錯綜
先頭の影が一歩踏み出した瞬間、煙の幕がふわりと裂けた。
そこに立っていたのは一一見慣れた赤髪。鮮やかで、炎のような赤。
彩姫の瞳が大きく見開かれる。
喉の奥から、信じられないものを見たような、かすれた声が漏れた。
「......なんで......?」
赤髪に、煌びやかな瞳。
彼女がここにいるはずはないーーそう、心のどこかで確信していたはずだった。
だが、現実は残酷に、その姿を目の前に突きつけてくる。
「…ルビー姉......?」
空気が、一瞬にして凍りついた。
天袮も、寧音も、目を見開いたまま動けない。
その者はかつて彩姫の隣で笑い、肩を並べて戦ったその人物が、今一一敵の列に立っていたからだ。
赤髪の少女ーールビーは、昔のような柔らかい微笑みを見せなかった。
代わりに、その唇から零れたのは、氷の刃のように鋭い声。
「......彩姫。ここにいるとは。任務に支障が出る」
その声音には、懐かしさの欠片もなかった。
冷徹で、まるで他人に向けるようなーー"秘刑隊”としての声。
「な、んで......どうして、ルビー姉が......!」
彩姫の声が震える。
しかし、ルビーは一切の感情を殺した瞳で彼女を見据え、淡々と告げた。
「秘刑隊として来ただけ。私情は挟まない。
それが私の条」
一歩
ー一彼女が前に踏み出す。
その足取りに、かつての優しさはない。容赦も、迷いも、ためらいも。
ただ冷たい決意だけが、聖堂の石床を震わせた。
彩姫の胸の奥で、何かがギシリと音を立ててひび割れていく。
"姉”と呼んだ人が、敵として立ちふさがる。
その現実が、彼女の心に突き刺さった。
「敵であろうと、味方であろうと一一命令に逆らう者は、排除する」
静寂を切り裂くような、鋭く澄んだ声だった。
ルビーの手には、紅蓮の輝きを帯びた魔剣。
刃先からは、赤い燐光が舞い上がり、まるで血のように空気を染めていく。
その目に迷いはない。
任務は絶対一ーかつて誰よりも情に厚かった少女は、いま、感情ではなく「組織」への忠誠を選んでいた。
次の瞬間、紅の魔剣が宙を薙ぐ。
振るわれた一閃が空間を裂き、空気が悲鳴を上げるように軋んだ。
天井に嵌め込まれていた巨大なステンドグラスが砕け散り、色とりどりの破片が閃光を散らしながら宙を舞う。
紅と青と白一一光の粒が舞い上がる中、現実だけが冷酷に突きつけられる。
「彩姫、天袮くん!......ここは退くしかない!」
寧音が即座に声を張り上げた。
その瞳には、戦いではなく "撤退”の決意が宿っている。
天祢も周囲を見渡し、すぐさま寧音のところに行き、短く呟いた。
「このままじゃ.......囲まれる」
大聖堂の至る所に、秘刑隊の影が立ち並び始めていた。彼らは無音で動き、瞬く間に包囲の輪を狭めていく。
だが一一彩姫はその場に立ち尽くしていた。
目の前にいるのは、いつか笑い合い、背中を預けた"姉の姿。
なのに、その刃は一一確かに、今、自分へと向けられている。
「.....っ!」
現実が、胸に鋭く突き刺さった瞬間。
寧音が彩姫の手を強く掴んだ。
「今は考える時間すらない、逃げて!!」
その声と同時に、寧音が地面へと魔力を叩きつける。
付加魔法が炸裂し、床が爆ぜた。
熱と砂埃が巻き上がり、陽炎のように視界が揺らぐ。
その一瞬の隙間に、退路が切り開かれた。
天祢が間髪入れず空間魔法を展開する。歪む空気の中に、異空間への入口が現れた。青白い光が渦を巻き、逃走の道を作り出す。
「行くぞ!」
天祢の低い声と共に、寧音が彩姫を引き込み、全員がその裂け目へと飛び込む。
その直前一一背後から、氷のように冷たい声が響いた。
「追え。逃がすな」
ルビーの命令だった。
その声音には、一片の情もなかった。
数名の秘刑隊が一斉に地面を蹴り、黒い影となって異空間の裂け目へ飛び込もうとする。
しかし、天袮が振り返りざまに両手を広げ、空間を閉じる魔法を叩き込んだ。
「そう簡単には.....来させない」
空間の入口がバチン、と音を立てて閉じ、黒い影の指先がわずかに届く寸前で弾かれた。
次の瞬間、世界が反転しー一彩姫たちは異空間の中へと消える。
残された大聖堂には、粉々に砕けたステンドグラスが舞い落ちる音と、紅い魔剣を握りしめるルビーの冷たい横顔だけが残っていた。
異空間の回ーーそこは、まるで現実と夢の狭間のような世界だった。
足元には薄く光る魔法陣が幾重にも重なり、青白い軌跡を残しては次々と後方へ流れていく。空気は重く、耳鳴りのような低い音が響き続け、空間全体が微かに脈打っていた。
彩姫たちはその中を、息を切らしながらひた走っていた。
背後では、異空間を裂いて別ルートから追跡してくる秘刑隊の気配が、じわじわと迫ってくる。黒い影がちらりと視界の端をかすめるたび、背筋が冷たくなる。
「......どうして、ルビー姉が.....」
彩姫の震え混じりの声が、ひどく遠くに聞こえた。
言葉を吐き出した瞬間、胸の奥から溢れ出すのは混乱と痛み。じたくない現実が、何度も心を叩きつけてくる。
寧音が先頭を走りながら振り返りもせずに叫んだ。
「それを考えるのは、止まってから!」
その声は鋭く、彩姫の迷いを断ち切るようだった。
天袮は最後尾から仲間たちを守るように走り、後方の空間の歪みに目を細める。
「奴ら、完全に殺る気だ。次に会った時は、迷うな」
その声音には、いつもの冷静さに加えて、薄い怒りの色が滲んでいた。
彩姫は唇をぎゅっと噛みしめる。
迷いたくなんてない。でも一一相手は、ルビー。姉のような存在。
(ルビー姉......本当に、敵になったの......?)
心の奥底に絡みつくような痛みが、じわりと広がる。
胸の中心を冷たい手で掴まれるようで、息が詰まった。
それでも一一彩姫は足を止めなかった。
風を切り、歪んだ異空間を駆け抜ける。
涙が零れそうになるたび、その一滴を風がさらっていく。
迷いと痛みと恐怖を抱えたままーーそれでも、前に進むしかない。
背後から迫る気配は、確実に距離を詰めてきていた。
次に振り返ったとき、彼女たちの背後にいるのはーーもう、敵の刃かもしれない。
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次元のひずみが、重苦しい音を立てて閉じた。
周囲は一瞬で静寂に包まれる。
木々は鬱蒼と生い茂り、昼間であるはずなのに陽光は一切届かず、森全体が薄い霧に覆われていた。湿った空気が肌に張り付き、耳元で何かが囁くような錯覚さえ覚える一ーまるで、世界そのものが息を潜めているかのようだった。
「......っ!」
天袮が地面に膝をついた。強行した転移の反動が一気に身体を襲ったのだ。
すぐに寧音が駆け寄り、彼の体を支える。
「.....急ぎすぎたから…大丈夫天袮くん?
…でも......なんとか逃げーー」
その言葉が最後まで続くことはなかった。
ピリ......と、空気が裂ける音が背後から響く。
一同の背筋に、氷柱を突き立てられたような寒気が走った。
天袮の魔法の効果が切れてしまったのか、振り返った瞬間、霧の奥の空間に蜘蛛の巣のような「亀裂」が走り、そこから凍てつくような気がゆらりと漏れ出してくる。
天袮が低く、喉の奥で唸るように声を上げた。
「......っ、来るな!」
だが、それは間に合わなかった。
異空間の裂け目から、最初に現れたのは__一本の銀の鎖。
蛇のように空中をうねり、森の空気を締め上げるように音を立てて伸びてくる。
「もう逃がしはしないわよ」
霧の向こうから、悠然と歩み出てきたのは女王だった。
月光のように淡く輝く荘厳なドレスに身を包み、表情はまるで能面のように無機質。
その微笑みは優雅ですらあるのに、底に潜むのは確固たる支配の上だった。
その背後に、黒衣に身を包んだ秘刑隊の数名が無言で並び立つ。
そしてーー
「......っ......」
彩姫の瞳が大きく見開かれた。
霧の奥から、ゆっくりと歩み出てきたのはピーターだった。
整った顔立ちに、感情の色は一切ない。
瞳は暗く、底知れない闇を湛え、光を完全に失っている。
額には銀の鎖が食い込み、皮膚を穿って脳にまで達しているかのように深く根を張っていた。まるで「人間」という器を侵食する呪いそのものだった。
「.......っ!」
彩姫の心臓が、ドクンと激しく脈打つ。
「ピーター!!やめて!......戻って!!」
震える声で、彼に向かって必死に叫ぶ。
しかしーーピーターは一言も発さない。
立ち止まったその場で、無表情のままゆっくりと右腕を持ち上げる。
その動作は、生きている人間のそれではなかった。
感情も、迷いも、意志もなく.....ただ命令に従う「兵器」のような、完璧な機械的動作だった。
銀の鎖が、彼の指先と共に森の空気を震わせ、攻撃の前兆のように淡く光を放ちはじめるーー。
霧が風に攫われ、森の奥行きがじわじわと姿を現していく。
銀の鎖が空気を切り裂くたびに、耳を劈くような金属音が響き渡った。
寧音の結界はその度に波打ち、亀裂が走り、光の膜が不穏に揺れる。
「......もう少しだけ持たせられる.......っ!」
寧音の額から汗が滴る。鈴のブレスレットが震え、淡い音色をかき鳴らすが、迫り来る鎖の圧力には限界があった。
天袮の口元も苦々しく歪む。
「寧音.....お前を守るのが......俺の役目だ」
その声には、焦燥よりも決意の色が強く滲んでいた。
それでも彼の魔力は既に限界に近く、空間を歪ませる力さえ、今はか細い炎のように揺らいでいる。
「しょうがねぇ、魔力を追加するか」
そう呟く天袮だが、その背後で一一彩姫だけは動かなかった。
閉じられた瞳の奥で、ただ一人の姿だけを見つめている。
鎖の先に立つ人物。
奪われた心を抱えながら、なお彼女の前に現れた存在。
「.....来るなら、来なさい。ピーター」
その声は震えてはいなかった。むしろ凪のように静かで、覚悟を秘めていた。
そして一一彼が動いた。
操られた足取りに、迷いの影は一片もない。ただ一直線に、彩姫へと歩を進めてくる。
「悪いね、彩姫。.....君には、大人しく来てもらうよ」
その声は、優しかった。どこか申し訳なさそうでさえあった。
そこに確かに「ピーター」がいると錯覚させるほどに。
「......っ!」
彩姫の胸が一瞬、希望で震える。だが一一彼の歩みは冷徹に、ただ彼女を捕らえるためのものだった。
ガシッ
その瞬間、手首を掴まれる。
冷たく強靭な力が、彼女を逃さないように絡みつく。彩姫の瞳が大きく見開かれた。
「やめて!!」
バンッ!
全身の力を振り絞り、掴んだ腕を必死に振り払う。
「......ああ、痛いな」
彼はわずかに苦笑を浮かべた。その顔は、まるでいつも通りの「彼」のようだった。
しかしーーその目の奥。
覗き込んでも、そこには何もなかった。感情も、温もりも、すべてが虚無に吸い込まれていた。
「.....どうして、そんな顔で.......!」
彩姫の声が震え、喉が詰まる。
「お母様が言ってたよ。『君を無傷で連れて帰れ』って」
無機質な響き。
だがその言葉を紡ぐ声色は、皮肉にも優しい。
「そんな命令に従って......ピーターらしくもない!」
彩姫の叫びに、彼は一瞬だけ目を伏せた。
「らしくないか。.....うん、たしかに」
その呟きには、わずかに皮肉めいた笑みが混じる。
そして再び歩みを進める。
まるで避けられぬ運命に従うかのように、静かに、一歩ずつ。
「でも、君を壊されるくらいなら一一僕が君を捕まえるよ」
その言葉は鋭く胸を抉った。
彼の声で、彼の口から告げられるその矛盾。
愛情の残滓のようでありながら、同時に冷たい檻の宣告だった。
「.....違う.....それは、ピーターじゃない.....!」
彩姫の心は悲鳴を上げ、目の奥が熱くなる。それでも彼女は、決して目を逸らさなかった。
銀の鎖が、ふたりの間に音を立てて揺れたー
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霧がすべて消えた。
森の中に、張り詰めた沈黙と、銀の鎖が空気を裂く乾いた音だけが響く。
彩姫は、ピーターと真正面から向き合っていた。
彼の顔は、優しさと冷酷さが奇妙に同居している。
微笑みの形だけはいつも通り。
__けれど、その奥に宿るはずの「心の灯」が、どこにもない。
残っているのは、"彼らしさ”の残骸と、操りの鎖に縛られたの瞳。
それが、何よりも残酷だった。
胸の奥が焼けるように痛い。
戦いたくなんて、ない。
でも一彼を取り戻すためには、もう戦うしかないのだ。
「......行くよ」
彼女の瞳に、覚悟の色が宿る。
銀の風一一彼の得意とする魔法が、森の空気を一変させる。
葉が逆巻き、霧の名残を巻き上げ、地面に無数の細かな傷を刻んでいく。
「.....来てよ、彩姫。君を傷つけたくない」
「もう、充分に傷ついてる.......!お願い、戻って......!」
しかし、彼の手に集まる光が、その願いを拒絶する。まばゆい輝きが、森の闇を裂いた。
「サンライド」一一太陽の魔法。
かつて、彩姫を何度も救ってくれた、あの優しい光。
暖かいはずなのに、今は冷たく、敵意の色に染まっている。
ざわり、と。空気が震えた。
闇と光が交差し、朱に染まる石畳が、ゆっくりとひび割れていく。
まるで、この場所そのものが二人の心のみを映しているようだった。
ピーターの瞳は静かに彩姫を見据える。
その奥には、知らない「誰か」の影が揺れている。
彼自身の意志ではない、何者かの命令の
残響。
「.....君を守るために、君を傷つける」
その言葉は、淡々としていた。
叫びでもなく、怒りでもなく一ただ静かに、しかし確実に、彼は彩姫へと手を伸ばす。
光が、弾けた。
彩姫の心が、きしむ音を立てた。
彼女は震える手を握りしめ、立ち尽くすことをやめる。
逃げるのではない。
向き合うのだ、
彼を一奪い返すために。




