結婚式
王城の礼拝堂。
静寂の中で、銀糸のカーテンが微かに風に揺れ、柔らかな光を受けてきらりと煌めいた。
高い天井には金色の花々がふんだんに飾られ、まるで天上の楽園を模したかのような荘厳な空間。
しかしそこに列席者の姿は一人もない。
王族すら呼ばれていない。
ーーこれは、女王がすべてを掌の上で仕組んだ「私的な儀式」だった。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、一人の少女が姿を現す。
椿彩姫。
深い藤紫のドレスが、月夜の花のように揺れるたび、わずかな光を掬ってきらめいた。
それは純白のウェディングドレスではない。
彼女自身の象徴ーー「紫の魔女」と呼ばれる存在としての色であり、同時に、彼女にとって皮肉な"祝福"の色でもあった。
一歩、また一歩。
バージンロードを進む彼女の足音だけが、静まり返った礼拝堂に響き渡る。
頭上のステンドグラスから差し込む光が、紫と金と白の色彩を床に描き出し、まるで一枚の絵画の中を歩いているかのようだった。
祭壇の前に立つのは一ー王子。ピーターだ。
漆黒のタキシードに身を包み、姿勢も表情も一分の隙なく整っている。
まるで「理想の王子」として描かれた肖像画の人物そのもの。
けれど、その瞳は......あまりに空虚だった。
心は銀の鎖に囚われ、深い霧の向こうに閉じ込められている。
その眼差しには、かつて彩姫に向けられた優しい温度も、あの不器用な笑顔も、ひと欠片も残っていなかった。
そしてーーその隣に、静かに立つ女王。
銀糸を指先で弄びながら、まるで全てが予定通りに進んでいると言わんばかりの、満足げな微笑を浮かべていた。
白と紫のコントラストが、祭壇の上で鮮やかに交わる。
まるで芸術作品のような、完璧な構図。
.....しかし、それはあくまで"表面"だけの話だ。
神官が一歩前に出て、重々しく口を開いた。
「それでは、王と王妃の誓いの儀を一一」
その瞬間だった。
空気が一一変わった。
礼拝堂に漂っていた穏やかな空気が、一瞬にして張り詰める。
冷たい風がステンドグラスを揺らし、銀糸のカーテンが激しくはためいた。
どこからともなく、重く沈んだ"何が”が、この神聖な空間を覆いはじめる。
彩姫の胸が、不意にどくんと脈打った。
背筋に走る、得体の知れないざわめき。
女王の微笑が、わずかにぴくりと動いたーー
ドオンーー!!
轟音が大聖堂を揺らした。
荘厳な扉が内側から吹き飛ぶように勢いよく開き、白い煙とともに、冷たい夜風が一気に流れ込んでくる。
金と銀の装飾が鳴り響き、祭壇に吊るされたカーテンが翻った。
「一ー彩姫!!」
澄み切った声が、礼拝堂の静寂を裂いた。
先陣を切って駆け込んできたのは、神代寧音。
その足取りは迷いなく一直線で、紫のドレスを纏った彩姫のもとへ向かっていた。
手首には、いつもと同じ鈴のブレスレットがきらりと光る。
彼女が一歩踏み込むたびに、風が舞い上がり、女王が操る銀の鎖を押し返していった。
「遅れてごめんーーでももう、大丈夫!」
寧音の声と共に吹き抜けた風が、礼拝堂の空気を一瞬にして変える。
閉ざされていた空間に "生きた気配”が流れ込んだ。
その後ろから、ゆっくりと歩みを進める影。
空間がまるで彼の歩みに引きずられるかのように、ぐにゃりと歪む。
月星天袮一ー。
無言のまま、真っ直ぐピーターを見据えるその瞳は、夜の月のように冷たく、鋭かった。
一歩、彼が踏み出した瞬間一一女王がゆるりと手を持ち上げた。
指先から銀の鎖が幾重にも垂れ下がり、天井から蛇のようにのたうちながら彼らへと襲いかかる。
「......王宮への無断侵入。罪は重いわよ?」
女王の声は穏やかだが、その奥に潜む圧は冷たい刃のようだった。
「へえ。じゃあ、あんたがやってるこれは
一一無罪ってか?」
寧音が軽やかに跳ねるように前へ躍り出る。
カラン、と鈴が鳴った瞬間、爆ぜるように風が弾ける。
突進してきた鎖が風に打たれ、まるで叩きつけられたように弾かれ、柱に巻きついて止まった。
「.......」
女王の眉がわずかに動く。
その隙を、天は見逃さなかった。
彼はただ、一歩、また一歩と前へ進む。
余計な言葉も、誇張もない。
ただ無言で、淡々とーーピーターの正面に立った。
そして、静かに口を開く。
「.....起きろよ。ピーター.....。
あいつ”が泣いたぞ。お前のせいでな」
その言葉が放たれた瞬間一一彩姫の肩が、びくりと小さく震えた。
その震えは、礼拝堂の空気よりもずっと、真っ直ぐにピーターの胸に届いていくようだった。
天袮の声には怒号も叫びもない。
ただ、事実だけを淡々と告げる静かな響き。
それゆえに、その一言一言が鋭く、深く、ピーターの心の奥を叩いた。
月明かりが祭壇のステンドグラスから差し込み、三人の影が交錯する。
銀の鎖が、かすかに鳴ったーー
まるで、その心が、わずかに軋みを上げたかのように。
「.....っ、天袮.....寧音......もう、いいの。もう、私が......」
彩姫の声はかすれ、震えていた。
その表情には、戦う覚悟と同じくらいーーいや、それ以上の「諦め」が滲んでいる。
「嫌って言ったら、止まんのか?」
天祢の静かな問いかけに、彩姫は一瞬だけ目を伏せ、そして首を横に振った。
「.....止められない......でも、お願い。私だけは、あなたたちを巻き込みたくないの......!」
その言葉は必死だった。
涙に濡れた紫の瞳が、二人を拒むようでーー
けれど本当は、誰よりも二人をじている光を宿していた。
女王が、ゆっくりと両手を合わせ、鈴を鳴らすように楽しげに笑う。
「本当に、素直で......お利口さんな子。
でもね、これは"国家”の儀式。あなたたちが立ち入る場所ではないのよ?」
その声音はまるで、虫を弄ぶ貴族のよう。
しかしーー
「.....黙ってろ」
低く響いた天袮の声と同時に一一空間が、歪んだ。
空気がびりびりと震え、礼拝堂の天井が音もなくねじれていく。
ステンドグラスが軋み、銀の鎖の一部がぐにゃりと宙で歪み始める。
まるで見えない"力"に引き裂かれるように、女王の術式の拘束が緩み始めた。
「結婚式とか、どうでもいい」
天袮が一歩前へ踏み出す。足元の大理石に、淡い光の文様が広がる。
「俺は......あいつを取り戻しに来ただけだ」
その言葉に、彩姫の瞳が僅かに見開かれる。
胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出しそうになる。
「......ごめんね、ピーター。
私......本当は、あなたとーー」
言葉は、震える唇の途中で途切れた。
でも、その一瞬だけで十分だった。
紫の瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ち、祭壇の白い石床に落ちる音が、妙にはっきりと響いた。
その瞬間一一空気が、変わった。
空間がきしむように歪んだ。
目に見えない力が大聖堂全体をねじ伏せるかのように、天井のステンドグラスがわずかにひび割れ、光が滲む。
天袮の魔力が発動した瞬間、銀の鎖が宙で弾け飛び、いくつもの断末魔のような金属音が響いた。
女王の足元を飾っていた銀の輪がほどけ、祭壇の柱を縛っていた鎖が蛇のようにのたうち、床へと叩きつけられる。
「......ッ!」
女王の眉がぴくりと動いた。
その表情に、ほんのわずかだが"揺らぎ”が生まれる。
冷徹で支配的だった笑みの端が、初めてわずかに引き攣ったーーまるで、想定外の展開に一瞬だけ対応が遅れたかのように。
「式を一一中止しろ」
その声は、不意に。
冷たい刃のように大聖堂の奥から響き渡った。
まるで音そのものが空気を裂くような、ぞくりとする冷ややかさ。
「.......っ」
寧音が反射的に振り返る。
天祢の目が細まり、鋭く光を帯びる。
次の瞬間一一天井の豪華な装飾が音を立てて崩れ、金と白の破片を散らしながら、黒い影が降り立った。
空から舞い降りるというよりも、音もなく"落ちてきた”その姿は、異様だった。
銀の面。
漆黒のマント。
足音ひとつ立てず、整然と並び立つその集団。
彼らは王家直属一一法も、軍も、宗教すら及ばぬ、国家の影の手。
「国家の処刑人」と呼ばれる、秘刑隊。
その場の空気が一気に凍りつく。
風の音すら、ぴたりと止まった。
彩姫は息を呑む。
寧音は鈴のブレスレットを握りしめ、天祢はわずかに体勢を低くした。
三人の前に並ぶ黒装束たちは、まるで人間ではないかのように、感情のない瞳でこちらを見つめていた。
「......秘刑隊......」
寧音がかすかに呟いたその名が、まるで合図のように礼拝堂の奥に響く。
女王は、その光景を見てふたたび微笑を取り戻した。
「ふふ......来たようね」
その声には、先ほどまで揺らいだ影がもうない。
支配者としての余裕が、再び、空気を塗りつぶしていく。
彩姫の胸の鼓動が、嫌な音を立てて高鳴った。
空気が重いーーまるでこの聖堂そのものが、彼らの到来によって"戦場"に変わったかのようだった。
【秘刑隊】の隊員たちが次々と突入してくる。
重厚な扉が爆ぜるように開かれ、鼓膜を打っような轟音と共に、白い煙が大聖堂の内部へと流れ込んだ。
煙の向こうから、黒い影が静かに歩み出る。
数人、いや十数人。銀の面を被り、漆黒のマントを纏った者たちーーその気配は、まるで生者ではない。音もなく、冷たい刃の群れが忍び寄るかのようだった。




