第25話 歩き方
森を抜けると急に視界が開けた。一面に沼地と草原が入り組みながら広がっている。沼には浮き草が広がり、水際には細長い葦のような草が生い茂る。どこからが陸地でどこからが沼地なのか少し分かりにくい。
「多分大丈夫だろうと思うけど、油断はしないでね。ここで小休憩してから一気に行くわよ。できるだけわたしの通った後をそのままついてきてね」
マリーさんは荷物をおろして装備を入れ替えはじめた。どうやら沼地に入るための準備を始めたようだ。その作業の片手間に、ここでの心構えを教えてくれた。それは歩き方からはじまりこの湿地帯に潜む生き物たちの話にまでおよんだ。
マリーさんの話によれば、知識なしにここを抜けるにはかなり困難だという。また、危険な生物も多いそうだ。特にワニと不定形の怪物が恐ろしいのだという。どちらもきちんと対処法をとれば怖くないが、そうでない場合はひどいことになるそうだ。ワニがいると聞いて少し怖くなった。どうにも苦手な生き物の一つだ。のどかな湿原というイメージが吹き飛んでしまった。
「不定形のゼリーみたいなやつは、温度変化に弱いわね。ワニの方も冷却魔法に弱いかも。でもわたし、冷却魔法は持っていないのよね」
「ほかに弱点はないんですか」
「不定形の方は足がそれほど速くないのが、弱点といえば弱点かな。でも集団でいることが多いのよね。知らぬ間に群れの中に踏み込んでしまい、気が付いてたら囲まれてたなんてこともあるから注意よ」
さらりと怖いことを言う。そうなった後のことは聞きたくない。マリーさんの探知能力があれば大丈夫だろう。僕は気になるもうひとつの方の話を聞きたい。
「ワニも足が遅いんですか? 僕の思い込みかもしれませんが、陸に上がれば鈍重そうですよね」
「それが結構早いのよ。困っちゃうわねー」
「え、そうなんですか?」
ホラー映画のワンシーンのように、怖い生き物が高速で追いかけてくるシーンを想像してしまった。マリーさんの話によると、トカゲのようにすばしっこいらしい。そういえばどちらも爬虫類か。
「あの巨体で私より早いんだから嫌になるわ。近付かれたらアウトね」
「そういう嫌な追加情報はいりません! そ、それで対処法は?」
僕がそうやって焦ったように尋ねると、マリーさんはこちらを見て少しばかり意地悪そうに微笑んだ。
「近寄らないこと」
「は?」
「近寄らないことが一番の対処法よ」
そう言ってにっこりと笑うマリーさん。僕が怖がっているのを見て驚かせようとしているのだろうか。それは対処になっていないような気がする。こちらが近寄らなくてもあちらから寄って来られたらどうするつもりなのだろう。僕は探知レーダーを再確認した。
マリーさんは地図を広げ、経路を確かめている。それは以前、地形探知の能力を持つ人とともに地道に調査を行って作成したものだそうで、これがないとここを抜けることは難しいという。僕も地図を覗かせてもらったが、かなり詳細に作られていて難解である。その上、年季の入ったものらしく意味不明の記号が所狭しと並んでいて、少なくとも僕に解読できるような代物ではない。マリーさんにまかせよう。
「さて、それじゃあ行きますか」
少し怖気づいて戸惑っている僕を尻目に、意気揚々とマリーさんは歩き出した。もう少しここで休んで心の準備を万全にしたいところだったが、「早くしないと置いていくわよ」と急かされたのであきらめてついていくことにした。
僕はレーダーを見ながら歩く。大きな生き物がないかどうか、新たに現れた反応が何なのか注意を払う。マリーさんは足元を見ながら歩いている。気を抜くとぬかるみに迷い込むこともあるようなので、こちらにも注意が要るらしい。僕としてはマリーさんにもレーダーに注意を払ってほしいところだが止むを得ない。
ときどきマリーさんは立ち止まり、地図に何やら書き加える。水辺のせいなのか、地形やら何やらいろいろ変わりやすいらしい。草木が生い茂ったり、水溜りができていたりするそうだ。こうした地道な更新作業が重要なのだという。
「何かすごい速さで動いているのがいますよ!」
「多分鳥ね。低空を滑空しているのだと思うわ。安心していいわよ。ハルトさんてけっこう臆病なのね」
マリーさんは何やら地図に書き込むのを続けながら、そう言ってくすくすと笑う。誰かさんが脅かすからじゃないですかと言いたかったものの、これ以上怖いことを吹き込まれても困るので黙っていることにした。
そうやっておっかなびっくりしながらしばらく歩いただろうか、マリーさんが突然立ち止まる。
「あったわ。これよ」
そう言って一本の草花を手に取った。手渡されたその花は、ほのかに甘い香りがしていた。これがタミーさんの言っていたネコマネキ草というものだそうだ。それは招き猫の手の形にとてもよく似ていた。
「さて、それじゃ集めましょう。それと同じものよ」
マリーさんは荷物からかごを取り出し、新たにその花を摘み入れて地面に置いた。僕もそれに習い、ネコマネキ草を探しそれに入れる。この籠がいっぱいになるまで集めるのだという。
半分休憩がてら、短い時間ではあったが僕たちはかごいっぱいにその花を集めた。その花の蜜の香りは、沼地の怖い生物たちのことを忘れさせてくれた。
「これくらいあれば十分かしらね、行きましょうか」
あまり長居すべき場所ではないと分かっていたので、静かに頷いて同意する。
マリーさんはかごに薄絹をかぶせて立ち上がる。僕も立ち上がり、荷物のおさまり具合を直して少し伸びをする。そして僕らは再度出発した。
ネコマネキ草のおかげで沼地への恐怖心がいくらか薄らいだ。しかしながら注意は怠れない。僕はマリーさんの後を追いながらレーダーの反応に気を配る。先ほどまでと比べ、心に余裕をもってそれを見守れるようになっている自分に気が付いた。油断して気を抜いたり、疲れて感覚が麻痺してしまったりしたのではなく、無駄な緊張をしなくなったという感じだ。
そうやってちょっと冷静になってみると、ここに来てから怖がってばかりいた自分を思い出す。たまには少し男らしいところを見せてやろうかなどと思っていた矢先、マリーさんが立ち止まった。遠くの方を見つめたまま動かない。
「どうしたんですか」
「ちょっと気になる物音が聞こえるのよ。この方角だと予定の進路上みたいなのよね」
それがどんな音かはマリーさんは言わない。だけどマリーさんの様子から考えると、喜ぶべきものの類いではないだろう。
「だからと言って、おいそれと引き返すわけにも行かないですよね。何が起こっているのか確かめに行きましょうか」
僕がそう言うと、マリーさんは意外そうな顔をした。僕が引き返そうとか言い出すとでも思ったのだろう。本当はまだ少し怖かったものの、ネコマネキ草がくれた勇気のおかげでそう言えたのだった。
「そうね、でも最悪戻ることも考えておかないとね」
遠くを見つめるマリーさんの横顔は、いつもの凛とした表情に戻っていた。
今までどおりのペースで歩いてくと、やがて二つの争うような反応が現れた。何かが戦っているようだ。一つはかなり巨大な生物である。ひとまず遠距離から見通せる場所に向かう。
その木陰からは、ワニと戦う小柄な人の姿が見えた。全身を見慣れぬ服や帽子のようなもので包んでいる。僕にはそれが、なんとなく少年であると思えた。その少年は、小回りのきかないワニにつけこみ、なんとか右に左に器用によけつつ隙をついて剣で切りつけている。だがどうにも外皮が固く、傷を負わせられないようだ。はた目にはとても倒せそうに見えない。
それを冷静に見ながら、マリーさんは言った。
「どうしましょうか」
「どうしようって……、彼一人でなんとかなる相手でもなさそうですよね。助けましょうよ」
するとマリーさんは少し苦しそうな表情で否定の仕草をしながらこう言った。
「そうよね、それが普通の反応よね。でもここではそうしないほうがお互いのためになることもあるの。あの子を助けるのは難しいわ。正直五分五分かしら。あの子ばかりか、わたしやハルトさんまで危険なことになるのよ。それにここに居るということは、それなりの覚悟もあるはずなの」
マリーさんがそう言うのなら、おそらくそうなのだろう。僕に何かができるわけでもないのかもしれないが、この手には槍が握られている。あの子を助けたい。迷っている時間はない。それを胸元に引き寄せ、僕は心を決めようとあがく。沈黙の後、しぼるようにその言葉を口から出した。
「僕にできることはないかもしれません。それでも、できれば、あの子を助けたいです」
「分かったわ。5分、持つと思うかしら?」
マリーさんは僕の願いをあっけなく聞き入れると、荷物を降ろし何やら準備をはじめた。背負い袋を置き、中から短い杖のようなものを何本か取り出す。木の棒の片側には、金属製のコップのようなものが付いており、もう片側の端は鋭くとがっている。それを少し斜めに地面に突き刺した。
「押し込めて。この角度でお願い」
地面に差し込んだ一本を僕に示し、別の一本を押し込みながらマリーさんはそう言った。それが何かは分からなかったが、マリーさんを真似てねじり込む。力は要るものの、湿地であるためかそれは思ったよりも楽にささっていく。足で踏み込み根元までそれを完全に埋め込む。
二本目を埋め込み終わったところで、マリーさんが言った。
「光の魔法でこちらの存在と位置を教えてあげて。それから声でこちらに逃げるように伝えてもらえるかしら」
「そちらの準備はもういいんですか。すぐにはじめていいんですか?」
「大丈夫よ。今すぐお願い。光らせる前に教えてね」
マリーさんはまだ何か作業をしている。僕は覚えたての魔法を使い、いつもより大き目の球体を作り出した。




