秘想
彩姫はその姿を見つめながら、唇を強く噛みしめる。
視線を落とした肩が、小刻みに揺れた。
一一胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
怒りか。
悲しみか。
それとも、恐怖か。
そのすべてを呑み込んで、彼女は静かに息を吸った。
そして、揺らぎのない声で口を開く。
「.....わかりました。私と、ピーターを結婚させてください」
その瞬間、女王の微笑が深まった。
喜びではない。
まるで、長い盤上の遊戯で勝利を確信した
"支配者"の顔だった。
「あら、素直でよろしいこと。
あなたのその"献身”こそ......王妃にふさわしい資質だと思うわ」
銀の鎖がわずかに鳴り、空気が張りつめる。
彩姫は何も答えず、ただ女王を真っ直ぐに見据えていた。
その視線の先一一
鎖に囚われ、無言のまま立つピーター。
彼の両手は、わずかに震えていた。
自分の意志とは無関係に、身体を支配されながら。
"抵抗する自由"すら奪われた少年が、そこにいた。
「(彼の"心”が壊れるくらいならーー私が、壊れてもいい)」
ぎゅっと握りしめた拳は、白くなるほど力がこもっていた。
誰にも見せない。
涙も、痛みも、愛しさも一ーその胸の奥深くに閉じ込める。
女王の冷たい笑みと、揺らめく鎖の音だけが、部屋の静寂を支配していた。
___________________________
女王はゆっくりと立ち上がった。
まるで舞台の幕が切り替わるような優雅な動作で、長いドレスの裾が床を滑る。
銀の鎖がその背に引かれるたび、冷たい金属音が部屋の静寂に溶けた。
扉の前に立つと、女王は一度だけ振り返る。
その表情には揺るぎのない自信と、支配者としての冷たい威厳が宿っていた。
そして、何のためらいもなく、重厚な扉の取っ手に手をかける。
ぎい.......と、軋む音を立てながら扉がゆっくりと開かれた。
外から流れ込んでくる空気は、先ほどまでの密室とは対照的に冷たく広がり、蝋燭の炎を一瞬だけ揺らした。
「では一一準備を始めましょうか。"王子”の婚約者として......あなたには覚悟と義務があるもの」
彩姫は微笑まない。
その顔に、喜びも恐れもない。
ただ、決意だけが静かに宿っていた。
彼女は椅子から立ち上がると、一歩、また一歩と前へ進む。
操られた赤紫の瞳が揺らぐことなく、扉の向こうへと向けられていた。
背筋はまっすぐに伸び、足取りは確かだ。
その先にいるのは一一鎖に囚われた彼。
彼女がそばにいたいと願った、たった一人の存在。
ピーターの瞳はまだ曇り、感情を封じられたままだった。
しかしその胸の奥に、微かに残る"彼自身”の鼓動を、彩姫は信じていた。
彩姫は彼の隣に立つ。
まるで、嵐の中で盾を掲げる戦士のように。
その肩には見えない鎧がまとわれ、心には静かな炎が灯っている。
ーーそばにいたい彼の"盾”となるために。
女王の背後で、銀の鎖が静かに鳴った。
それは、逃げ場のない運命の鐘のように、二人の未来を締めつける音だった。
___________________________
夜は、異様なほどに静まり返っていた。
王城の一室一一高い天井と重厚なカーテンに囲まれた広い部屋には、月の光だけが淡く差し込み、床の大理石に白い道を描いている。
風はなく、蝋燭の灯りさえも落とされた空間には、時間さえ止まってしまったかのような重苦しさが満ちていた。
その静寂の中、ひとりの少女が椅子に座っていた。
長い紫の髪が月明かりを受けてふわりと揺れ、床に柔らかな影を落とす。
椿彩姫一一明日、この国の"王子"と婚姻を結ぶ少女。
彩姫は膝の上で両手をぎゅっと握りしめながら、ゆっくりと目を伏せる。
心の奥に渦巻くものを、慎重に、壊さぬよう言葉に変えるように、か細い声が夜気を裂いた。
「......明日が、結婚式だなんてね。
早すぎるよ.......全部、あっという間で.....何が正しいのか、もう分からない」
彼女の声は、誰に届くわけでもない独白だった。
だけどーーその言葉を聞いている者が、この部屋にはもう一人いる。
窓辺に立つ少年。
銀に近い水色の髪が月明かりを反射して、まるで夜の湖面のようにきらめいている。
ピーターーーいや、五十嵐悠希。
彼は、窓の外に広がる夜空をじっと見つめていた。
その表情には、いつもの柔らかな微笑も、仲間に見せていた穏やかな空気もない。
ただ、深い静けさが支配している。
感情を封じられた瞳一一それでも、彩姫には見えた。
その奥のごく微かな"揺らぎ”。
理性の殻の奥に閉じ込められた、彼本来の心が、わずかに月光の下で震えているようだった。
彩姫はそっと立ち上がる。
自分でも気づかぬうちに、胸の奥からこみ上げる何かに背を押されるようにして、彼の背中へと歩み寄った。
床を踏むたびに、ドレスの裾が小さな音を立てる。
伸ばした指先が、彼の背中にあと少しで届く距離。
その背中は、いつも彼女を守ってくれていたーー温かく、まっすぐな背中。
だが今は、銀の鎖に縛られ、心を閉ざした"王子"としての背中だった。
「(......ねえ、ピーター。あなたは、今......どこにいるの?)」
彼女の手は、震えながらも確かに前へと伸びていった。
月光が二人の輪郭をやわらかく照らし出し、静まり返った夜に、淡い緊張と切なさが満ちていく。




