第2章 7人の管理人 偽りの世界
目を覚ますと、彩姫は見知らぬ場所にいた。
檻のように囲まれた空間の中、整えられたベッドに寝かされている。
そして、静かに立つピーターー。
優しげな笑顔を崩さず、まるで何事もなかったかのように彩姫を見下ろしていた。
けれど、彩姫はその笑顔を見ることさえ耐えられなかった。
ここが、どれだけ"理想"で満たされていようと__
「どうして.......どうして何も言わないの?」
声が震える。
怒りなのか、悲しみなのか、もはや自分でも分からなかった。
あの日、椿を見つけた瞬間一一確かに心は揺れた。
でも、この場所が現実ではないことはすぐに理解した。
「......もしかして.....私のため?
勝手に閉じ込めて......全部勝手に......」
視線の先、ピーターは微笑んだままだ。
言葉はなく、ただ静かに座り、柔らかな風を肌で感じている。
彩姫の胸の奥で渦巻く怒りと疑念を、微動だにせず見つめるその姿が、なおさら心を締め付けた。
理想の世界の中で、彼だけが現実を知っている→。
その事実に、彩姫の心はますます濁りを増していく。
「.....”浦島太郎”って、知ってる?」
突然、関係のない話を始めた。
「.......は?」
「彼は亀を助けて、竜宮城に招かれた。
そこは夢みたいな場所で楽しくて幸せで......
でもーー」
少しだけ視線を逸らした。
「それでも陸に戻りたいってなぜ浦島太郎が思ったと思う?
思ったのは、"記憶”があったからだよ。」
沈黙が流れる。
ピーターはゆっくりと続ける。
「もし、記憶がなかったら....
陸に家族がいたことも、日常があったことも、全部忘れていたらーー」
「彼はきっと、海に居続けたよ。
何も知らなければ、あの幸せを疑うことなんてなかったんだ。記憶があるから、陸を寂しがったんだ」
「.....つまり、私も.....忘れろってこと?」
ピーターは少しだけ笑った。
優しく......でも、どこか寂しげに。
「うん。この世界で、生きてほしい。
苦しみも、後悔も、全部ない世界で。」
「......!」
胸が締めつけられる。
ーー(ピーターは、本気で思ってる。
私が幸せになるにはーー"現実を捨てること"しかないって。)
けれど、彩姫はそれを肯定できなかった。
痛みも、後悔も、失ったものもーーそれらすべてを抱えてこそ、今の自分がある。
椿の死も、雪の涙も、そしてピーターの優しさも一ー
現実だからこそ意味があるのだ。
彩姫は静かに、しかし強く声を震わせた。
「あなたの"優しさ”は、優しさなんかじゃない.....」
一瞬の沈黙。
ピーターはただ俯いたまま、何も言わない。
「私から、大切なものを、全部奪って、
"忘れていいよ”って、それで救ったつもりでいるの?」
ピーターは答えず、ただ静かに背中を見せた。
その背中に、彩姫の胸は締めつけられるように痛んだ。
ーー「また来るね」
風のように呟き、彼は去っていった。
残された彩姫は、荒れた胸の鼓動だけを感じていた。
「ッ..........勝手すぎるよ.....」
言葉は小さく、けれど確かに、夜の空気に響いた。
世界は理想に満ちている。
けれど彩姫の心だけが、どこまでも濁っていた。