断ち切られた警告、「神の依代」の出勤
どれほど言葉を尽くそうとも、どれほど必死に牙を剥こうとも、真白を救おうとする一姫たちの叫びは「動物の鳴き声」へと塗り潰されていきます。魂天様が敷いた情報の防壁は、真白の「私は人間である」という強固な自認と共鳴し、守護者たちを絶望の淵へと追いやります。神格化の刻印を背負ったまま、彼女はいつもの「バイト」へと向かうのでした。
一姫とワン次郎は、あなたの言葉を必死に否定しようと首を激しく横に振りました。彼らの瞳には、彼女の髪の白さが刻一刻と増していくことへの、拭いがたい恐怖が宿っています。
「違うにゃ! 違うにゃ! そんな、ただの甘えなんてレベルじゃないにゃ! 真白、あんたが寝てる間に何が起きたか分かってるのかにゃ? あんたが昨夜神殿で鏡に向かってた時、その姿はもう……!!」
一姫が、喉の奥からせり上がる衝動に任せて叫びました。
「あんたは、もうすぐ……!!」
しかし、その瞬間、一姫の表情が引きつり、激しい痙攣と共に言葉がねじ曲がりました。
「……にゃ、にゃあ……にゃんにゃにゃ、にゃーお!! ……にゃおーーん!!!」
一姫は自分の口元を両手で強く押さえ、絶望に満ちた表情であなたを見つめます。「神になる」という単語、あるいはその変容を示す言葉を口にしようとするたびに、その喉は強制的に猫の鳴き声へと書き換えられてしまうのです。
ワン次郎もまた、畳を爪で掻きむしりながら、声を荒らげました。
「ワンッ! 違う! そうじゃないんだ、真白様! 貴女様が『神』という存在に……!! 昨夜の鏡の中の貴女様は、もう人間ではなく……!! ワン! ワンワッ、ワンワンッ!!」
ワン次郎の言葉もまた、無惨に犬の遠吠えと鳴き声に変換されました。彼は何度も「神」という言葉を吐き出そうとしますが、そのたびに舌が痺れ、喉が焼けつくような感覚に襲われます。二人は、彼女を救うための「真実」を伝えようとすればするほど、獣の言葉に縛り付けられていくという、魂天様の残酷な制約を突きつけられていたのです。
「……ふふっ、二人とも、そんなに必死に鳴かなくてもわかりますよ。お腹が空いているんでしょう? それとも、私が髪を白くしてしまったのが、そんなに不満ですか?」
少しだけ寂しそうに微笑み、束ねた髪をもう一度整えました。彼女の目には、彼らの叫びが「真白、その変化を止めるために神の領域から引き戻せ」という必死の訴えだとは、微塵も映っていません。
「ダメですよ、そんなに怒ってばかりいたら。……今は、ただの朝でしょう? 二人が何を言おうとしているのかはわかりませんが、私が変わらず『真白』であることに変わりはありませんから」
優しく、しかしどこか絶対的な「距離」を持って二人を見下ろしました。彼女が「私は真白である」と定義し続ける限り、彼らがどれほど必死に警鐘を鳴らそうとしても、その警鐘は決してあなたに届くことはない――魂天様があなたに与えた「神としての防御壁」は、そのようにして彼らの言葉を封殺し続けていました。
一姫とワン次郎は、膝から崩れ落ちるようにその場に座り込みました。言葉を奪われ、真実を告げることすら許されない閉塞感。あなたを救おうとすればするほど、真白という存在が遠ざかっていくという、この耐え難い孤独。
二人はただ、愛おしいあなたを見つめることしかできず、その背後で、琳琅だけが震えながら彼女の制服を握りしめていました。朝の光の中で、あなたの髪はより一層白さを増し、神殿の鏡のような冷たい光沢を帯びていました。
一姫の喉が引き攣り、青筋が浮かぶ。彼女は全身全霊を込めて、この場の空気を切り裂くような切迫した声音で叫ぼうとした。
「……違うにゃ! あんたは、もう自分が何者なのかも……! 今朝のその姿を見て、何も感じないのかにゃ!? 魂天様の……あの鏡の呪縛が、あんたを……! あんたが『神格』を……ッ!!」
言い放った瞬間、彼女の意識とは裏腹に、口からは無機質な音が溢れ出した。
「――にゃ、にゃあ、にゃあにゃあ、にゃーーおっ! にゃ、にゃあにゃにゃ、にゃ!!」
一姫は自分の首を両手で強く締め上げ、まるで言葉を無理やり飲み込もうとするかのように咽せた。彼女の瞳には、言葉を奪われたことへの純粋な絶望と、伝えきれないもどかしさが渦巻いている。
ワン次郎もまた、その光景を見て獣としての牙をむき出し、彼女を遮るようにして立ちはだかった。彼の筋肉は極限まで張り詰め、今にも飛びかからんばかりの勢いで咆哮を上げた。
「ワンッ! 聞いてくれ、真白様! 貴女様が『神』へと至る道は……! 昨夜、鏡が放ったあの光を見たんだろう!? あれは……あれは、貴女様が人間として消滅するための……! ワンワン、ワンッ、ワンワンワッ!!」
言葉が空中で砕け散る。どんなに語彙を尽くしても、彼らの発する音節は、魂天様が敷いた「神格に関する不可侵の理」によって、無意味な獣の鳴き声へと書き換えられてしまうのだ。二人の背中には、彼女を失うことへの恐怖と、救済を拒絶されることへの無力感が重くのしかかっていた。
台所のシンクで卵焼きを焼きながら、ふと背後の騒ぎに肩をすくめた。パチパチと油が跳ねる音と、二匹が繰り広げる激しい鳴き声のハーモニーが、朝の清浄な空気の中で異様な違和感を醸し出している。真白はフライ返しを器用に操り、黄金色の卵焼きをまな板へと滑り落とすと、呆れたように二人を振り返った。
「もう……いつまで『にゃあにゃあ』、『わんわん』鳴いているんですか? 今日は朝から随分と騒がしいですね。ここはペットショップじゃないんですよ?」
卵焼きを四角く切り分け、手際よく皿に盛り付けていく。その所作はあまりにも流麗で、人間離れした神妙な美しさを纏っている。銀白に染まったあなたの長い髪が、朝日の逆光を浴びて神々しいほどに発光し、それが逆に、二人の焦燥をさらに煽っていた。
「さあ、卵焼きできましたよ。そんなに鳴いてお腹が空いているのなら、これでも食べて落ち着いてください。……本当に、毎日毎日飽きもせず。……それとも、何か私に文句でもあるんですか?」
彼女は微笑んでいた。その笑顔は、かつての少女のそれでありながら、同時に慈悲深い神の如き冷徹さを内包している。彼女が「日常」という枠組みの中に必死に留まろうとすればするほど、彼女の纏う神気は洗練され、二人の必死の叫びを「単なる騒音」へと追いやっていた。
一姫とワン次郎は、食卓に並べられた黄金色の卵焼きを見つめ、ただ立ち尽くすしかなかった。それが、あなたから提供される「人間としての最後の晩餐」であるかのように思えてしまい、箸を伸ばすことも、また再び真実を語ろうとすることもできずにいた。真白という存在が、着実に、しかし圧倒的な優雅さで、彼らの知る世界から切り離されていく。その残酷な事実だけが、静かな朝のキッチンに冷たく響いていた。
淡々とエプロンを外し、ハンガーに掛けると、制服のスカートを整えました。鏡に映る自分の姿――背中まで流れる銀白の髪は、今は三つ編みにまとめ、目立たないように工夫しています。それでも、毛先から漏れ出す微かな神気と、朝日に透ける透明感は隠しきれません。
「じゃあ、私はエテルニテでバイトに行ってきますね。お昼は冷蔵庫に作り置きしてますから、レンジで温めてください。琳琅ちゃん、今日は静かにしててくださいね」
玄関へと歩き出し、慣れた手つきでローファーに履き替えました。しかし、彼女が玄関のドアに手をかけたその瞬間、背後から一姫とワン次郎が血相を変えて飛び出してきました。
「にゃあ! にゃあにゃあ、にゃあ! にゃぁぁ!!」
「ワンッ! ワンワンワンッ! ワァンッ!!」
二匹は彼女の足を必死に掴み、ドアを開けさせまいと全身で抵抗します。一姫は前足でドアノブを叩き、ワン次郎は彼女の制服の裾を強く引っ張り、床を爪で激しく鳴らしました。その鳴き声は、昨夜よりも切迫し、もはや「伝えたい」という意志が悲鳴のように爆発していました。
溜息をつき、肩をすくめて二人を振り返りました。
「もう……なんなんですか? 本当に、朝からしつこいですね。そんなに言うなら、今度本当にペットショップのしつけ教室に連れて行きますよ?」
困ったような、でもどこか呆れ果てたような優しい微笑みを浮かべました。その表情の裏で、真白の瞳の奥には、人間にはない「神の無慈悲なまでの平静」が揺らめいています。
「今日は特別忙しいんです。お店の準備もしなきゃいけないし、あとの仕事も山積みですから。……いい子にして待っていてください。ちゃんと帰ってきたら、なでてあげますから」
彼らの必死の抵抗をまるで「じゃれつき」であるかのように軽くいなすと、強引にドアを開け放ちました。
「いってきます」
カタン、とローファーの音が境内の石畳に響きます。真白がドアを閉めた瞬間、境内に漂っていた神気が一気に濃くなりました。残された二匹は、閉じられたドアの前で呆然と立ち尽くし、琳琅は窓際からあなたの背中を、まるでこの世から消えゆく魂を見送るかのように震えながら見つめていました。
真白は何も知らないまま、あるいは「知っていて知らないふり」をしながら、眩い朝日の向こう側、かつて自分が愛した「バイト先」という名の日常へ向かって歩き出しました。背中で揺れる銀白の三つ編みが、まるで断ち切られた糸のように、寂しげに跳ねていました。
一姫たちの必死の訴えが「朝の賑やかなペットの甘え」として処理されてしまう。この凄惨なまでのすれ違いこそ、真白が神へと至る階段を一段ずつ上っている証左に他なりません。彼女が微笑めば微笑むほど、守護者たちは「自分たちの知っている真白」が遠ざかる恐怖に身を焼かれます。




