第10話 癒し
それは巨大な顎を開き、うなり声を上げた。それは威嚇のためだったのか、あるいは単に息を吐いただけだったのか、どちらなのか分からない。しかしその低い響きは、圧倒的な力で僕を震撼させるものだった。
突然、それはまるで稲妻の一撃のように静かに、そして轟音が後から聞こえてくるかのような激しい勢いで迫って来た。
マリーさんはそれに真正面から立ち向かう。しかし、その雷光のような牙の一撃は彼女を弾き飛ばすのには十分な威力を持っていた。双剣と牙のぶつかり合う金属音が響き、次いでマリーさんの着地音が聞こえた。空中で姿勢を制御したのか、足から着地できたようだ。彼女が無事なのを見て安心する。それでも受けたダメージは大きそうだ。
マリーさんが飛ばされてしまったのは、単純に質量の差によるものだろう。彼女は小柄すぎる。今の一瞬の激突で、『それ』も体力を削られたようだが、マリーさんの方が消耗が大きすぎるように見えた。『それ』は距離を取り直し、なおもまた襲い掛かろうとしていた。
再度激突が起きた。またもや彼女は飛ばされた。それは何度も繰り返された。『それ』もかなりの手傷を負っている。回を増すごとに突進の勢いが弱まってきている。しかしマリーさんの方が明らかに衰弱している。僕は体がすくみ、それを見ているしかできなかった。
それは何度目だったろう。マリーさんがまた吹き飛ばされたが、いつものような着地ではなかった。あれはまずい落ち方だ。完全に足から着地できていなかった。
僕は我を忘れ、彼女のもとへと急いで駆け寄る。
「逃げ……て……」
マリーさんは微かにそうつぶやいた。そう言われたものの、こんな状況であなたを見捨てて逃げられるほど、僕は強かな生き物ではないのです。その時ふと、マリーさんが言った言葉を思い出した。
『あなたが私達の仲間を守ってくれたように、私もあなたを守ってあげるわ』
その言葉が、僕に少しだけ勇気を与えてくれた。いや、それは蛮勇と呼ぶべきものなのだろう。かなわないことは分かっている。だけど僕も、あなたを守りたい。
「二人で家に帰って、約束を叶えてもらいますよ」
その言葉が届いたかどうかは分からない。彼女は気を失った。それと同時に、位置探知のレーダー情報が全て見えなくなった。大丈夫だ、まだ息はある。おそらく意識がなくなると、カードの能力も解除されてしまうのだろう。
僕は立ち上がり、『それ』に目を合わせる。『それ』は僕を倒すべき敵と認め、猛り狂いながら突撃してくる。僕は両手で盾をかまえ、『それ』へ向かい前のめりに突進する。
その衝撃は想像をはるかに超えていた。カードの能力で軽減できているとはいえ、激しい衝撃が僕を貫き、僕は不様に飛ばされる。受身も取れず転がされるが、何とか立ち上がれる。今倒されるわけにはいかない。全身を激しい痛みが襲う。大丈夫だ、痛みがあるならまだやれる。
マリーさんがだいぶ弱らせてくれていたのだろう。初めて見たときにはとても敵う相手ではないと思えたが、今なら、まだ、もう少しなら耐えられる。
二度目の激突で僕は再度飛ばされる。マリーさんはこんな攻撃を何度もくらっていたのか……。意識も朦朧としている。おそらく、次の攻撃を食らえばもう立ち上がれまい。
三度目が起こったのだろう。僕は大地に横たわっている。体の感覚がない。痛みもない。頼みの綱の盾もどこかに飛ばされてしまったようだ。だが意識があれば、まだ戦えるはず。しかしその意識も、思考に前後の脈絡がなくなりつつある。
その時、不意に話しかけられた。やっと待望の仲間が到達したのだ。
「大丈夫か、坊主」
それはオルさんだった。気が付くと僕は担ぎ運ばれている。運ばれた先にはマリーさんが横たわっていた。タミーさんが治療を始めていた。その横に僕を並べる。
「パワーだけの勝負なら、俺にまかせておけ」
オルさんも何らかの方法で人に化けていたのだろう。その正体をあらわした。
発達した筋肉と、全身を覆う白虎のような毛並みが見える。指先をごりごりと音を立ててもみほぐすと、『それ』に向け無造作に歩いていく。
タミーさんは『癒し』の魔法でマリーさんと僕を治療している。
「ごめんにゃ、ハルトしゃん。本当ならもっとカードが揃って成長してから警備についてもらおうと思ってたのにゃ。夜警に行く前にカードを無理やり追加させることも考えたけど、立場上できなかったのにゃ。ごめんにゃ。許してにゃ」
癒しの魔法は生命力を分け与えるようなものだと聞いた。二人分の治療だ。タミーさんの声から次第に元気が失われていく。
「もうハルトしゃんを危険な目にあわせないように、私が守ってあげるにゃ」
僕が覚えているのはそこまでだ。流れ込む癒しの力の心地よさに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
目が覚めると、既に夕方だった。僕の上でアイちゃんが丸くなって眠っている。体を動かそうとしたが、まるっきり動かない。
回復力が違うのか、マリーさんは既に起きていた。ベッドの横に座り、繕い物をしているようだ。僕が起きたのに気が付き、マリーさんが話しかけてきた。
「タミーさんが怒って大変だったのよ。あの子は自分の立場を分かっているから、意見を言うことは少なかったんだけど、今回はどうにも抑え切れなかったようね。ハルトさんが一人前になるまで、危険な任務にはつかせないと全員に確約させたわ。あの子に逆らうことは誰もできないもの」
全員に確約……。タミーさんはそんなに偉いのか。癒しの魔法を使えるからだろうか。それとも何か秘密があるのだろうか。実はお姫さまだとか。そんなことはないよな。
「それから、これはご褒美」
そう言って一枚のカードを僕に見せる。それはこれまでに見た黒いカードではなく、青白い輝きを放っていた。しかし僕にはカードをいれる力すらない。それは預かっておいてもらい、後日改めて確かめることにしよう。
「そうね、きっとタミーさんも見たがるはずよ。これは普通のカードではなく特別なものなの。高ランクのカードが出やすくなっているのよ」
いつの間にか二人にも見せることになっている。まあそのくらいはいいか。
「一度の任務でもらえるスキルカードは最大で一人一枚まで。それは破ることのできない原則なの。だから今回も一枚。だけど、特別な一枚」
マリーさんはそんなことを言っていたが、おそらく既に原則は何度も破られているはずだ。ギルド入会時にカードを出してくれたり、報酬にカードを出す価値もない仕事でカードを出してくれたり。
水分が欲しいと言うと、マリーさんはお茶をいれてきてくれた。
マリーさんにそれを飲ませてもらう。りんごのような香りとやわらかな甘味が口の中に広がる。ここに来て最初に飲んだお茶も素晴らしかったが、これも同じくらい美味しい。刺激も少ないことも弱っている僕にはありがたい。昔どこかで飲んだことがあるような気がして僕は尋ねた。
「これはなんというお茶ですか。美味しいですね」
「カモミールティーよ。気に入ってもらえてよかったわ」
記憶がよみがえる。それは紛うこと無き本物の、猫舌向けカモミールティーだった。
「あらすじ」欄にも書いておりますが、新章の準備のため、少しお休みをいただきます。
拙い作品ながらここまで読んでいただきありがとうございます。
読み返してみると、いくつかの用語が統一されていなかったり、分かりにくい表現が多かったりと反省する点が多くみつかりました。
それらを書いた当初は何度も見直して、誤字脱字等が無いよう注意していたつもりだったのですが、やはり少し寝かせてから新鮮な気持ちで読み返すのが重要なようです。
そういったわけで、これらの点の修正につきましては、少し時間を置いてから適宜行いたいと思います。
ご不便をおかけしますが、なにとぞご了承ください。
2012.01.10 猫




