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境界を歩く者たち  作者: 星渚歌唄
第5章 君がくれた真愛

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秘想

彩姫はその姿を見つめながら、唇を強く噛みしめる。

視線を落とした肩が、小刻みに揺れた。


一一胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。


怒りか。


悲しみか。


それとも、恐怖か。

そのすべてを呑み込んで、彼女は静かに息を吸った。

そして、揺らぎのない声で口を開く。


「.....わかりました。私と、ピーターを結婚させてください」


その瞬間、女王の微笑が深まった。

喜びではない。

まるで、長い盤上の遊戯で勝利を確信した

"支配者"の顔だった。


「あら、素直でよろしいこと。

あなたのその"献身”こそ......王妃にふさわしい資質だと思うわ」


銀の鎖がわずかに鳴り、空気が張りつめる。

彩姫は何も答えず、ただ女王を真っ直ぐに見据えていた。


その視線の先一一

鎖に囚われ、無言のまま立つピーター。

彼の両手は、わずかに震えていた。

自分の意志とは無関係に、身体を支配されながら。

"抵抗する自由"すら奪われた少年が、そこにいた。


「(彼の"心”が壊れるくらいならーー私が、壊れてもいい)」


ぎゅっと握りしめた拳は、白くなるほど力がこもっていた。

誰にも見せない。

涙も、痛みも、愛しさも一ーその胸の奥深くに閉じ込める。

女王の冷たい笑みと、揺らめく鎖の音だけが、部屋の静寂を支配していた。

___________________________

女王はゆっくりと立ち上がった。

まるで舞台の幕が切り替わるような優雅な動作で、長いドレスの裾が床を滑る。

銀の鎖がその背に引かれるたび、冷たい金属音が部屋の静寂に溶けた。

扉の前に立つと、女王は一度だけ振り返る。

その表情には揺るぎのない自信と、支配者としての冷たい威厳が宿っていた。

そして、何のためらいもなく、重厚な扉の取っ手に手をかける。

ぎい.......と、軋む音を立てながら扉がゆっくりと開かれた。

外から流れ込んでくる空気は、先ほどまでの密室とは対照的に冷たく広がり、蝋燭の炎を一瞬だけ揺らした。


「では一一準備を始めましょうか。"王子”の婚約者として......あなたには覚悟と義務があるもの」


彩姫は微笑まない。

その顔に、喜びも恐れもない。

ただ、決意だけが静かに宿っていた。

彼女は椅子から立ち上がると、一歩、また一歩と前へ進む。

操られた赤紫の瞳が揺らぐことなく、扉の向こうへと向けられていた。

背筋はまっすぐに伸び、足取りは確かだ。

その先にいるのは一一鎖に囚われた彼。

彼女がそばにいたいと願った、たった一人の存在。

ピーターの瞳はまだ曇り、感情を封じられたままだった。

しかしその胸の奥に、微かに残る"彼自身”の鼓動を、彩姫は信じていた。

彩姫は彼の隣に立つ。

まるで、嵐の中で盾を掲げる戦士のように。

その肩には見えない鎧がまとわれ、心には静かな炎が灯っている。


ーーそばにいたい彼の"盾”となるために。


女王の背後で、銀の鎖が静かに鳴った。

それは、逃げ場のない運命の鐘のように、二人の未来を締めつける音だった。

___________________________

夜は、異様なほどに静まり返っていた。

王城の一室一一高い天井と重厚なカーテンに囲まれた広い部屋には、月の光だけが淡く差し込み、床の大理石に白い道を描いている。

風はなく、蝋燭の灯りさえも落とされた空間には、時間さえ止まってしまったかのような重苦しさが満ちていた。

その静寂の中、ひとりの少女が椅子に座っていた。

長い紫の髪が月明かりを受けてふわりと揺れ、床に柔らかな影を落とす。

椿彩姫一一明日、この国の"王子"と婚姻を結ぶ少女。

彩姫は膝の上で両手をぎゅっと握りしめながら、ゆっくりと目を伏せる。

心の奥に渦巻くものを、慎重に、壊さぬよう言葉に変えるように、か細い声が夜気を裂いた。


「......明日が、結婚式だなんてね。

早すぎるよ.......全部、あっという間で.....何が正しいのか、もう分からない」


彼女の声は、誰に届くわけでもない独白だった。

だけどーーその言葉を聞いている者が、この部屋にはもう一人いる。

窓辺に立つ少年。

銀に近い水色の髪が月明かりを反射して、まるで夜の湖面のようにきらめいている。


ピーターーーいや、五十嵐悠希。


彼は、窓の外に広がる夜空をじっと見つめていた。

その表情には、いつもの柔らかな微笑も、仲間に見せていた穏やかな空気もない。

ただ、深い静けさが支配している。

感情を封じられた瞳一一それでも、彩姫には見えた。

その奥のごく微かな"揺らぎ”。

理性の殻の奥に閉じ込められた、彼本来の心が、わずかに月光の下で震えているようだった。


彩姫はそっと立ち上がる。

自分でも気づかぬうちに、胸の奥からこみ上げる何かに背を押されるようにして、彼の背中へと歩み寄った。

床を踏むたびに、ドレスの裾が小さな音を立てる。

伸ばした指先が、彼の背中にあと少しで届く距離。

その背中は、いつも彼女を守ってくれていたーー温かく、まっすぐな背中。

だが今は、銀の鎖に縛られ、心を閉ざした"王子"としての背中だった。


「(......ねえ、ピーター。あなたは、今......どこにいるの?)」


彼女の手は、震えながらも確かに前へと伸びていった。

月光が二人の輪郭をやわらかく照らし出し、静まり返った夜に、淡い緊張と切なさが満ちていく。

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