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境界を歩く者たち  作者: 星渚歌唄
第5章 君がくれた真愛

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結婚式前夜

夜気が、そっと二人の間を通り抜けた。

窓から差し込む月明かりが、薄いベールのように部屋全体を包み込み、静かな銀世界をつくり出している。

彩姫は、深く息を吸い込んで立ち上がった。

決意という名の微かな熱が、胸の奥で静かに灯っている。

そのまま彼の背中に、震える手をゆっくりと伸ばした。

指先が触れる寸前一一言葉が、自然とこぼれた。


「ねえ、ピーター......聞こえてる?目を覚ましてよ。私は、あなたと話したいの。ちゃんと.......あなただけと」


その声は、夜の空気に溶けていくほど優しく、けれど確かに彼に届いていた。

ピーターの肩が、わずかにぴくりと動く。

そして一ーゆっくりと、振り向いた。

月光が彼の横顔を照らし出す。


けれど、そこにいたのは彩姫の知る「五十嵐悠希」ではなかった。


仲間と笑い合い、優しく見守り、時折ふと見せる寂しげな横顔を持つ“彼”ではない。

そこにあるのは、感情という灯を完全に奪われた、無機質な瞳。

まるで、王家の人形として生きることを強制された"機械”のようだった。


「.....明日の式、着るドレスは決めたのか?」


その言葉は、まるで決められた台詞を読み上げるように平坦で、心が一切乗っていない。

彩姫の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。首を振り悲しげに笑う。


「......そういうの、今はどうでもいいよ」


かっての彼なら、こんなとき決してそんな言葉を投げかけたりはしなかった。

不安を見透かして、照れくさそうに優しい冗談を言ってくれたはずだ。

だけど、今の彼はーーそれを思い出すことすらできない。

彩姫は一歩、彼ににじり寄る。

瞳の奥に滲むのは、涙でも哀れみでもない。

ただ、強く彼を“取り戻したい”という想い。


「お願い、催眠を解いて......私は、あの時のあなたに戻って欲しい......」


彩姫は震えた声で呟く。その言葉とともに、彩姫の脳裏に彼の声がよみがえる。


ーー「俺は、君の笑顔が好きだ」


ーー「どんな時でも、守るって決めたから」


ーー「君がいてくれるなら、きっと俺は......」


夜の静寂の中で、彩姫の心は痛みと希望の間で大きく揺れた。

目の前にいるのは"彼”ではない。

けれど、たしかに"彼”は、この瞳の奥にまだいる

ーーそう信じたいから、彩姫は手を離さなかった。

月は高く、まるで二人の運命を見下ろすように静かに光を注いでいた。

その淡い銀光が、彩姫とピーターの間にある見えない"境界”を、くっきりと浮かび上がらせる。

もう何度も心が折れそうになった。それでも彩姫は一一目の前の彼を見つめ続けていた。


あの瞬間を、忘れられるはずがない。

女王が、銀の鎖を操り、彩姫の首へと手を伸ばしたとき、操られているはずのピーターが、誰よりも早く一ーまるで雷のように、一歩前へと踏み出した。

その瞳には迷いも虚ろさもなかった。

ただ一つ、確かに宿っていたのは「怒り」

ーーそして「彼自身の意志」


『ーー誰が相手でも、彩姫に手を出す奴は許さない』


その瞬間だけは、王家の鎖も、支配の呪縛も、何もかもを振り切って....彼は"ピーター”だった。

心の奥底から湧き上がる、たった一つの純粋な感情が、操りの檻を打ち破ったのだ。

彩姫は、その記憶を胸に刻んでいる。

だから、今、彼が無表情の仮面をつけて立っていたとしても一一諦めるわけにはいかなかった。

彩姫は震える声で、しかし真っ直ぐにピーターを見る。


「あなたの心は、まだここにある。操られてても......全部が失われたわけじゃない。だから、お願い......!」


声は小さく震え、涙がこぼれそうになる。

けれど、その言葉には確かな"力"があった。

それは、戦うための呪文でも、回復の魔法でもないーーただ、心から相手をじ抜く言葉。

ピーターは、静かに彼女を見つめていた。

感情の色を失った瞳一一けれど、確かに"その奥"がわずかに揺れたように見えた。


彩姫は息を呑む。

沈黙が、夜の空気を一層深くする。

そして一一彼の唇が、ほんのわずかに動いた。

ピーターはかすれるように…囁く


「.....心、か。

.....もし、まだそれが残っているのならーー」


その瞬間、月光が彼の横顔を照らした。

まるで"心の欠片”を優しく掬い上げるように。

彼は視線を、ほんのわずかに一一彩姫から逸らす。

その仕草は、一見すれば些細なことかもしれない。


だが、彩姫には分かった。

完全に操られているのなら、こんな"間”は生まれない。

彼の中の「ピーター」が、ほんの一瞬、鎖の奥から顔を覗かせたのだ。

彩姫は唇を強く噛みしめた。

胸が熱くなる。涙がこみ上げる。

一一届いてる。ちゃんと、彼に。

夜の月が二人を照らすその光景は、静かでありながら、確かに何かが動き出す”予兆”を孕んでいた。


夜の静寂を照らす月明かりが、二人の影を長く床に落としていた。

冷たい光が、まるで逃げ場のない真実を暴き出すように、白々と部屋の中を満たしている。

彼はその光の中で、ほんのわずかに視線を逸らした。

その仕草は、強さと優しさを併せ持つ彼にしては珍しく、酷く見えた。


「.....壊されるのも、悪くないのかもしれないな」


かすれた声が、夜気の中で震えながら広がる。

その言葉が本心から漏れたものなのか、それとも母親の術に蝕まれ、歪められた思考の断片なのか。

彩姫には、もう判断がつかなかった。

ただ、その一言が胸の奥深くに突き刺さり、心臓をぎゅっと握られたように苦しくなる。


「やめて......そんな言い方、しないで......!」


彩姫は無意識に一歩、彼へと踏み出していた。

震える声の奥には、溢れんばかりの想いが詰まっている。


「ピーターは......ピーターは私に、生きて、未来を選ぶ勇気をくれたじゃない......!」


過去の日々が一瞬で胸に蘇る。

傷だらけになりながらも、何度も彼が差し伸べてくれた手。

その優しさが、彩姫をここまで導いてくれた。

その言葉に、彼の瞳がかすかに揺らいだ。

氷のように冷たく閉ざされていたその奥に、一瞬だけ微かな光が灯る。

しかしそれも束の間、彼は再び静かな水面のように感情を閉ざし、表情からは何の揺れも消えていった。


「......おやすみ、彩姫」


淡々とした声。

そこにはかつて彩姫がそばにいたいと感じた温もりある彼の響きはもうなかった。

夜風が窓の隙間から吹き込み、蝋燭の灯がゆらりと揺れる。

その揺らめきが、まるで彼の心と彩姫の心を隔てる見えない壁を際立たせるかのようだった。

___________________________

重く閉ざされた空気の中、ピーターが扉に手をかけたその瞬間一一

彩姫の喉から、震えるような声が漏れた。


「待って......」


それは風にかき消されそうなほど小さな声だった。

それでも、彼の動きははっきりと止まる。

背を向けたまま、扉に触れた指先がわずかに震え、沈黙が二人の間に落ちた。


「......それでもやっぱり......ピーターが......ピーターだって、言いたいから......!」


声を震わせながら、彩姫は一歩、また一歩と駆け寄った。

胸の奥からあふれる想いが、理性を追い越していく。

彼の胸元に両手を添えた瞬間、彼の体温が掌に伝わった。

冷たいはずなのに、不思議と懐かしくて、切なくて、涙が零れそうになる。


そして一一彩姫は迷わなかった。


彼の瞳に戸惑いが浮かぶよりも早く、そっとその唇を、彼の唇に重ねた。

月明かりが窓から差し込み、二人の影を静かに重ね合わせる。

世界の音が、すべて消えていったかのようだった。

心臓の鼓動だけが、耳の奥で高鳴る。

触れたのは、ほんの数秒。

ほんの一瞬の、かすかな口づけ。

けれど、彩姫にとっては永遠にも思えるほど、長い時間だった。

彼の心を呼び覚ますようにーー

魔に縛られた彼の奥底に眠る、本当の「ピーター」を探し当てるように一ー

彼女は全身全霊で、想いを込めた。


......だが……


唇が離れた瞬間、月明かりに照らされた彼の瞳は、何も変わっていなかった。

静かに、冷たく、波一つ立たない湖面のように。

彩姫の胸の奥で、かすかな希望がきしむ音を立ててひび割れた。

その目は、確かに彩姫を映していた。

けれど、その奥には一一彩姫ではない、どこか遠く、深く、暗い世界が広がっているように見えた。

まるで分厚いガラス越しに彼を見つめているかのようで、どんなに手を伸ばしても、声を投げても、彼の心には届かない。


「......やっぱり......」


喉の奥で、小さく途切れた声が震えた。

彩姫は無理に微笑もうとしたが、唇の端はうまく上がらず、かすかに震えるだけだった。

頬を伝う熱いものに気づいた時には、もう遅かった。

目の縁から、一粒の涙が、静かにこぼれ落ちる。


「これでも.....やっぱり.....ピーターは、戻ってきてくれないのね......」


ぽたりーーと、涙が床に落ちて、夜の静寂に小さな音を立てた。

その一滴が、まるで何かを決定づける合図のように、部屋の空気がひんやりと冷たく沈む。

それでも、彼は何も言わなかった。

微動だにせず、ただそこに立っている。

その背中からは温もりも、感情も感じられず、まるで精巧な人形のようだった。


「......ピーターがいないままの明日なんて......意味がないのに......」


ぽつり、ぽつりと、彩姫の唇からこぼれる言葉は、夜の空間に吸い込まれていく。

涙が止まらない。胸の奥に積み重ねてきた想いが、今まさに崩れ落ちようとしていた。

彩姫は力なくその場に立ち尽くし、瞳を閉じた。

閉じた視界の中で、浮かんでくるのは、かつての彼の笑顔一ー

何気ない一言で心を軽くしてくれた夜、並んで歩いた放課後、何度も交わした「未来」の話。

けれど今、その未来は、指の隙間から零れ落ちていく砂のように、静かに消えていった。


「.....でも、約束したから......」


掠れるような声で、彩姫はゆっくりと呟いた。

月明かりに照らされたその横顔は、涙に濡れながらも、どこか強い意志を宿していた。


「ピーターが帰ってくるまで、私は諦めない。

何があっても......」


その言葉は、静かな夜に溶けていきながらも、確かな力を持っていた。

震える声の奥にあるのは、絶望ではない。

それは一ー彼との"約束"を決して手放さないという、彼女自身の誓い。

その瞬間、ピーターの瞳が、ほんのわずかに揺れたように見えた。

氷のように張りつめていたその瞳の奥で、何かがきらりと、かすかに光を反射した。

心が反応したーーそう思いたくなるほどの、ほんの一瞬の揺らぎ。

だが、それもすぐに消えた。

まるで波紋が一瞬で凍りつくように、彼の瞳は再び冷たい静けさに戻る。

表情には何の変化もなく、感情の痕跡すら見えなかった。

彩姫は唇を噛みしめ、それ以上は何も言わなかった。

もう、言葉では届かないと、痛いほど分かってしまったから。

静かに背を向け、ゆっくりと一歩を踏み出す。

背中に感じるのは、彼の視線ーーいや、視線だった「何か」だけ。

振り返らなかった。振り返ってしまえば、きっと立ち止まってしまうから。

月光が差し込む廊下を、彩姫はひとり歩き出す。

足音だけが、広い館に淡く響く。

その小さな背中が、夜の闇に飲み込まれていくように、静かに、深く、暗闇へと沈んでいった。

胸の奥で、まだ熱を失わない想いだけを抱いてーー

彼を信じるという“灯”を、ただひとり、守り続けながら。

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