ? 明日は試合だし、倒れられても困る」
玉屋先輩は時折、僕ら二人の方を振り返って声をかけていた。彼女はどうも新入部員の教育係として一役買っているらしい。質問に真乃が答える。
「わたしはまだ大丈夫ですけど、陸斗がちょっと」
「ん? ……おう、マンシンソーイだな、リクト?」
「疲労困憊、とも、言いますね……」
「そろそろ休憩入れた方がいいかもな。ナギ! 新入部員がお疲れだ、一旦そこらで休もうぜ」
「ん? そうか。……なら、そこの木陰にでも入るとしよう。萩野、一度休憩だ」
「いーっちいーっち、いっち――んむ? 休憩? わかったー」
萩野先輩はいち早く指定された木陰へと駆け寄っていき、木の根元あたりに腰を下ろす。
「ボクここ取った! えっへへー、糖分と水分はばっちりだよ!」
言うなり彼女は部内で一人だけ装備していたリュックサックを下ろし、それに手を突っ込むと、中からスポーツドリンクのペットボトルを数本取り出した。全員に渡したあとで、彼女はさらにグミの袋を出す。水分よりも先に糖分が挙げられたあたりにちょっと空恐ろしいものを感じたけど、言及はしないでおこう。
貰った飲み物は適度に冷えていた。外気に比べて少し冷たいくらいが胃腸にも体温調節にも丁度いい。ふたを開けて少量を口に含むと、甘みと塩気が混在した独特の味が舌に広がる。
全員が一息ついたのを見計らったように、白崎先輩が口を開いた。
「ただ休むだけというのも勿体ないしな。せっかくだ。私達の目標を教えておこう」
「目標、ですか」
「そうだ。当然と言えば当然だろうが、私達は全国大会での優勝を目指している」
サバイバルゲームには例のサバゲー関連の会社が合併してできた連盟、|イーストサークル(EC)が主催する公式大会がある。小さなものは様々な地方で時々行わているけど、一番の目玉はなんと言っても年に一度きりの全国大会だ。数年前に開催されてから、毎年初夏になると予選が始まり、そこから夏の盛りになるころ本戦へ、秋になろうかという時期に決勝戦が行われるのだ。本戦クラスになるとネット中継が行われる程度には、この大会は人気がある。
「予選に出場するのは学校枠がありますし、エントリーだけなら楽なんじゃないですか?」
全国大会への出場方法は、一般枠と学校枠の二つがある。もともとはチームとしての一般枠しかなかったのだが、方々の学校にサバゲー部が出現し始めた三年前に『学校枠』というものが新設されたのだ。サバイバルゲームの更なる活性化を狙って設けられたこの枠は、いくつかの条件を満たさなければならない一般枠に比べてかなり参加が楽になっているから、それを利用して出場すればいい。
「いや、そう簡単な話でもないんだ。ここ……日向原高校の場合は、ちょっとした問題が発生している。大会の参加条項に『一般枠とは別に、一校につき一チームの参加権を学校枠として付与する』という一文があるせいでな」
「……っていうことは」
「そう。学校に存在する部の数は三つ。……与えられる参加権が足りないんだ」
薄々ながらこの先の展開が読めてきた。視線で白崎先輩に続きを促す。
「毎年、新入生が入るこの時期になると、学校側が出場権の争奪戦を催す。そこでの勝者が、枠を手にすることになる」
「ま、妥当なところでしょうね」
一チームしか学校枠での出場が叶わないなら、必然的にそれを奪い合うことになる。そういうのは実力で決めるのが一番手っ取り早いし、なにより後腐れがない。
「そういえば、詳細な日程までは聞いてませんでしたねえ。この時期って言ってましたけど、今年の争奪戦はいつ頃になるんですか?」
真乃が質問を挟む。彼女はこのことについてすでに知っていたらしい。僕より先に入部していたから、当然といえば当然か。
「今日から九日後、来週の日曜日だな。そう近くもないが、遠い先の話とも言い難い時期だ。一応、頭に留めておいてもらいたい」
僕と真乃がうなずいて了解の意を示すと、玉屋先輩が立ち上がって拳を掌に打ちつけた。
「よっし、早めに戻ろうぜ。このままじゃ歩いてるだけで訓練が終わっちまう」
「そうだな。そろそろ動くとするか。ここで折り返すとなると予定よりも行程が短くなるが、初日の者もいることだし、軽めでもいいだろう」
呼応するように皆が立ち始める。もと来た道を歩き戻りながら、僕は先ほどまでの道のりを思い出して、早くもげんなりとしていた。
学校を出発してからおよそ一時間三十分後。夕刻。
「なに、これ……」
再びグラウンドに戻ってくるなり、僕は力なく地面に倒れこんだ。
あの後、僕達は再度の休憩を挟むことなく学校まで一息に歩いてきた。競歩に近いスピードで進んでいく先輩たちに追いすがっていたせいで息は上がりきり、呻き声をあげるのも一苦労だ。頬に当たる木陰の土はひんやりと冷たく、それだけが救いともいえる。
「体力に自信はある、だっけ?」
そんな僕を冷ややかに見下ろしながら、真乃がささやくように言葉を投げてくる。彼女の顔も軽く上気していたものの、僕に比べればずっと楽そうだった。
「なんでそっちは、そんな、平然としてられるわけ……? 歩いてる距離は……同じだよね?」
「え? 女子は八キロだけど、重り」
「うわ、なにそれ、不公平だぁ……」
「不満の言い方も元気ないなぁ……。ま、がんばれ男の子ーってことで」
軽やかに応援する真乃の表情からは、自分は関係ない、という余裕が感じられた。
「あの先輩達、……いつもこれだけの量こなしてるの?」
「試合以外は同じようなものかなぁ、なにしろ部が小さいせいで競技場を使える時間が少なめだからね。基礎体力作りはほとんど完璧だよ、ここの部。下手したら他のところの男子よりも長い時間やってるんじゃないかな? 効率的かは知らないけどさ」
「なんか、わかったような気がする……」
「なにが?」
「仮入部者が、みんな逃げた理由……」
「あぁ……」
得心がいった様子で真乃がうなる。サバゲーをやるために入部しているのに、ほとんど試合ができないんじゃ、別の部に入るか地域のサバゲーチームに入った方がよっぽどマシだ。
「わっ、伊坂くんなんで倒れてるのさ!」
と、ベストを外し終えたらしい萩野先輩がなにやら慌てた様子で、倒れている僕へと駆け寄ってきた。膝を突いて、僕の頬に手をぺちぺち当てながら顔を覗き込んでくる。
「大丈夫!? 死にそうな目してるよ、お姉さんが保健室まで連れてってあげようか? それとも、一緒にお水飲みにいく?」
「あぁ、いや、大丈夫です。いまは、少しでも動きたくないんで……」
水分を補給できるというのは魅力的だったけど、そこまで動ける気がしない。真乃が少しだけ心配そうな面持ちで横から僕へと視線を落とした。
「覇気がないなぁ。……今更だけど大丈夫? 面倒くさいとか、動きたくないーとかっていう感情が欲求に勝つって、実は結構危険なサインなんじゃない?」
「ちょっとだけ、ほっといて、欲しいんだけど……」
「うむぅ、ぐったりだなぁ伊坂くん。ベストはこれから段々重くしていくのに、こんなとこで音をあげてたら持たないよ? ……でも、初日に吐かなかっただけいいかな」
さらりと不穏な言葉を残して立ち上がる萩野先輩。軽く身を反らして吐息を漏らし、僕を見下ろす。他に比べて低いけど見下ろしてることに変わりはない。低いけど。
「ところで、どう? この部はさ? ……って言っても、その様子じゃ訊くまでもないかな」
「そうですね、やったことといえば歩いただけですし。そのくせ、すごく疲れました。見ての通り、……死にそうな状態ですよ」
「そ、そうだよね。誰だってこんなことばっかりやってる部に、進んで入ろうとはしないよね。ボクだって最初はすごくキツかったし……」
少しだけ調子を落として言う彼女の横顔は、なんだかとても寂しそうで。
気付けば僕は、なんの足しにもならないような言葉を発していた。
「でも、これはこれで、なかなか楽しかった……かな」
「……え?」
「キツいのは確かですけど、でも、それだけじゃないとは思いましたよ。楽しかったです」
思わず口にしてしまったという感じはあるけれど、別に嘘を言ったわけでもなかった。内容がどれだけ厳しくて辛いものであっても、誰かと集まって一緒に身体を動かすっていうのは悪くない。それは僕の偽らざる本心だ。
「楽しかった……?」
「はい。って言っても、キツさの方が何倍も上ですけどね」
「そっか。……えへへへ、よくわかってるね! 伊坂くんはなかなか見どころがある部員だよ、ボクが保証する!」
萩野先輩が普段の明るい表情を取り戻して、僕の背中を何回も軽く叩く。間に合わせの言葉だったかもしれないけど、結果としてはよかったと思う。いつだって笑顔はいいものだし、なにより僕は他人の悲しそうな顔を見るのが嫌いだ。
「どうも。あとは、この重りがもう少しなんとかなってくれれば、もっといいんですけどね」
「それは無理っ!」
満面の笑顔で言われた。
訂正しよう。笑顔は確かにいいものだけど、時に残酷さを伴う場合だってある。
「おーおー、こんなところでへばってやがったか」
声に反応して上体を起こすと、真乃の背中越しに玉屋先輩の姿が見えた。
「見たところかなりキてんな、テンダーフット? 大丈夫……じゃ、ねぇだろうな。やっぱ」
「えぇ。体力は、だいぶ回復した感じはしますけど……」
「そいつはよかった。……ひとまず、こっから先は各自の練習だ。アスカはいつも通り。マノはまだ決まってねぇから、自分でやってくれとさ」
「わかった!」
「了解でーす。……どうしよ、調整でもしようかな」
通達を聞いた二人がその場を離れる。それを見届けてから、僕に顔を向けた。
「で、だ。……リクト、お前はガンケース持ってついて来な。こっちだ」
彼女は親指で肩越しに方向を示しつつ、もう一方の手で銃を撃つような仕草をしてみせた。
トイガンを使用しないときは周りから見えないような形で持ち運ぶのがプレイヤーのマナーだ。これを怠ると大会での参加資格を失うこともある。徹底したマイナスイメージ払拭戦略の一環というわけだ。
「オーケー、んじゃ、行くか」
僕が指示通りスポーツバッグからガンケースを大小二つ出したのを確認すると、彼女は小さく首を振って、歩き始めた。