Wings
【fry from here】
玖衣菜は親がこの日のために新調してくれたドレスを身に纏い、コンサートホールの壇上にあるピアノの前で一礼した。
――どうしよう。
目の前の観客数を見て思わず動揺してしまった。ピアノを人前で弾くのはむしろ楽しいが、ピアノを弾く以外は基本的に恥ずかしがり屋で、舞台で弾くときはそこに立ってから弾くまでの間にだいぶ上がってしまう。それがお金を取って演奏するコンサート、しかもこれだけの人数であるとなると尚更だ。
依頼主からチケットの売れた数を聞いた時はちょっと多いな程度にしか思っていなかった観客数も、壇上から見るとあまりに多い。こんなにも大勢の人がたかが数人のピアニストの演奏を聞くためだけに来ているのだと思うと、一人一人の(もちろん自分も)奏でる音楽には特別な価値があるのだと再認識して怖くなった。
会場の1階は映画館の段々と高くなっていて、そのフロアの上にコの字の形をした2階が存在する。その観客席には、満員とまではいかないがほどほどに詰まった客と、有名な楽団の指揮者やピアニストさえも数人いる(高そうなスーツを着用していて、チェックボードを持っているのですぐにプロだと分かる)。これで緊張するなという方に無理がある。
玖衣菜は観客を眺める傍らでほんの一瞬だけ翼の姿を探してみた。スポットライトが壇上に集中しているせいで、観客席は暗くぼやっとしてしか見えなく、さらに数百人の観客がいるので、翼一人を見つけるのは無理だと思ったが、意外にも簡単に見つけることができた。
翼は真っ先に目がいく、1階の真ん中辺りの列の真ん中辺りの席(多分B席で、ランクで言ったら5段階の3段目だが、高校生にはかなりきつい料金がかかる)に座っていて、さらに赤色の服を着ていた。どちらかというと目立つというより浮いている。本人は気にしてない様子だ。
先日来ると聞いた時は冗談だと信じて疑わなかったのだが、本当に来てくれたのが嬉しかった。
玖衣菜と視線が合ったのに気付いた翼は励ますようにガッツポーズを取った。それを見て思わず笑いそうになってしまった。もしここが学校の教室だったら苦笑して、照れ隠しに俯いていたかもしれない。
気付いた時には、泡みたいに消えるようにさっきまでの緊張がなくなっていた。頑張れ、と心に翼の声が届いた気がした。
しかし、さすがに礼をしてからの間隔――2秒程度――に疑問を感じたのであろう、このコンサートのオーナーで、玖衣菜をオファーした人でもある初老くらいの依頼主は横断幕の後ろ――観客席からは見えない位置――でリラックスして、と合図した。それを横目で確認して首の動きだけで頷く。
そして、二人以外の人にとってみたら不思議な間の後に、ようやく玖衣菜はピアノの椅子に座わった。
――ありがとう、翼。
【several day before】
1、翼は1時間目の実験室での化学の授業を終えるとすぐに玖衣菜の元に駆け付けた。
「玖衣菜、今日どうしたんだ?」
授業を無視してでもかけたかったその一言をようやく翼は口にした。授業中に何度も目をやる翼に気付いた玖衣菜が、先生が黒板にチョークで文字を書いている間に、『後で』、とノートに大きく書いたページを見せたので、翼はその言葉に従うしかなかった。
玖衣菜はともと言葉が多い方ではなく、むしろ少ない方(無口というより恥ずかしがり屋)であるのに、さらに気分が優れないことが拍車をかけて全く喋らなかったが、ようやく口が開いたのは、他のクラスメイトが実験室から出ていってから20秒後のことだった。
「大きいコンサートホールでお客さん相手にピアノを弾いてくれって昨日頼まれたの。失敗したらどうしよう」
ぼそぼそと呟くように喋る玖衣菜独特の言葉は、体調が悪いせいか普段以上に聞こえづらくて、なんて言ったのか理解するのに3秒かかった。もう一度言って、と注文しても恥ずかしがってなかなか答えてくれない玖衣菜の言葉(いつもより分かりにくい)を一回で理解出来たのは奇跡に近い。
何人かのクラスメイトが実験室を出ていくついでに顔色が悪い玖衣菜に気がついたのか心配の声がかかったが、玖衣菜は挙動不審におどおどして翼に助け船を出して欲しそうに見上げるだけだった。彼らもいつものその玖衣菜の様子に戸惑うことなく適当に励まして狭い実験室の出入り口から雪崩ていくように出ていく。
「気楽にやればいいじゃん。玖衣菜ならできるって。大丈夫大丈夫」
翼は笑い飛ばして、頭をぽんぽんと触れる。服装には興味ない癖に髪には潔癖なくらい固執する玖衣菜は、付き合って間もない頃は触るとすごく嫌がっていたが最近は割りと嫌がらなくなってきた。
髪のことは気になってないようで触れ続けることに対して反応はしなかったが、言葉の方に思い入れがあるのか、嫌そうな顔をして視線を翼の太もも辺りに下げてぶうたれた。
「そんなことできないもん」
「じゃあ俺が励ましてやろうか?」
「どうやって?」
その言葉だけは反応が早くて、普通の女子高生っぽいテンションで興味ありげに訊いてきた。
普段なら視線を合わすと恥ずかしそうに逸らすのだが、この時だけは目を輝かせて見つめてきた。いつも目が長いこと合わないだけにこちらが恥ずかしくなる。
翼は明後日の方向に視線を向けて、「そうだなー」と腕を組み、前置きの言葉を述べてから少し考えて、
「演奏の時応援団で駆け付ける」
「……」一瞬で顔が曇った。期待していた部分が大きかったのか、ぷいっと視線を逸らした。
そのまま授業で使った教科書やノートを片付け出して一人で帰ろうとするので、慌てて翼は、「じょ、冗談だって」と謝った。さすがに応援団はだめか。いいと思ったのに。
「待ってて。な?」
怒って実験室を出ていってしまった玖衣菜に翼は急いで自分の机まで所持品を取りに戻ってから後を追いかけた。
その時翼が筆記用具(丶丶丶丶丶丶)を西側の壁際の見つかりにくい場所に隠したことをもちろん玖衣菜は知らない。
2、玖衣菜は追いかけてきた翼と共に実験室の先の廊下を曲がった辺りで、「あっ!」と声をあげる翼の声を聞いた。
「?」
びっくりして翼に視線を向けると、翼は持っている所持品から何かを探すように一個一個確認していた。教科書を裏返しても何もないと思うんだけど。
「やっべえ、筆記用具、理科室に忘れてきた」
玖衣菜はため息をついた。でも翼の過剰な慌てぶりが少しおかしかって内心で苦笑した。
「ここで待ってるから」
立ち止まって廊下の壁に玖衣菜は背中を預けた。その壁の温度が冷たくて昔、雪が降っていたときに映画館の外壁にもたれて1時間くらい翼を待っていたのを思い出した。1時間くらい待っていたのは翼が遅れたんじゃなくて、玖衣菜が単純に1時間早く来たからなのだけれど。
玖衣菜のその台詞は1時間待っていた時に勝手に怒った言葉よりも文句のつけようがないはずなのだが、翼は何か言いたげに「あー」と呟いた。
「俺、トイレ行きたいから、代わりに取ってきてくんない? すぐ追い付くから。これ持ってて」
そう言って翼は玖衣菜の返事も待たずに荷物だけ強引に預けて、トイレがある廊下の奥へと駆けていった。すぐにある曲がり角を曲がった翼の後ろ姿は玖衣菜に荷物を渡してから5秒程で見えなくなった。
「――はぁ……」
玖衣菜は一瞬の出来事に目を丸くして遅れながら呆れてしまった。忘れたのは翼なのに私に探すのを頼むなんて。
消えていった後ろ姿の残像を見つめて呆然と立ち尽くしていたが、手渡された荷物が翼の物であることを認識すると、なんだか代わりに探しに行くことが特に嫌だ、というわけではなくなった。
残像から目線を逸らす。に少しだけ重たくなった荷物を両手で落ちないように抱き締めて実験室へと引き返した。
――これが翼の教科書。
教科書をちょっとだけ眺めてみた。何故か怒りと嬉しさで中和されて特に何も思わなかった。
3、翼はトイレに行くと見せかけ、遠回りしてから実験室の隣の部屋へ向かった。友人から賭けバスケで奪い取った鍵をその部屋の鍵穴に差し込んだ。
4、玖衣菜は実験室に戻ってきた。
実験室に入った瞬間、誰かが薬品を溢したのか少し異臭がした。そのせいか換気扇がつけっぱなしになっている。そこまで思ってから気付いた。溢したのは私だった。翼が授業中に心配そうに目を向けてくれた理由がよく分かった気がした。
自室のベッドで転げ回りたい自己嫌悪感を振り払って、翼の座っていた席の前まで来ると、
「あれ?」
翼が座っていた机の下や机には筆記用具どころか何ひとつ置かれていない。嘘だと思って辺りを捜索してみるがやっぱり何一つない。
――困ったなあ。
机の下にあった明らかにゴミの入っていないゴミ箱の中を探してみたり、何も入っていない机の引き出しを詳しく調べたりしてしまうほど、綺麗に回りには何もない。
ある意味今度のピアノのコンサート並みに悩んで実験室中を闊歩したが無いものはない。正直他人よりは大分しっかりしていると思っている玖衣菜は、自慢ではないが今までに忘れ物というものをしたことがない。少しだけ忘れ物をした時の人の気持ちが分かった。
――ひょっとしたらあの時の翼ももしかしたらこんな気持ちだったのかもしれない。
5、翼は少し緊張しながらも必死に覚えた記憶を頼りに鍵盤を弾く。ひょっとしたらあの時の玖衣菜もこんな気持ちだったのかもしれない。
――1年の時、俺は理科室に教科書を忘れて取りに戻った。何故かその時に限って教科書はなかなか見つからず、おかしいな、と思いながら探していた。すると隣の音楽室から優しくて、でも凛々しいピアノの音色が聞こえてきた。
何故か音楽が聞こえてすぐに見つかった教科書を持って、演奏が聞こえた音楽室に向かうと、そこにいたのは音楽と同じように優しそうで凛々しい女の子だった。特別綺麗というわけではないが、俺にはまるで天使のように見えた。
聞き惚れていた翼に彼女は少し恥ずかしそうに一言、
――貴方に翼はありますか?
6、玖衣菜は隣の音楽室からよく聴く音楽が流れて来たことに気づいた。
その演奏は拙くて演奏技法も何一つままなってはいなくて、聞いたら下手だなあ、としか思えない。ペダルをかけるところもかけていなく、単に鍵盤を叩けば鳴る音でしか構成されていない。
でも少しだけその曲が懐かしくて、磁石のように視線が音楽室のある西側へと吸い付いた。
「あっ」
何故か何度も聞かされた翼の言葉と、今の玖衣菜の状況に既視感を覚えた。
『あの曲が聞こえてすぐに探し物が見つかったんだ』
あの曲が聞こえてすぐに探し物を見つけることができた。だから今この場所で弾かれているこのメロディーはあの人のもので間違いないと確信した。
筆記用具を手にとって、音楽室に走った。
『翼をください』。
それがこの曲の題名。
7、玖衣菜が音楽室の扉を開けると、全く弾けないと言い切ったあの翼がピアノを弾いていた。
演奏が終わった。
8、翼はピアノの盤を閉じ、微笑んだ。
「貴方に翼はありますか?」
9、玖衣菜は少し考えた。
それはまさしく玖衣菜が翼に始めて会話した言葉であって、その多くが空を飛ぶことができない鳥であるクイナと同じように、地に鎖で縛られた玖衣菜の訊き文句としての常套句だった。
「どうなんだろう。あるといいな」
自分でもびっくりするくらい普通の音量の声だった。
10、翼は少し笑った。
「2年であるといいな程度まで持ってこれたことに感謝してほしいな主に俺に」
そう呟くと同時にピアノの共鳴盤を閉めた翼は、「悪いね」とわざと筆記用具を西側の壁際に隠した旨を謝った。
11、玖衣菜にトイレに行くから忘れ物を取ってくるよう頼んだのに、トイレに行かず、さらに頼んだ忘れ物が隠してあったなんてことがあったらすごい怒るだろうが、この時だけは苦笑した。
「下手な嘘。でも、ありがと」
「自慢じゃないけど、頭は悪い」
「それは認めるかも」
「彼氏だろ。認めんな」
「自分から言ったくせに……」
「でも、馬鹿で才能なんて欠片もない俺だって1日やればこれくらいできるんだ。頭よくて才能もあるお前が数ヵ月もやってるならコンサートは成功間違いなしだ。気楽にいけばいいだろ。俺も見に行くから」
その時、窓に白い鳥が止まった。番いなのかもう一匹が寄り添うように横に並んだ。
玖衣菜はそれを眺めながら微笑んだ。
「ありがとう。そうかもしれないね」




